だるまさんがころん、だ!

アガタ

夏、量子力学だるころ


「だるまさんが転んだ、始めるよー!」


 少年たちの声がする。

夏のさなか、神社の境内には蝉の鳴き声が響いていた。

 ゲームの主役となる「鬼」は、真っ白な服を着た少年、葵太あおただった。彼の足元には、ダルマ型ロボットが一体いて、ぴょんぴょん飛び跳ねている。ダルマ型量子コンピューター、エンだ。


「行くぞーみんな! だーるーまーさーんが――」


 葵太あおたが境内の大樹の方を向き、子供たちに背中を向ける。葵太は、ゆっくりと「転んだ!」と叫んだ。

 葵太が振り返る。みんなピタリと止まっている。

 葵太はじっと子供たちをねめつけると、もう一度大樹の方を向いた。


「だーるーまーさーんがー……」


 菜々緒ななおが宇宙の果てまでジャンプを繰り返しはじめた。

 耀司ようじはアメリカンコミックの忍者のように境内の端から端まで瞬間移動しつづけている。

 100人の鷹博たかひろが、ぎっしりと境内を埋め尽くした。

 背後に並ぶ子どもたちは、シュレディンガーの猫のように「存在する」と「存在しない」の曖昧な状態になって、好き勝手に動き続ける。


「転んだ!」


 背後の子どもたちが一斉に動きを止める。

 耀司のつま先が動く。観測可能な一部分が全体の状態を決定づけた。


「おい、耀司ようじ! お前、動いてるぞ!」

「いや、動いてない! 葵太、お前の観測は不完全だ!」


 耀司が抗議する。その瞬間、健太の足元のエンがピコピコと音を立て、立体映像に奇妙な波動関数のグラフを表示した。


「……確かに、耀司は動いた可能性が50%、動いていない可能性が50%だな。観測が曖昧だったかもしれん!」

「だから言っただろ!」


 耀司は憮然として胸を張った。


「でもな、耀司。このゲームのルールは、俺が観測した瞬間に波動関数が収束するんだ。つまり、動いたら動いたことになる!」

「ええーっ!」


 葵太がそう言うと、耀司は不満げな顔をしながらも、葵太の後ろに行って手を繋いだ。


「よし、もう一度いくぞ!」


 葵太が再び背を向けて叫んだ。


「だーるーまーさーんーが……転んだ!」


 背後の子どもたちは再び動きを止める。だが、今回は別の問題が起こった。


「ちょっと待って! 私、動いてないのに、なぜか前に進んでるよ!」


 そう叫んだのは、菜々緒だった。彼女のつま先には、確率波が揺らめいている。


 葵太は再び量子コンピュータを操作し、解析を始めた。


「これは……トンネル効果だ!」

「トンネル効果?」


 菜々緒が首をかしげる。


「そうだ! 菜々緒は位置エネルギーが高すぎて、本来は進めないはずの地点を、量子トンネル効果で一瞬だけ超えたんだな」


「そんなのってありなのかな」

「量子力学の世界ではありなんだ」


 菜々緒は呆然とした顔でその場に立ち尽くしたが、ややあって歩き出し、耀司の後ろについて彼と手を繋いだ。

 葵太が満足げに頷いて言った。


「このゲームでは、量子力学の法則がすべてだ。観測されたら負け、でも観測されるまでの間は何が起きてもおかしくない。つまり、みんなの動きは観測されるまでは曖昧なままなんだ!」


 その言葉に、子どもたちは顔を見合わせた。

 鷹博がすっとんきょうな声で葵太に質問する。


「じゃあ、観測されないように動けばいいんだな!」

「そうだよ!さあ残るは鷹博、お前一人だ!」


 葵太が大樹の方を向く。

 鷹博は慎重に、そして大胆に動き始めた。波のように揺れ、粒子のように一瞬で飛び跳ねる。鷹博は曖昧なまま、境内を伸び縮みした。

のみならず鷹博は、そのまま踵を返すと葵太達を置いて、神社を走り去り車道に出てトラックに轢かれ異世界に転生し、聖女を救い、最強主人公として魔王を倒し英雄になった。量子のもつれに導かれ、英雄になった鷹博は宇宙船に乗り、銀河を駆け巡り、窮地にある惑星を救って、その星の王になった。王になった鷹博は惑星の力で異世界に転移し、そこでスローライフをおくった後老いて死に、善政を施した大地主として銅像が建った。そして鷹博は現代に蘇り、カードバトルに参加して大会で優勝し、また走って神社に戻ってきた。

