●第4章:シャルル7世との邂逅

 1429年3月6日、日曜日の午後。


 シノン城の大広間は、50名ほどの廷臣たちで溢れていた。薄暗い空間に、松明と蝋燭の明かりが揺らめいている。天井まで届く巨大な暖炉からは、樫の木を燃やす音が静かに響いていた。


 薫子は、歴史上最も重要な瞬間の一つを生きていた。

 大広間の扉が開かれる直前、彼女は深く息を整えた。


(これが、フランス王国の運命を決める瞬間)


 現代の歴史家として、彼女はこの場面を何度も研究していた。シャルル7世が意図的に廷臣たちの中に紛れる。それは、神の啓示を受けたと主張する少女の真偽を試すための策略。同時に、自身の正統性への不安を抱える若き王太子の、切実な確認作業でもあった。


 大広間に一歩を踏み入れた瞬間、薫子の歴史研究者としての目が、空間を瞬時に分析していた。


『アンジュー公の位置→王太子の左側、これは1429年の宮廷序列通り

 トレモイユ伯の存在→後の政治的対立の伏線

 アラン・シャルティエの姿→この場面の最も信頼できる記録者』


 そして、廷臣たちの中に紛れる若い男性を見つけた。シャルル7世。26歳。歴史書で読んだ通りの、どこか憂いを帯びた表情。しかし、その目には鋭い知性が宿っていた。


 薫子は、躊躇なく彼の前に進み出た。13歳の少女の体で、しかし35年の研究者人生で培った確信を持って。


「殿下」


 片膝をつく。この作法は、パリ国立図書館で読んだ『宮廷作法書』通りだった。視線を上げる角度も、当時の礼儀作法に則っている。


 広間に、ざわめきが走った。


「あの娘が、ロレーヌからの……」

「神の声を聞いたという……」

「どうやって王太子を見分けたのだ?」


 シャルル7世の表情が、わずかに動いた。


「あなたが、神の遣いを名乗る少女か」


 その声には、懐疑と希望が混じっていた。


「はい。私はジャンヌ。ロレーヌのドンレミーから参りました」


 薫子は、現代の歴史研究者としての知識を総動員して、説得を始めた。まず、軍事的な現状分析から。


「殿下、オルレアンは確かに陥落の危機にあります。イングランド軍のトーマス・モンタギュー伯爵の包囲戦術は緻密です」


 具体的な将軍の名を出したことで、廷臣たちの間にさらなるざわめきが広がる。


「しかし、包囲網には明確な弱点があります。セント・ルー砦とトゥレル砦の間。そこは……」


 薫子は、現代の軍事史研究で得た知識を、15世紀の戦術用語に置き換えながら説明していく。シャルル7世の表情が、徐々に変化していった。


 しかし、決定的な瞬間はこれからだった。薫子は、一歩前に進み出た。そして、声を落として言葉を続けた。


「殿下が、昨夜の真夜中、私室の祭壇で密かに神に祈られた言葉を、私は存じております」


 シャルル7世の顔から、血の気が引いた。これは、誰にも語っていない秘密の祈り。自身の王位継承の正統性への疑念と、その苦悩を神に打ち明けた、魂の告白だった。


 広間の空気が、凍りついたように静まり返る。


「そ、その祈りの言葉とやらを聞かせてもらおうか」


 平静を装いながらも震えてしまう声で、シャルル7世が言った。薫子は、さらに声を落とした。周囲には聞こえない音量で、しかし確実に。


「もし私が真の王位継承者でないのならば、この苦難から解放してください。しかし、もし私こそが正統なフランスの王であるならば……」


 シャルル7世の目に、涙が浮かんだ。これは、歴史書に記された通りの反応だった。


「汝は、確かに神に遣わされし者だ」


 その問いには、もはや疑いではなく、畏怖の念が込められていた。


「神の御心のままに」


 薫子の答えは、シンプルだった。しかし、その言葉の重みは、大広間全体を包み込んだ。


 暖炉の炎が、静かにまばたきする。この瞬間、フランスの歴史が、新しい方向に動き始めていた。


 そして薫子は、自身の人生もまた、取り返しのつかない地点を超えたことを悟っていた。研究者から実践者へ。観察者から参加者へ。その越境は、もう後戻りできないものになっていた。


 しかし、宮廷での試練はこれで終わりではなかった。


 シノン城の小さな礼拝堂付属の部屋。薫子は、歴史研究者として何度も読んだ記録と向き合おうとしていた。


「イヨランド・ダラゴン率いる検査団が、ジャンヌの処女性を三週間かけて調べた」


 暗記している論文の一節が、脳裏に浮かぶ。ポワティエでの神学的尋問に先立つ、最も重要な検証の一つ。中世において、処女性は神の寵愛を示す重要な証だった。


 薫子は震える手で十字を切った。これから行われる検査の詳細を知る研究者として、彼女の不安は消えなかった。


 ヨーロッパ中世史の権威である恩師の言葉を思い出す。


「中世の処女性検査は、単なる身体検査ではない。それは神学的な純潔の確認であり、霊的な資格の検証だった」


 部屋の外では、シャルルの母后ヨランドと、シシリー女王マリーが待っている。二人の高貴な女性による立ち会い。これも歴史的事実として、薫子は知っていた。


「入っていいですよ」


 ヨランドの声。薫子は深く息を吸った。


 部屋に入ると、数名の産婆と修道女が待っていた。彼女たちの眼差しは、研究者として読んできた記録よりも、はるかに鋭いものだった。


「まず、お祈りから始めましょう」


 年長の修道女が言う。これも手順の一つ。検査は、医学的検証である以上に、宗教的な儀式だった。


 祈りの言葉が唱えられる中、薫子は目を閉じた。


 彼女は、パリ大学で行った研究を思い出していた。中世における「処女性」の概念。それは単なる肉体的な状態ではなく、精神的な純潔を示すものだった。アウグスティヌスの『告白』には、「真の処女性は魂にある」という一節がある。


