雪
沢田和早
雪
今日はクリスマス。晩飯を食べるために夕暮れの街を歩く僕。目指すは先輩のアパートだ。
先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩は一年浪人してしまったからだ。
同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。
先輩と一緒に食事をする時は納豆とかもやしとか安くて健康的な食材を持参するのだが今日は手ぶらだ。なぜなら、
「クリスマスだし、今日の晩飯は久しぶりに俺が御馳走してやろう。すでにケーキとチキンレッグの目処はついている」
と昼頃に先輩から連絡があったからだ。
もちろんすぐに信用したわけではない。以前、カビの生えたクリスマスケーキを食わされそうになったことがある。今回もどんな料理が待ち構えているか知れたものではない。念のため豆腐でも持って行きましょうかと言ったのだが、
「その必要はない。手ぶらで来い。絶対に何も持ってくるな。これは命令だ」
と強い口調で言われてしまった。こんな言い方をする時は逆らわないのが一番だということは長い付き合いでわかっているので何も持たずに行くことにした。
「先輩、来ましたよー」
「おう、来たか」
「寒っ!」
玄関に足を踏み入れた瞬間、あまりの寒さに身震いした。外より中が寒いってどういうことだ。見れば先輩は防寒具を着込んでぶくぶくに着膨れしている。
「この部屋、どうしてこんなに寒いんですか。よく平気でいられますね」
「寒がりの俺が平気でいられるわけないだろう。これにはちょっと事情があるのだ。まあとにかく入れ」
極寒の部屋の中央には唯一の暖房器具であるコタツが置かれている。すぐさま足を突っ込むがまるで暖かくない。スイッチを入れようとすると先輩に止められた。
「待て。コタツはつけるな」
「どうしてですか。こんなに寒くちゃ食事も満足にできないでしょう」
「事情があるって言っただろう。おーい、出て来い」
「はあーい」
明るい返事とともにクローゼットの扉が開き一人の少女が姿を現した。真っ白な着物に身を包み、肩より長い髪は闇のように黒く、滑らかな肌は燃え尽きた灰のように白く、潤んだ唇は血のように赤い。当たり前ではあるが天地がひっくり返るほど驚いた。
「せ、先輩、誰ですか、この人、ま、まさか先輩の恋人?!」
「違う。こいつは雪女だ」
「ゆ、ゆきおんなああ!」
「雪女じゃありませーん。雪娘のユキちゃんでーす」
雪女でも雪娘でもどっちでもいいが、そんな言葉を信用できるほど僕の頭はお花畑ではないのだ。
「先輩、説明してください」
「言われなくてもする。有難く拝聴せよ」
疑わし気な僕を説得するべく先輩の話が始まった。昨日、バイトの帰り道で行き倒れになっている女性がいたのでアパートに連れ帰ったのだそうだ。
彼女の語るところによれば、自分はシベリア寒気団に所属する雪娘なのだが、昨晩はハメを外して寒気団辺縁部まで近寄り過ぎたため地上に落ちてしまった。自力で寒気団に帰る手段がなく困り果てていたところ先輩に出会い帰還に協力してくれるというので、今日はそのお礼にケーキとチキンレッグをご馳走してくれる、ということになったらしい。どう考えても話が怪し過ぎる。
「どうしてそんな与太話を簡単に信じるんですか。雪娘なんか存在するはずがないでしょう。しかも見ず知らずの人間を一晩泊めてあげるなんて不用心にもほどがあります。これはきっと闇バイトの一種ですよ。暴力ではなく色仕掛けで金を奪おうって魂胆に決まっています」
「おいおい、こんな年端もいかないヤツに色仕掛けは無理だろう。どう見ても未成年だ」
「それならなおのこと問題です。下手すりゃ未成年略取誘拐罪に問われかねません。警察に行きましょう」
「あたしは未成年じゃありませーん。それにここへ来る前に警察にも連れて行かれたんでーす。でも無駄足だったんでーす」
意外なユキちゃんの言葉に面食らう僕。そういう重要事項は省略せずにきちんと教えてほしいなあ。
「無駄足だったって、どういうことですか先輩」
「警官には雪女を認識できなかったんだよ」
「雪女じゃありませーん。雪娘のユキちゃんでーす」
「認識できなかった?」
口を挟んできたユキちゃんはひとまず無視して、先輩の言葉を考える。そう言えば以前、先輩と僕にしか認識できない迷子に出会ったことがあった。
先輩は尋常ならざる存在を感知できる能力を持っている。先輩の近くにいるとその能力の影響を受けて凡人の僕にも感知できるようになるのだ。確かあの時は先輩から二十歩ほど離れた地点で迷子の姿が見えなくなった。それでその迷子は人でないことがわかったんだっけ。