曖昧な可能性の中で鷹博は蠢き続ける。

 動きが曖昧である限り、全体の状態も曖昧なままだ。


「だーるーまーさーんーが……転んだ!」


 葵太が振り返る。

 鷹博の波動関数が収束し、ピタリと止まる。


 神社の境内に静寂が訪れた。空気が張り詰め、菜々緒と耀司は息を呑んで見守っている。


「さあ、鷹博。お前を観測してやる!」


 葵太がゲーム最後の「だるまさんが転んだ」を始めるために、鷹博を目視しようと視線を向けた。

 葵太の目には、鷹博のつま先が曖昧な輪郭を持ち、存在しているのかいないのか、まるで量子力学の波動関数そのもののように映っていた。

 葵太が目を擦った。だが鷹博の姿は、まるで蜃気楼のように揺らめいている。観測しようとすればするほど、その輪郭は曖昧になり、どこにも定まらない。


「……おかしい。観測したはずなのに、波動関数が収束しない!」


 葵太は顔に焦りの色を浮かべ、足元のエンに目をやった。エンがピコピコと音を立て、解析結果を表示する。


『観測の不完全性が発生。波動関数未収束』

「未収束……?」


 葵太は呆然とした。


「葵太、お前はまだわかってないんだよ」


 鷹博の声が、どこからともなく響いた。その声もまた曖昧で、境内全体に広がっているようだった。


「俺はここにいるかもしれない。でも、それはただの可能性だ。観測されない限り、俺はどこにでもいるし、どこにもいない」


 葵太は言い返そうとしたが、言葉を詰まらせた。鷹博が続ける。


「観測ってのはさ、結局は不完全なんだよ。俺たちは世界を完全に理解しているようで、実は何もわかっちゃいない。つま先一つ先のことですら、俺たちの理解を超えたところで存在しているんだ」


 葵太はエンを操作し、鷹博の波動関数を捕捉しようと試みた。しかし、エンが示すのは無数の可能性の重なり合いだけだった。


「葵太、俺はもう一つ気づいたことがある」


 鷹博の声がさらに近づく。


「俺たちは観測されることで、初めて一つの形になる。でも、それは同時に、他の可能性を失うってことでもあるんだ。お前が俺を観測した瞬間、俺は一つの結果に固定される。俺は観測されないままでいたいんだよ。つまり


 葵太は震える声で叫んだ。


「それじゃあ、俺たちはどうやって決着をつけるんだ!」


  鷹博はゆっくりと一歩を踏み出した。

 つま先が地面を押し、砂がかすかに動く。次の瞬間にその姿が揺らぎ、波のように広がる。

 葵太はその瞬間を見逃さなかった。


「……つま先」


 葵太は小さくつぶやいた。


「エン、鷹博のつま先の動きに焦点を合わせろ!」


 エンがピコピコと音を立て、鷹博のつま先を中心に波動関数のグラフを描き出す。つま先の動きが、鷹博の全体の状態を収束させる鍵であることは明らかだ。

葵太は、鷹博の「動き」を捉える必要があった。人体が踏み出す時、最初に動かすのはつま先だ。つま先の微細な動きが観測の焦点となりえる。耀司の時のように、局所的な観測が全体の波動関数に影響を与えるのだ。


「観測の焦点をつま先に絞れば……お前を捕まえられる!」


 葵太は叫び、再び大樹の方を向いてもう一度振り返った。だが、その瞬間、鷹博のつま先は再び波のように揺らぎ、観測から逃れる。


「無駄だよ、葵太」


 鷹博の声が響く。


「つま先の動きが観測の鍵だと気づいたのはいい。でも、そのつま先すら曖昧なままにするのが、俺の自由だ」


 葵太の口調に焦りが滲む。彼はまた樹の方を向くと、再びエンに命令した。


「観測した瞬間、つま先の動きに確率の収束を強制的にかけろ!」


だが、鷹博のつま先はなおも曖昧なままだ。


「観測者がすべてを理解できるわけじゃないんだよ、葵太」


 鷹博は微笑む。つま先が動いて、一歩鷹博が進む。その瞬間、波動関数が一気に収束し、鷹博の姿が明確になる。

エンが波動関数を収束させようと試みる。


「……捕まえた!だるまさんが……ころん、だ!」


 そこには、確かに鷹博がいた。葵太が歓喜の声を上げる。しかし、鷹博はその場で静かに言った。


「俺が自ら収束したんだよ。観測される自由を選んだだけさ」


 葵太は言葉を失い、ただその場に立ち尽くす。

 その瞬間、鷹博の存在は消え去り、宇宙に拡散した。


「ざまぁ」


鷹博が囁く。葵太がやけくそになって、もう一度樹の方を向いた。


「クソッだるまさんが……!」

「俺の勝ちだ、葵太」


 境内に、鷹博の声がわあんと響く。

 鷹博の手が、葵太の肩に触れる。葵太は勢いよく振り返った。

そこには、誰もいない、がらんとした境内が、ただ広がっていた。

 葵太は悔しそうに肩を落とした。握っていた手が離れて、菜々緒と耀司が解放される。

 子供たちは神社の鳥居に向かって走り出した。


「じゃ、ガリガリくん、葵太のおごりな!」

「ちえっ、しょうがないなあ!」

「俺もガリガリくん食べる!」


 宇宙に拡散していた鷹博が、再び収束しパッと現れた。


「お帰り、鷹博!」


みんなが口々にいいながら、鷹博を一瞥し、手を繋いで走っていく。


「待ってよー!俺も行く!」


 葵太も走り出す。エンが、その後ろに続いた。

 子供たちのつま先から、量子もつれの波がたちのぼり、キラキラと輝いて散って行った。

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