●第5章:オルレアン包囲戦

 灰色の夜明けの空の下、オルレアンの北門塔の上で、薫子は戦場を見渡していた。冷たい春の風が彼女の短い黒髪を揺らし、鎧の隙間から忍び込んでくる。塔の高さは地上から約20メートル。その視点から見下ろす戦場は、まるで巨大な盤上のようだった。


「準備は整っています、ジャンヌ様」


 側近の騎士、ジャン・ドーロンの声が背後から響く。彼の鎧が朝の薄明かりに青みがかって光っている。薫子は静かに頷いた。装備を確認するように、自身の胸当ての留め具に手を触れる。


 これまでパリの図書館で、何度もオルレアン包囲戦の地図や記録を研究してきた。敵軍の配置、要塞の構造、兵力分布――すべてが頭の中に入っていた。しかし、目の前に広がる実際の光景は、あまりにも生々しかった。


 イングランド軍の要塞群が、巨大な鉄の首輪のように街を取り囲んでいる。東側のサン・ルー砦、南のトゥレル砦、西のサン・ローラン砦。それぞれの要塞から伸びる塹壕が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、その間を松明を持った敵兵が行き来している。


 しかし、薫子の鋭い目は、その包囲網の弱点を見逃さなかった。サン・ルー砦とトゥレル砦の間。そこは地形的に死角となっており、敵の監視の目が最も届きにくい場所だった。


「第一隊、出撃!」


 薫子の声が、朝もやの中に響き渡る。その声は13歳の少女のものでありながら、不思議な威厳を帯びていた。


 白馬が用意され、薫子は手慣れた動作で跨った。鎧の重みにもすでに慣れている。手には、祝福を受けた白い軍旗。これが兵士たちの士気を高める重要な象徴であることを、彼女は研究者として知っていた。


 戦いの火蓋が切られた。最初の衝突は、サン・ルー砦の手前で起こった。イングランドの弓兵たちが、整然と隊形を組み始める。その瞬間を、薫子は見逃さなかった。


「今だ!敵が矢を放つ前に突っ込め!弓兵が隊形を整える間、およそ15秒の隙が生まれる!」


 彼女の指示は、現代の軍事研究から得た知見に基づいていた。中世の弓兵隊が射撃準備を整えるのに要する正確な時間。それは、古文書の中の些細な記述から導き出した結論だった。


 フランス軍の騎兵隊が、その隙を突いて突進する。イングランド軍の隊形が崩れ、混乱が生じ始めた。周囲の兵士たちは、この13歳の少女の指揮の的確さに驚きの表情を隠せない。しかし薫子にとって、それは当然の結果だった。何年もの研究、数え切れないほどの古文書との対話、戦術書の徹底的な分析。その全てが、今、この戦場で実を結びつつあった。


 太陽が少しずつ昇り、戦場を照らし始める。薫子の白馬が朝日に輝き、まるで神の加護を受けているかのように見えた。しかし、彼女の心の中では、研究者としての冷静な分析が、依然として続いていた。


 戦場での日々は、薫子に多くの気づきをもたらした。歴史書に書かれた戦術と、実際の戦場での適用には大きな違いがある。理論と実践の狭間で、彼女は新たな知見を得ていった。


 そして、決定的な瞬間が訪れた。


「イングランド軍の補給路が断たれました!」


 薫子の予測通り、包囲網に綻びが生じ始めた。しかし、この時、予期せぬ矢が、薫子の肩を貫いた。


「ジャンヌ様!?」


 周囲から悲鳴が上がる。矢が肩を貫いた瞬間、薫子の視界が一瞬、白く染まった。鋭い痛みが全身を走り、息が詰まる。鎧の隙間から血が滲み出し、白い軍旗に赤い雫が落ちていく。


 現代の研究者として、彼女は中世の戦場での負傷についての膨大な記録を読んでいた。矢傷の種類、感染症の危険性、当時の治療法の限界。オックスフォード大学の図書館で読んだ『中世戦傷医学概論』の一節が、痛みと共に脳裏を過る。


「矢創は、即死に至らずとも、その後の感染症により多くの戦士の命を奪った」


 しかし、実際の痛みは、どんな学術的知識も及ばないものだった。肩から広がる灼熱感。呼吸のたびに走る激痛。乱れる意識。馬上で体を支えることさえ、途方もない努力を要した。


「このまま意識を失えば、兵の士気は一気に下がる」


 研究者としての冷静な分析が、痛みの中でもなお、彼女の思考を支配していた。13歳の少女の体が、本能的に痛みに震えようとするのを、35年の経験で必死に抑え込む。


「血を止めねば」


 側近の騎士が駆け寄ろうとしたが、薫子は手で制した。包帯を巻く前に、もっと重要なことがある。歴史家として、彼女は知っていた。この瞬間にこそ、指揮官としての真価が問われる。


 鎧の下で血が流れ続けている。痛みで視界が歪む。それでも、薫子は馬上から落ちまいと、必死に鐙に足を踏ん張った。13歳の体の限界に、35歳の精神が挑む。それは、まるで二つの人格による静かな戦いのようだった。


「見よ! 私はまだ立っている! これは神の加護によるものだ!」


 声を張り上げる。その声は、痛みで少し震えていたが、それでも確かな力強さを持っていた。血に染まった白旗を、さらに高く掲げる。


「進め! 勝利は目前だ!」


 痛みの波が押し寄せる中、薫子は口の中で現代の日本語で呟いた。


(これが、本物の戦場なのね……)


 それは、研究者から戦士への、最後の移行点だった。


 その日の戦いは、フランス軍の勝利に終わった。しかし、薫子の負傷は深刻だった。


 テントの中で手当てを受けながら、彼女は考えを巡らせた。歴史研究者として、彼女はジャンヌ・ダルクのすべての戦いを知っていた。そして、この先に待つ運命も。


「このまま歴史通りに進めば、私は……」


 火刑台の炎が、薫子の脳裏をよぎった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る