後編
四年前、山村の若者と
ところが、雪女が手にした幸せが、災いを呼び込む元となってしまった。
膨れ上がった豊穣の霊力は、山村を離れ遠く山を越えた土地にまで力を及ぼした。それは腹を空かせた妖物の住処にまで、届いたのである。
こうして日照りをもたらす妖魔が山村に現れ、居座った。
名もその通りに「ひでり神」と云う。
当然、山の主たる雪女が気づかぬはずがない。
だが、季節は夏なのだ。
時節の巡りに、いかな大精霊といえど逆らえはしない。
冬と違い本領を発揮できない雪女では、山の霊気を喰らい力を増したひでり神に抗うことは難しい。夫と娘を護るだけで精一杯だった。
そんな妻と娘を、猟師の夫は身を挺して逃がそうとした。だが相手は妖物である。並の人間が敵う相手ではない。
敢え無く身を引き裂かれ、夫の肉は妖魔の糧となった。
雪女は娘一人を助けようと洞穴の奥に我が子を隠した。そして氷の護り結界の中に、幸の身体を封じた。最後に、雪女は吹きやまぬ吹雪に我が身を変えて、なりふり構わぬ守護結界となり、山を覆ったのである。
さしものひでり神も、雪女渾身の術は破れない。ただひたすらに護りの霊力が衰えるのを、辛抱強く待つことにした――。
――幸の心中より心を戻した道登は、制多と美夜に山村で起きた出来事の顛末を、語って聞かせた。
「吹雪を消し、現れたひでり神を調伏しなければ、村は救えないということです」
「御師さん、それじゃあ、雪女も助からないってことかい?」
「いずれにせよ、雪女は霊力を使い果たして霧散します。命を賭した術なのです」
うなだれる童子の肩に手を置いて師は、救えない命もあるのだと弟子を諭した。
「これから私が雪女の術を解きます。美夜はここに残って、封印から目覚めたお幸さんを護ってください」
承知したと、美夜は頷く。
「制多は私と一緒に外へ出ます。ひでり神を調伏しますよ」
やるぞとばかりに、制多が立ち上がったときだった。
一陣の風が吹いたかと思うと、道登たちの目の前に儚げな女の姿が現れたのだ。
雪女の、影であった。
影は道登に一礼すると、幸を封じた氷塊の前で膝をついた。
身を寄せて両腕を伸ばし、氷塊を抱きしめる。
氷の表面に頬を寄せ、ひとしきりして――。
次第に薄くなりながら、雪女の影は消えたのである。
後にはひとひら、大粒の雪の結晶が残されていた。
美夜が、それを手に取った。
雪のかけらは溶けることなく、儚くも涼やかな形を保っている。
「最後を悟って、我が子に形見を残したのじゃな……」
母子の別れを見届けると、美夜に「後を頼みます」とひと声残し、道登は制多を伴い妖魔調伏へと赴くのであった。
洞窟の入口に並び立ち、道登と制多は雪雲を見上げていた。
「制多よ、結界を解けばすぐに、ひでり神が現れるでしょう。私はこの入口を守らねばなりません。妖魔の相手は、お前一人にまかせます」
「わがっだ……さぶいから、はやぐじて……」
寒さと空腹で、制多は妖魔退治をさっさと終わらせたいばかりであった。
やれやれとしながら、道登は懐から煤けた朱塗りの
「では、始めます……よっ!」
気合を込めて、道登は手にした瓢箪を高く掲げると、
瓢箪は法師の手中で激しく震え、びょうびょうと吹雪に勝る音を鳴らし、猛然とした勢いで空気を吸い込んでゆく。吹雪は次々と、休むことなく瓢箪に吸われて――やがてすっかり、消えてしまった。
空から雪雲は消え去り、代わりに巨大な真綿のような入道雲が現れた。
差し込む日差しが、制多の顔を炙った。
じりじりとした陽光は、真夏の太陽の光りであった。
「すげぇ……仙人みたいだ……」と、制多は夏空を見上げて呟いた。
