普通
ごろん
〇
僕は親友の顔を見たことがなかった。
父の転勤で住むことになった、小さな町で出会った少年だ。
一クラスに一〇歳児三十人がひしめけば、何がなくとも騒がしくなる。そんなにぎやかな教室で、彼はぽっかりと浮き上がる存在だった。
口数が少なく。
休み時間にクラスの輪に入ることなく。
成績も並みで。
運動は少し苦手で。
昆虫採取が好きで、一人で図鑑を眺める時間が長くて。
普通であれば、大人数の中に埋没してしまうはずの目立たない子供。
けれど、彼ははっきりと異質で、だからこそ目立つ。
なぜなら彼、
※
黒色のハチマキのような細い布を、これまたハチマキのように、けれど目元を隠して巻いていた。
目元は当然に隠れ、鼻筋の半ばあたりまで覆う。
薄い生地なので視界は保たれているらしく、日常生活も読書も、なにかしら問題が起きているというところを見たことがない。
先生も、彼のことはほかの生徒たちと同じく接していた。さすがにプールや団体球技などの授業は見学であったが、特別扱いと言えるのはそれだけ。
だから僕にとって、当たり前な級友の一人だった。
転校から幾日が過ぎて、ほどなく僕は学校にも近所にもなじんでいた。
田舎特有の無遠慮な社交性に助けられながら友達の輪を広げ、にこにこと笑顔のたえないご近所さんたちに顔を覚えてもらって。
ずっと抱えていた新天地への不安は、すぐに吹き飛んでいった。
順調なスタートを切って、これからへの期待とそれに伴う万能感に満ちていた。だからクラスで孤立していた彼にも、自分から声をかけたのだと思う。
きっかけは、彼が持ち歩いていた昆虫図鑑だった。
僕も昆虫採取が好きで、とはいえ子供が気まぐれに嗜んだ程度ではあるけれど、なのですぐに会話は盛り上がっていった。
春人は昆虫について、好きなだけでなくとても詳しかった。
蝉が孵化する周期の不思議な規則性や、蛾のサナギを切断した実験の話、実際に採取する際の細やかなコツなど。
どうやら趣味人だった伯父からいろいろと教わっていたらしい。
その伯父は進学で家を出てそのまま就職。ときおり帰省はするものの、かつてのコレクションは捨ておかれるままになり、春人の自由にできていた。
「ヘラクレスオオカブトの標本もあるよ」
ある日、彼がそのコレクションを見にこないかと誘ってきた。
その日は他の友人らとゲームをする約束をしていたのだが、画像でしか見たことのない海外の巨大カブトムシへの興味は抗いがたい。
他の友人たちは昆虫よりゲームに夢中で、誘いはしたものの断れてしまった。
悩んだ末に、僕は彼と帰路をともにすることにした。
※
まず驚いたのが、家の大きさだった。
正面に門を、裏に山を構え、鯉の泳ぐ池を備えた庭があって、その先には歴史をにじませる蔵がそびえる。
元々が、一帯の田畑を持つ地主だったらしい。
けれど経費がかさむようになり、儲けが小さくなったために小作だった人たちへ譲渡。自分たちの手におさまる程度の土地だけ残したとか。
疑うべくもなく、かつての格が残る立派な家だった。
「いまジュースをもってくるわね」
やさしい笑顔のおばさんは、春人に友人がいないことを悩んでいたようで、僕を見ると目を丸くし、けれどすごく喜んでくれた。
コレクションの飾られる子供部屋で目を輝かせていた僕に、スナック菓子とオレンジジュースを振る舞って、幾分おきにおかわりを持ってきてくれるほどに。
そんななかで、僕は夢中になって標本を眺めまわしていた。視線が向くたびに春人が解説をくれるものだから、時間を忘れることに拍車がかかった。
思えば、二人きりというのはその時が初めてだったと思う。
「どうして目を隠しているの」
だから、そんな疑問が口をついたのかもしれない。
これまで、何かあるのだろう、友達たちも先生も何も言わないのだから問題ないのだろう、と気にも留めなかった疑問が。
言ってしまってから、しまった、と胸が冷えたことを今でも覚えている。
特段の事情があり、周囲も知る必要のないものと伝えてこなかったこと。
それは軽々しく聞いて良いことではないと、子供ながらに分別はついていたのだ。
けれど浮かれていた心が、口元の鍵を緩めてしまった。
少し間をおいて、それから彼はこちらに向き直ると、
「小さいときに伯父さんにだっこされたせいなんだって」
「え?」
「だから、みんなと違って普通の目じゃなくなったって」
あっけらかんと、わかるような、けれどわからない答えを返してきた。
※
罪悪感もあって、追及する言葉は飲み込まなければならなかった。
だから僕にとっては「普通ではない」というのが理由となった。病気なのかもしれない、と納得をさせながら。
それでもその日以来、僕は何度も彼の家に足を向けた。
彼の伯父さんが買い集めた標本は何度見ても飽きないし、新鮮味がなくなったなら二人で裏山へ実戦に向かうのも心躍るものだった。
そんな毎日を過ごし、もう転校生という肩書も外れた七月。
エアコンなんてない古い学校は、窓を開けはなつという、実に雅かつ原始的な涼の取り方を主とする。
もちろん汗が止まるわけがない。子供たちはノート用の下敷きをうちわ代わりにして、プラスティックのたわむ間抜けな声を合唱させるのが日常だった。
社会の授業だったと思う。
先生が板書を消すからと、皆があおぐ手を止めてノートに向き直ったその時、
「あ」
と、春人が声をあげたのだ。
何事かと振り返ると、黒い目隠しがずれてそれを両手でおさえる彼の姿があった。
汗で滑ったのか、汗を拭おうとして力が入ったのか。
まあけれど、曰くある目は隠れたままであるし、緩んだ結びを締めなおせばいい。
大した原因ではないだろうし、大した出来事でもない。
そんなことよりも板書を写さなければ。僕は急いで、机に向き直ったのだけれども。
「え」
今度は、僕が声をあげてしまった。
周りの友人たちが全員、例外なく、顔を上げていなかったのだ。
噛り付くように机のノートに向かい、春人の声は聞こえていないように。
そんなことがあるだろうか、と呆気に取られていると、
「春人くん、大丈夫。先生といこう」
担任が駆け寄り、手を引かれて教室を出て行ってしまった。
消されるあてが無くなった板書を、けれど誰もが写す手を止めず。
残された不思議な光景は、脳裏に焼き付いている。
みんな病気をうつされるのがそんなに怖いのかな。なんて、下敷きのたわみ音より間の抜けた、子供らしい結論を出したことも、はっきりと覚えているのだ。
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