赤頭巾の夜

まさつき

真紅の頭巾、白い肌、そして狼

 いつの頃だったか、もう、覚えていない。


 娘がいた。幼く、儚げで、愛らしい村娘が。

 誰もが彼女を愛玩した。

 とりわけ祖母は、誰よりも激しく慈しんだ。

 娘に与えないものなど、この世にありはしないというほどに。

 だから祖母は、孫娘に赤い天鵞絨ビロードの頭巾を与えたのだ。

 血で染めたように真っ赤な頭巾を。

 祖母からの愛の形。娘も真紅の頭巾を愛で、片時も手放さない。

 そして娘を、いつしか「赤頭巾」とだけ、人々は呼ぶようになった。


 夜には満月となる、晩秋の昼下がり。

「届けものをしてあげて」と、赤頭巾の母は言った。

 今では離れて独りで暮らす祖母に、見舞いの品を運んでほしいとのことだった。

「おばあちゃん、だいぶ体が弱ってしまって。だからあなたが、食事を届けて元気づけてあげて。赤頭巾ちゃんが顔を見せれば、きっと喜ぶから」

 ガレット。薄く伸ばしたそば粉の生地で、卵、チーズ、ハムを包んで焼いた郷土料理。そして、残りの少ないバターの壺。母から手渡されたのは、この二つ。

 寂しい土産だった。祖母への最上の贈り物は、愛しい赤頭巾の姿であるとしても。

 久しぶりに会う祖母に、赤頭巾はもっと特別なものを持っていきたいと願った。しかし、バスケットを何で満たせばよいのか、幼い娘には分からない。


「寄り道しないで、まっすぐおばあちゃんの家に行くのよ」と、母は言った。

「分かっているわ。行ってくるね」と、赤頭巾は笑い返した。

 そうして小さな足を踏み出して、祖母の家へと歩み始めた。


 祖母は別の村に住んでいた。古い村は森の向うにあった。

 暗い、黒い、闇の先に。

 普通の娘なら一人で歩いてよい道ではない。だが、赤頭巾が危ない目に遭うことはなかった。誰もが赤頭巾を愛玩したから。森に住む木こりたちも同じく。

 皆にただ愛され続けて、赤頭巾の心は人を疑うことを知らずに育った。

 人の抱える闇を、狂気を知らない、少女となり果てていた。


 傾きかけてはいたが、まだ日は高い。娘の足でも、急げば暮れなずむ前に祖母の家へと辿り着くはずだった。

 だが森を抜ける途中で、赤頭巾は痩せた男に、出会ってしまった。

 見たことのない姿、知らない男。

 赤頭巾より遥かに高い、7フィート余りの背格好。

 それが少女を、静かに見下ろしている。

 ギラギラとした目は飢えていた。大きな口は耳まで裂けている。笑う顔から覗く歯には、異様に長い犬歯が伸びている。濡れた犬の匂いがした。

 狼――そんな男が、赤頭巾を呼び止めた。低く静かに、唸る声で。

「やあ、お嬢さん」

「お嬢さん? あなたどこから来たの? 村のみんなは私のこと、赤頭巾て呼ぶの」

 錆びた声音で、男は非礼を詫びた。

「すまないね、赤頭巾。君ほど愛らしい娘が独り、暗い森を抜けてどこへ行くのかと心配で、つい……」

 男の長い腕が、しなやかに揺れた。獲物との間合いを測る仕草のようだった。

「大丈夫、みんな優しい。心配なんて何もない。あなたもすっごく、優しいのね」

 答える少女の細い指先を、頭巾から覗く白い柔肌の頬を、男の視線が舐めていた。

