●第1章:目覚めの瞬間

 古文書の埃が舞い上がる。その微かな光の中で、石田薫子は目を細めながら羊皮紙の文字を追っていた。パリ国立図書館の資料室で、彼女は新たに発見された15世紀の軍事記録を今日も丁寧に読み解いていた。


「これは……」


 その時、彼女の視界が歪み始めた。ラテン語の文字が踊り、まるで生き物のように蠢きだす。意識が遠のいていく。最後に見たのは、ジャンヌ・ダルクの処刑を記した一節だった。


 そして、目が覚めた。


 意識が戻った瞬間、薫子の全身を不思議な感覚が包み込んだ。それは、これまで経験したことのない、魂が完全に肉体と一致したような感覚だった。


 目を開けると、そこは質素な寝室。藁葺きのベッドに横たわっていた。朝日が小さな窓から差し込み、埃っぽい光の帯が空中を漂っている。


 薫子は、ゆっくりと自分の手を見つめた。そこにあったのは、小振りな少女の手。皮膚は柔らかく、指は繊細で、これまでの人生で見慣れた男性的な骨格は完全に消えていた。


「これが……私の手?」


 震える声は、澄んだ少女の声だった。喉仏もない。これまでどれだけ発声訓練をしても残っていた男性的な響きは、まるで嘘のように消えていた。


 おそるおそる、薫子は自分の体に触れていく。華奢な肩。まだ発達途中の胸。すらりとした腰。すべてが、少女としての完璧な調和を保っていた。


 性別適合手術後も残っていた違和感。ホルモン治療でも変えられなかった骨格。そのすべてが、この瞬間に消え去っていた。


「ああ……」


 涙が頬を伝う。それは喜びの涙であり、解放の涙だった。35年間、自分の体の中に閉じ込められていた魂が、ついに本来の住処を見つけたような安堵感。


 薫子は立ち上がり、部屋の隅に立てかけられた鏡の前に立った。そこに映るのは、黒髪の少女。大きな瞳、整った顔立ち。薫子は鏡に映る自分に触れようと手を伸ばした。


 鏡の中の少女も、同じように手を伸ばす。その仕草には、これまでの彼女の動作に常にまとわりついていた不自然さがない。すべての動きが自然で、まるでずっとこの体で生きてきたかのようだった。


「ジャンヌ!」


 階下から聞こえる呼び声に、薫子は我に返った。その声は、ジャンヌの母、イザベルのものだ。この声を聞いて初めて、薫子は自分が何者として目覚めたのかを完全に理解した。


 そう、彼女は、ジャンヌ・ダルクとなっていた。


 しかし、それは単なる歴史上の人物への転生ではなかった。この体は、薫子の魂が本来求めていた完璧な依り代だった。心と体の不一致に悩まされ続けた35年間。その長い苦悩が、この瞬間に報われたのだ。


 薫子は深く息を吸い込んだ。空気が肺に入っていく感覚さえ、新鮮だった。少女の体で呼吸をする。それだけの単純な行為に、この上ない幸福を感じる。


 窓の外では、鳥のさえずりが聞こえる。朝もやの向こうに、丘の上で群れをなす羊たちが見える。これから始まる人生。それは確かに、重い運命を背負ったものになるだろう。


 しかし、今のこの瞬間、薫子の心は深い平安に満ちていた。歴史家として知っているこれからの過酷な運命も、この体と心の一致した喜びを損なうことはできない。


「私はいま、!」


 その言葉を、薫子は何度も心の中で繰り返した。涙は止まらない。しかし、その一粒一粒が、解放と喜びの結晶のように輝いていた。


「ジャンヌ! 朝食の時間よ!」


 再び聞こえる母の声に、薫子は目を拭った。


「はい、今行きます!」


 その声は、これまで聞いたことのない、しかし確かに自分のものである少女の声だった

 薫子の胸にもう一度幸福が込み上げる。自分の声。自分の体。すべてが、完璧な調和の中にあった。


 薫子は、階下へ向かう階段を一段ずつ降りていく。その一歩一歩が、新しい人生の始まりを告げていた。



 ドンレミー村の春の風が、ジャンヌとなった薫子の頬を撫でる。羊の群れが丘を登っていく。その後を追いながら、彼女は新しい体での動きに慣れようとしていた。


 歴史研究者として、彼女はこの時代のことを知っていた。1428年。百年戦争の最中、フランスが存亡の危機に瀕していた時代。そして、これから起こる出来事も。


 ジャンヌ・ダルクが神の声を聞き、フランスを救う聖女となる。そして、最後は火刑に処される。これが歴史だった。


「でも、それは変えられるかもしれない」


 薫子は密かに呟いた。歴史家として知る運命と、今この瞬間を生きる少女の意志。その狭間で、彼女の新たな物語が始まろうとしていた。


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