雨の降る街を

遠村椎茸

雨の降る街を

 この街には変わり者の幽霊がいて、雨の降る日には昼夜の見境なく現れるという。

 だから、雨粒がぽつぽつとアスファルトを濡らし始めると、街を行く人達はいつも決まってこんな噂話をする。


 霊感の違いなんだろうね。見える人と見えない人がいるんだって。

 ああ、幽霊の話?

 そう。

 男なんでしょう? その幽霊って。

 うん。それが、見える人には、妙に実体感があって、すぐ傍を歩いていても誰も気づかないらしい。でも、雨がむと突然フッと消えてしまう。

 見ちゃった人は驚くだろうね。でも、なんで出てくるのかな?

 さあ。なにか探し物でもしてるのかもね。

 街のあちこちに昼でも夜でも出没するんだって?

 らしいね。幽霊には時間も空間も関係ないんだろう。過去や未来もお構いなし、出てくる時刻や場所も決まってないんだろうね。

 だけど、彼の場合、この街限定で、なにかきっかけというか、姿を現す条件があるとすれば、それは雨なんだってさ。


 そんな街の噂をいくつか耳にするうちに、できるものならわたしもその幽霊に逢ってみたいと思うようになった。

 雨が降るたび、そして、むたびに、注意して探してみるのだが、霊感がないせいか、わたしはまだ一度も彼に逢ったことはない。

 いや、逢っていても気づかなかっただけなのかもしれない。なにしろ、姿が見えている間は、生身の人間に紛れて誰にもわからないというのだから。

 いったい、彼は、なんの目的があって雨の街を歩いているのだろうか? この世にどんな未練があるのだろう。

 生きることに何の価値も見出すことができず、ただ、毎日を痛みに耐えるように暮らしているわたしには、彼の行為がどうにも理解できないのだ。こんな世の中に、果たして思い残すほど大切なものがあるというのだろうか? せっかく死んだのなら、迷わず成仏すればいいではないか。くだらない人間社会のことなど忘れて、天国でやすらかに眠ればいいのに……。

 人並みの暮らしをしたことなど、わたしは、これまで、ただの一度もなかった。

 まだ子供だった頃、父親は莫大な借金を作って行方をくらまし、母親からは「お前さえいなければ」「お前さえ生まれてこなければ」と責められ続けた。

 存在することに対する罪悪感に苛まれながら、わたしは母と二人で暮らしていた。

 その母親にしたところで、借金の取立て屋が毎日のように訪れるアパートにわたし独りを残し、男と外泊を続けるうちにとうとう帰ってこなくなった。

 帰らない母を待ちながら、いつくるとも知れないヤクザまがいの男達が恐くて、外に助けを求めることもできず飢え死に寸前でいるところを、わたしは、家賃の催促にやってきた大家に発見されたのだ。

 警察に父親と母親の捜索願が出されたが、結局、二人の消息はつかめなかった。

 親戚にわたしを引き取ろうという者はなく、誰もがもっともらしい理由をつけてこの身柄を押し付け合い、罵り合ったあげく、最後には社会に責任を求めた。

 わたしは養護施設で育ったのだ。 

 二親ともこの国のどこかで生きているのだろうに、わたしは孤児と呼ばれた。

 誰も信じてはいけない。誰も当てにしてはいけない。ひとは裏切る。ひとは言葉で嘘をつく。わたしは、八歳にして、世を拗ね、ひとを恨み、そして、自分の殻の中に閉じこもってしまった。この世に楽しい思い出など何も持たないまま。

 だから、知りたいのだ。雨降り幽霊の未練が何なのかを。なにを求めてこの街に現れるのかを。

 それがわかれば、あるいは、わたしにも生きる希望が見出せるかもしれない。

 そして、もう二度と死にたいなんて……。

 気がつくと、すぐ先の交差点に人だかりができていた。救急車が停まっている。どうやら交通事故らしい。近づいていくと、野次馬達の話し声が聞こえてきた。

 かわいそうに、もう助からないよ。

 自殺らしいね。自分から飛び込んでいったそうだから。

 まだ、若いのにねえ。

 救急隊員が、血だらけの男を担架で運んでいくところだった。

 その瞬間、わたしには、なにもかもがわかった。

 永遠とも思える長い時間を遡り、行過ぎてはまた後戻りして、この街という限られた空間で、幽霊がなにを探して彷徨っていたのか。

 そして、わたしが捜し求めていた答えが、なんだったのかも。

 希望ではなかったのだ。

 もう、この街に幽霊が現れることはないだろう。

 救急車に乗せられてゆく血みどろの自分の姿を見送ると、わたしは空を見上げた。

 街には、いつのまにか雨が降り始めていた。


                             <終>

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雨の降る街を 遠村椎茸 @Shiitake60

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