●第6章:歴史の分岐点

 ルーアンへの道。薫子は、この場所こそが運命の分岐点になると直感していた。


 歴史書によれば、ここでジャンヌは捕縛される。そして、それが火刑への道につながる。しかし、薫子には別の計画があった。


「皆、聞いてください」


 彼女は、最も信頼する部下たちを集めた。


「イングランド軍は、必ず罠を仕掛けてきます。しかし、それを逆手に取る策があります」


 トーチの灯りが揺らめく石造りの部屋で、薫子は羊皮紙の上に作戦図を描いていた。周囲には、彼女の最も信頼する部下たちが集まっていた。ラ・イル、ポトン・ド・サントライユ、そしてジャン・ドーロン。彼らの鎧が、炎の光を不規則に反射している。


「まず、従来の戦術を確認しましょう」


 薫子は最初の図を指さした。羽ペンで描かれた線が、イングランド軍の包囲網を示している。


「通常、包囲網を突破する際は、一点に戦力を集中させ、そこを突き破ることを試みます。歴史上の多くの戦いが、この定石に従っています」


 彼女の声は、13歳の少女のものでありながら、研究者としての確信に満ちていた。


「しかし、それは同時に、最も予測されやすい戦術でもあります」


 次の図を広げる。そこには、まったく異なる展開が描かれていた。


「私が提案するのは、『分散型突破』です。20世紀のドイツ軍が理論化した電撃戦の原理を、中世の戦術に応用するのです」


「20世紀……? ドイツ軍……? 電撃戦……?」


「な、なんでもありません!」


 薫子はあわててかぶりを振った。そのあとは現代の軍事用語を中世フランス語に置き換えながら、慎重に説明を続けた。


「主力を三つに分割し、それぞれが異なるタイミングで、異なる場所を突こうとする態勢を示します。これにより、敵は防衛線の分散を余儀なくされます」


 騎士たちの間でざわめきが起きた。


「しかし、その後が重要です」


 薫子は第三の図を示した。


「実際の突破は、これら三つの部隊のいずれでもない、第四の部隊が行います。深夜、松明を消し、馬の蹄に布を巻いて音を消し、闇に紛れて突進するのです」


「しかし、それは騎士道に反するのでは?」


 ある騎士が声を上げた。薫子は静かに答えた。


「騎士道は尊いものです。しかし、より尊いのは、民を救うことではないでしょうか」


 部屋の空気が変わった。騎士たちの目に、新たな理解の光が宿り始めた。


「さらに、この作戦には、もう一つの要素があります」


 薫子は、最後の図を広げた。そこには、天候と地形を活用した詳細な時間配分が記されていた。


 「月の満ち欠け、潮の流れ、風向きの変化。すべてを考慮に入れています。現代の……いえ、神の啓示により、これらの自然の力を味方につけることができます」


 説明を終えた薫子の頬には、薄い汗が浮かんでいた。この作戦は、彼女の研究者としての知識と、戦場での実践経験を統合した結晶だった。そして何より、これは歴史に記された敗北からの、明確な分岐点となるはずだった。


「これが、神の導きにより示された道筋です」


 薫子の声に、誰も異を唱えなかった。トーチの炎が静かに揺れ、作戦図の上に長い影を落としている。その影は、まるで歴史の流れそのものが、新たな方向に曲がろうとしているかのように見えた。


 作戦は緻密に練られた。イングランド軍の動きを予測し、巧妙な囮作戦を展開する。薫子は、バーナード・ショーの戯曲『聖女ジャンヌ』を思い出していた。そこで描かれた運命との対決を、今、彼女は実際に生きていた。


 戦いの日、予想通りイングランド軍は大軍を差し向けてきた。しかし、薫子の軍は、既に別のルートを確保していた。


「歴史は、変えられる」


 薫子は確信を持って進軍した。これは、歴史書には記されなかった戦いとなる。


 深い闇に包まれた戦場で、薫子は城壁の上から戦況を見守っていた。新月の夜。彼女が選んだ最も暗い時間帯だった。遠くに散りばめられたイングランド軍の焚き火が、赤い点となって闇を照らしている。


