つま先立ちの未来
森陰五十鈴
マリアの靴
ルベット家は商人を邸に呼び寄せるほどの財力はない。だから買い物は基本的に街に出ることになる。
その日もアリエッタは、キーラお嬢様と買い物に出ていた。目的は特になく、強いて言うならキーラの気晴らしのためだった。
お嬢様とはいえ、お小遣いは子ども用のそれ(それでも市民基準よりは多いが)。アリエッタが手に持てるだけの可愛らしい小物とお菓子を買った帰り道、キーラは突然ある店のショウウィンドウに貼り付いた。
「うわぁ……」
大きな目を輝かせて、キーラが見つめていたのは、白い円形のディスプレイに展示された靴だった。ラズベリー色のパンプス。淡いピンクの花のコサージュが付いている。華やかながらも少し落ち着きのあるその靴は、十代後半の娘たちへと向けたものだろう。
ただ一つ。その靴の
「すてき……欲しいなぁ」
ねぇアリエッタ、とキーラはお付きのメイドを振り仰ぐ。アリエッタは苦笑しつつ首を横に振った。
「無理ですよ。お嬢様にはまだお早いです」
キーラは口を尖らせる。最近の彼女は、背伸びしたいお年頃。お子様扱いを嫌がられる。だから、アリエッタは付け加えた。
「お嬢様、まだヒールを履かれたことないでしょう?」
キーラは足元に視線を落とした。リボンの飾りが付いたシックな黒いパンプスには踵がない。
しかしキーラはキリッと顔を上げた。
「練習すれば、すぐに履けるようになるわ」
気概は結構だが、アリエッタとしてはやはり受け入れられない。
「いきなりあの高さは危険です。足を捻ってしまいますよ」
それでもキーラは諦めがつかないらしい。じとっとラズベリーのパンプスを見つめ続ける。窓に両手を付けて、片恋でもしているかのように、切なそうに。
「そんなに気に入ったんですか?」
アリエッタはさすがに困惑した。この靴はたった今見つけたばかりである。衝動的に欲しくなることはあるかもしれないが、執着するだけの理由が見当たらない。キーラは欲しい物は手に入れないと気がすまないという我儘な
「どうしてその靴が欲しいのですか?」
「マリアの靴に似ていると思ったの」
マリアとは、お嬢様が
確かに、とアリエッタは物語を思い出す。この靴は、マリアがデビュタントを迎えたときの靴を思わせる。
だからといって、いきなりこの靴をキーラに履かせるのは躊躇われた。そもそも、キーラのお小遣いでは買える値段ではない。さすがにその辺りはキーラも理解しているようで、お父様におねだりしようかしら、と呟いている。
アリエッタは頭を捻った。仮にキーラの父が購入を認めてくれたとしても、今その靴を彼女の傍に置いておくことに、アリエッタは賛成できない。あればきっと無茶をしてでも履きたくなってしまう。怪我の要因となりかねない。
だから、お嬢様をひとまず諦めさせるだけの何かが必要だ。
「でしたら、お嬢様。来年のお誕生日のプレゼントにおねだりしてはいかがでしょう」
キーラは窓から視線を外し、アリエッタを見上げた。その
「それまでにお嬢様は、その靴が似合うだけの淑女の振る舞いを身に着けましょう」
アリエッタは諭す。無理をして背伸びをしても、履きこなすことなどできはしない。ついでに、靴に合う服もない。せっかくの憧れの靴を手に入れても、悲しい思いをする可能性のほうが高いのだ。
「どうせなら堂々とその素敵な靴を履きたいと思いませんか?」
両手を窓に貼り付かせたまま、キーラは俯く。視線の先は、自らの足元だ。底が
現実と理想のギャップを、彼女はどう受け止めたのだろうか。
「……うん。そうね」
踵が地に着き、手がようやくショウウィンドウから離れた。可愛らしい顔に表情はなく、気落ちしているのは確かだった。アリエッタはそんな聞き分けの良い彼女を帰路へ促す。
「帰ったら、旦那様にお話しましょう。ご予約を取っていただかなければ」
「……うん!」
キーラの表情が少し明るくなる。決してその場しのぎで誤魔化されただけではないことが分かったからだろうか。
いきなり高いヒールの靴が欲しいと言われて面食らってしまったが、キーラが淑女教育に前向きになったのは良いことだとアリエッタは思う。ルベット家に生まれたからには、いずれ淑女の振る舞いを求められるだろうから。
そして、キーラが目指す淑女像を具体的に持ったのも良いことだ。
まずは、キーラがヒールに慣れるための、踵低めの靴を手配しなければ。
帰ったら奥様に相談しよう、とアリエッタは心に決めた。
つま先立ちの未来 森陰五十鈴 @morisuzu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます