第4話

「すっかり日が落ちちゃったね」

 街は【夏至祭】がすでに再開されていた。

 子供が、一緒に明かりを浮かべたいと思ったからまだ浮かべていないと言っていた、と伝えると、ネーリが街に戻りたいと言ったのだ。

 フェルディナントは絵を見た後、ミラーコリ教会で少し休憩を取った。あのまま駐屯地へは帰れそうになかったからだ。このまま夜勤に着くため、共に戻って来た。

 街に入って、すぐに気づいた。

「水路に花が増えたな」

 無数の花や、花びらが水路を漂っている。

「午前中の掃除で、床に落ちてたお花が水路に流れ込んだんだ。最終日の明日はもっと増えるよ。それが、夏至祭の終わりの鐘と共に朝方、海に一斉に流れ出る。綺麗な光景だよ。

干潟にも少し花が届くの」

 フェルディナントは小さく笑んだ。

「水って不思議だよね」

 石の橋の欄干に身を凭れかけさせて、ネーリは下を流れる水路を見下ろした。

「水に触れると全てのものが、一瞬だけ美しくなる。床に落ちてた、泥だらけの花が、水路に流されると泥が落ちて、色だけ浮かび上がって――輝き出す。水は一瞬だけ、すべてのものに美しい命を蘇らせるんだ。一瞬だけだけどね。長く触れていれば、いずれ花だって朽ちて腐ってしまうから、水は生かしも殺しもするんだけど……。

 ヴェネトの【夏至祭】の起源は、ずっと昔に、この地を平定させた偉大な王が亡くなった時、街の人が追悼の意を込めて、彼の為に水路にお花を流したんだって。明かりを浮かべたりするのは、そのあとに祭りを華やかにするために作られた風習なんだ。だから、本当は【夏至祭】では、花で水路を満たして――亡くなった人のために大海に花を流すことこそが目的だったんだよ」

 ネーリは拾い上げた花を、水路にそっと落とした。

「そうなのか……」

「ヴェネツィアからたくさんの花が海に流れ出す所、きっと空から見たら綺麗だと思うよ」

 フェルディナントはネーリの隣にやって来る。

 ここは街の外れだから、【夏至祭】が始まると、人気は逆に無くなる。向こうでは楽の音が聞こえたが、ここは静かだ。

「ネーリ、聞いてもいいか? 【有翼の獅子】はヴェネトにとって、神聖な紋章なのか?」

「【有翼の獅子】? そうだね。昔の王家が使ってた紋章だから、特別な意味を持つ神獣だね」

 こっちに来て、とネーリがフェルディナントの手を取って、歩き出した。

 思わずドキとしてしまう。

 美しい絵を描くネーリの手は、いつも色んな色に汚れているけど、柔らかくて温かくて、 爪先が細く、まるで女のような手をしている。

 水に傷むような仕事をしているし、そういう暮らしもしてきたはずなのに、思えば不思議なくらい、手が美しかった。白くて、良血を思わせるとでもいうのだろうか、竜騎兵団にも貴族の子息が多いので、入団した時は手が綺麗だが、竜騎兵として日々鍛錬を続けていれば、手は皆変わっていく。

 フェルディナントの手も、今はとっくにフランス兵の血に染まっているし、誰も殺してない時とは明らかに変わった。

 でもネーリの手は、無垢なままだ。


 ……まるで神の手に守られているかのように、白く柔らかなまま。


「これだよ」

 ネーリが細い通りの壁の前に来た。そこに、有翼の獅子の小さな像があった。

「ヴェネツィアの街中にこの子いるの」

 ネーリは笑った。

「ヴェネツィア聖教会の紋章なんだ。王家も昔は使ってたけど、今の王家の紋章には有翼の獅子はいなくなったから。でもヴェネツィア聖教会は今でも【有翼の獅子】の紋章を使ってるよ。だから家の側にこの子のこういう小さな像を置いているのは、敬虔な信者の家や、そういう人が作った橋とか、壁なんだよ。王家の紋章からいなくなっても、【有翼の獅子】は今もたくさんヴェネツィアの街にいて、僕たちを見守ってくれてる。

 名前もちゃんとあるんだよ。

 ヴェネツィア聖教会の聖典の中に出て来るの。

【オラシオン】って名前が。

 綺麗な名前でしょ」

 ネーリはもう一度【有翼の獅子】の像を見上げてから、ゆっくりと歩き始めた。

「ネーリは【有翼旅団】という言葉を聞いたことがあるか?」

「【有翼旅団】……」

 フェルディナントは隣を歩くネーリを見た。彼は横顔を見せている。

 温かい人柄の彼が、時折、こういう表情を見せる。その理由を無性にフェルディナントは知りたかった。彼が憂う、理由を。そして可能なら、その理由を取り除くか、その必要が無いほど安堵させてやりたいと思った。