「いや、仙人なんですけど……」と、道登は迫りくる妖魔の影を見て呟いた。
奇怪な姿をした妖魔が、雪をたたえた森の奥から、風のように駆けてくる。
ひでり神――一つ眼の人頭に毛深い獣の体、腕と足が一本づつ、伸ばした身体は一丈ほどで、
「坊主がいる、坊主を喰えば寿命が伸びる。小僧もいるぞ、小僧の肉は甘くて美味い。まずは小僧だ……小僧が喰いたい!」
散々待たされた挙句、突如結界が消えたと様子を見に来てみれば、特上の馳走がふたつばかり増えたではないか。空腹に耐えかねて、ひでり神はいきなり制多に飛び掛かった。ところが制多は無構えのまま、飛び込んでくる妖魔の姿を眺めるのみ。
童子一巻の終わりかと思われたが……。
「ぎぃあああああっ……!」
悲鳴を上げたのは、ひでり神であった。
制多は、身に鋭く届く妖魔の殺気を読んでいたのである。
そして、制多自身はなんの殺気も発せず気配もなしに腕を上げ、ひでり神が飛び込んでくる軌道に、拳を置いた。
ひでり神には、突如眼前に拳が出現したようにしか見えなかった。勢いついて止まるに止まれず、勝手に飛び込み自滅して、目を潰された。
「いきなり危ないよ」と、制多が気遣いを見せるほどの間抜けぶりである。
「ふんっ! 潰れた目なぞ、小僧を喰えばすぐ元通りよ!」
総身を襲う苦痛によって、ひでり神は平常心を取り戻した。空腹による焦りは去り、まだ視覚を奪われただけ、ならば生気を心眼で見ればよいと思いつく。
そうして心眼を見開き大口を開けながら、再び疾風迅雷の勢いで制多を丸呑みにしようと、ひでり神は襲い掛かった。
心眼に捉えた制多は再び、ゆるりと片手を突き出した。
「同じ手を喰らうものかよ! 丸呑みにしてくれ……ごばっっあ!」
残念無念――丸呑みにできたのは制多の、金砕棒だった。
口から腹の中へ金砕棒を突き入れられて、ひでり神は串刺しにされた。
制多は金砕棒を手にして、ただ真っすぐに持ち上げただけである。
生気を発しない金物の形を捉えられず、拳を作って腕をあげたようにしか見えない制多の動きを、ひでり神は見誤ったのである。
ぱちぱちぱちと、制多の後ろから手を打つ音が鳴った。
「よくやりましたね、制多」と、弟子を褒める師の姿があった。
「おいら、ナンにもしてないけどなあ」と、弟子はあっけない幕切れにきょとんとして、金棒を呑んで身悶えるひでり神を眺めていた。
「おい! ひでり神!!」と、道登は妖魔に声を掛けた。
「クソッ、何だっ!?」と腐っても悪鬼、どこから発したかしっかりと返事をした。
だが、やはり間抜けなひでり神である。
串刺しから身を捻って逃げようとしていたが、道登の構える瓢箪の中に、すぽんとその身を吸われてしまった。
栓をして出口を封じた瓢箪の内から「このくそ坊主がっ! 出しやがれ!!」と、悪態をつくひでり神の悪声が轟いた。
「やかましい!」と道登は激しく瓢箪を振ると、さしもの妖魔も大人しくなる。
「御師さん、そんなものどうするんだい?」
うまくいったと瓢箪を懐にしまう道登に、制多は怪訝な目を向けた。
「あとで役に立ってもらうのですよ」と含んだ言い方をして、法師は笑むばかりだ。
こうして日照りの元凶たる妖魔を調伏し、吹雪も消えて、山村に平穏が戻るのだが――しかし、幼い幸を、独りにすることはできない。
あの子はこれからどうなるのかな……と、孤児でもあった制多は思うのであった。
§
雪は残るが寒さは去り、後は寺に帰って朝飯だと気を良くする制多は、洞窟の中へ美夜を呼びに戻った。
「おーい、終わったぞ!」
制多の大声に、美夜は「しーっ」と口元に指を立て、童子を咎めた。
