イワシダンシングの実験金魚

秋待諷月

イワシダンシングの実験金魚

「なあ。『イワシダンシングの実験金魚』って、知ってるか?」

 突然の問いに、一瞬、僕の思考は固まった。

 大学敷地内の一角にある研究棟、複数のゼミ室が押し込められた三階の共用通路。同学部だが所属ゼミが異なる、顔見知りに毛が生えた程度の友人にばったりと出くわしたのが今から十五秒前。「よう」「おう」「こないだのノート助かったわ」「貸しひとつだぞ」などという会話を交わしたあと、ふと表情を変えて周囲へ視線を巡らした友人が、声を潜めて発した言葉がそれだった。

「なんて?」

 ようやく僕が寄越したのがその三文字である。他にどんな返しようがあるだろう。おそらく深く眉根が寄っているだろう僕の顔を見て、友人は気まずそうに目を逸らすと、「いや」と口ごもった。

「知らないならいいんだ。忘れてくれ」

「は? なんだよ、気になるだろ。もう一回」

「いいから、ほんと、気にするな。悪い、聞かなかったことにしてくれ。じゃ、またな」

 食い下がる僕を押しのけるようにして、一度も目を合わせないまま、友人はそそくさと所属ゼミ室に逃げ込んでしまった。

 取り残された僕は、狭く薄暗い廊下に突っ立ったまま「なんだよ」と呆気に取られてしまう。

 先の友人の声を脳内で再生してみるが、当初に聞き取った時と何も変わらない。

 イワシダンシングの実験金魚? なんだ、それは?

 この研究棟には、僕が所属する経済学部の他に心理学部も入っており、ゼミ生の実験に被験者として駆り出されることも少なくない。その中には「蛇の回転」と呼ばれる錯視実験や、「シロクマ実験」を模した心理実験など、動物の名を冠するものも確かにある。だが、イワシや金魚と名がつく実験に覚えは無かった。

 知らないので想像するしかないのだが、そもそもネーミングからして意味が分からない。「イワシの実験」や「イワシトルネード実験」ならまだ分かるのだが、「イワシダンシング」ときたものだ。イワシはダンスをするものなのだろうか。あまつ、末尾に「金魚」までついてくる始末。イワシか金魚かはっきりしてほしい。

 スマホで検索してみるが、それらしきワードには全く引っかからない。グーグル先生が知らないものを、なぜ僕が知っていると思うのか。そして「忘れろ」だの「聞かなかったことに」だのと、まるで、僕にその存在を知られてはいけないような友人の態度。気にするなというのが、どだい無理な注文だ。

 気になり過ぎるあまりに、僕の脳内ではイワシと金魚が手と手を、もとい、ヒレとヒレを取り合って華麗なダンスを披露している。ただただ思考の邪魔である。グリルに並べてカリッと焼いてやりたくなってきた。

 あああ、と口に出して唸り、頭を抱えてぐねぐねとしていると。

「よ。そりゃ、なんのダンスだ?」

 背後から現れた、先とは別の友人に肩をぽんと叩かれた。目を瞬かせ、僕は思わず尋ねる。

「なあ。『イワシダンシングの実験金魚』って、知ってるか?」

 瞬間、友人の目が点になった。

「なんて?」

 奇異を見るような友人の面持ちに、僕の頭が冷えていく。

 ゆっくりと目を逸らし、「いや」と僕は口ごもった。


「知らないならいいんだ。忘れてくれ」




 Fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

イワシダンシングの実験金魚 秋待諷月 @akimachi_f

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説