綺麗なつま先

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綺麗なつま先

「――っぱ、乃恵美のえみちゃんの爪先、綺麗だよね」


 勤め先のバーのオーナーが感嘆ともとれる息をつき、言った。

 言われ慣れているといったら言い過ぎだが、それでも、ありがとうございますと無感情に言えるくらいには慣れていた。


「――ッスかねえ? 昔、似たようなこと言われましたよ」


 乃恵美は自ら茶化しながら答える。


「なんてか、ちょっと怖い話なんスけど」


 客に勧められたら断らないようにしていた。

 だから、だろう。

 乃恵美は手元でタンカレーのジン・ライムを拵えながら昔話を始めた。


「小学生の頃も、同窓生に同じこと言われたんスよ」


 東京の、公立の、偏差値的に高くもなく低くもない学校だった。

 そう、思っていた。

 後になって、そこそこ頭がいい学校だと知った。

 

「同級生に、ものっすごい美人がいたんスよ」


 ただしグラマラスな、肉感的な感じではなく、痩せぎすの上品な雰囲気だった。

 乃恵美を含めた女子連中は、やっかみと嫉妬の半々を抱きながら接していた。


「バレエをやってたらしくて」


 だから細かったのだろう。

 だから上品に見えたのだろう。

 まさに一挙手一投足が洗練されているように見えた。

 乃恵美の家はごく普通か人によっては下に見てきそうな、いわゆる普通の家だ。

 父親は夜遅くまで働き、母親はパートタイムで働く、よくある家だった。

 

「私、その子にちょっとムカついてて。嫉妬スよ」


 当時、体育の授業は選択科目になっていて、ダンスと武道から選ぶよう言われた。

 乃恵美はダンスを選んだ。

 父親が剣道の面は吐くほど臭いといい、母親が柔道着は肌が赤くなるくらい痛いと言ったからだった。


「その子は、当然というか、ダンスを選んだんスよ」


 いったい、いつからバレエを演ってきたのだろうか。

 授業の発表会で披露していいような素人芸ではなかった。

 練習の合間、投票で選んだ流行りの音楽に合わせてそれらしい動きを作ろうとしている乃恵美たちに反し、彼女はどこか聞いたことがあるクラシックに乗せて軽やかに舞っていた。


「――正直、ムカついて」

 

 乃恵美は苦笑しながら自分の酒を作った。ジンを多めに氷を砕いたジンライム。ぐいと飲みこみ、眉を寄せる。


「馬鹿にしてやろうと思って、その子の前でバレエの真似をしたんスよ」


 練習の時点で彼女は抜きんでていた。

 表現力――というのが正しいのかは分からない。けれど、誰の目から見ても違いが明らかだった。指先の柔らかさが違った。真似をしようと鏡を見ながら練習しても決して同じ動きにならなかった。


「なんで、あれスよ。番外戦術。その子の前で、つま先立ちして回ったんス。バカにするっていうか、からかうつもりで。ピルエットとかいうらしいんスけど」


 顔もあざけるようにつくって、わざわざ彼女の前までつま先立ちで進んで、クルクルとそれっぽく回って、両手を広げながらお辞儀した。


「――したら、その子が拍手したんス」


 乃恵美は一般人には辛すぎるジン・ライムを口に運んだ。ぐっと一口、飲み込み、熱をもった吐息をつきながら続ける。


「他には誰もしなくて。その子だけ拍手してて。だからめっちゃ響くんスよ。――んで、その子、何つったと思います?」


――つま先、すごく綺麗だね。


 乃恵美は残りを飲み干して叫ぶように言った。


「つま先ッスよ? つま先! つま先が綺麗ってどういう!? っていう!」


 当時も分からなかった。ただ、からかうつもりが、心臓がバクバクと鳴り始めて何も言えなくなったのは覚えている。それからしばらく、彼女の記憶は残っていない。

 

 意識的に忘れた。

 思い出すたびに何故か顔が熱くなり、自分のつま先に意識が向かってしまう。それが嫌で考えないようにしていた。


 それが、意識せざるを得なくなった。

 