美夜の膝に頭を預けて、少女が静かに眠っていた。
氷塊の封印を解かれた、幸の姿である。小さな手には形見の雪が握られていた。
まるで母親のように膝枕で娘を寝かせる美夜の様子を見て、制多は横を向いて口を尖らせた。
「おや……制多、焼いておるのかえ?」
「そんなんじゃ……ないやい……」
後から来た道登は弟子と頭に、ぽんと手を置く。
「さあ、帰りますよ」と、弟子の手を取り柔らに引いた。
洞窟を抜け出ると、美夜は少女を負ぶって歩き始めた。
「鳥になって運んだ方が楽なんじゃないの?」と、制多は訊く。
「こうしていたいのじゃ」と、美夜は首を傾け背中の
母親を演じられて、嬉しく思っているのだろう。
妖魔に変じる前、人であった頃の想いが、美夜の心をそうさせるのだ。
道登は何も言わず、美夜と幸を見守っている。
「それに……」と、美夜が言葉を継いだ。
「儂が背に乗せて飛ぶのは、制多だけじゃ」
目を細めて、美夜は制多の顔を見た。
「ふうん」とうそぶく制多の顔は、満更でもなかった。
道登は尼寺に帰ると、乙羽比丘尼に全てのいきさつを語り聞かせた。
道登が幸の身の振り方を比丘尼に相談しようとすると、
「この歳で娘を育てることになるとは、思いもしませんでした」
乙羽が先に、答えを告げた。
「良いのでしょうか? そうして頂けるのが、一番ではありますが……」
倖は、半妖なのである。
母である雪女を無くして、果たして人里で生きていけるのか。
不安な面持ちであるのは、道登と美夜の間に座る、幸も同じである。
「大丈夫。幸や、こちらにいらっしゃい」
乙羽に手招きされて、倖はおずおずと立ち上がると、比丘尼の傍らに手をついた。
「そんなに硬くならずに……これからここが、あなたの家になるのですよ」
面を上げた幸の肩を、乙羽はそっと抱き寄せた。
二人の様子を見ていた道登は、懐より一枚の紙を取り出し乙羽に手渡した。
「私も力になります。どこにいても、きっと助けに参ります」
「お優しい道登様……本当に、いつまでも変らないのね」
「それと、これを」と、道登はひでり神を封じた瓢箪も差し出した。
「雪が溶けて消えるころ、この瓢箪の中身を土地に撒いてください」
妖魔が取り込んだ霊気と雪女の残した霊力が土地に宿るから、これで作物は命を吹き返すだろうと道登は告げた。
「さて……そろそろ、お暇しましょうか」
法師はおもむろに立ち上がる。美夜と制多も、それに倣った。
「もう少し、ゆるりとなさってください……」
引き留める乙羽を、道登は微笑みで制した。
茫洋と咲く法師の笑顔は、春であった。
――後日のこと。
道登が告げた通り、枯れた作物は息を吹き返し、豊かな実りを村にもたらした。それどころか、霊気を大いに含んだ土地は長い間、村人に健康長寿を約束したという。おかげで乙羽も、幸が成人するまで健創に過ごしたそうだ。
さて、幸のその後である。
少女は長じて尼僧となり、
実母の雪女、仮初とはいえ母代わりをした美夜、そして育ての親で師となった乙羽。三人の母を持つ幸せを忘れぬように名乗ったと、伝えられている――。
村を遠くに背にした道登一行は、遠く北の夏空を見上げていた。
「さて、戻って北に向かいますよ」
「えーっ、おいらもう、寒いのはいらないよう」
「大事な用があるのです、文句言わないの」
こうして一行は、再び北陸へと旅立った。
さて、北陸で待つ大事な用とはいったい――その話は、またの機会にて。
流浪の賢人とその弟子、夏の豪雪を晴らして山村を救う まさつき @masatsuki
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