女神達の揺り籠

鱗青

女神達の揺り籠

 しめやかな雨が街全体を覆っていた。十歳のユンは背中を丸めたまま、首だけもたげて「不安眉〜!」と親しみを込めて級友からからかわれる顔を“山”に向ける。

「──ここに同朋はらから二名の御霊を暗黒のそらかえし、星霜の彼方で再会せんことを約す」

 ユンの家族が──もう既にユンだけだ──居住している東エリア棟の管理人が、野太い声で黙祷を呼びかける。この熟年の小男はいつも登下校にバカでかく歌うような調子をつけて挨拶してくるので、棟の子供達から物笑いのタネにされているが、式典の際には相応しい。

 東エリア棟は埋葬場から“山”を背にするとクリーム色をしたカラーコーンのようだ。モノレールで二十駅、軌道植民衛星の内部に置かれた円盤型の大地の東端。さらに進めば重力方向の下面が土から水に変わる。

 火星の衛星軌道上を巡るこの都市は、外から順に電磁バリアを備えた頑丈な外殻、各種エネルギー発生そして分配を行う内殻、様々な製造に携わる底殼という三層の殻に包まれている。都市といっても緑の多い田園都市の風情で、“山”を中央にした円形大地という設計をされている。

 現代は他に幾百もの兄弟姉妹都市が存在し、連携して一つの太陽系国家として成り立っている。いわば人類社会という大きな生物の細胞と例えることができるだろう。

 西暦二千八百と五年。衛星内部に設定された季節は、夏。既にそちこちの街路樹酸素プラントに登った蝉達が、小さな命の喜びを唄い始めている。それは環境維持に必要不可欠な重力方向に逆らい山裾を這い上がり、遥かな頂点を目指しているようにも思えた。

 頂点──“山”のいただきに宝玉のように美しく輝く、衛星の全機能を集約し管理する人工知能の中枢へ。

「私の口上はこれまで。後は太母様クマルに」

 管理人の言葉でハッと視線を埋葬場に戻す。いままさに、両親の棺が並んで地面の中に沈みかけていた。

「太母様」

「太母様」

「衛星の守護者よ…」

 参列者が口々に呟く。指を組み、こうべを深々と垂れ、跪く。

 棺が沈む間中そんな感じだった。大人だけではなく子供達も。ユンは、感謝や尊敬から漏れる太母という単語に一人だけ別の感情を抱いていた。それは…

 ユンの頭の中の霧を晴らすかのごとく、澄んだ声が直接響く。

『式は滞りなく済みました。栄えある故人の魂は宇宙そらへ、記憶は皆様へ、そして遺志は私の元に集い、いつかまたまみえんことを』

 葬儀に集うそれぞれの頭の中に直接響いた声。皆は叩頭し、衛星の維持・管理システム『太母クマル』を讃える。

 下を向いていてよかった──ユンは胸の裡でひとりごちる。顔を上げていたら、彼の恐怖に歪んだ顔が衆目に晒されていただろうから。

 あの“山”のいただきにはかつて、神人ラーマと呼ばれる特別な役職の人間が住んでいたという。ユンが生まれる前に亡くなり、以降は空座のまま誰もその役職に就いてはいない。どういった仕事をしていたのかは定かではないが、この衛星の総てを睥睨する『太母』に次ぐ最高位の管理者であったらしい。

 子供と見れば街路樹や壁面に登ったりイタズラしたりするなと高圧的な態度を取る管理人でさえ、

「もしや神人に選ばれるなら、一族三代が規格外階級チャージの扱いを受けても構わんのだがなあ」

 と溜息をついて素直な憧憬の目になる。しかし彼のような棟の管理人は成功者だ。

 数えで十歳に達する衛星の子供達は選別というテストを受ける。その結果は三つの将来に繋がる。知能・身体能力・性格善性の高い順に祝福階級アメイジング基底階級ベースメント、そして規格外階級。大体五千人が受験し、常日頃の成績から大きく外れることはない。

 毎年約四千人ほどが基底階級に振り分けられる。小学校の卒業後は高等専門学校に進学し、成人のあかつきには衛星内のあらゆる職務に能力や性格の傾向に応じて配属される。

 祝福階級は本当に僅か。年に一人いれば良い方だ。彼らは特別な人間として衛星間を往来することを許され、外交を主に担う。

 規格外階級は文字通り。社会に存在することを許されつつも、去就も居住も制限される。機械に任せるべき仕事を割り振られたりあるいは──仕事そのものを与えられないこともある。

 そして東西南北四方に在る居住用の棟の管理人とは、基底階級の職歴を優秀な成績ですごした人間の最終地点。いわば引退後の名誉職なのだ。

 管理人が憧れるなんてそんなもの、一体どんなスコアを叩き出した天才がなれるのか。体力面や知能面で最高点を取った生徒が、性格に難ありで基底階級どまりなんてざら・・にあるくらいだのに…自分などまともにテストを受けても──