 検査が始まった。


 薫子は、天井に描かれた聖母マリアの図像を見つめた。処女にして母。中世キリスト教における最高の理想。その矛盾に満ちた存在が、今の彼女の心を慰めた。


石造りの小部屋の中で、薫子は緊張で体が硬くなっていた。暖炉の火が柔らかな光を投げかけ、部屋の空気は意外なほど温かい。壁に掛けられた十字架の前で、年長の修道女が静かに祈りを捧げている。


 修道女たちは、まず薫子の周りを取り囲むように立った。その姿勢は、歴史研究で読んだ通りの儀式的な配置だった。


「お嬢さん、怖がることはありません」


 白髪まじりの修道女が、母親のような優しさで語りかけた。その声に、薫子の緊張は少しずつ溶けていった。


「まず、一緒に祈りましょう」


 修道女たちが声を合わせて祈りを唱える。それは薫子の知る『アヴェ・マリア』とは少し異なる、より古い形式の祈祷だった。歴史家として、その違いに興味を覚える自分がいた。


 一番年長の修道女が、ゆっくりと薫子に近づいた。


「神様の前で、あなたの純潔を確かめさせていただきます」


 その言葉には、非難や疑いではなく、深い敬意が込められていた。


 検査そのものは、薫子が研究で知っていた以上に、慎重かつ丁寧なものだった。修道女たちの手つきは優しく、まるで聖遺物を扱うかのようだった。


「主よ、この娘の純潔を見守りたまえ」


 祈りの言葉が、静かに部屋に満ちていく。薫子は、自分の体が単なる検査の対象ではなく、神聖な確認の場となっているのを感じていた。


 一人の若い修道女が、薫子の額に聖水を垂らした。冷たい水滴が、彼女の緊張を洗い流していくようだった。


「見なさい、この娘の目の輝きを」


 年長の修道女が、他の修道女たちに告げる。中世の医学書で、処女性の証の一つとして「目の輝き」が挙げられていたことを、薫子は研究者として知っていた。


 検査の過程で、修道女たちは時折ラテン語で短い祈りを交わしていた。それは医学的な観察以上に、神学的な確認の儀式のようだった。


「あなたの体は、神の御業の証」


 その言葉に、薫子は思わず涙を流した。


 最後に、修道女たちは薫子の周りに輪になって立ち、再び祈りを捧げた。その祈りは、検査の終わりであると同時に、新たな始まりの祝福でもあった。


「この娘の純潔は、疑いの余地がありません」


 年長の修道女の宣言に、他の修道女たちが頷く。薫子は、彼女たちの目に浮かぶ慈愛の光を見た。それは、歴史書には記されなかった、人間的な温かさだった。


 部屋の隅では、小さな香炉から乳香の香りが立ち上っていた。その香りは、この瞬間の神聖さを印象づけるかのようだった。


「さあ、立ちなさい、神に選ばれし娘よ」


 修道女の手が、そっと薫子を支える。立ち上がった時、彼女は自分が単なる検査を受けただけではなく、重要な通過儀礼を経たことを実感していた。


 暖炉の火が、静かにまばたきする。その光の中で、薫子は新たな自分として生まれ変わったような気がしていた。


 つまり、検査の結果は、「疑いなき処女性の確認」だった。薫子は、祭壇の前にひざまづいた。


「神様、ありがとうございます」


 その祈りは、13歳の少女の純粋な感謝と、35歳の研究者の深い理解が溶け合ったものだった。


 部屋を出ると、ヨランドが優しく微笑んでいた。


「おめでとう、ジャンヌ」


 この言葉は、歴史書には記されていない。しかし、この瞬間、それは薫子にとって最も貴重な歴史的証言となった。


 検査を終えた後、薫子は自室で深いため息をついた。今の体と心は完全に一致している。しかし、かつて男性だった記憶は、この状況に複雑な感情を呼び起こす。


「これも神の導きなのでしょうか」


 窓から見える夕暮れの空に向かって、薫子は呟いた。


 その夜、彼女はオルレアン解放作戦の詳細な計画を練った。現代の軍事戦略の知識と、15世紀の戦術を組み合わせる。それは、歴史家の研究を実践に移す、稀有な機会だった。



「イングランド軍の包囲陣地は、ここと、ここが弱点です」


 翌朝、薫子は軍事会議で説明した。地図を指さす指先は、確かな自信に支えられていた。


「しかし、その情報をどこで?」


「神からの啓示です」


 薫子は静かに答えた。それは嘘ではない。神が彼女に与えたのは、現代の歴史研究者としての知識なのだから。

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