 夏に入る直前だったと思う。

 修学旅行のときだった。

 乃恵美は、当時の学年主任だった体育教師に呼び出された。その教師がバレーボール部の顧問で、 乃恵美は当時バレーボール部の部長ということになっていた。


「あんたのクラスで一人、入りたくないって子がいんのよ」


 先生は面倒くさそうに言った。

 公立校だったのもあるのだろう。乃恵美の中学では、全員が全員、旅館が用意した風呂に入ることになっていた。どうしても室内の風呂が使いたいなら診断書を出せと指示が出ていた。


 教師は乃恵美が使いやすかったから声をかけただけなのだろう。

 乃恵美は仕方なく引き受けた。

 相手が、つま先を褒めてくれた子とは思っていなかった。


「……あの、いいじゃん。我慢しよ?」


 乃恵美は襖越しに呼びかけた。相手はもちろん、集団入浴を拒否している子だ。

 同時に、つま先を褒めてくれた子でもあった。

 意味は分からなかったけれど、なぜか恥ずかしく、うれしかったのも覚えていた。


「私も一緒に入るからさ。もう、行こうよ」


 彼女のせいで、あるいは説得できない乃恵美のせいで、時間はかなり押していた。


「ヤダ」


 簡潔な、泣きそうな声に、乃恵美の方こそ泣きたくなった。


「なんで? なんで嫌なの?」


 何度目か分からない質問に、彼女はたまたま答えてくれた。


「私。乃恵美さんみたいに、つま先、綺麗じゃないから」


 はっ? と言いたくなったのをよく覚えている。

 乃恵美は答えた。


「んなの、どうでもいいよ。誰も見てない」


 もう面倒くさくなっていた。


「どうしても嫌なら、私と二人だけで入るとか、そういうのできないか聞くけど?」


 嫌だった。けれど、顧問の教師に詰められるよりはマシだと思っていた。

 しかし。

 彼女の答えは、乃恵美の予想を越えていた。


「『私に足を洗わせてくれたら入る』って言うんスよ」


 乃恵美は往年の記憶に苦笑する。

 当時はもう、それで終わるならいいと思っていた。

 乃恵美は快諾し、その旨を教師に説明し、彼女を連れて浴場に行った。

 地獄の始まりだとは思ってもいなかった。


「要は、あれスよ。クラスの女子の前で、足を洗わせてんです、私。すっごい画力えぢからなんス。マジで。乃恵美ちゃん、ヤベー、ってなって」


 話しているだけでも笑えてきた。

 誰もが嫉妬を抱く女子生徒を跪かせ、足を洗わせているのだ。石鹸を手で泡立たせて念入りに撫でさせている――その光景が、どれほどの意味を持っているのか、乃恵美は理解していなかった。


