爪先の遺言

太刀川るい

第1話

「なにか良いものあった?」

 いつもの安全靴を履いたイオリが聞く。

 私は首を振った。


「なんにも。食料品はやっぱり持っていかれたみたい。あるのはガラクタだけ」

 呆れるほど大きなショッピングモールの廃墟には、ただ空間だけがある。バックヤードから持ち出された段ボールの切れ端と、破れたチラシが落ちているだけで、今では電気も電波もないから使うことも出来ない当時最新だったスマートフォンや、そのモックが転がっている携帯ショップ以外はテナント募集時の物件みたいにがらんどうだ。


 世界が終わって、略奪が起こっても、結構私達は真面目だったらしく、ガラスなどは割られていない。レジも壊されておらず、時々もう使えもしないお札が、数枚のコインを重し代わりにレジに置かれていることもあった。


 そういうのを見ると、私達のモラルは思ったより強固だなということを実感する。何度か人が入ってきた形跡があっても、そういった商取引の残響のような、祭壇に捧げられた供物のようなお金に手がつけられることは全くと言っていいほどない。


 札はともかく、コインは金属として価値があるのだろうけれども、かつてその場所においたであろう人のことを考えると、それではなく棚や建材を壊す方を選んでしまうのだろう。そういう時、私は人の心を感じてちょっぴり嬉しくなる。


「そう、じゃあこの街も早くでないといけないね。今日はもう遅いから、明日の朝出発しよう。上の階に家具売り場があって、しばらくそこで寝泊まりしていた人がいるみたい。ベッドはまだ十分使える状態だったよ」

「久々にベッドで寝れるね。そうだ、これ」

 私はポケットから小さなガラス製の小瓶を取り出すとイオリに見せた。

「ねぇ、イオリ、そういえばこんなものがあったよ」

「ああ、懐かしい。マニキュアね」

 小さな小瓶を見たイオリは傷のある顔を少し歪めて笑った。


■□■□■□■□■□■□

 初めて会った時から、イオリは安全靴が好きだった。足が守られている感じがするのが好きだと言っていた。工場に勤めるずっと前から安全靴を集めていて、よく、国道沿いの作業着店に出会ったばかりの私を連れて行った。


「つま先が守られていると安心するんだ。つま先以外は守れないけど」


 イオリはそう冗談めかしながら、棚に並んだ色とりどりの安全靴を眺め回し、その中の一つを手に取る。

 私達の家の靴箱は安全靴でいっぱいだ。スニーカータイプの安全靴、マジックテープ式の安全靴、一見すると革靴に見える安全靴。中でもイオリのお気に入りは、無骨な黒いビニール製の外皮を持つ、つま先が膨らんでいるタイプの安全靴で、今日もイオリはそれを履いている。数億年も姿を変えていないカブトガニのように、保守的で古臭いデザイン。この世界に安全靴が生まれた時からきっと存在したのだろう。


 安全靴を選んだ後は、近くの牛丼屋で並を注文して持ち帰る。冬の日の凍りついた路面を二人で手を繋いで歩き、安アパートに帰る。知らない人が見たら、姉妹に見えるのかもしれない。


 本当は家が嫌で飛び出して、あてもなくうろついていた私と、それを拾っただけの独身女の関係なのだけれど。


 アンティークと言っても良い水準のFF式ファンヒーターが温まるまでの時間、外から帰ってきたコートのまま、二人で体を寄せ合って牛丼を食べる。卵はいつも2つ、スーパーの10個入りパックのものを載せて食べる。牛丼屋にトッピング代を献上するより安く仕上がるから、いつもそうしている。


 暖房が悪いのか、部屋の気密性が悪いのか、それとも両方なのか、あの部屋の温度はなかなか上がらなかった。だから冬になると二人で布団に入って過ごした。頭から布団を被り、スマホの画面にぼうっと照らされたお互いの顔を見ながら、私達は冬眠する熊のようにじっと冬を耐えて過ごすのだ。


 今となっては懐かしい記憶で、あれがほんの数年前とは今でも信じられない。時々、戦争前の記憶はおかしくなった私が勝手に作り出した記憶で、本当は生まれたときから廃墟を巡る生活をしていたのだと思うこともある。バカバカしい、私にはちゃんと、平和だった時代に生きた記憶があるのだと自分に言い聞かせても、最近はその記憶も曖昧で、クラスメイトの顔や、両親の顔まで思い出せなくなってきている。まあ、彼らに関しては、思い出せない方が幸せだけれど。


