〇◎

 夏休みに入るころ、父親の目は日をおっておかしくなっていった。

 隈をつくり、まぶたが開くのは半ばまで。視線は前を向かず、斜め下に自然と落ちていく。

 いま思えば、心労に苛まれた人のそれであり、鬱の初期症状だったのだろう。

 職場の人間関係に困っている。愚痴のような口端から漏れる言葉から、子供ながらに理解できるほどに父は参っていた。

「出世して、お仕事が大変なのよ」

 母親は僕にそう納得させていたが、なにより母本人がその言葉で納得したがっていたのかもしれない。

 だからだろう。

 父の短期出向が決まると、二人とも安心した笑顔を見せたのが印象深かった。

 ほどなく夏休みとなり、僕は浮かれるように遊びまわった。

 この町にきて初めての長期休暇。

 土日だけでは探検しきれなかった山や野原に虫取り網をかついで、近くの川で釣りに挑戦し、宿題はまあほどほどに。

 毎日電話をくれた父親も声が明るくなって、お盆前にはかつての陰鬱さを忘れてしまうほど満喫していた。

 だけれど唐突に、驚く知らせがもたらされる。

 春人の家が引っ越すことになったのだ。


      ※


 とはいえ、学区が変わるわけでない。

 元の通い慣れた大きな家から、学校にほど近いマンションへ引っ越したのだ。

 家の都合で手放すことになったそうだが、肝心の事情については教えてはくれなかった。僕自身も引っ越しという出来事に衝撃を受けていて、そこまで疑問の腕を伸ばせなかった。

 兎にも角にも、心配はコレクションの行方だったから。

 さすがに手狭な賃貸へ、古くて大きく重い家財を持ち込むわけにいかず残置しているとのこと。

 それなら、彼の伯父が残していた大量の昆虫標本などの道楽品なんか、新居に持ち込まれるわけもない。

「誰かに譲るしかないかも」

 さみしそうに残念そうに、彼は目隠しがあってもわかるほど落胆していた。

 友人の様子に自分も悲しくなって、せめて家に置けないだろうかと模索していたのだが、母親の説得に数日を空費することに。

 ようやく許可が下りて、春人と一緒に旧宅へ駆けつけたときには、業者が家財の一切合切を持ち出した後だった。

 しかたないね、と持ち主が言うから僕には何も言えなかったのを覚えている。

 その日から、僕と彼の遊び場は外が増えたように思う。

 新居にお邪魔して、おばさんに歓迎されて、二人で網と虫籠を携え飛び出して行って。

 夏休みが終わっても僕らは変わらず遊んで、なんなら前よりも一緒の時間が増えたのではなかっただろうか。


     ※


 新学期が始まり、僕と彼は変わらず、特段の事情がなければ毎日のように遊んでいた。

 変化があったのは周り。

 一学期に一緒に遊んでいた友人たちが、あまり誘わなくなってきたのだ。

 ことさら避けられるわけでない。ただ、昨日のテレビ番組やゲームの攻略、新しいお菓子の話など、他愛ない会話がめっきりと減って、自然と遊びの輪に招かれなくなって。

 きっと、春人と仲良くしていたせいだろう。

 幾度か、春人を優先して彼らの約束を後回しにしたことがあったから自然なこと、なんて考えていたのだ。

 幼い子供の社会性だ。深刻さはなかったし、どこかで輪に入れば関係も戻っただろう。

 いずれにせよ、クラスメイトたちとの関係が破綻、破壊されたわけでなく、この時は距離ができただけに過ぎないと思っていた。

 そんな些細な変化のなか、変わらない人もいた。

 担任の先生である。

 小学生という、自分を律するのも難しい年頃を相手にする職業だ。僕らを叱り、褒めてくれる、優しい笑顔の人。

 公立校の教師は数年で異動するものだが、事情はわからないけれど異例な長さで在席していたそうで、他の先生たちからも頼りにされるベテランだった。

 彼女は、僕ら二人が友人らの輪に入らないことを心配してくれて、あれこれ話をきいてくれた。けれど、当の本人たちはさして意に介さず無邪気に昆虫の話をしていたことから、イジメなどではないと悟ったのだろう。

 大人の配慮はありがたいけれど、僕にとっては余計な心配でしかなく、春人との虫取りは冬の近づく晩秋まで続けていた。


      ※


 その日は雨が強く、仕方なく春人の家で遊ぶことになった。

 もう標本はなくなってしまったけれど、図鑑をひらいてあれやこれやと話し込む時間もとても充実したものだったから、僕らの大切なルーティンだったのだ。

 雨の中、マンションの階段を駆け上がってチャイムを鳴らし、返事を待つ。

 いつもはすぐにおばさんが優しい笑顔で招き入れてくれるのだけど、その日は違った。

 待てど暮らせどドアの開く気配はなく、代わりに話し声が漏れ聞こえてくる。

 在宅か、と安堵し今しばらく待つことにして、だけど雰囲気に違和感があった。

 声の主はおばさんで間違いない。のだが、すぐにそうとはわからないほど、声音が荒れていたのだ。

 責めるような、悔やむような、憤るような、拒むような。

 ドア一枚隔てて響く怒号は、はっきりと単語がわかるほどではない。

 けれど、ある一言だけがはっきり聞こえてきて、今でもその血を吐くような声が耳に残っている。

「兄さんのせいで! 家を手放すことになったのよ!」

 意味は分からなかったけれど、優しいおばさんの金切り声は、それだけで僕の胸をひどく重くするのに充分だった。

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