「立場逆転っていうか、旅行明けには私が悪者っスよ。ヤベー奴って扱い。言い訳とかしても無意味スよ? もう完全にイジメの首謀者で悪女みたいな」


 運が悪かった。

 同時に運が良かった。

 修学旅行が夏休み前だったから、受験のために勉強しなくてはいけなかった。

 特に乃恵美は、自分をやべー奴だと思う連中から離れるために、必死になって勉強することができた。


「おかげで、良い高校に行って、それなりの大学に行かせてもらって、これスよ」


 乃恵美は両手を広げて、ヘヘヘ、と笑った。


「途中までは良かったんスよ。でも、途中で、参ったッスよ」


 成人式に合わせた同窓会の連絡だった。

 高校ならまだしも、中学の同窓会に参加するつもりはなかった。

 けれど、彼女の参加を事前に知らされていたから、行く気になった。


「あの子、なんで風呂に入りたがらなかったのか分かります? ――自分のつま先が大っ嫌いだったんスよ」


 バレエではつま先を酷使する。トゥーシューズを履き、爪とも指先ともつかない一点で体重を支え、飛び跳ね、その衝撃のすべてを一点で受け止める。


 当然、指先は固く、大きく、歪になっていく。


 彼女は、バレエなどやりたくなかった。

 痛いし、興味もないし、才能すらない。

 分かっているのに、やめさせてもらえなかったのだ。


「あの修学旅行の夜に見たんスよ。めちゃゴツいんス。つま先。化け物っていうのはアレっスけど、でももう、それっぽくした岩の塊って感じで」


 それが自分で望んだ形だったのなら、拒否しなかっただろう。

 嫌がったという時点で、真相は見えていた。

 久方ぶりに会った乃恵美に、彼女はひたすら頭を下げた。


「私のせいでごめんなさいって言うんスよ」


 理由は単純。立ち位置が変わったから。

 乃恵美はいじめっ子になり、彼女はいじめられっ子になった。


「本当は違くて――や。イジメられてたわけでもないスけど、彼女マジで私のつま先が好きだったみたいなんスよ。脚フェチ? みたいな」


 あの夜、心の底から嬉しそうに、楽しそうに、両手に一杯の泡を溜めて、彼女は乃恵美のつま先を洗っていた。


「そのせいで最後、ほんの二か月くらいなんスけど、私もやっぱ、いじめっ子みたいな扱いになっちゃったから、そのことを謝られたんスよ」


 どうでもいいと、まず思った。

 次に感謝していると。


「あの経験っつーか、なかったら、本気で勉強とかしなかったと思うんスよ」


 いじめっ子あつかいされるなら、そういう奴らが届かない世界に行くしかない。

 乃恵美は人生で初めて猛勉強を敢行し、良いと言われる高校に行き、潰れた。


「でも、その三年間でみんな忘れてくれてたんス。だから、大学もふっつーのトコ行って、ふっつーにサークルで遊んで、それなりに勉強してたトコで」


 それを、彼女に謝られた。

 私のせいで人生を狂わせた、と。


「それはそれでカチンとくるじゃないスか。お前のせいじゃねえよ、みたいな」


 半分は当たっているが、今さら振り返って怒るほど小さくもない。

 しかし。

 彼女は目じりに涙を溜めがら言った。


「お詫びをさせてほしい」


 何をする気なのか興味がわいて、気づけば乃恵美は受け入れていた。

 一次会が終わって、二次会のカラオケに向かう前だった。

 近くの公園まで連れ出され、


「はい、コレ」


 と、金槌かなづちを手渡された。

 乃恵美はわけが分からず、困惑した。もちろん。

 けれど、彼女は当然とばかりに言った。


「お詫びに、私のつま先、叩き潰していいよ」


 乃恵美は答えた。


「や、やだよ! なに言ってんの!? はあ!? つぶすって、これで!?」


 渡された金槌を揺さぶると、彼女は晴れやかな笑顔で言った。


「そう。それで、私のつま先、叩き潰して」

「はあ!? え!? マジで言ってんの!?」

「うん。私もう嫌なんだよね」


 サラリと発した一言が信じられないほどの重さを持っていた。

 彼女は言った。


「私さ、もう二十だよ。でも、まだお母さんとお父さんと暮らしてる。大学生なら、そういうのいるっていうけどさ。違うよ? 私、高校に行かせてもらえてないから」


 彼女は、中卒でひたすらバレエに時間を費やされていた。

 バレエダンサーの寿命は長くて四十だ。

 成人式を迎えてなお所属をもたないダンサーに未来などない。

 彼女はそう考えていた。


「私、子どもの頃からずっとバレエやらされてきてさ。ほら、見てよ」


 彼女は冷たい冬の大気につま先を晒した。

 ゴツゴツと筋張り無数の傷跡が残る化け物のようなつま先が露わになった。


「何にもならない足だよ、これ。ったねえ足。見るのも嫌」


 彼女は言った。


「だからさ、あの頃の、迷惑をかけたお詫びにさ」


 彼女は、乃恵美の手にある金槌を指差しながら言った。


「もう積年の恨みを込めて、叩き潰しちゃってよ。このつま先」


 最後まで語り終え、乃恵美は感情を読み取れない曖昧な息をいた。

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