「第一部隊、東門より示威行動開始」


 彼女の囁くような命令が、伝令により次々と伝えられていく。夜陰に紛れて進む騎士たちの鎧が、かすかに月明かりを捉えて光る。


「イングランド軍、予測通り東への兵力移動を開始」


 側近が報告する。薫子は静かに頷いた。彼女の目は、暗闇の中で敵の動きを確実に捉えていた。パリで読んだ古文書の記述が、次々と現実となっていく。


「第二部隊、西門より進出」


 次の命令が下される。イングランド軍の陣地で騒めきが起こり、松明が慌ただしく動き始めた。敵は明らかに混乱していた。


「彼らの指揮系統が分断され始めています」


 ジャン・ドーロンが興奮した声で告げる。薫子は冷静に応じた。


「ええ。イングランド軍の各砦の間での意思疎通が、徐々に乱れていく。これは予測していた通りの展開です」


 その時、遠くの闇の中で、一瞬だけ青い光が灯った。第三部隊からの合図。彼らもまた、所定の位置についた合図だった。


「そして……今」


 薫子の言葉が途切れたその瞬間、北方で大きな喊声が上がった。イングランド軍の陣地が大きく動揺する。彼らの注意が完全に北に引きつけられた、まさにその時――。


「第四部隊、突撃開始」


 誰にも気付かれることなく、南方の暗闇から、布を巻いた蹄を持つ騎兵隊が、音もなく疾走を始めた。彼らが姿を現した時には、もう遅かった。


「敵陣突破! 敵陣突破!」


 興奮した声が、暗闇を切り裂く。イングランド軍の陣地が大混乱に陥る。あちこちで混乱した命令の声が飛び交い、松明が無秩序に動き回る。


「見事です、ジャンヌ様!」


 側近たちが歓喜の声を上げる。しかし薫子は、まだ表情を緩めなかった。


「これは序章に過ぎません。イングランド軍の真の弱点は……」


 彼女の目は、すでに次の展開を見据えていた。軍事史研究者として知る戦術と、戦場での実践が完全に一致する瞬間。それは、まさに歴史が新しい方向に向かう転換点だった。

 薫子は城壁の上から、戦場の混乱を冷静に分析していた。イングランド軍の陣地では、突如の奇襲に混乱が広がっている。しかし、これはまだ始まりに過ぎなかった。


「第四部隊の突破に成功。次は第二段階です」


 彼女の声は、静かな確信に満ちていた。


「各部隊、予定通り『星形包囲』の態勢に移行せよ」


 伝令が命令を伝えていく。突破に成功した第四部隊が、まるで扇を開くように展開し始めた。その動きに呼応して、他の部隊も所定の位置へと移動を開始する。


「イングランド軍の各砦が、互いに孤立し始めました」


 側近が報告する。薫子は頷いた。


「彼らの補給路が断たれる。これが、彼らの真の弱点です」


 研究者として、彼女は中世の包囲戦における補給線の重要性を熟知していた。いかに強固な陣地も、補給を断たれれば、それは単なる檻と化す。


 夜明けが近づく頃、戦況は決定的な段階に入った。


「サン・ルー砦、陥落!」

「トゥレル砦、イングランド軍撤退開始!」

「サン・ローラン砦、白旗確認!」


 次々と舞い込む勝利の報告。しかし、薫子の表情は依然として真剣そのものだった。


「これより、最終段階に移行します」


 彼女は白馬に跨り、軍旗を高く掲げた。


「全軍、私に続け!」


 夜明けの光の中、フランス軍が一斉に動き出す。それは、まるで巨大な生き物のような統制の取れた動きだった。


 イングランド軍の主力は、すでに各砦で孤立していた。補給路を断たれ、援軍の望みも絶たれ、夜通しの戦いで疲弊していた。


「降伏せよ! これ以上の戦いは無意味だ!」


 薫子の声が戦場に響き渡る。その声は13歳の少女のものでありながら、不思議な説得力を持っていた。


 太陽が地平線から顔を出した時、イングランド軍の最後の抵抗も終わりを告げた。


「大勝利です、ジャンヌ様!」


 歓喜の声が上がる。しかし、薫子の心は、すでに次の段階を考えていた。


「勝利は、終わりではありません。これはフランス解放の第一歩に過ぎないのです」


 彼女の目は、遠く北方を見つめていた。そこには、まだ多くの戦いが待っていた。しかし今、彼女は確信していた。歴史は変えられる。そして、その変化は既に始まっているのだと。


「神の導きにより、我らは勝利を掴んだ!」


 兵士たちは歓喜の声を上げていた。しかし、薫子の心には複雑な思いが渦巻いていた。


 歴史を変えることは、正しかったのか。聖女ジャンヌとしての殉教は、避けるべきだったのか。しかし、彼女には確信があった。歴史は、より良い方向に変えることができるはずだ。

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2025年1月10日 11:00 毎日 11:00

【架空歴史戦記短編小説】史実を変えた聖女の告白 ~ジャンヌ・ダルクの真実~(約2万字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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