【架空歴史戦記短編小説】史実を変えた聖女の告白 ~ジャンヌ・ダルクの真実~(約2万字)
藍埜佑(あいのたすく)
●プロローグ:閉ざされた扉の前で
パリ国立図書館の古文書室で、石田薫子は自分の手を見つめていた。細く長い指。ホルモン治療で柔らかくなった肌。しかし、骨格は変わらない。35年の人生で、これが最も女性らしい姿だった。それでも、鏡を見るたびに、そこには違和感が残っていた。
「やはり、完全には……」
薫子は溜息をつき、机に広げられた古文書に目を戻した。15世紀の軍事記録。ジャンヌ・ダルクが戦場で着用した鎧の詳細な記述が並ぶ。戦う乙女の物語は、幼い頃から彼女の心を捉えて離さなかった。
幼稚園の頃、「男の子」と呼ばれるたび、薫子は違和感を覚えた。母親の着物を見つめ、こっそり袖に触れる。それは、自分には永遠に許されない憧れだった。
中学生になり、制服の違いが決定的な壁となった。男子の学生服は、まるで牢獄のように彼女を縛り付けた。体育の時間、男子と一緒に活動することは、毎回が拷問だった。
「石田くん、男の子なんだから、もっと元気よく活発に!」
教師の何気ない一言が、ナイフのように心を刺した。
思春期は、さらなる苦悩の始まりだった。声変わり、喉仏の発達、筋肉のつき方。自分の体が、望まない方向に変化していく恐怖。鏡を見ることが怖くなった。
大学では、歴史学を専攻した。ジャンヌ・ダルクの研究は、彼女の唯一の逃避先だった。歴史の中の「戦う乙女」たちは、性別の壁を超えて生きた。その姿に、薫子は自分の理想を重ねた。
30歳で、ついに決意した。
「私は、女性として生きたいんです」
精神科医の前で、長年封印してきた言葉を口にした。診断から治療まで、長い道のりが始まった。
ホルモン治療は、少しずつ体を変えていった。肌は柔らかくなり、脂肪がつく場所が変わり、感情の揺れ方も変化した。しかし、骨格は変わらない。声は、訓練しても完全には女性的にならなかった。
性別適合手術は、大きな一歩だった。パリに来る前、日本で手術を受けた。目覚めたとき、薫子は泣いた。喜びと、同時に深い喪失感。望んだ体に近づいたはずなのに、何かが足りない。完全には女性になれないという現実が、再び重くのしかかった。
研究者として、薫子は冷静に理解していた。現代の医療技術では、染色体は変えられない。子宮を持つことも、子供を産むことも叶わない。生物学的な性と社会的な性の違い。あらゆる学術的知識を持っていても、心の痛みは消えなかった。
パリ国立図書館の司書たちは、彼女を「マドモアゼル・イシダ」と呼ぶ。外見は、ほぼ完全に女性として通用する。しかし、時折、昔の癖が出る。歩き方、座り方、声の調子。そのたびに、薫子は自分を責めた。
「私は、本当に女性なのだろうか?」
その問いは、いつも彼女を苦しめ続けた。手術後も、ホルモン治療を続けても、消えない疑問。社会は彼女を女性として受け入れ始めていた。しかし、自分自身との和解は、まだ遠かった。
そんな時、薫子は古文書の中にジャンヌの言葉を見つけた。
「神は、私をこのように創られました」
単純な信仰告白の言葉。しかし、薫子の心に深く響いた。ジャンヌは、15世紀の因習を超えて、自分の信じる姿で生きた。性別の規範を超えて、戦場に立った。
古文書室の窓から、パリの街並みが見える。ノートルダム大聖堂の尖塔が、夕陽に輝いていた。
「完全な女性の体は手に入らないかもしれない。でも……」
薫子は、机の上の古文書に手を置いた。ジャンヌ・ダルクの軍事記録。戦う乙女の記録。
「私には、私の戦いがある」
その言葉は、決意であり、祈りでもあった。
図書館の古い壁時計が、静かに時を刻んでいく。薫子は再び古文書に目を向けた。羊皮紙の上で、15世紀のインクが、かすかに光を放っていた。
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