●第2章:運命との出会い

 その日は、いつもより早く羊の群れを家に戻していた。夕暮れ前、薫子は村はずれの小さな礼拝堂に足を運んでいた。百年戦争の混乱の中でも、この礼拝堂だけは不思議と損傷を免れていた。


 扉を開けると、古い木の軋む音が静寂を破った。中は薄暗く、ステンドグラスを通して差し込む夕陽が、床に色とりどりの光の絨毯を描いていた。正面の祭壇には、小さな木彫りの十字架。その両脇には、ろうそくの灯りが揺らめいていた。


 薫子は、祭壇の前にひざまずいた。これまで幾度となく資料で読んできた場面。ジャンヌ・ダルクが最初の啓示を受けた瞬間。しかし今、彼女はその当事者として、この空間に、同じ状態で身を置いていた。


 石の床は冷たく、13歳の少女の膝を通じて、その感触が体の芯まで伝わってくる。祈りの言葉を唱えようとした時、それは起こった。


「ジャンヌよ」


 声が、空間全体から響いてきた。いや、それは外からの音というより、魂の深部に直接語りかけてくるような感覚だった。風のような優しさと、雷のような力強さを併せ持つその声に、薫子の体は震えた。


 現代の歴史研究者として、彼女はこの瞬間についての無数の記録と解釈を読んできた。医学的な説明、心理学的な分析、宗教学的な考察。しかし、実際に体験するその声は、どの説明とも、どの解釈とも異なっていた。


 声は、


「フランスを救うのです」


 声が続く。ステンドグラスの光が揺らめき、まるで天からの光が礼拝堂全体を包み込むかのようだった。薫子の手が震える。かつて論文で「集団ヒステリーの可能性」と書いた自分が、今は恥ずかしかった。


 震える手で十字を切る。これが幻聴なのか、神の声なのか、それとも自分の意識が作り出した幻なのか。研究者としての理性が、必死に分析を試みる。データを求め、論理的な説明を探そうとする。


 しかし、13歳の少女の体を持った今の薫子には、別の感覚があった。この声の神聖さを、理屈抜きに理解する感性。それは、35年の人生で初めて経験する種類の確信だった。


「私にできるでしょうか?」


 薫子の問いが、礼拝堂に響く。その声は、少女のものでありながら、現代から来た研究者の不安も含んでいた。新しく得た女性の体で感じる喜び。そして、フランスを救うという重大な使命。その両方が、彼女の心の中で渦を巻いていた。


 ろうそくの炎が、かすかに揺れる。その動きに、薫子は自分の心の揺れを見た。


 祭壇の十字架に、最後の光が当たっていた。イエスの苦悩の表情が、夕陽に照らされて浮かび上がる。薫子は、その表情に見覚えがあった。鏡の中の自分が、長年浮かべてきた表情。しかし今、その苦悩は違う意味を持ち始めていた。


 それは、もはや性別への違和感からくる苦しみではない。神に選ばれし者としての、より深い次元での魂の呻きだった。


「神様……」


 薫子の囁きが、礼拝堂の闇に溶けていく。夕暮れはすっかり深まり、ろうそくの光だけが、空間を照らしていた。


 彼女はまだ、そこに長く跪いていた。声は、もう聞こえない。しかし、その余韻は、彼女の魂に深く刻み込まれていた。これから始まる戦い。それは、歴史家として知る過酷な運命との戦いでもあった。


 礼拝堂を出る時、最後の光が消えかかっていた。しかし、薫子の心の中では、新しい光が灯り始めていた。



 家に戻ると、母イザベルが夕餉の支度をしていた。薫子は母の仕草を注意深く観察した。料理の仕方、布の扱い方、すべてが中世の女性としての作法を学ぶ機会だった。


「ジャンヌ、今日はどうしたの? いつもより物思いにふけっているように見えるわ」


「母さん……私、国のこと……フランスのことを考えていたの」


 イザベルは手を止め、娘を見つめた。


「あの子が変わってきたのはその時期からだったわ」


 後に、イザベルはそう証言することになる。しかし今、母の優しい眼差しの中で、薫子は少しずつ、自然な女性としての感覚を育んでいった。


 夜、薫子は羊皮紙に向かっていた。現代で学んだラテン語と古フランス語の知識を活かし、聖書の写本を読んでいく。歴史家として知る「声」の意味と、実際に体験する神秘的体験の違いを、必死に理解しようとしていた。


