第5話 君のための物語
第101回二代目フリーワンライ参加作
お題:
にゃーにゃー
待望の新作
褒められている気がしない
聖職者
夢でも見たんだよ
ジャンル:ナンチャッテ昭和文学ロマン(捏造)
本シリーズ作品4話目の『エスケープ!』の続編です。
現実の戦争で考えると、たぶん色々(年齢的な)計算が合わないのでその辺は薄目で……。
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『エンタァテイメントの帝王・
派手な煽りの横断幕を掲げられた本屋の最前面に、師と仰ぐ作家の本が山のように積まれている。それをチラリと横目で流し見た薫は、ひっそりと溜息を吐いて奥の専門書棚へと足を向けた。世の中は平和だ。薫も勿論、その平和を享受している。もう二度と、あの煉獄の底のような日々は帰って来ない。戦争は終わったのだ。書棚に溢れる本は雑多で、飛ぶように売れる師の最新作はこの世に憂いも嘆きも苦しみも存在しないかのようなおめでたさだ。
――それはまるで、あの戦争を『悪い夢でも見たんだよ』と慰めあやすような。
辿り着いてしまった思考に、薫は今度こそ深々と溜息を吐いた。
(もう僕だって四十路を越えたいい歳だっていうのに)
久賀の押しかけ書生として、彼の後ろをピヨピヨ鳴きながらついて回った頃とは違う。薫自身もいっぱしの作家として妻子を養う身分だ。青臭い駄々をこねても仕方がないのは、頭では分かっていた。だが。
薫の崇敬する大作家、久賀の本領はそこではないのだ。大ヒットしている久賀の作品を褒めそやすものを見るたびに、大声で叫びたくなるのを薫はぐっと堪えている。
(『あの娘とにゃーにゃー昼下がり』なんて……そんなッ! そんな本が先生の本質じゃないんだッッッ!!!)
「あっはっは、まあ確かにね。何をどう持ち上げられても、全く褒められている気がしない時もあるよ」
久方ぶりに会いに行った師は、からからとそう笑った。もう五十路は越えたという久賀は、相変わらず寝巻やら部屋着やらわからぬくしゃくしゃの着流しに兵児帯姿だ。だが、その頭にも無精ひげにも随分白い物が混じる。
「だったら……」
もう止めたらいいじゃないですか。喉まで出かかった言葉を、薫はどうにか呑み込んだ。
「だったら、また気晴らしに
昔、まるで駆け落ちのような逃避行で、久賀と薫は西班牙旅行に飛んで出た。全ては久賀の画策で、追いかけて来る編集たちを振り切り、薙刀を構えて迎え討つ久賀の御母堂を躱し、横濱から船に転がり込んだ。今思い返しても、夢のような日々だった。
「こらこら、やもめの私はともかく、君には細君がいるだろう。旅行ならば彼女を連れて行っておやり」
優しく諭され、そうですね、と曖昧に頷く。そういう話ではないのだ、と言い募るには、薫も歳を取り過ぎていた。
「……おまんまの為に書くのだよ。売れなければ意味が無いからね」
ぽつりと、庭先の梅を見上げて久賀が言った。
溢れる教養と、深い思索と、繊細な感性。薫が惚れ込んだ久賀はそんな天才作家だった。それがどうだ、にゃんにゃんだのまたこの人は低俗な大衆小説をざぶざぶと量産している。そんなことをしなくても、十分食べていけるだけの名声も貯えもあるはずだというのに。
「納得いかなさそうな顔だね、吉嶺先生」
不満がもろに顔に出ていたのだろう。梅から視線を戻した久賀がにやりと笑った。
「貴方は――先生は、まるで聖職者だ」
「そんな御大層なものではないさ。書くのは読んでもらうためだよ。誰かが読みたいと望むものを書いてこそだ。……作家なんてやくざな商売だ。まっとうに働いて世の中を廻している人々から金をせしめて生きている。ならばせめて、彼らに一時でもこの世の憂さを忘れて貰えてこそ本望だ。私はそう思うのだよ」
語る久賀は己の右手を見下ろしている。その中指は万年筆の青インクに染まっている。そして、手のひらの中央には、無残な銃痕があった。――『その時』に、何を見たのか久賀はひとつも漏らしたことがない。実は大きな農家の長男であった(久賀の元へは家出して押しかけた)薫は、その地獄を知らない。
『あれは、悪い夢だったのだよ』
そんな言葉を、誰も信じるはずはない。信じられるほど、傷は浅くない。だが、縋りたい時はある。
「うつし世は夢、夜の夢こそまこと……ですっけ。先生は、夜の夢を皆に供しておられる」
己を撓めてモノを書く難しさを、薫もよくよく知っている。久賀の本質も、この眼に散々焼き付けて来た。だからこそ、今久賀がやっていることの凄さも嫌というほど分かっているのだ、本当は。撓めて撓めて、媚びて媚びて書いたモノをそれでも最高に面白く出来る、そういう技術を持った人だ。小器用なんて適当な言葉で済むものではない。
「はっはっは、相変わらず薫君は大げさだ!」
師は笑う。男やもめのだらしない格好で、小さな借家の庭で。薫が世間に向けて、声を大にして演説したいこと全てを呑み込んだ飄々とした顔で。その傍らに、はんなりとくすんだ薄紅色の、美しい萩焼の湯呑が置かれている。久賀の本質の、たったひとつの存在の証明のように。
「僕は……この萩焼の湯呑のような存在でありたい」
突然ぽつりと零れ出た言葉の意味を、久賀が分かるわけもないだろう。書生であった頃からの、ただの薫の妄想だ。全て覆って隠しておどけるのが上手な久賀の、たったひとつの手掛かり。自分も、そうありたいと。
「――じゃあ、私が死んだらこの湯呑は君が貰ってくれるかな」
穏やかにそう言ってそろりと湯呑の縁を指先で撫ぜた久賀の声音は、薫がはっとするほど深かった。思わず久賀と視線を合わせる。縁起でもない話題に反駁しようと薫が口を開く前に、久賀が持ち上げた湯呑を薫の唇に宛てがった。
「君が私の本と、十数枚に渡るその感想を握ってこの家の玄関を叩いた日から、ずっと変わらない。君ひとりだけが読者であってくれれば良いのだよ。君ひとりだけが、私という作家を知っていてくれれば良い」
そっと目を伏せる久賀の輪郭はどこか儚く、薫は「ああ」と内心で顔を覆う。この人は、己の命を削って湯水のように大衆小説を書き続けている。きっとどこかで、「間違えて持って帰って来てしまった」命を。人々にあの地獄を忘れさせようと戦う久賀は、きっとまだあの地獄の中にいる。
「――ッ、だったら! 僕のために書いてくださいっ! 僕が先生を忘れないように!!」
結局、年甲斐もなく泣きだしてしまった薫の頭をぐしゃぐしゃと撫でて、久賀が照れくさそうに笑った。
「そうだな、何か考えておくとしよう」
――そうして、ただ一人の読者の為だけに書かれた大作家の回顧録は、のちの世に不朽の名作として読み継がれることとなった。
見知らぬ誰かの物語 歌峰由子 @althlod
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