■□■□■□■□■□


 イオリがジー、ジーと虫が鳴くような音を立てて手回し充電式のランタンを回すと、小さな明かりがぼうっとあたりを照らした。

 もうバッテリーが寿命で、常に回していないと明かりがつかない。蝋燭の灯より薄暗いけれども、何も見えないよりはマシだ。


 その明かりの下で安全靴を脱ぐと私はイオリの隣に腰を下ろした。

 久しぶりのベッドはかなり汚れていたけれども、懐かしい感触に私は涙が出そうになる。


「ねぇ、イオリ。これ使おうよ」

 私はそういうと、マニキュアを取り出した。食料は真っ先になくなったけれども、こういった化粧品は、使い道もなかったからだろう。最後まで残っている。


「いいけど、どこに?」

 私は、微笑むと、靴下を脱いだ。

「前に塗ってあげたよね。あの時と同じ、足に塗ろう。ペディキュアってやつ」

 イオリの足を脱がすと、爪を整えた。イオリの足は、固くこわばっていて、私達の旅路が過酷だったことを思い出させる。爪にはでこぼことシワが寄っており、栄養が足りていないのが分かる。きっと私の足の爪も同じなのだろう。


 錆びついた爪切りでなんとか爪を整えると、小瓶の蓋を開けた。途端に石油の臭いがして、ふと、懐かしい記憶が蘇った。出会ってから少し経った春の日にイオリの足に同じように塗ったっけ。窓からは春の風が吹き込み、カーテンを揺らす。ベッドの上で私はイオリの足を持つと、丹念に爪を整えて塗装を行った。あの日の臭いだ。


 なんだ、やっぱり本当にあったことじゃん。


 ふと、そんな思いが湧いてきて泣きそうになった。今まで忘れてたけど、あの日も、あの幸せだった日々も、全部みんな本当にあったことで、私の妄想なんじゃない。


「どうしたの?」

 イオリがランタンを回しながら心配そうに聞く。

「なんでもないの。ただ、ちょっと懐かしかっただけ」

 私は少し涙声になって答えると、蓋についた小さな刷毛でイオリの足の爪に塗り始めた。


「ねぇ、イオリ」ペディキュアを塗りながら私はイオリに声をかける。「前に塗った時、本当は不安だったんだ」

「不安って何が?」

「言ってたじゃない。安全靴はつま先以外は守れないって。それを聞いた時思ったの。イオリが朝出ていって、それで事故があって、家に返ってくるのがつま先だけだったらどうしようって思ったの。だから、そうなっても分かるようにって思って塗ったの。馬鹿みたいだよね」

「ああ、そうだね。お馬鹿さん。ウチの工場はそんな危険じゃないよ」

 イオリはそう言うと、薄暗い明かりの下で微笑んだ。


「貸して。私も塗ってあげる」

 イオリの足の爪が綺麗に塗られると、イオリは私にランタンを渡してそういった。私は頷くと、ランタンを回す仕事を受け継ぎ、足をイオリに向ける。イオリは幼児にするように私の靴下を脱がせると、私の足を片手で抑えて、爪に塗り始めた。


「さ、これで大丈夫」

 小瓶にしっかりと蓋をすると、イオリは私の隣に並んで、足を揃えた。


 手回しの速度によって強さが変わる光の下で、この世界には似つかわしくないきれいな色に塗られたつま先が、四足分並ぶ。


「これで、おそろいだね」

 イオリはそう言うと、私を抱き寄せた。


「ねぇ、イオリ、私達のどちらかが、もし死んでも。爆弾で吹き飛ばされて、めちゃくちゃになっても、つま先だけは残るよ。だから覚えておいて、私も忘れないから」


 私はそういうと、イオリの足に自分の足の指を絡めた。まだ乾ききっていないペディキュアがイオリの爪に触れて小さな跡がついた。


 私はゆっくりと目を閉じる。

 イオリがランタンの回転を止め、静寂と暗闇だけが残った。

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爪先の遺言 太刀川るい @R_tachigawa

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