 獣脂のランプの灯りはゆらゆらと小さな部屋の闇を照らし続けている。薫子は、膝の上に広げた羊皮紙の文字を必死に追う。これは修道院から借り出した『詩篇』の写本。かつてパリ大学で学んだラテン語の知識が、今、思いがけない形で役立っていた。


「Vox Domini super aquas, Deus majestatis intonuit……」


 薫子は小声で読み上げる。「主の声は水の上にあり、栄光の神は雷鳴を轟かせる」。詩篇29篇の一節。声を聞いた聖人たちの記録と照らし合わせながら、彼女は自分の体験を検証していた。


 机の上には、几帳面な字で記されたノートが広がっている。そこには、現代の研究者としての知識が、中世の文字で書き記されていた。


『アウグスティヌスは「神の声」を内なる光として描写(『告白録』第7巻)


実体験:外からでも内からでもない、存在そのものとしての声

 →中世神秘主義における「魂の暗夜」(十字架のヨハネ)との類似?』


 さらに、彼女は別の羊皮紙を広げた。古フランス語で書かれた祈祷書。パリ国立図書館で何度も目にした写本の、まさに同時代のものだ。


「Dame Sainte Marie, Mere de Dieu……」


 聖母マリアへの祈り。この時代の発音で読んでみる。母音の微妙な違いが、祈りの響きを変える。


 薫子は、自分の研究ノートを取り出した。現代のボールペンではなく、羽ペンとインクを使う。その動作ですら、歴史家として興味深い体験だった。


『「声」の分類(現存史料による)

1. 幻聴型:精神医学的解釈可能

2. 集団ヒステリー型:中世の女子修道院に多数の記録

3. 神秘体験型:エクスタシーを伴う

 →自己体験:これらのいずれとも異なる

 ・明確な意識

 ・強い現実感

 ・論理的一貫性』


 彼女は、『シャルトル大聖堂の建設記録』で読んだ石工の証言を思い出していた。「神の声は、石の中にある」という不思議な一節。当時は比喩的表現だと解釈したが、今、その意味が違って見えてきた。


 次に、アヴィニョン教皇庁の記録。14世紀の神秘主義者カタリナ・シエナの証言。

「神の声は、言葉以前の言葉である」という記述。


 薫子は、自分の体験を書き加えた。


『声の特徴:

・時間性:現在と永遠の交差点

・空間性:特定できない(内でも外でもない)

・言語:ラテン語でも俗語でもない、直接的理解

・感覚:聴覚だけでなく、存在全体での受容』


 さらに、彼女は当時の政治状況との関連を記していく。


『1429年の状況:

・英仏両国の軍事バランス

・ブルゴーニュ公国の動向

・民衆の救世主待望論

 →「声」の社会的コンテキスト

  しかし、体験の本質は政治を超越?』


 獣脂のランプが、ちらちらと揺れる。その光の中で、薫子は現代の学術的知識と、目の前の中世の現実を、必死に結びつけようとしていた。


 しかし、書き記せば記すほど、「声」の本質は言葉から逃れていく。それは、まるで中世の写本に施された装飾文字のように、意味と形の境界を踊っているかのようだった。


 夜は更けていった。鶏の一声が、夜明けの近いことを告げている。薫子は、最後にもう一行、書き加えた。


『神の声は、歴史の檻の中には収まらない。』


 それは、研究者としての敗北宣言でもあり、新たな理解の始まりでもあった。


 そして、ある決意が固まっていった。


「歴史を変えることはできる。でも、その前に、私はジャンヌ・ダルクにならなければ」

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