【身分差恋愛短編小説】世界の端でささやく愛~星の降る路地裏できみと~(ぴったり10,000字!)
藍埜佑(あいのたすく)
【身分差恋愛短編小説】世界の端でささやく愛~星の降る路地裏できみと~(ぴったり10,000字!)
●第1章 出会いと衝突
古びた雑居ビルの非常階段に腰かけた楓は、夜空を見上げていた。都会の光で星はほとんど見えない。それでも、わずかに残る星明かりは、彼女の心を癒してくれる数少ない存在だった。
「おい、楓。そろそろ行くぞ」
階下から声が聞こえる。仲間の一人、通称シマと呼ばれる少年だ。
「ああ、今行く」
楓は立ち上がると、ポケットの中の小さなペンダントを握りしめた。母の形見である。十四年前、この世界に産み落とされた時、母は死んでいった。父は知らない。
霧島楓、十四歳。スラムの巷で「紅い狐」と呼ばれる窃盗団のリーダーだ。
非常階段を降りながら、楓は今夜のターゲットを思い出す。朝倉グループ本社ビル、二十三階。会長室にある金庫を目指す。普段なら手を出さないような場所だが、依頼人からの報酬が破格だった。
「準備はできてるな?」
楓が地上に降り立つと、五人の仲間たちが待っていた。全員が十代。この街の底辺で生きる術を、互いに教え合いながら生きてきた。
「ああ。警備システムの情報も、内部の見取り図も完璧だ」
シマが自信ありげに答える。彼はハッキングの天才で、楓の右腕的存在だ。
夜の街を歩きながら、楓は空を見上げた。今夜も星はほとんど見えない。
*
「柊(しゅう)様、お客様がお待ちです」
執事の声に、朝倉柊は本を閉じた。
「わかった。今行く」
柊は十七歳。朝倉グループの御曹司として、幼い頃から期待を一身に背負って育ってきた。
応接室に入ると、父の古くからの取引先である中村氏が待っていた。
「やあ、柊君。すっかり大人になったねえ」
中村の笑顔には、どこか作り物めいたものを感じる。柊はそれを無視して、淡々と挨拶を返した。
「ご無沙汰しております。父に代わり、申し訳ありません」
「いやいや。実は今日は君に会いに来たんだ」
中村は懐から一枚の写真を取り出した。
「私の孫娘だよ。もうすぐ十六になる。柊君と良い感じになってくれればと思ってね」
柊は内心で溜め息をつく。またか。最近、このような話が増えていた。
「申し訳ありません。まだ学業に専念したいと考えております」
「そうかい。残念だね」
中村の表情が僅かに歪む。柊はそれを見逃さなかった。
応接室を出た後、柊は屋上に向かった。ここは彼の密かな逃げ場所だった。
星が見える。都会の真ん中でも、高いところに来れば、わずかながら星が見えた。柊は星を見るのが好きだった。星は、この世界の不条理から遠く離れた存在のように思えた。
ふと、警報音が鳴り響いた。
「侵入者! 二十三階です!」
警備員の声が耳に入る。柊は思わず立ち上がった。二十三階といえば、父の会長室がある階だ。
階段を駆け下りながら、柊は考えた。なぜ今夜? 父は海外出張中で不在だ。それを知っての侵入なのか?