「確かめてみます。二人とも部屋の隅まで移動してください」
先輩とユキちゃんは南の窓の前に立ってもらい、僕は一歩ずつ北の玄関の方へ後退する。八畳のリビングを出た地点でユキちゃんの姿が見えなくなった。距離にして三メートルほど。前回に比べて影響の及ぶ範囲が狭いのは迷子よりユキちゃんの方が格上の存在で隠蔽能力が高いからなのだろう。このような現実を突きつけられてはユキちゃんの言葉を信用するしかない。
「どうやらあなたが人でないのは間違いないようですね」
「やっと信じてくれたあ。これであたしが寒気団に戻れるよう、あなたも協力してくれるんだよね」
「いいですけど、僕は何をすればいいんですか」
「思いっ切り寒がってくれればいいんだよお」
ユキちゃんの説明によると雪娘のパワーは人間の寒いという感情の大きさに比例するらしい。つまり僕が寒がれば寒がるほど雪娘の体力気力は増大し、寒気団へ帰還するだけのエネルギーを獲得できるというわけだ。
「まずは服を脱いでパンツ一枚になってね。それから扇風機を強にして寒風に身を晒してね。仕上げはあたしの冷や冷や手料理を食べて体の中からも寒くなってね。それくらいしてもらえれば寒気団に帰れると思う、たぶん」
ユキちゃんの注文に茫然とする僕。考えただけで体が震えてくる。
「もちろん先輩もやるんですよね」
「やるわけないだろ。俺は寒がりだからな」
着膨れたまま平然と言い放つ先輩。無性に腹が立ってきた。
「どうして僕だけが協力しなきゃいけないんですか。先輩が連れて来たんだから先輩が寒がればいいでしょ」
「だから俺は寒がりだって言っているだろ」
「そんなこと知りません。僕だけなんて絶対嫌です」
「協力しなきゃケーキもチキンレッグも食えないぞ」
「そんなもの要りません。いいです。もう帰ります。後は二人で好きにしてください」
八畳のリビングを出て玄関に向かう。が、いきなり何かにぶつかったような衝撃を感じた。
「な、何だこれは」
何もないのに前に進めない。まるで見えない壁があるみたいだ。
「うふふ。結界を張らせていただきました。協力するまで外に出られないんだからね」
「それでも嫌だと言ったら」
「凍死させちゃうことになるかなあ。パワーを回復するにはそれが一番手っ取り早いんだよねえ。その若さで死にたくはないでしょ。あたしが雪娘ってことをお忘れなく」
脅迫じみたユキちゃんの言葉は僕の心胆を寒からしめるのに十分だった。それでも最後の抵抗を試みずにはいられない。
「だったら命を奪うのは僕ではなく先輩にしてくれませんか」
「無理。この人、ふつうの人間じゃないもん。あたしの能力じゃ絶対に敵わない。それどころか返り討ちに遭っちゃう」
そうだった。先輩の中には異界の魔王クロノス・パワードが封じ込められているんだった。さすがのユキちゃんも勝てないだろうなあ。くそっ、なんてこった。
「悪いことは言わん。パンツ一枚になって寒がれ。凍死するよりも肺炎になったほうがマシだろう。俺からの忠告だ」
ぽんぽんと肩を叩き、したり顔で説教する先輩。ますます怒りが込み上げてくる。誰のせいでこんなことになったと思っているんだ。ああ、もうこうなりゃヤケだ。
「わかりましたよ。言う通りにしますからさっさと寒気団に帰ってくださいね」
覚悟を決めた僕は服を脱いでパンツ一枚になった。寒い。ここはスキー場かと思いたくなるくらい寒い。ひょっとしてこの部屋、氷点下になっているんじゃないのか。
「うひゃああー」
悲鳴を上げた。先輩が扇風機の風を当ててきたからだ。秒速一メートルの風は体感温度を一℃下げるという。扇風機の風速は強で秒速五メートルほど。つまりこれだけで体感温度は五℃下がっていることになる。
「さ、寒い寒い、寒いよおおお」
「おお、いいよいいよ。その寒そうな姿、震える声。あたしの元気がどんどん増していくううー!」
体を縮こまらせて震えている僕を見てユキちゃん大喜びだ。
「うむ、おまえのそんな姿を見られて俺も嬉しいぞ」
どうして先輩まで喜んでいるんですか。うう、このままじゃ本当に風邪をひきそうだ。
「くしゃん」
鼻水を拭こうとティッシュに手を伸ばすと白いモノが舞い降りてきた。
「せ、先輩。雪ですよ。部屋の中に雪が降っていますよ」
「あ、それはあたしの幻術。あなたの心象風景を具現化してみたの。どう、精神的にも寒くなってきたでしょ」
雪はどんどん降ってくる。そしてどんどん部屋に積もっていく。触ってみると冷たいしサラサラしている。本当に幻覚なのか。
「さあて、ではさらに寒がってもらうためにあたしの手料理を食べてもらおうかなあ」
ユキちゃんは台所に行くと盆を持って戻って来た。電源の入っていないコタツ机の上にケーキとチキンレッグが並べられた。
