episode 5 住む世界が違う二人 [終]

「伊津佳危ない!」

 伊津佳は鳥海の不可抗力の頭突きを受ける形で押し出され、斜めにつながる下への階段に倒れ込む。

 落ちた。

 転がり、落ちていった。

 嘘だ、伊津佳がこんなことって。くそっ。

 往来に妨害され「轟、伊津佳頼む!」と大声で轟たちに託す俺が道路を渡り始めるまで、時間は普通の十倍にも二十倍にもふくらんでいた。

「伊津佳!」

 コンクリート階段の一番下。かすり傷だけに見える伊津佳の頬に俺が声を掛ける頃には向かい側に鳥海がしゃがみ込み、轟は足元に立っていた――彼女は意識を失った伊津佳に「何であんなとこにいるんだよお、馬鹿、大馬鹿!」などと訴え訴え泣きじゃくり、図体だけ大きい彼はただただおろおろしている。しかし俺とて似たようなもので、肩をたたいて反応がないこと口に顔を近づけ息をしていることを確認したら以降何もできなくなった。伊津佳が頭を打っているのは間違いなく、出血など見た目が何ともない時はかえって危ないと母から聞かされていたため最悪の事態が俺の頭からも離れない。どうしようどうすれば、じとっとした冷や汗で困惑していた時だった。

「鳥海さん?」

 ふいに鳥海が泣きやみ腰を上げ、無言で俺たちに背を向け何かを――自分とそして伊津佳の鞄を拾いにいった。顔を上げて初めて気づいたが、二つとも上の並木道からつながる階段の途中に転がっている。

 それより俺は、と再び視線を落とした――、

 ぱちりと目を覚ました。

「ええっ?」

 夜だからとはいえ蒼かった頬もまるで嘘みたいに桜色に変わり、意識を取り戻した伊津佳はぎろり俺を見たのだ、それは冬服に隠れた両腕の鳥肌が分かるくらい。

「――私、偶然通りかかっただけなのに何でこんなことになってるんだか」

 そのまま平然と上半身を起こした彼女に気がつき感涙の鳥海が「ごめんねごめんね、大丈夫? 良かった」と鞄ごと駆け寄ってくる。

「ああ、当たり前じゃない。これから電車なのに汚れたわね」

 伊津佳は余裕の流し目で返し、それでもため息はつき強打したであろう頭をたたく。危ないってば、慌てる俺をあざ笑うかのように彼女はふらつきもせずすっくと立ち上がった。鳥海たちを含め唖然としていると、そこだけは女の子らしく顔や手の砂汚れを丁寧に落とし始める。

「なあ伊津佳、まだ座ってたほうがいいんじゃないかな。あと電車ってだめだよ病院行かなきゃ」

「やめて恥ずかしいわそんなの。私は女としてそこまで落ちぶれていない」

 近づけた俺の右手を肘で軽くあしらい、伊津佳は普段通りに意味不明なことを言ってのけた。そのせいで、

「あなたさあ、少しは周りの助言や勧めを受け入れたらどう?」

 せっかく心配してくれた鳥海が怒りだしてしまう。ほら見ろ。めずらしく彼女の側を選ぶ俺はしかし、直前の自分を思い出して恥ずかしくなった。そう、横たわる伊津佳の息を調べた時、長めにしてもまだ短いもう一人のスカート内が見えた。ずいぶん暗くて全然――あれは罪なのだろうか、額のこの汚い脂汗は何が原因だ?

 いやいや伊津佳が気絶したからに決まってるじゃないか。

 俺の羞恥心はどうでも良くて、幸い上の道を通りかかった英語のはじめ先生が本人の意向を冷静無視して救急車を呼んでくれたため、彼女を無事病院に連れていくことができた。

 その帰り道、幸か不幸か行き先のせいで鳥海と二人きり。まだ寒さの残る時期なのに初夏みたいな蛙唄が心地良く、時折横を過ぎる車たちの無機質な凶暴さも不思議と気にならなかった。ただ伊津佳は無理矢理入院させられており、その場にいただけでなく関わったとなれば明朝から祥子が質問攻めしてくるのは間違いない。女の好奇心とは困ったものだ。

「――ねえ、あなたって五野伊津佳に好かれてるんだよね。さっき必死だったのはあなたもそうだから?」

 唐突な鳥海は噂を嘘だと知っての発言だろうが、自分も泣いて必死の形相だったことは忘れているらしい。彼女は俺の返事を少ししか待たずに「あいつ、こないだ校庭に呼び出したらのんきに本読んで待ってやがったわ。『あなたとは住む世界が違う』って言われたみたいだった」と続ける。伊津佳の心の宇宙はきっと誰にも理解できないが、単純に住む世界が違うとは思っていない気がした。

「告白してきたのは竜斗なのにどうしてあたしがこんな思いしてるわけ?」

 鳥海の声音こわねに感情が割り込み始めた。

「だから、だからね、いっそ一週間でいい、竜斗があいつとつきあってみれば、だってうまくいくわけないじゃない? 竜斗はあたしに戻ってきてくれると信じてたの。それを提案したらあの女、本当はそんなこと言われて、プライド傷つけられてるくせに、何て答えたと思う?」

 視界の端で彼女は泣いている。足を止め、「何て?」と訊き返した。

 振り向いた鳥海は悔しそうに俺を見つめる、だめかと思ったら大きく息を吸って伊津佳の声真似を始めた。


          了


▽最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。



この最後の一文はepisode 1の出だしに戻ったわけではなく、伊津佳は轟にも鳥海にもまったく同じ台詞を口にしました(ただし、episode 3はepisode 1の回想)。

そして、それぞれの意味も違います。伝わりましたか?


○episode 1で轟に言った台詞の意味

「一週間後に別れを切り出した時に轟が落ち込む様子を思い浮かべたら変な顔だったので、轟との交際は断る」

○episode 3で鳥海に言った台詞の意味

「一週間後に轟に別れを切り出した時に鳥海が喜ぶ様子を思い浮かべたら変な顔だったので、轟とのお試しの交際は断る」

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いつのいつか 海来 宙 @umikisora

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