二十三階に到着すると、すでに警備員が数人集まっていた。
「柊様、危険です。下がっていてください」
警備主任の制止を振り切り、柊は廊下を進んだ。そして、会長室の前で、彼は彼女と出会った。
赤い長髪を風になびかせ、月明かりを背に立つ少女。その姿は、まるで狐の化身のようだった。
「お前は……」
柊の声に、少女は振り返った。その瞬間、柊は息を呑んだ。
透き通るような碧眼。しかし、その中には底知れない闇が潜んでいた。
「邪魔しないでくれる?」
少女の声は、意外なほど澄んでいた。
「なぜ父の部屋を?」
「さあね。私も、ただの使いっ走りなんでね」
少女は窓に向かって歩き出す。その手には、小さな金庫が抱えられていた。
「待て!」
柊が叫んだ時、少女は既に窓の外に消えていた。慌てて窓際に駆け寄る柊。しかし、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、一つだけ、床に何かが落ちていた。
銀色のペンダント。中には、小さな星の写真が収められていた。
◆
「ちょっと、それ返してよ」
声が背後から聞こえた時、柊は驚いて振り向いた。
廃墟となった天文台。柊がペンダントを手に訪れた場所で、彼は再び彼女と出会った。
「なぜここにいると?」
「ここに来ると思ったから」
少女――楓は肩をすくめた。
「あなたみたいな人は、きっとここに来る。そう思った」
「どういう意味だ?」
「目が似てるから。星を見上げる目が」
楓の言葉に、柊は言葉を失った。
確かに、この天文台は柊の秘密の場所だった。都会の喧騒から逃れ、星を見るために時々訪れる場所。廃墟となって久しいが、屋上からは綺麗な星空が見える。
「それね、母の形見なの」
楓は柊に近づき、手を差し出した。
「だから、返してほしい」
柊はペンダントを見つめた。確かに、これは大切な物なのだろう。その割れたガラスの向こうの星の写真は、長年大切にされてきた跡が窺える。
「一つ条件がある」
柊は言った。
「なんで条件なんかつけるの? あなたの物じゃないでしょ」
「確かにそうだ。でも、君は私たちの会社から物を盗んでいった」
楓は黙り込んだ。
「話を聞かせてほしい。なぜ、そんなことをする必要があるのか」
「……話したところで、分かるわけないじゃない」
楓の声が冷たくなる。
「あなたみたいな人に、私たちの世界なんて……」
「試してみればいい」
柊は真剣な眼差しで楓を見つめた。
「もし私が理解できなかったら、このペンダントは君のものだ。でも、もし少しでも分かり合えたら……」
「分かり合える? 冗談じゃない」
楓は苦笑した。
「私たちは、生まれた時から違う世界の住人なの。分かり合えるわけない」
「それは、試してみなければ分からない」
柊の声は静かだが、芯が通っていた。
夜風が二人の間を吹き抜けていく。
楓は長い間黙っていたが、やがてため息をついた。
「いいわ。付き合ってあげる」
そう言って彼女は、崩れかけた手すりに腰掛けた。
「聞きたいことって、なに?」
柊も楓の隣に座る。二人の間には、ちょうど良い距離があった。
「全部だ。君のこと、仲間のこと、そしてなぜ、こんな危険な真似をしているのか」
楓は夜空を見上げた。
「長い話になるわよ」
「時間はたっぷりある」
柊も空を見上げる。
その夜、二人は多くを語り合った。
まるで、運命に導かれるように。
崩れかけた天文台の屋上で、二人は静かに向かい合っていた。
月明かりだけが、二人を照らしている。
「じゃあ、聞かせて」
柊の声は、静かだった。
「私が覚えている一番古い記憶は、母の手の温もり。でも、それももう曖昧で……」
楓は深いため息をついた。
「母は私を産んですぐ死んだの。誰も私を引き取ってくれなくて、結局、スラムで育った」
柊は黙って聞いていた。