 だが赤頭巾は、何も気づかない。村人に愛され、見られることに慣れ過ぎていた。

 疑うことを知らない、少女だった。

「それで赤頭巾、君はどこへ行くのかね?」

「森を抜けた先、古い村にある粉ひき小屋の向こうまで。村に入ってすぐの家、おばあちゃんの家まで」

 ガレットとバター壺を入れたバスケットに、男の目が移った。

「それがお婆さんへのお土産か。しかしいささか、寂しくはないか?」

「そうね……私もそう思ってた。どうしよう……」

 バスケットを豊かに埋める良い知恵を求めて、赤頭巾の瞳が男にすがった。

「それなら向こうで――」と、男は森の奥へ指をさす。

「野イチゴを摘めばジャムが作れる。花を探して花束を作れば、お婆さんの気持ちも明るくなる。ハシバミの実も拾うと良い。あれはとても滋養がある」

「ありがとう! でも、お母さんに寄り道するなって言われたの。それに、おばあちゃん家につくのが、遅くなっちゃう……」

 森の奥と、古い村への道を交互に、赤頭巾の視線が泳いだ。

 包みこむような低く温かな響きを忍ばせて、男が言った。

「俺が先に行って知らせてあげよう。それなら、お婆さんも安心だ」

 瞼を細めて獲物を狙う獣の瞳を隠して、赤頭巾に申し出た。

「そうね、とてもいい考え。あなた本当に、親切なのね!」

 それほどでもないさ――と、はにかむ男の腹が空腹に悶えた。腹の鳴る音を聞かれまいと、足早に去ろうとした別れ際。

 大切な物の仕舞い忘れに気づいたようにして、赤頭巾は男を呼び止めた。

「いけない! まだ聞いてなかった……あなた、お名前は?」

「ウォルフ」

 そう一言告げて、男は去った。


   §


 森の奥へ行く赤頭巾を見送ると、ウォルフは駆けだした。森を抜けた先、古い村にある粉ひき小屋の向こうを目指して。赤頭巾の祖母の住む家に向かって、ウォルフは狼のように疾駆する。

 日の落ちる前に森を抜け、祖母が一人で住む古い村に着くころには、空は夕日に染められていた。赤い天鵞絨の幕を降ろしたような空の下、粉ひき小屋のすぐ裏手に、祖母の家は建っていた。


 ウォルフは家の手前で立ち止まると、奇妙な仕草を始めた。自分の喉仏をつまみ上げたのだ。低く唸るような声をあげながら、喉をゆすりはじめる。すると次第に、男の錆びた声が娘の声色に変ってゆく。

 おもむろに、祖母の家の戸口を叩いた。トントン、トン――少女の手がするように、小さく軽く、ウォルフは木製扉を鳴らした。

 家の奥から、老婆の答える声が届いた。

「どなたかね?」

「おばあちゃん私よ、赤頭巾。おばあちゃんに、お見舞いを持ってきたの」

 唸るそぶりを見せる男の口から、春風の如き少女の声音が響いた。

 誰の耳にも、男の声は赤頭巾の愛らしい声としか聞こえなかっただろう。

 年老いて、耳の遠い祖母にとってはなおさらに。

 どれほど孫娘を愛しく想っていても、常人は歳月の重みに抗いえない。

「取手を引いてごらん。それで桟が外れるから」

 桟、農家によくある簡易な内鍵。開け方を知らなければ、外から容易に押し入ることはできない。そんな大事な仕組みを、老婆はウォルフに教えてしまった。声の主を赤頭巾と信じ切っていた。それほどに、男の偽声は巧みであった。