「おお!」
小さな歓声を上げてしまった。ケーキはホールではなくショートではあるが、イチゴと雪娘の砂糖菓子とメリークリスマスと書かれたチョコプレートがのっている。そしてチキンレッグはこんがりと照り焼きされた骨付きもも肉だ。焼きたてらしく湯気が立ち上っている。
「こ、これ、食べていいんですか」
「もちろんだ。全ておまえのものだぞ」
「やったあ」
こんな料理が用意されているのならもっと早く言ってくれればいいのに。大喜びでケーキにかぶりついた僕は瞬時に落胆した。
「冷たい。それに甘くもない」
イチゴも砂糖菓子もチョコもスポンジも無味。そしてシャリシャリしている。気を取り直してチキンレッグにかぶりつく。同じだ。冷たい。そして味がない。立ち上っていたのは湯気ではなく冷気だった。
「ケーキもチキンも雪じゃないですか。だまされたあ」
「やだなあ。雪娘の手料理って言ったら食材は雪に決まっているでしょう。どう? この色、この質感。本物そっくりでしょ。えっへん!」
ユキちゃんのドヤ顔が恨めしくなる。本物そっくりだからこそ真実を知った時の落胆も大きくなったんだぞ。ひょっとしてわざとやっているのか、この性悪雪娘は。
「こんなの食べたらお腹壊しますよ。残していいですか」
「駄目。完食して。それにその料理に実体はないの。ただ冷気があるだけ。だから食べても大丈夫。さあ、早く早く」
食べたくはないが逆らったら凍死させられそうだ。我慢してケーキとチキンをシャリシャリ食べる。うう、歯が舌が喉が凍りそうだ。冷たさが腹の中に堆積していくのがわかる。その間も扇風機の寒風は容赦なく吹き付けられている。あまりの寒さに意識が遠のきそうだ。
「いいよおー、その寒そうな感じ、いいよおー。もっと寒がれー」
部屋の中は暴風雪警報が出てもおかしくないくらいの大吹雪になっていた。指と唇の感触がないままケーキとチキンを食べ続ける。ユキちゃんは大喜びで雪踊りに興じている。先輩は部屋の隅に作ったかまくらの中で居眠りしている。
「はあはあ、完食しました」
「すっごーい! じゃあ最後の仕上げにこれだ。えいっ!」
掛け声と一緒にバケツの水をぶっかけられた。濡れた肌はたちまち凍り付き身動きできなくなった。
「も、もう限界です。これ以上されたら本当に凍死してしまいそうです」
「えっ、何? もう一回言ってみて」
「凍えて死にそうです!」
「やったあー、その言葉を待っていたんだ。んじゃあたしは帰るね。さよならー」
部屋の中の吹雪は猛吹雪に変わり何もかもが真っ白になった。だがそれは一瞬だった。気が付くとユキちゃんの姿も豪雪も消え、部屋の中は元通りになっていた。
「ふっ、終わったようだな。ご苦労だった。もう服を着ていいぞ」
「寒くて、動けません」
何もかも元通りになったが僕の体はまだ凍えたままだった。先輩はコタツのスイッチを入れると服と一緒に僕を中へ放り込んだ。しばらくそのまま体を温め、コタツの中で服を着て外に出てみるとコタツの上にはうどんが置かれていた。
「食え。温まるぞ」
「はい。ありがとうございます」
熱々のうどんを食べてようやく人心地ついた。体調はすっかり良くなっている。部屋の中もいつもの見慣れた風景だ。全てが昨日までと同じ日常に戻っている。
「まるで夢を見ていたような気がします」
「いや夢じゃないぞ。実はこんなものがあるのだ」
そう言って台所に立った先輩が持って来たのはケーキとチキンレッグだった。ケーキにはイチゴとサンタの砂糖菓子がのっている。
「これ、本物ですか」
「そうだ。今日の昼、ケーキ屋と肉屋へ行き、定価の九割引きでゲットしたのだ」
「九割引きですか。クリスマス当日とはいえ、よくそんなに安くしてくれましたね」
「雪女の能力を使って目当ての商品の一部に霜を降らせてやったのだ。そしたら快く値引いてくれた」
うわあ、それって何かの犯罪に抵触しそうだなあ。まあでも今日中に売れなければ廃棄処分だろうし今回は大目に見てやるか。それにしても最後の最後でこんなご褒美が待っていたとは。人間万事塞翁が馬。何が起きるかわからないものだな。
「おっ、雪だぞ」
窓の外はもう真っ暗だ。その闇の中を街灯に照らされた白いモノがチラチラと舞っている。
「あれは幻影じゃないですよね」
「もちろんだ」
窓を開けて手を伸ばしてみた。白い雪が一片、手のひらに舞い降りた。不思議と冷たくない。
「ユキちゃん、無事に帰れたみたいだな」
舞い降りた雪は懐かしい温もりを残しながら手のひらの上で溶けていった。
雪 沢田和早 @123456789
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