「最初は、近所のおばさんたちが面倒を見てくれた。でも、みんな貧しくて。私も、できるだけ早く自立しないといけなかった」
楓は自分の手のひらを見つめる。
「初めて盗みをしたのは、六歳の時。パンひとつ。あの時の恐怖と、罪悪感と、でも……生きるためには仕方なかったっていう諦めを、今でも覚えてる」
風が吹き抜けていく。楓の長い髪が、夜空に舞う。
「でも、私は幸運だった。シマたちと出会えたから」
楓の表情が、少し和らぐ。
「みんな、私と同じ。家族もなく、行き場もない子供たち。でも、賢くて、優しくて……」
楓は柊をまっすぐ見つめた。
「あなたはどう? そんな私たちのこと、理解できる?」
柊は少し考えてから、口を開いた。
「正直に言うよ。全てを理解できるとは思わない」
楓は俯こうとしたが、柊は続けた。
「でも、それは君も同じはずだ。僕の世界のことを」
「どういうこと?」
「毎日、誰かの期待を背負って生きること。自分の人生なのに、自分で決められないこと。豊かなはずなのに、心が貧しいこと」
今度は柊が遠くを見つめる。
「父は厳格な人でね。母は早くに出て行った。使用人たちは優しかったけど、それも仕事だったのかもしれない」
柊は苦笑する。
「贅沢な悩みに聞こえるかな」
「ううん」
楓は首を振った。
「私たちは、まるで違う世界で生きてきた。でも、きっと同じくらい、孤独だった」
その言葉に、二人は息を呑む。
まるで、何かが通じ合った瞬間のように。
「ねえ」
楓が、柊の方に身を乗り出す。
「こんな風に、誰かと本当の言葉を交わしたの、初めて」
「僕も」
柊も、楓に近づく。
「不思議だね。こんなにも、心を開ける相手がいるなんて」
そして夜明け前、東の空が白みはじめた時。
二人は、何かが変わったことを感じていた。
「また、会える?」
別れ際、楓が尋ねる。
「もちろん」
柊は迷いなく答えた。
二人とも、これが何かの始まりだと知っていた。
運命とでも呼ぶべきものが、確かにそこにあった。
●第2章 理解への道程
その出会いから一週間が経った。
楓は今夜も天文台に来ていた。なぜだろう。あの夜、全てを語ったはずなのに。それなのに、また会いたいと思ってしまう。
「やっぱり来てたんだ」
後ろから聞こえた声に、楓は振り返った。
「柊……」
彼は両手に缶コーヒーを持っていた。一本を楓に差し出す。
「寒いだろ」
「ありがと」
缶を受け取る楓の手が、少し震えた。
暖かい缶を握りしめながら、楓は思い出していた。あの夜、語った言葉の数々を。
スラムでの生活のこと。
母のこと。
仲間たちのこと。
そして、なぜ窃盗を続けているのか。
「考えていたんだ」
柊が静かな声で言う。
「君の話を聞いて、ずっと」
「何を?」
「僕にできることを」
楓は缶を強く握りしめた。
「何もしなくていいの。同情なんていらない」
「同情じゃない」
柊の声は真摯だった。
「理解したいんだ。そして、できることがあるなら、したい」
「でも……」
「確かに、僕たちは違う世界に生きてきた。でも、だからこそ」
柊は楓の方を向いた。
「互いの世界を知ることで、何か変えられるんじゃないかって」
楓は言葉に詰まった。
この一週間、彼女も考えていた。あの夜、なぜあれほど多くを語ってしまったのか。そして、なぜまた会いたいと思ってしまうのか。
「私たちの仲間たちは、皆、社会のはみ出し者なの」
楓は静かに語り始めた。
「誰も助けてくれない。だから、自分たちで生きる術を見つけなきゃいけない」
「でも、その方法が間違っていたとしたら?」
「他に、どんな方法があるっていうの?」
楓の声が強くなる。
「私たちは、誰にも期待していない。誰も、私たちのことなんて見てくれない」
「僕が見ている」
柊の言葉に、楓は息を呑んだ。
「君のことを、仲間たちのことを」
