●第3章:戦場への道

 1429年の初春。薫子は男装することを決意した。


「なんという皮肉」


 鏡に映る自分を見ながら、彼女は苦笑した。35年間、望まない男性の体で生きてきた。そして今、やっと手に入れた女性の体を、再び男装で隠さなければならない。


 髪を切り、男装をする手順は、歴史研究で何度も読んできた。しかし、実際に自分の手で髪を切るとき、その一振り一振りが、想像以上に重かった。


「許してください、母さん」


 夜明け前、薫子は手紙を残して家を出た。ヴォークルールへの道は、歴史書の中で何度も辿ってきた。しかし、実際の道のりは、想像以上に険しかった。


 ロベール・ド・ボードリクールとの交渉は、薫子の歴史知識が最初に試される機会となった。


「私はシャルル殿下にお目通りを願いたい」


 城主の前で、薫子は凛として言い切った。


 ヴォークルールの城主の間で、ボードリクールは冷ややかな目で薫子を見下ろしていた。暖炉の火影が、重々しい沈黙を照らしている。


「なぜ、一介の田舎娘が?」


「神の啓示を受けました」


 薫子は、背筋を伸ばして立っていた。13歳の少女の姿でありながら、その眼差しには現代の軍事史研究者としての冷静な分析が宿っていた。


「では、その神の声とやらが、お前にオルレアンの軍事情報を授けたとでもいうのか?」


 ボードリクールの皮肉めいた問いに、薫子は一瞬の躊躇もなく答えた。


「オルレアンの包囲戦で、イングランド軍は東側に主力を置いています。サン・ルー砦を中心に、約2,400の兵力を配置。トーマス・モンタギュー伯爵の指揮下にある弓兵部隊が、特に手厚く……」


 薫子は、現代の研究で何度も分析したオルレアン包囲戦の細部を、まるで目の前で展開されているかのように説明していく。


「しかし、西側、特にサン・ローラン地区の防備は手薄です。わずか800の兵力しかありません。そこにはウィリアム・グラスデール卿の部隊が駐屯していますが、彼らの装備は不十分で……」


 ボードリクールの表情が変わった。これらの情報の多くは、彼の知るところと一致していた。しかし、この田舎娘が、どうしてイングランド軍の指揮官の名前や、正確な兵力配置まで知っているのか。


「さらに、イングランド軍は補給路の確保に苦心しています。ボーシー地方からの補給線が、ロワール川の増水で不安定になっているのです」


 薫子は、研究者として知る歴史的事実を、あたかも神託であるかのように語った。その声は少女のものでありながら、言葉の一つ一つには軍事戦略家としての確信が滲んでいた。


「そして、城内の食料は、あと3ヶ月が限度です。しかし、イングランド軍も同様の窮状にあります。今こそ、反撃の好機なのです」


 暖炉の火が、かすかにはぜる音が響いた。


 ボードリクールは、椅子から立ち上がった。彼の目には、もはや懐疑の色はない。その代わりに、ある種の畏怖の念が宿っていた。


「確かに、お前は只者ではないようだな」


 彼は、側近の騎士に目配せした。


「この娘をシノン城まで護衛する騎士を、選抜せよ」


 薫子は、内心でほっと胸を撫で下ろした。現代で培った軍事史の知識が、見事に功を奏した瞬間だった。


 しかし同時に、彼女の心には新たな重圧が のしかかっていた。これから始まる道のりは、歴史書の中の記述とは違うものになるかもしれない。その時、研究者としての知識は、どこまで役立つのだろうか。


