3 はじらわないで

「チッ、けっきょく話しちまったな」

 夜が深まってきた。家路につく者が増え、いっぽうでまだ居座ってグラスを傾ける者の姿はまばらになる。

 ウルメザは放浪者であるようだし、コカは無職だ。

 お互い直接的なことはなにも言わなかったが、ふたりはそれが当然であるかのように、カウンター席に落ち着いていた。

「あんたが悪い。あんな歌、聞かせるから」

「へえ?」

 機嫌を悪くしてしまった風竪琴の竜のために、コカは遠い水の海を生きる船乗りの歌を披露してやった。自由で、希望があって、そしてなにより酒にあう。

 岩の海しか知らぬ街の者には新鮮だったのか、ほかの客たちにも好評だった。簡単な旋律はすぐに伝わり、何度も繰り返された。

 とくに気に入ったらしいウルメザは、段々と客が減っていってもやめる気配がなく、ついでに固く閉ざされていたはずの彼の口は盛大に緩み、過去は露呈し、そうしてようやく我に返ったところだ。煙草を咥えた口の端が複雑に歪んでいる。

「責任とってほしいってわけ?」

「とれんの」

 ステージでは相変わらず誰かが演奏している。

 もう満足したのか、あれからウルメザは竪琴にはならなかったし、コカに歌えとも要求しなかった。コカもまたそうしなかった。

「……あたし、同情は嫌い。でも」

 灰を落とす瞬間を見計らって、小皿のナッツをウルメザの空いた唇に押し当てる。いくらか雰囲気のやわらかくなった彼は素直にそれを受け入れた。コカは自分の口にも投げ入れる。

「でも、悲しみの熱を抱えた者どうしで慰めあえないのは、もっと嫌い」


 あぁあ、とコカは空を仰いだ。岩海の乾いた夜空に、今にも泣き出しそうなほどの星がきらめいている。若々しい緑の瞳が、その燃えるような色を映す。

 国つきの歌姫をクビになった人間と、星降りによって一族を失った竜。

 どちらが重いとか、どれだけ経ったかとかは、関係ない。

「悲しいなぁ、悲しい。こういう熱はぜんぜん冷めちゃくれないし……酒に流れても、くれない」

「そういうもんだ」

「ん、でも慣れっこない。嫌んなる」

 上を向いたまま、コカは盛大に顔を歪めた。

 この顔で得をしたことはたくさんあった。けれども、自分の美貌を利用してやろうとして上手くいった試しはない。

(上手く使えてたなら、あたしは今夜も歌劇場で歌ってたろうね)

 歌が好きだからこそ、実力だけでのし上がってやろうなどという夢は見なかった。現実的に、確実に歌える居場所を手に入れるための努力はしてきたつもりだ。降ってきた機会を、余計な自尊心でふいにもしなかった。そうして掴んだ地位だった。