夜風が二人の間を吹き抜けていく。
「本当に、分かってくれるの……?」
楓の声は、か細かった。
「完璧には無理かもしれない。でも、近づくことはできる」
柊はポケットから、あのペンダントを取り出した。
「まだ、返してくれないの?」
「ああ。まだ僕は、君のことを十分には理解できていない」
楓は小さく笑った。
「意地悪ね」
「これは約束だ。必ず、君のことを理解して、このペンダントを返す」
星空の下、二人は黙って座っていた。
不思議な心地だった。
話さなくても、何かが通じ合っているような。
「ねえ」
楓が声を上げた。
「なに?」
「明日も、来る?」
柊は微笑んだ。
「ああ、もちろん」
その夜から、二人は定期的に会うようになった。
時には語り合い、時には黙って星を見上げ、時には互いの日常を少しずつ垣間見せ合う。
◆
真夏の陽射しが照りつける午後、楓は柊の手を引いて路地裏へと誘った。
「ちょっと、匂いは我慢してね」
楓が申し訳なさそうに言う。生活臭と排水溝の匂いが混ざった空気に、柊は一瞬たじろいだ。
「平気だよ」
柊は微笑んで答えた。
楓と柊はお互いがどんなところで育ってきたのか、実際に見せあうことにしたのだ。
路地を曲がると、両側に所狭しと住居が並んでいる。壊れかけた階段、錆びた手すり。でも、その隙間を縫うように、鉢植えの朝顔が咲いていた。
「おや、楓ちゃん」
年老いた女性が声をかけてきた。
「あら、お客さん?」
「はい、友達です」
楓が答えると、女性は優しく微笑んだ。
「お腹すいてない? 丁度、おやつ作ってたところよ」
女性は中に入るように手招きする。
その部屋は六畳一間。古い畳の上に、こたつが置かれている。
「どうぞ、どうぞ」
出されたのは、蒸かしいもに砂糖をまぶしただけの素朴なお菓子だった。
「いつもお世話になってます」
楓が頭を下げる。
「なんのなんの。楓ちゃんこそ、いつも買い物手伝ってくれて」
女性は柊の方を見た。
「この子はね、私が腰を痛めた時、毎日買い物に行ってくれたのよ」
柊は驚いて楓を見る。楓は少し照れたように俯いた。
その後も、路地裏を歩きながら、様々な人々と出会った。
野菜を分け合う主婦たち。
病人の世話を交代で行う隣人たち。
路地裏の子供たちの面倒を見る年寄りたち。
「ほら、シマたちもいるわ」
路地の突き当たりに、古いガレージを改造した小さな部屋があった。
そこが、楓たちの"アジト"だった。
「よう、柊」
シマが声をかける。他の仲間たちも、警戒こそすれ、敵意はなかった。
「みんなで、カレー作ってんだ。食ってく?」
鍋の中では、具材の少ないカレーが煮えていた。でも、その香りは柊の胸を温かく満たした。
◆
一週間後、今度は柊が楓を自分の世界に招いた。
「こ、これが柊の家?」
楓は大きな屋敷を前に、息を呑む。
「うん。でも……」
柊は少し暗い表情を見せた。
玄関を入ると、何人もの使用人が一列に並んで出迎える。
皆、完璧な笑顔を浮かべている。
でも、その目は笑っていなかった。
「坊ちゃま、お連れ様とは……」
執事が困惑した表情を一瞬見せる。
「友人だ」
柊はきっぱりと言い切った。
豪華な応接室。高価な調度品。完璧に磨き上げられた床。
その全てが、どこか生気を欠いているように見えた。
「父の書斎だ」
柊は一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここで毎晩、経営の話を叩き込まれた。十歳の頃から」
柊の声には感情が込められていなかった。
それが逆に、心の深い傷を物語っていた。
「お母さんの部屋は?」
楓が恐る恐る尋ねる。
「もうない。出て行った時に、全て片付けられた」
二階の廊下を歩きながら、柊は淡々と語る。
「写真も、思い出の品も、母の痕跡は全て消された。父の命令でね」