 城主の間を出る時、薫子は自分の手が小刻みに震えているのを感じた。それは緊張のためだけではない。歴史の重みが、この13歳の体に伝わってくるようだった。


「馬上での重心の置き方、これは現代の乗馬理論と同じ原理だ」


 鎧の着用法、剣術の基本も、理論として知っていることを、少しずつ体で覚えていく。そして何より、中世の軍事戦術を知る研究者として、この時代の戦いを理解していた。


 夜明け前の薄暮の中、薫子は一枚一枚、慎重に鎧を身につけていった。


「まず、アコートン(詰め物入りの防護服)を着用。その上にマイル(鎖帷子)。そして最後にプレート(板金鎧)……」


 手順は、パリ国立図書館で読んだ『軍事技術論』の通り。15世紀の騎士の装備に関する論文を執筆した時の知識が、今、直接の指針となっていた。


「プレートの重量配分が重要だ。肩部分の負荷を腰に分散させないと……」


 薫子は、現代の人間工学の知識も応用していた。板金鎧の各部分をつなぐ革紐の張り具合を微調整する。これは、オックスフォード大学の武具研究で学んだ技術だった。


 剣を手に取る。これは練習用の木剣だが、重さは実物と同じに調整されていた。


「15世紀のロングソードは、平均して1.2キログラム から1.5キログラム。片手でも両手でも使える万能性が特徴」


 薫子は、剣を構えながら呟く。この時代の剣術は、ドイツのリヒテナウアー派とイタリアのフィオーレ派が二大潮流。彼女は両者の技法書を研究していた。


「中心線を意識し、重心の移動を最小限に」


 木剣が空を切る。13歳の少女の体は、驚くほど器用に動いた。


 現代の剣道で言う「一眼二足三胆四力」。中世の剣術にも通じる普遍的な原理があると、薫子は理解していた。体格や腕力の差は、正しい理論と技術で補える。


 次に、戦術の確認。薫子は、地面に簡単な戦場図を描いた。


「15世紀の戦争は、大規模な野戦よりも、城砦の攻防が中心。オルレアンの包囲戦では、イングランド軍の要塞(バスティーユ)の配置が鍵を握る」


 彼女は木の枝で図を描きながら、当時の戦術を整理していく。


「攻城戦の基本は、補給路の確保と切断。投石機や大砲による城壁の破壊は、実は二次的な手段」


 これは、ケンブリッジ大学の中世軍事史研究での知見だった。


 昇り始めた朝日が、鎧の表面を照らす。薫子は深く息を吸った。


「理論と実践は違う。でも、理論があるからこそ、実践の意味がわかる」


 彼女は、もう一度剣を構えた。今度は、より実戦的な動きの確認。


「突きは、隙が大きい。中世の剣術は、斬りが基本」


 剣先が、朝もやの中で弧を描く。


「馬上での戦いでは、遠心力を利用する。現代の物理学で言えば、運動量保存の法則を応用している」


 理論的な理解が、少しずつ体の動きに変わっていく。それは、歴史研究者から戦士への、緩やかな変容のプロセスだった。


 鎧を脱ぎながら、薫子は今朝の練習を振り返っていた。


『1429年の軍事技術:

・火薬兵器の発展期(実用性はまだ限定的)

・弓騎兵から重装騎兵への過渡期

・攻城技術の革新期

→これらの変化を理解していることが、戦術の鍵となる』


 研究者としてのメモの習慣は、まだ残っていた。しかし、その内容は、もはや単なる歴史的事実の記録ではない。生き抜くための、切実な知恵となっていた。


 空には、朝の太陽が昇っていた。新しい一日が始まる。それは、理論と実践の境界線が、少しずつ溶けていく時間でもあった。



 シノン城への旅は、危険に満ちていた。イングランド軍の哨戒を避け、夜陰に紛れて進む。時には森の中に身を隠し、時には農民に扮して街道を行く。


「私たちの護衛する少女は、本当に神に選ばれし者なのでしょうか?」


 護衛の騎士たちの間で、そんな噂が囁かれていた。薫子は彼らの不安を感じ取りながらも、毅然とした態度を保ち続けた。


(これが歴史を動かす第一歩。私は必ず……)


 その決意と共に、シノン城は、日に日に近づいていった。

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