 カタンと小さく、桟の外れる音がした。

 静かに、ウォルフが扉を押し開く。

 夕日が差し込んだ。古びた室内が赤く燃えた。

 盲いかけた老婆の目に、男の影が映る。

 誰だい!?――と、叫ぶ間はなかった。

 音もなく、ウォルフは老婆に飛び掛かった。腕を振り上げ、鋭い爪が伸びた指先をしならせて、皴枯れた喉を横に薙いだ。

 煤ぼけた板壁に、命のほとばしりが散った。

 誰よりも赤頭巾を愛した女の一生が――あっけなく、幕切れた。

 鮮血が滴り続ける老女の喉に、男の唇が落ちる。

 ごくりごくりと喉を鳴らして、乾いた体を潤してゆく。

 ひとしきり飲んでも、老婆の亡骸は静かに血を流し続けていた。

 飲み切れなかった溢れる血を、ウォルフは惜しんだ。

 部屋に残されていたワインの空き瓶を取り上げ、瓶の口で残った血を受け止める。

 満たされたワインボトルを、テーブルに置いた。

 渇きは癒えていた。人心地つく。立ち上がり、次の仕事に取り掛かる。

 動かぬ老婆の体を起こし、服を静かに剥がし始めた。

 痩せて、血を抜かれた、老婆の生身が現れる。生気を失い、土気色となっていた。

 髪を掴み上げて身体を吊るす。

 丁寧に背筋を薄く縦に裂き、腕と足の裏側も同じく裂いて、生皮を剥いだ。

 赤く、筋張った、女の人型が姿を見せる。

 肉の塊となった老いた女は、もはや男の食料でしかない。

 だから牝の生肉を、ウォルフは喰うほかなかった。

 腕を、背を、腹を、はらわたむさぼった。

 久しぶりの食事、長らくありつくことのなかった肉の味。

 老婆の肉で、男はようやく飢えた腹を満たし終えた。

 喰いきれなかった肉は切り分けて、ウォルフは干し肉を仕込んだ。

 ひと時の、満足を得た。

 だが……まだだ、まだ――渇いている。

 飢えに光る目は、陰りを見せてはいなかった。

 生きるために必要なだけの糧を、もう得たはずと自分でも分かっているのに。


 渇望を掻き立てるのは、月の巡り。

 満月の夜――人狼としてのウォルフの本能が、柔らかな女の肉を求めさせる。

 森の中で出会った、幼く、儚げで、愛らしい獲物。

 アレを食べなければ、この渇きと欲望は満たされないと、男は知っていた。

 赤頭巾、あの少女の白い肌、甘やかな香りを醸す処女の血肉――。

 思っただけで、身が震えた。総身が下から、熱を帯びた。

 目を閉じ、開ける。そうして男は、獲物に備え始めた。

 上衣のボタンに指をかける。

 老婆の返り血と、森での暮らしで泥に汚れた服を、ウォルフは脱いだ。

 鋼をより合わせて仕立てられたような、鋭い筋肉を纏った裸体を晒す。

 肌は、鉛みたいな鈍い艶を放っていた。上から老婆の生皮を纏って艶めきを消す。

 生乾きの血が糊となり、薄皮は隙間なく男の皮膚に張りつき、溶けて一体となる。

 いつしかウォルフは男の姿から、痩せ衰え皴枯れた老婆の姿へと、変貌していた。


 暖炉の火を起こし、老婆の服を焚きつけにした。

 しばらく体を温めてから、おもむろにベッドにもぐりこむ。

 そうしてウォルフは、赤頭巾がやってくるのをただひたすらに、待つのだった。


   §


 ウォルフに教えられた森の奥で、赤頭巾は祖母への贈り物を入れたバスケットを満たすのに、夢中となっていた。

 野イチゴをひとつ摘むたびに、ジャムで口の端を汚す祖母の温かな顔を想像した。

 花束を作りながら、窓辺に飾った花瓶の愛らしさに喜ぶ祖母の姿を思い描いた。

 ハシバミの実を炒って作った菓子を二人で食べ、互いの健康を喜び合う様子を思い浮かべて、笑顔になった。

 親切なウォルフが祖母に遅くなると知らせてくれる――心の底から信じてやまない赤頭巾は、時が経つことさえ忘れていた。樹木の隙間から僅かに差し込む日の色が、温かな橙から冷たい青に変わったことにも気づかずにいる。