最後に、柊は自室に楓を案内した。
「ここだけが、僕の城だった」
他の部屋と違い、ここには柊らしい温もりがあった。
天体望遠鏡。星図。天文学の本。
そして、少し埃を被った子供の頃のおもちゃたち。
「一人で遊んでたの?」
「うん。友達を呼ぶことは禁止されていた。家の品格に関わるからって」
楓は黙って柊の手を握った。
言葉は必要なかった。
夕暮れ時、二人は屋敷を後にした。
「楓」
柊が空を見上げながら言う。
「うん?」
「君の世界の方が、ずっと温かいよ」
楓は微苦笑を浮かべた。そして柊の腕にそっと寄り添った。
◆
「ねえ、柊」
ある夜、楓が尋ねた。
「どうして、そんなに私たちのことを知りたがるの?」
柊は少し考えてから答えた。
「たぶん、君たちの中に、僕が探していた何かがあるから」
「何か?」
「自由、かな」
柊は夜空を見上げながら続けた。
「確かに、君たちは社会の底辺で生きている。でも、誰かの期待に縛られることもない。誰かの言いなりになることもない」
「それって、ただの理想論よ」
楓は厳しい口調で言った。
「私たちは、生きるために盗みをする。それのどこが自由なの?」
「そうじゃない。君たちには、選択する自由がある」
柊は真剣な眼差しで楓を見つめた。
「だから、別の選択肢を見つければいい。僕と一緒に」
楓は言葉を失った。
その瞳の中に、真摯な想いを見たから。
それから数週間が過ぎた。
楓の仲間たちも、少しずつ柊のことを受け入れ始めていた。
最初は警戒していた彼らも、柊の誠実さに、次第に心を開いていく。
シマは特に柊に懐いていた。
二人でコンピュータの話をする時間が増えていった。
「ねえ、柊」
シマがある日、柊に話しかけた。
「楓のこと、頼む」
「え?」
「アイツ、最近変わったんだ。お前と会うようになってから」
シマは真剣な表情で続けた。
「良い意味で、ね。だから……これからも、そばにいてやってくれ」
柊は無言で頷いた。
確かに、楓は変わっていた。
目つきが柔らかくなり、笑顔も増えた。
そして何より、未来を語るようになった。
「ねえ、柊」
ある夜、楓が言った。
「なに?」
「私ね、考えてたの」
楓は星空を見上げながら続けた。
「このまま、ずっと盗みを続けていくのは、違う気がする」
柊は黙って聞いていた。
「でも、どうすればいいか分からない。私には、学もないし、まともな仕事なんてできるわけない」
「そんなことない」
柊は静かに、しかし力強く言った。
「君には才能がある。仲間を導く力も、考える力も、そして……」
柊はペンダントを取り出した。
「大切なものを守る強さも」
楓は微笑んだ。
かつてないほど、優しい笑顔だった。
「ほら」
柊が空を指さす。
「流れ星」
二人は同時に願いを込めた。
まるで、心が通じ合ったかのように。
●第3章 愛の芽生え
季節は移ろい、街には桜が咲き始めていた。
楓は仲間たちと、新しい生活を模索し始めていた。
もう、盗みは働かない。
その代わり、シマのコンピュータの技術を活かして、小さな事務所を開くことにした。
柊が場所を提供し、必要な機材も用意してくれた。
「これは投資だからね」
柊はそう言った。
「ちゃんと返してもらうよ。利子付きで」
楓は頷いた。
もう、施しは受けない。
自分たちの力で、這い上がっていく。
しかし、全てが順調だったわけではない。
ある日、楓の元に一通の手紙が届いた。
以前の依頼人からだった。
『まだ仕事は残っている。断るなら、警察に通報する』
楓は手紙を握りしめた。
「どうしたの?」
背後から柊の声がする。
楓は咄嗟に手紙を隠した。
「ううん、なんでもない」
しかし、その様子は明らかに不自然だった。
「楓」
柊は真剣な眼差しで楓を見つめた。
「何かあったら、話してほしい」
楓は迷った。
でも、もう後戻りはできない。
