第2話 オリンピックは平時の軍事祭典
アタルがオリンピックに夢中になったきっかけは昭和十一年、東京オリンピックの開催が決定したときであった。それから、新聞記事を集め始め、いつしか、スクラップブックを何冊も持つようになっていた。しかし、東京オリンピックは開催されなかった。日中戦争が始まったからであった。
オリンピックは平和の祭典と呼ばれている。なぜ、平和の祭典と呼ばれているのか?古代オリンピックでは戦争中であってもオリンピック開催中は戦闘を中止し、競技に参加することになっていたからである。
しかし、そのオリンピックの競技なのだが、そもそも、陸上競技は一体、何のための競技なのだろうか。やり投げ、砲丸投げ、ハンマー投げなどの投擲競技では、いろんなものを投げて飛距離を競う。あれは古代における軍事訓練なのだ。戦争を中断しての平和の式典といいつつも、結局は戦争のための備えを行っているのである。
ちなみに、他の競技はどうなのか?棒高跳び、高跳びは城壁を超えるためなのだ。三段跳び、幅跳びは跳躍して濠を超えるためなのか。いや、まて、三段跳びは一体何なのか?三回のルールは何に由来するのか?濠を超えるのにわざわざ三回の跳躍にこだわる必要はないのではないか・・・。三枚の札で敵から逃れるまるで耳なし芳一のような話だ。西洋人もお札のような小話をするのだろうか。そう考えると不思議に思えてきた。
そんなアタルのうんちくを話す相手も、ここにはいなくなってしまった。アタルの潜むトーチカは摺鉢山の山腹にあり、所属する部隊は数日前の戦闘で特攻、玉砕してしまった。アタルは落盤事故で足を怪我していたため、特攻できず、運良く生き残ってしまったのである。
耳を澄ませると時々、本土から援護の航空部隊がやってくる。なんで、友軍であるかわかるのかって?それは、ゼロ戦のエンジンを聞き分けることができるのだが、それ以上に米軍の激しい射撃が行われるからだ。日本守備隊の弾薬を多く見積もってもあれほどの乱射はできない。一方、資源不足の日本軍には片道分の燃料しかなく、体当たり攻撃を繰り返していた。アタルの手元には自決用の短銃と手榴弾があった。ただ死ぬのはおもしろくない。憎き敵兵に一矢報いたいと考えていた。
この時になってようやく気が付いた。落盤があったところを覆った鉄板に無数の小さな穴が開いており、その穴から指す光がまるでプラネタリウムのように光っていたのだった。穴が光っているということは、外は昼なのである。こんな戦場に来てまで星座の事を考えるとは思わなかった。
次の更新予定
摺鉢山プラネタリウム 乙島 倫 @nkjmxp
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