「ぜぇんぶ、ぱあだもん。こんなお綺麗な顔すら、さあ……」

「自分で言うか、普通」

「事実だし。あとこれ、自虐なんだけど」

「ま、そのお綺麗な顔でこんなとこいんだもんなあ」

「うわ辛辣。あちこちに失礼」

「事実だろ」

 コカの積み上げてきた栄光を、コカ自身の不器用さと不注意が上回ったというだけ。

 歌劇場にとっては、見目と声がそれなりによければ誰でもよかったのだ。

「あたしはさ、誰かのために祈りたかった。そのために歌い始めたのに、魔法どころか、魔術の才能すらなくてさ。そりゃ聖人にも見放されるよ」

 もっといえば、華やかに神秘をまとえる者のほうが、利用価値がある。コカに自尊心は捨てられても、なにかを信じる心は捨てきれなかった。

「……あんたみたいのも聖人を信仰してんのな」

「悪い?」

「いんや。おれにとっては仇だが、人間にとっちゃいいこともあったろ」

 ――それに、記憶は風化するしな。

 風竪琴の竜は、なんてこともないように、自らの過去を嘲笑った。

「竪琴の竜はな、自分の音が生命力みたいなもんだ。だから互いに演奏しとけばそれなりに命は続くし、逆に言やぁ、弾いてくれるやつがいなけりゃすぐに弱って死んじまう」

 ふはりと吐かれた煙が場を濁すように漂い、しかし続く言葉は思いのほかまっすぐで。

「もう長く生きた」

 コカは、なんと声をかけたらいいのかわからなかった。

 グラスに手を伸ばそうとして、もう酒がほとんど残っていないことに気づく。行き先不明の手はいっしゅん宙をさまよい、それから静かに自分の膝へ着地した。


 まだウルメザの話を聞いていてもいいのか、コカが迷っているあいだにも彼は言葉を続ける。

「あんたは、いい歌い手だな」

「……とうぜん。国立歌劇場の専属だよ」

「クビになったがな」

 にやりと余計な言葉を足されて、コカは軽く握った拳でウルメザの肩をつく。

 仕返しのつもりか、額を指で弾かれる。

 ――コホン、と咳払いがふたりのあいだに割って入ってきた。店主だ。実のところコカは少しばかり彼の存在を忘れていて、その生温かい視線に気まずくなっていると、彼は白々しく「さぁて店じまいでもしてくるか」と事務室へ引っ込んでしまう。

(変な気を遣わなくてもいいのに)

 いつのまにか、客はコカたちだけになっていた。

 通りのどの店でも演奏する者はなく、不思議な沈黙が流れている。

「……これからも、おれを弾かないか」

 赤子に絆されたの? 酔ってる? そんなふうに返そうとして、コカは出かけた言葉を飲み込んだ。

 竪琴と――竜の鱗と同じ暗褐色の瞳が、真剣な光を宿してこちらを見ていた。

 息を整えるように、コカは口もとだけで微笑んだ。

「マスターがあたしを雇ってくれるかな」

「竜のおれですら期限を言われてないんだ、百年くらいはいけると思うぜ」

「百年……ね、人間の寿命をわかってる?」

「わかってるさ」

「百年、あたしに弾かれたら満足なの」

「そういうことになるかもな」

 思わず、コカは店主が近くで聞き耳を立てていないか、奥を覗き込んだ。大丈夫、いない。

 変な緊張が襲ってきて、少し息が浅かった。

「……ね、歌手にはさ、歌っても歌っても、口の寂しい夜があるんだ」

「酒でも飲んでれば」

 虚をつかれ、コカのもとから丸い目はさらに丸くなり、ぽかんと口が開いた。

 それから自分がなにを口走ったか気づいて、むしろ伝わらなくてよかったと頬を熱くする。そもそも、こういった駆け引きは得意ではないのだ。酔っているのは、自分のほうだった。

「そう……だね」

 ほとんど空のグラスを眺めながら頷く。

 ハァ、とため息がこぼされた。もう何本目かもわからない、煙草の火がまた消される。

「そんな顔する前に、もう少し近くに寄れっての」

 そんな顔? 近くってどのくらい。

 ふたたびの疑問は喉の奥にしまい、コカは目線をグラスへ固定したまま頭を寄せ――どこまで寄るか決めかねているうちに、ぐっと後ろから押される。風竪琴の竜の手のひらが、コカの後頭部をしっかり包んでいた。

 頭ごと寄せられた口づけは、その力強さのわりに、儚く感じられるほどいっしゅんで、岩の海のように乾いていて、けれどもたしかに熱かった。

 髪を梳くように彼の手は離れていって、また新しい煙草が取り出される。

 遅れて、口の中でふわりと煙草が香ったような気がした。

「満足した?」

「さぁね――」コカは少し迷ってからこうつけ加えた。「髭が痛くない角度を探すべき、かな」

「は、そりゃ悪かった」

 これ吸ったらな、と笑うウルメザの声が烟っている。

 まだ、夜は明けない。

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流せども、その熱。 ナナシマイ @nanashimai

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