二人で分かり合おうと決めたのだから。
「ねえ、柊」
楓は手紙を差し出した。
「私、どうすればいい?」
柊は手紙を読み、しばらく黙っていた。
「一緒に解決しよう」
その言葉は、楓の心に深く染み入った。
もう、一人じゃない。
誰かと繋がっている。
そう実感できた瞬間だった。
「警察に行こう」
柊が言う。
「え?」
「全てを話そう。そして、新しい人生を始めよう」
楓は恐怖で震えた。
「でも、私……捕まるわ」
「大丈夫」
柊は楓の手を握った。
「僕が必ずついている。最後まで」
その手の温もりが、楓の恐怖を少しずつ溶かしていく。
結局、その夜、二人は警察署に向かった。
全てを話し、そして、新しい人生への一歩を踏み出す決意をした。
驚いたことに、警察は楓たちに寛容だった。
未成年であることや、これまでの境遇、そして何より、更生への強い意志を評価してくれたのだ。
もちろん、いくつかの条件はついた。
定期的な報告と、社会奉仕活動。
でも、それは楓たちにとって、むしろ救いだった。
依頼人の方は、逮捕された。
彼らの裏には、もっと大きな犯罪組織が潜んでいた。
「ねえ」
全てが終わった夜、天文台で楓が言った。
「なに?」
「ありがとう」
その一言に、全ての想いが込められていた。
柊は黙ってペンダントを取り出した。
「もう、返してくれるの?」
「ああ」
柊はそっと、楓の首にペンダントを掛けた。
「約束通り。僕は君のことを理解できた」
楓は微笑んだ。
その笑顔は、かつてないほど輝いていた。
「でも」
柊は続けた。
「まだ、理解したいことがある」
「何?」
「この気持ち」
柊は楓の目をまっすぐ見つめた。
「君のことを、もっと知りたい。もっと近くにいたい。この気持ちが、何なのかを」
楓の頬が赤くなる。
彼女もまた、同じ気持ちを抱いていた。
「私も」
楓は小さな声で言った。
「私も、柊のことを、もっと……」
言葉は途切れたが、想いは確かに通じ合った。
二人の距離が、少しずつ縮まっていく。
その夜、二人は初めてキスをした。
震える唇と、温かな想いと。
全てが、運命のように思えた。
翌日から、二人の関係は変わった。
でも、それは自然な流れだった。
楓は仲間たちと共に、事務所の仕事に打ち込んだ。
シマの技術を活かしたシステム開発や、データ入力の仕事。
小さいけれど、確実な一歩を積み重ねていった。
柊は学業の傍ら、楓たちの事務所に顔を出すようになった。
時には仕事を手伝い、時には新しい企画を提案する。
周囲の目は、最初は冷ややかだった。
スラムの少女と、財閥の御曹司。
あまりにもかけ離れた二つの世界。
しかし、二人は負けなかった。
むしろ、その差異を力に変えていった。
「ねえ、柊」
ある日、楓が言った。
「私たちみたいな子供って、他にもいるよね」
「ああ」
「私たちは、何かできないかな」
その言葉から、新しいプロジェクトが始まった。
恵まれない環境で育つ子供たちに、IT教育を提供する。
楓たちの経験を活かし、新しい道を示す。
柊は父を説得し、会社の社会貢献プロジェクトとして立ち上げた。
それは、二人の愛が形になった瞬間だった。
●第4章 新たな人生
「たった今、無事男児が生まれました」
医師の声に、柊は安堵の息をついた。
二十五歳になった楓は、無事に第一子を出産した。
「良かった……本当に良かった」
柊は涙を流していた。
生まれてきた赤ちゃんは、とても小さかった。
でも、力強い泣き声を上げていた。
「名前は?」
看護師が尋ねる。
楓と柊は顔を見合わせた。
すでに決めていた名前。
「星(せい)です」
柊が答えた。
「私たちを結びつけてくれた、星の名前を」
楓は疲れた顔で微笑んだ。
そう、星は二人にとって特別な存在だった。
出会いの場所も、約束の場所も、全て星空の下だった。
