人生の祝日
はいの あすか
第1話
「幸せになる方法? そんなの簡単だよ」
年末に皺寄った激務に疲れた休日、弱音を吐くぼくに妻の絵里香が言う。何百戸もある団地の、ぼくらの狭いベランダに、木製のテーブルとチェアを置いた手作りのテラス席で。キーンと冷たい空気に、頼りない日差しの暖かさを感じながら。
「今、既にあなたが持っているものに気付けばいいだけだよ。例えば、ほら、明里ちゃん」
テーブルを挟んだ絵里香の膝に、ちょこんと座って抱きかかえられている八ヵ月の赤ちゃん。寒くないように毛布を二重に巻かれているが、頬っぺたは赤く染まっている。そうだね、今は明里ちゃんが一番の宝物だ。
「明里ちゃんが、仮に病気や事故でいなくなっちゃった後の人生を考えてみて?」
ぱ、ぱ、とぼくに向かって口をパクパクさせている。可愛くて嬉しくて、ぼくも真似して、ぱ、ぱ、とやり返す。明里ちゃん、おしゃべりが上手になったよね。まだ、おしゃべりとは言えないかもしれないけれど、ちゃんと伝わってるよ。
もしも明里ちゃんがある日突然いなくなったら……、その想像だけでも涙が込み上げて鼻の奥がツーンとするよ。
「でしょ? で、そのつらい人生を過ごしたあなたが、何かの理由で一日だけ今日に戻って来られたの。今度はそう想像してみて。
そうしたら、今日という日をとても愛せて、一瞬一瞬を大事にしよう、と思うでしょう?」
うん、絵里香の言う通りだ。ぼくらの間に初めての子どもが生まれて八ヵ月、暮らしのリズムにも慣れてきて当たり前になっていたけれど、明里ちゃんの存在はもうぼくにとって掛け替えのないものになってるんだね。明里ちゃんが絵里香の膝上を一生懸命抜け出そうとして、グーンとぼくの方に腕を伸ばす。その小さく優しい手にそっと触れ、親指で撫でる。
「あはは、泣いてるの? ほら、それくらい今の暮らしが幸せだっていうことだよ。分かった?」
そういう絵里香の目も、ウルウルと揺れていた。珍しく鼻をすすってるのは、寒さのせい? それとも涙のせい?
よく分かったよ、これがぼくにとっての幸せだったんだ。ありがとう。
「でも……、私も明里ちゃんも、もうあなたとサヨナラしなくちゃいけないんだね」
サヨナラ? どうしてそんなことを言うの。まだまだ三人でやりたい事もいっぱいあるし、明里ちゃんの成長を一緒に見届けようって話してたのに。
それきり絵里香は黙ってしまった。気付けばベランダに並べた植木鉢の草木はしおれ果て、空はどんよりとして暗い。下の公園で遊ぶ子どもたちの声も消えた。テーブルの向かい側にいた絵里香と明里ちゃんは、イチジクの実みたいにグチャッ、とうつ伏せに倒れて動かなかった。
ああ、そうだった。
ぼくは筒状の機械装置の中で目を覚ました。やる瀬ない現実を受け入れながら、ゆっくりと体を装置の外に出して立ち上がった。
そこは、あるイベントホールの舞台上、客席には大勢の記者たちが固唾を飲んで、スポットライトに照らされるぼくを見守っていた。
「いかがでしたでしょうか。今ご覧頂いたのが、ぼくが人生で戻りたい一日の記憶です。最後に少しノイズが入ってしまいましたが……。この『メモリーダイバー』に入れば、あなたも過去の一日をもう一度体験できるのです」
スクリーンに映し出されていた映像とぼくの説明に記者たちはざわめき、一斉にパソコンを打ち始めた。『交通事故で妻子を失った技術者が人生をかけた 記憶疑似体験装置 誕生』、『一日だけ過去に戻れる革新的機器 メモリーダイバー商用化へ』。そんなような見出しで紹介されるのだろうか、と思いを馳せた。
会場内が落ち着くのを待ちながら、ぼくはここに至るまでの日々を思い返していた。
穏やかな暖気に包まれたある日、ぼくはいつも通り仕事へ、絵里香と明里ちゃんはお散歩に出かけた。そして、高齢者の運転する自動車に轢き殺されて、二人はこの世からいなくなった。逮捕された運転手は、その一年後に老衰のため刑務所内で他界した。
二人を失ってから、ぼくの人生は空虚なものになった。ベッドに自分だけで横になると、二人の体温と呼吸が無いことに気付いて泣いた。いつもの散歩道も、絵里香との会話が無ければただ苦痛だった。曲がり角で明里ちゃんが急に吐き戻して絵里香と大慌てした記憶がよぎって、それをもう誰とも共有できないと知って、また泣いた。お気に入りだったベランダのテラス席は、もう使われることはなかった。全てが絵里香と明里ちゃんとの思い出によって飾り付けされているせいで、それを外した無味乾燥した世界で生きる意味を見いだせなかった。
でも、ふと、ずっと近寄らなかったベランダに鳩が迷い込んできた。その時のぼくのように行く先を見失ったみたいだった。追い払おうとベランダに立った時、絵里香があの日言った言葉を思い出した。それを忘れないために、ぼくはこの装置を開発することを決めた。
装置に入って、戻りたい一日の記憶を頭の中で思い出す。すると、装置が脳内で想起されている情景や五感を読み取り拡張して、現実の体に投影し返す。その際、現実で機械装置に取り囲まれている感覚は遮断されている。こうして過去の記憶を疑似体験することができる。ぼくの持ちうる技術では一日分の記憶が限界だったけれど。
ぼくはあのベランダでの幸せな一日をどうしても忘れたくない。ぼくの人生にはもう絵里香と明里ちゃんはいないけれど、三人で一緒に過ごした記憶はちゃんと持っている。今、自分が持っているものを大事にする、それが絵里香に教えてもらった前を向く方法だから。ぼくはぼくができるやり方で、その記憶を大事に抱きしめて生きていく。
メモリーダイバーの実演を終え、やり切った気分でぼくは会場に問いかけた。自分に対して何度も何度も、嫌になるほど投げ続けた質問を。
「あなたなら、どの一日に戻りたいですか?」
人生の祝日 はいの あすか @asuka_h
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