 ようやくバスケットの隙間と、喜ぶ祖母の姿への予感で心を満たし終えて、赤頭巾は立ち上がる。弾む心に足取りを軽くして、森を抜け古い村へと歩き出した。


 太陽は地に落ちた。赤い帳は消えている。

 満月が天に昇った。帳は深くて暗い、蒼色に掛け変っていた。

 砕かれた宝石を散りばめたような星々の輝きの中に、青白い月が丸く満ちた姿を浮かべていた。蒼白の月光が、赤頭巾の肌に白磁の輝きをもたらした。

 冬を誘う晩秋の夜風が、少女の身体を撫でてゆく。

 小川の流れが、粉ひき小屋の水車を廻していた。

 低く響く碾き臼の擦れる音が水車の軋みに混じって、赤頭巾の背中を押す。

 小さな少女の手が、祖母の家の戸口を叩いた。トントン、トン――。

 家の奥から、狼婆ろうばの答える声が聞こえた。

「どなたかね?」

「おばあちゃん私よ、赤頭巾。おばあちゃんに、お見舞いを持ってきたの」

 少女の声は微かに震えた。冷たい風が頬に触れたせいかもしれなかった。

「取手を引いてごらん。それで桟が外れるから」

 カタンと小さく、桟の外れる音がした。

 赤頭巾が扉を押し開くと、青白い月の光が祖母の家の中をぼんやりと照らした。

「おばあちゃん?」

 部屋の奥へと進む赤頭巾の呼びかけに、狼婆が答えた。

「ごめんね、赤頭巾。体が冷えて、ベッドに寝ているんだよ」

「そうだったのね、私こそごめんなさい。こんなに遅くなってしまって」

「親切な男の人が、お前が来るのが遅くなると知らせてくれたよ」

 ウォルフは確かに約束を守ってくれたと、赤頭巾の心は安堵した。

「とても親切な人だったわ」と言いながら、赤頭巾は冷えた我が身を腕に抱いた。


 暖炉の火は、消えかけていた。

 粉ひき小屋の脇を流れる川で冷やされた空気が、隙間風となって吹き込んだ。

「おばあちゃん、ごめんなさい。私、夜風に吹かれて身体が冷えてしまったの」

「それなら……」と言って、狼婆はワインの瓶を勧めた。

「なんて甘い味がするのかしら……とろりとして、とてもおいしい」

 一口飲むたびに、赤い雫が赤頭巾の体を暖めた。それは命の温かさだった。

「おばあちゃん、私長く森にいたものだから、お腹も空いてしまったの」

「それなら……」と言って、狼婆は仕込んだばかりの干し肉を勧めた。

「なんて柔らかいお肉なんでしょう……とても新鮮で、蕩けるようだわ」

 一口食むたびに、赤い肉汁が赤頭巾の臓腑ぞうふを熱くした。それは命の熱だった。

 赤頭巾の身体は命を取り込み、燃えた。

 部屋は、冷たいままだった。


 火の消えそうな暖炉に、赤頭巾の視線が移る。

 狼婆はか細い声をして、赤頭巾に乞うた。

「私の赤頭巾や……暖炉の焚きつけがなくて、困っていたのだよ」

「それなら……」と言って、赤頭巾はボタンを外して上衣を脱いだ。

 そして静かに、暖炉にべた。

 燃えさしに燻る火種が、少女の上衣に燃え広がり炎が舞った。

「まだ寒いねえ……」と、狼婆は言った。

「わかったわ」と、スカートを脱ぎ下ろし、また火に焼べる。

 そうして「まだ寒い」と言われるままに、靴下を、下着を脱いでゆく。

 疑うことなく脱ぐごとに、暖炉の焚きつけにしてしまった。

 とうとう頭に赤い頭巾を被るだけの、素肌の姿となった。

 狼婆の目は、金髪を覆う忌々しい頭巾を睨めつけた。

「ああ、まだ寒くて震えが止まらないよ……」

「これは駄目よ……おばあちゃんからの、大切な贈り物だもの」

 最後の一枚を脱ぎ去ることに、赤頭巾はためらいを見せた。

「そうだったね……ああ、でも寒い。頭巾はまた、新しいのを贈ってあげよう。朝焼けよりも、乙女の血よりも鮮やかな天鵞絨織りのくれないを。だから今だけは、暖炉の炎を赤く燃やしておくれ……」