息子の誕生で、二人の絆はさらに深まった。
楓が立ち上げた子供支援プロジェクトは、着実に成果を上げていた。
多くの子供たちが、新しい可能性を見出していく。
柊は会社の若手幹部として、新しい風を吹き込んでいた。
利益だけでなく、社会的な価値も重視する経営。
「ねえ、星」
楓は息子を抱きながら語りかける。
「あなたは、自分の生まれる場所は選べなかった。でも、これからの人生は、自分で選んでいけるのよ」
柊はその言葉を聞きながら、深く頷いた。
星は健やかに育っていった。
両親から受け継いだ強さと優しさを持って。
時には反抗期もあった。
でも、それも含めて、かけがえのない日々。
楓と柊は、互いの支えとなりながら、
新しい世界を作り続けていった。
●第5章 永遠の軌跡
時は流れ、楓と柊は老いていった。
「ねえ、柊」
七十を過ぎた楓が言った。
「なに?」
「私たち、良い人生だったわね」
柊は妻の手を握った。
その手は、かつての少女の手とは違っていた。
しわがよって、少し痩せている。
でも、その温もりは変わらない。
「ああ、最高の人生だった」
二人は相変わらず、時々天文台を訪れる。
建物は完全に朽ち果てていたが、二人にとっては、永遠の思い出の場所。
「覚えてる?」
楓が言う。
「あの日のこと」
「ああ」
柊は懐かしむように微笑んだ。
「君が、紅い狐として現れた日」
「随分昔ね」
楓は首元のペンダントに触れた。
今でも大切に身につけている。
母の、そして二人の思い出の品。
「私ね、あの時死ぬかと思った」
「僕も怖かったよ」
二人は笑い合う。
今となっては、懐かしい思い出話。
「でも、あれがなければ、私たちは出会えなかった」
楓の言葉に、柊は静かに頷いた。
「人は生まれる場所も、時代も、環境も選べない」
柊が言う。
「でも、その後の人生は、自分で選べる」
「ええ」
楓は夜空を見上げた。
「私たちは、きっと正しい選択をしたのね」
その時、柊が咳き込んだ。
最近、体調を崩しがちだった。
「大丈夫?」
「ああ……ちょっと疲れただけ」
楓は夫の背中をさすった。
その仕草には、長年連れ添った夫婦ならではの優しさがあった。
「もう、帰りましょう」
「ああ、そうだな」
立ち上がろうとした柊が、よろめいた。
「柊!」
楓が支えようとしたが、柊は静かに、楓の腕の中で倒れた。
「柊……! 柊!」
楓の叫び声が、夜空に響く。
柊は、楓の手を握ったまま、静かに息を引き取った。
まるで、眠るように。穏やかに。
◆
「お母さん」
星が心配そうに声をかける。
「もう、お家に帰りましょう」
楓は首を振った。
柊の葬儀から一週間。
楓は毎日、天文台に来ていた。
「ここだと、お父さんを感じられるの」
楓は微笑んだ。
悲しげな、でも穏やかな笑顔。
「お父さんとの思い出が、いっぱい詰まってるから」
星は黙って母の隣に座った。
「思い出を聞かせて」
楓は深いため息をついた。
そして、語り始めた。
紅い狐の少女と、星を見上げる少年の物語を。
運命的な出会いと、深い愛の物語を。
それは、まるで昨日のことのように鮮やかだった。
半年後、楓も柊の後を追うように旅立った。
誰もが言った。
柊を失った楓は絶望したのだと。生きる意味を見失ってしまったのだと。
でも、星は知っている。。
母は、ただ父のもとへ行っただけだと。
今も、あの天文台の屋上では、
二つの星が寄り添うように輝いている。
人は生まれる場所も時代も選べない。
でも、誰かを愛することはできる。
そして、その愛は永遠に、星のように輝き続ける。
<完>
【身分差恋愛短編小説】世界の端でささやく愛~星の降る路地裏できみと~(ぴったり10,000字!) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます