顔のない星
坂水
国際女性デーに寄せて
※性暴力・性被害を連想させる記述があります。
あなたはマンションの三階から星々を見下ろしていた。
それまで生きてきた六年間、星は空にあるものだと思っていたけれど、地上にもあるのだと知った。
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
眩しく、騒がしく、何を言っているのかわからず、顔も見えない。
けれどたくさんの星々が、自分を見にやってきて、自分について話しているのは理解できた。星の顔は見えないが、星に自分の顔は見えている。
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
下には、星々に紛れて白黒の車もいる。あれには乗りたくなかった(あなたは乗り物に酔いやすく、十歳の頃、社会見学に行くバスの中で嘔吐して先生に怒られた)。
けれど、地上の星々や白黒の車を呼び寄せたのは、他でもないあなただった。それが何より恐ろしかった。
その日、あなたは友達の家から帰る途中だった。午後五時の鐘が鳴り、一人、アスファルトの道を往く。ふと思い立って、近くのサンダル工場に足を向けた。〝こうじょう〟ではなく〝こうば〟と読むのが相応しい小さなそれ。
いつもシャッターが開け放ってあり、おばさんたちが機械をあやつり、次々とサンダルを縫い上げる。あなたはたまに学校帰りに寄って、しゃがみ込み、魔法のような作業を眺めるのが好きだった。けれど、今日はもうシャッターが下ろされていて、あなたは諦めて帰路についた。
この十分程の寄り道がその後起きたことに直接関係したかどうかはわからない。日暮れまでには時間があった。星はまだ出ていない。
あなたは自宅のあるマンションに帰り着き、外階段を昇ろうとしたところで、呼び止められた。
赤いエレベータの前で、手招きしている男がいる。あなたは呼ばれたので駆け寄った。男はあなたをエレベータに招き入れた。
あなたはエレベータを滅多に使わなかった。待ち時間がじれったかったし、子どもが使ってはならないと思い込んでいたし、乗り物酔いしやすいあなたはエレベータの独特な臭気も嫌いだった。
扉が閉められた。男は何度もエレベータを上下往復させた。あなたは「3階の○○の家の子どもです、家に帰してください」と繰り返した。
「最後に××して」
男はそう言って、あなたの頭を押さえた。
ようやく解放されて、あなたは乱れた服を抑え、泣きながら外階段を降りた。いや昇ったのかもしれない。
途中、別の階に住む大人とすれ違ったが、怪訝そうな顔をされただけで、声は掛けられなかった。
気付けば、辺りは群青色に沈み始めており、空から一番星があなたを見下ろしていた。
あなたの記憶は一旦途切れ、自宅に背広姿の男がやってきてあなたが質問されている場面に切り替わる。他にいたのは母と弟。父はいなかった。
背広姿の男が玄関から出て行く時、ドアの隙間から外の光景が覗いた。地上の星々に息を呑んだ。
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
それから星は昼も夜もずっと瞬いていた。
とある休日、ベランダからシャボン玉を吹いている時、父が母に話しかけているのをあなたは後背のまま聴く。あいつは学生だったのだろう──〝あいつ〟が何を指すのかあなたは正しく理解する。けれど星に見られているのを意識して、あなたは気付かないふりをする。
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
母と近所のスーパーへ行くと、大変だったわねえと母に声が掛けられる。あなたはお菓子を選んでいるふりをする。
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
星はいつまでもついてきた。走っても、物陰に隠れても、急に向きを変えても、引き離せない。そのくせ顔が見えない。
一年後、あなたは父親の仕事の都合により引っ越す。星が追ってこないか、安堵よりも不安が大きかった。
引っ越し先は、マンションではなく戸建てだった。
あなたはまだ幼く、柔軟で、遊びに夢中になれた。同時に用心深く、臆病で、狡猾だった。常に薄目になって、星を直視しないようにした。見えなければ、声はある程度無視できる。その試みはまあまあうまくいった。
中学生になったあなたは、風呂から上がると、脱衣所の窓から手が覗いているのに気付く。母が洗濯物を取り込んでいるのだと思った。けれどその手にはカメラが握られていた。その奥にあるはずの顔は見えない。
あなたはしばらく身動きがとれない。呪縛が解け、ようよう居間にいた母に告げる。母は犬を連れて外を捜索する。周囲に人影は見当たらず、戻ってくると、あなたも注意しなさいと注意される。
数日後、あなたは同級生から声を掛けられる──写真撮られたんだって?
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
あなたはとっさに否定する。事の経緯はすぐに察せられた。母が、近所に住む同級生の親に親切心あるいは正義感から知らせたのだ。あなたの気持ちは捨て置いて。
幸い、同級生はそれ以上訊いてこなかった。けれどこの場を離れたら誰に話すかわからない。
星の気配を感じた。後頭部の上、足元、正面、背後。お願い光らないでと、薄目のまま、あなたは祈る。
あなたは大人になっていく。高校生、大学生、そして社会人になる。
営業職だったあなたは直属の上司に、寝て仕事を取ってこいと叱責された。もちろん昼寝をして英気を養えという意味ではない。顧客にランチに呼ばれてホテルに行こうと車に乗せられそうになった。役員に触られそうになって声を上げた時、同性の上司に皆がいるところで騒がないようにと指導を受けた。
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
けれどあなたは星をやり過ごす術を覚えていた。よくある話、流せばいい。
星のやり過ごしは悪い遊びに役立った。あなたは人の男と付き合い、十分に楽しむ。結果、あなたは職を辞して、人の男は職場に残り、あとはわからない。
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
星は笑っていたかもしれないが、無視した。
あなたは年を重ね、両親は老い、一人暮らしに終止符を打って実家に戻った。
母は闘病の末に亡くなり、父と二人暮らしになる。ふいに、あのエレベータの事件の顛末を聞きそびれたと思う。
あなたは仕事と家事に忙しい。父はあなたの多忙に苛立っていた。そして、あなたに注意されること──ガスやエアコンの付けっ放し、ゴミの分別など──を厭った。耳が遠くなっており、大きな声で話せば、けれど怒鳴るなと逆に怒る。しかし、時折顔を出す弟に対してそれはない。気付いて愕然とする──父が母にしていたことのスライドだと。
その頃には星は光っていなかった。お喋りも聞こえない。星が光らなくなったのか、いなくなったのか、はたまた自身の視力の低下なのかわからない。
あなたは職場までの道程で、子どもたちとよくすれ違う。上は高校生から下は小学生。友だちとじゃれ合い、道路にはみ出してしまう子もいる。あなたは大きく重い通勤鞄を肩から下げており、子どもたちの身軽さ、快活さを羨望の眼差しで見る。
ふと思う。いや、毎日思う。彼らは顔のない星に怯えたあなたと同い年ぐらい。彼らの毎日が安穏としているものであれと願い、同時に今後なんの憂いもないはずがないとも確信しており、もしもあの屈託さがずっと続くなら人生は不公平だと思う。まあ、知っていたけれど。
その日は早朝出勤のため、いつもより少し早い帰宅だった。春の夕暮れ、十八時半。生ぬるくふわふわとした空気が漂う。雲が多く、星が出ているのか、いないのか、曖昧だった。
あなたは人気の少ない住宅街を歩いていた。最寄り駅からはいつも徒歩だった。と、曲がり角の先で、なにやら影が動いているのに気付く。
塾帰りと思しき小学生、女の子──いや男の子?──が、大人にか細い腕を掴まれ引きずられている。その先にはドアを開けた自家用車が路駐されていた。
あなたは目を見開く。大人の顔が見えた。顔がある。ならばやれる。鞄から、ずっと前から用意していた護身用の棍棒を引き抜く。
星よ、笑いたくば笑えばいい。伴侶も、子もない。失うものは何もない。何十年も前から準備はできていた。棍棒を振り上げる。
──ちっかちっか、ちっかちっか、ちっかちっか
けれど、今、笑っているのはあなただった。
顔のない星 坂水 @sakamizu
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