「わかったわ……」と、赤頭巾は古い頭巾を脱ぎ捨て、暖炉に焼べた。


 柔らかなブロンドが、炎を受けて陽光のように煌めいた。

 白磁を纏った素肌の身体が、しっとりと汗を浮かべて艶めいている。

 女に芽吹きかけた少女の裸身が、狼婆の前で剥き出しとなった。

 赤頭巾は、もはや赤頭巾ではなかった。ただのあえかな、少女であった。

 部屋からは冷たさが抜けていく。しかし今度は、少女が寒さに震えた。

 裸身を晒して、心細くなったのかもしれなかった。

「これじゃ私が凍えてしまうわ、おばあちゃん……」

 少女の肌はますます白くなり、鴇色ときいろの唇が青みを帯び始める。

「ああ、私の可愛い孫娘。こっちへきて、おばあちゃんと一緒にベッドにお入り」

 身をよじらせて、少女は狼婆の隣に潜り込んだ。

 少女の鼻腔を、濡れた犬の匂いがくすぐった。

「とっても、温かい。このベッド、ふさふさして温かい……」

 柔肌にまとわりつく獣毛に、少女は身体を沈めた。


「おばあちゃん、とても大きな腕なのね」

「お前を上手に、抱けるようにだよ」

 祖母の痩せた細腕に似せたいた腕が、逞しく隆起した。

 シーツの上を這い伸びて、少女の細い肩を抱き寄せた。


「おばあちゃん、とても大きな脚なのね」

「どこまでも、早く走れるようにだよ」

 太さを取り戻した二本の足が大蛇のように絡みつき、少女の下肢を引き寄せた。


「ああ……おばあちゃん、とても大きな耳なのね」

「お前の声が、よく聞こえるようにだよ」

 狼婆の顔が、少女の喉元に寄せられた。

 耳は儚げな唇の近くにあって、浅い息づかいを聞いている。


「おばあちゃん……とても、大きな目を、してる」

「お前の髪を、瞳を、顔を、身体を、よく見えるようにだよ」

 飢えに狂った狼の眼光が、少女の身体を縛り付けた。

 少女の肢体は隅々まで、人狼の渇きに魅入られていた。


「おばあちゃん、とても、大きな、歯を……」

 切れ切れに、微かに震える少女の呟き――それが最後の、言葉となった。

「お前を、食べるためさ……!」

 薄くて長い平板な舌が、少女の喉を滑るように舐めた。

 横薙ぎに開かれた大口が耳まで裂けた。

 野蛮なノコギリの如き獣の歯が、唾液を纏って上下に糸を引いた。


 そうして赤頭巾であった愛らしい村娘は、乙女を散らした――。


   §


 バーのテーブル、向かい合わせに座る女に、男は告げた。

「――俺の好きな、昔話さ」

 グラスを呷る男の指先を見つめて、女は疑問を口にした。

「知ってる童話とだいぶ違う……それに猟師は、どこへ行ったの?」

 女の指先から紫煙が揺れる。男が言葉を継いだ。

「これはグリムより古い、ペローって作家の集めた民話が元。猟師は出てこない」

 からの座席に男の視線が落ちた。テーブルには男と女の二人しかいない。

 猟師なんていらない、ここにいるのは俺たち二人――男の目がそう語る。

「ワインを飲んだり、服を脱ぐのも?」

「元の民話にはあった。さすがにペローもそれは削除した。サロンのお嬢様には刺激が強すぎたのさ。だが――」

 男はウェイターを呼び、バーボンのロックをシングルに変えた。

「――俺は、この話のほうが好みでね」

「狼……悪い男を狼に喩えるのって、赤頭巾が元なのかな」

 新しい琥珀色の氷の奥で、女の姿が揺れた。

「さあね……君にとって、俺は狼かい?」

「あら、狼にだって牝はいる。もしかしたら、私が狼かも」

 女の指先が、ワイングラスの縁を舐めた。

 赤いネクタイの結び目を男は緩め、乾いた唇をグラスで濡らした。

「なら、喰われるのは俺かもしれない。それとも……」

 女はつまみのサラミを一枚咥え、呑み込んだ。唇が、血のように赤い。

「……共食い」

 どちらともなく、席を立った。

 連れだって、バーの扉を押し開く。

 ドアベルの音だけが、二人を見送った。

 夏の夜。

 生ぬるい夜風が吹き抜ける街の闇は、黒い森。

 男と女の姿はしじまの奥へと、消えていった。

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赤頭巾の夜 まさつき @masatsuki

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