「聞いたことがある?」

 一瞬何かを考えていたようなネーリがフェルディナントの方を見た。小さく笑って首を横に振る。

「なんていうか……この地に伝わる御伽噺なんだ。昔からあるでしょ、ある国の、ある街にすごい義賊がいたり、怪物がいたり、理由は分からないけど、伝え広まった噂みたいなの。【有翼旅団】は、昔からヴェネツィアに伝わってる御伽噺なんだ。ずーっと昔にまだ、この地に国もなくて、人々がバラバラだった時、災害が起こった地域の人たちが困っていると、大きな船に乗った人達がやって来て、食料や、衣服を、置いて行ってくれたんだ。

彼らは自分たちの名は名乗らなかったけど【有翼の獅子】が描かれた旗を船に掲げてた。

そういう人達が【有翼旅団】と呼ばれてた。自分たちの国を持たず、いつも移動し続けてるけど、善意で多くの人を助けてる。だから、この辺りの人達は、何か悪いことがあると思うんだよ。【有翼旅団】が助けに来てくれないかな、って。でもほとんど、言い伝えだね」

 それは、王妃や参謀の言っていた話と異なっていた。彼ら曰く、【有翼旅団】は神聖な紋章を悪用する『悪人ども』だと言っていた。

「でも……どうしたの? フレディが突然【有翼旅団】なんて……」

「あ、いや……」

 一応ネーリにも、話さない方がいいだろう。かなり危険な相手のようだから、彼が巻き込まれるようなことがあってはいけない。

「今朝、その名前を聞くことがあって……何かなって思って」

 ネーリは頷いた。

「そう……。でも単なる古い言い伝えだよ。実際には【有翼旅団】なんて、この世に存在しないんだ」


 あ! ネーリだ!


 向こうで子供たちが声を上げた。

「ネーリ! ぼく明かり浮かべないで待ってたよ」

 小さい男の子が駆けて来る。

「ごめんごめん。ありがとう」

 ネーリが駆けて行って、彼を抱き上げた。

「迷子になったの?」

 目を擦っている。

 多分、三年ここに棲みついていると言っていたが、毎年のように一緒にそうしてたのだろう。

「迷子にはならないよ。僕はヴェネツィアの街に詳しいから。ごめんねアール。絵を夢中で描いてたら時間を忘れちゃって……」

「もー……しょうがないんだからネーリは……」

 余程寂しかったのか、目を擦って涙を零しながらそんなことを言った少年に頬を寄せて、ネーリは優しく笑った。

「でもちゃんと来たよ。ね?」

「来年は遅刻しちゃダメだよ。あとちゃんとあとで新しい絵も見せてね」

「うん。約束する」

 他の子供たちも駆けて来た。

「ネーリ! どこ行ってたのーっ!」

 他の子供たちはネーリがやって来て、嬉しそうだ。はしゃいでいる。

 ……彼はヴェネツィアの街を愛しているけれど、

 愛されてもいる。


『ヴェネツィアが、僕に、失望したんだ』


 確かにあの時、そう聞こえた。

 でもきっとそんなことはない。

(誰よりも愛されてるよ)

 いつかネーリとも別れる時が来るのかもしれない。

 彼がヴェネトを離れないのなら、いずれ自分は神聖ローマ帝国に戻る。……ここで死ななければだが。そのうちに、もう一度時機を見て宮廷画家として神聖ローマ帝国に来てくれないかとは言おうと思っているけれど、ネーリが拒めば離れなければならない。

 自分は神聖ローマ帝国の将軍なのだ。国の為に尽くさなければならない。

 だから、もしかしたら、考えたくはないけれど愛する国が違うのならいつかは離れなければならない日が来るのかもしれないけど、せめてその時は自分も別れを惜しまれて泣かれるような存在ではいたいと思う。

「フレディー 今から明かり浮かべに行くの。一緒に来ない? 今度は僕がそのあと教会まで送るよー」

 ネーリがやって来て、蝋燭が取り付けられた小さな船のオブジェを持って来た。

「光の船。フレディにもあげる」

 行こ、と彼は優しい顔で笑いかけて来る。

(いや。やっぱり、違うな……)

 船を受け取ってやると、嬉しそうにネーリが子供たちの所にフェルディナントを引っ張っていく。


(惜しまれたいとは思うけど。

 もう二度と泣かせたくはないよ)





【終】

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