〇◎〇

 父の病気が目に見えて悪くなったのは、雪がちらつく季節に入ったころだった。

 学校から帰れば僕よりも先に帰宅していたし、寝室から出てくることも少なくなった。

 休職に追い込まれたのは、終業式の三日前だったと思う。

 当時は、ずっと家にいる父を不思議に思ったものだが、すぐに病気のせいだという母の言葉で理解をした。

 結局、夏の短期出向では解決できていなったのだろう。

 救いだったのは、職場の人たちが頻繁に見舞いに来てくれたことだ。

 毎日のように、それも毎回違う人が手土産を持って顔を出してくれる。

 優しい笑顔に心配そうな眉をして、父の様子を気遣ってくれ、僕にがんばってとねぎらいの言葉をかけてくれた。

 父は人間関係から倒れたのだけど、こんなにも大勢の人に慕われていたのかと誇らしく思ったものだ。これなら、職場への復帰も早いだろう、と。

 父も心配であったが、僕のほうも学校で大きな変化があって、それどころではなかった。

 担任が唐突に変わったのだ。


      ※


 ベテランで優しかった先生から、若くて不安を両目に張り付かせた、言ってしまえば頼りない新人に。

 理由ははっきりと覚えていない。明確な説明自体がなかったのかもしれない。

 けれどその日から、僕と春人の周りは一変した。

 級友たちから距離を取られるのはもう慣れきっていたが、今度は教師からも隔意を隠されなくなった。

 まず、給食当番と掃除当番のローテーションから、二人とも外された。

 次に、授業中に指名されることがなくなった。

 僕は単純な子供だったから、面倒がなくなってラッキー程度に考えていたが、それでも新任の措置には薄気味悪さがあった。

 きっと、彼の僕らを見る目もあっただろう。

 どうしてか目を合わせようとせず、なんなら視界におさめることすら厭うように、横目でばかりこちらを眺めていたのだ。

 理由もわからずそんな態度を見せられては、憤りもあったし、何より疑問が膨らむ。

 なので、健全とは言いがたい日々を、僕も強いられていた。


      ※


 自然、春人との仲は前より強くなっていった。

 雪が積もり虫の姿も見えなくなって、自然と彼の部屋で過ごす時間が増えたことも一因にある。

 僕自身は特に不満なく、親友との毎日を過ごしていた。

 ただ、父のことや学校のことで、漫然と不可解と不安を抱えてもいた。

 そんな薄い嫌悪からの逃避も、彼の部屋を訪れる理由だったかもしれない。

 とにかく大晦日の迫るその日も、僕らは変わらずに図鑑を広げて、雪解け後の計画を話し合ったりしていたのだ。

「トイレ貸して」

 三時を少しすぎたころだったと思う。曇り空で外がもう暗かったはずだ。

 歓待のジュースにおなかを冷やした僕は、一人で部屋を離れた。

 かつての豪邸とは違い、マンションの一室だ。リビングを抜ければすぐにトイレがある。

 頼りなげな蛍光灯の下を通って短い廊下に出ると、

「あのね」

 テレビを見ていたおばさんが、声をかけてきた。

 振り返ると、おばさんは迷ったように言い淀みながら、ゆっくりと立ち上がり近づいて、屈みこんで視線を合わせてくる。

 大人が子供に、大切な話をするときの動きだ。僕はどうしたのだろう、と思いながらまっすぐに向きなおった。

「ええっと、ね。春人の目が悪くなってきていてね」

「え」

「だからね、うつしちゃうかもしれないから、もうこないで欲しいの」

 その時は、おばさんの言葉を飲み込むことが難しかった。

 意味はわかった。

 けれども、ともなう感情が足を止めていて、追いついてこなかったのだ。

 目が悪くなっている、そんな様子はあっただろうか。

 遊びに来られない、僕はこれから誰とお話をすればいいのか。

 疑問ばかりが渦を巻いて、悲しいとか、どうしてとか、そんな思いが表に出てくることはなく、提案に反射で出た肯定を見せるしかできなかった。

 首を縦に振って、呆然と部屋に戻る。

 ドアノブに手をかけたときに、そういえばトイレを忘れていたことを思い出し、けれど隙間から見えた光景に、またすぐに忘れてしまった。

 彼が目隠しを外していたのだ。


      ※


 僕は親友の顔を見たことがなかった。

 この時に初めて、彼の目を見たのだ。

 柔和な光が揺れ、涼やかで理知を湛える、きれいな目を。まるで、テレビで見る俳優のような、美しいと言える整った目元を。

 想像していた病気は痕もない。

 ではどうして、彼は目を隠して誰からも忌避されていたのだろうか。

 思うほどに気持ち悪くて不合理な、子供じみた恐怖の想像に苛まれて固まってしまい、

「どうしたの」

 動きを止めた僕に、おばさんが心配げな声をかけてくれた。

 心配させないようすぐに振り向いて、大丈夫、と答えたけれど、その時の彼女の目はひどく印象深いものだった。

 春人の、きれいな目を見た直後だったせいだろう。

 なんてことのない、そう、なんてことのない目。

 先生や、ご近所さんや、父のお見舞いにきた人たちと同じ目。

 優しい笑顔に浮かぶ、なんてことのない普通の目が、今でも忘れることができない。


      ※


 年が明けて、父に辞令が下りたらしい。

 すぐに引っ越しの準備が始まって、三学期の始業式前には町を離れることに。

 年末のあの日以来親友と会うこともなく、学校での再会も果たせないままお別れとなった。

 新しい町ではまた友人をつくり、高校受験を乗り越え、大学受験に受かるまで、苦楽を共にした親友が幾人もできた。

 いま、大学での新生活を控えて胸を躍らせながら、けれどあの日々のことを思い出したのは、不意に見てしまったからだと思う。

 キャンバス内に紛れる、優しげな普通の目をした学生たちの姿を。


      了

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