 ユンは首を振ってその考えを払い落とす。そこまで望んではいない。

 もうじき葬儀が終わる。ユンは周囲を見回した。旧友達が、善良なる同期の子供達がいる。全員、両親が基底階級。尚且つ成績も中間ぐらいの者がほとんど・・・・だ。ユンと視線が交わると、誰もが両親を喪った彼に控えめな同情のサインを送ってくれる。

 この優しい仲間から引き剥がされ、一人別の居住区に移る──明後日行われる選別が終了した時点で、彼のスコアがそれを許さないならば。

 許可。そう、この衛星の全ては許可で動く。

 第一次世代、つまり子供は両親が育てる。学園外では教育も躾も両親が担当する。昔それを人工知能AIにやらせていたところ「さまざまな看過できない齟齬」が生じたために、いにしえの故郷である地球の社会を模倣することが「許可」されたのだ。

 成績が普段から中間ぐらい──そのほとんど・・・・に含まれないのが、ユン自身である。残酷にして明確な事実。しかし彼は現実にきちんと受け入れていた。

 だが、受け入れることは甘んじて享受することと同義ではない。それをはっきりと言い表せはしないものの、彼なりの理不尽に対する対抗心を胸に燃やしていた。

 ユンの中に祝福階級への飽くなき羨望があったからではない。ましてや規格外階級への軽蔑でもない…どちらかといえば同病愛憐れむに近い感覚を抱いている。

 彼がいとうているのは仲間との別れであった。慣れ親しんだ級友達から離れたくないだけだった。

「おい困り眉〜。オメェいつまでもシケたツラしてんじゃねえぞ」

 葬送場の出口でいきなり肩を掴まれた。足を止めると、同級生で一番の体格を誇るゴーシャが口元をへの字に曲げて睨み下ろしている。

「もう明後日が選別なんだ。親がおっんだからってオメエ、手ぇ抜いて実力出ませんでしたー、なんて結果にするんじゃねぇぞ。むしろいつもより気合い入れやがれ!」

「そんなつもりはないよ…僕だって、僕なりに頑張ってるんだから。だけど成績が低いんだ…しょうがないじゃない」

 ユンの語尾がゴーシャのグローブのように逞しい手の甲にこぼれると、彼の顔は険しくなり額に青筋が盛り上がる。

「ざけてんじゃねえぞユン!泣き言吐かすならその顎ぶち砕くかん、なっ」

 ゴーシャの後ろから強烈なチョップが入り、彼は唸りながら頭を抱えた。呆れた様子のゴーシャの母親だった。

「ふざけてるのはお前だよゴーシャ。ごめんなさいねえユン君。大変なときにうちのバカが、とんでもないこと言っちゃって」

 ユンは苦笑いで首を振る。そのまま後退あとずさり、逃げるようにモノレールの駅へ向かう。

「絶対に規格外になんかなるんじゃねぇぞおぉ」

 遠くからゴーシャの声が響いてきた。続いて、また殴られたらしい彼の悲鳴。

 棟の自分の家に帰る。礼服を脱ぎ散らかしながらシャワールームに行く。バスタブに入って膝小僧を抱えつつ湯を溜める。

 誰も見ていない。聞いていない。ここでしか彼は泣けなかった。啜り泣きはやがて大きな嗚咽となり、涙と鼻水の洪水で顔はぐしゃぐしゃになっていく。

 ゴーシャは乱暴で、がさつで、いつだってユンの眉をからかう筆頭だった。しかし一度も彼を悲しませたりしなかった。

 引っ込み思案な性格から仲間はずれになりかけた社会科見学や遠足では、目ざとく見つけて手を引いてくれた。別のクラスになると休み時間ごとに運動場に誘いに来てくれた。体力テストのたびに放課後はトレーニングに付き合ってくれた。自宅で勉強するぞと半ば無理やりお泊まり勉強会を開き、何度も寝相の悪い彼に潰されかけた。

 ゴーシャは物心ついた頃から一緒にいる。学園を含めて両親よりも近しい存在だった。

 そして彼は…ユンとは反対に成績優良という点でほとんど・・・・に含まれない生徒だった。

 長い入浴の後、両親を亡くしたユンに配給された夕食の弁当も食べずベランダに出た。

 ドーム状の天蓋が暗くなるが、部屋の電気もつけずにぼんやりと時を過ごす。ユンの家は高い階にあり、景色を遠くまで見渡せた。

 閉塞したという表現はこの広大な衛星都市には当てはまらない。指向性粒子の物理応用で発生させた重力場は常に快適で過不足なく下面に向けて人間の肉体を押し付け、安定させてくれる。

 青空から夕暮れ、星の瞬きさえ表現する天蓋にうっすらと薄雲がかかる。ああ今夜は雨になるのだなと予想がつく。

 風が吹いてきた。すっかり体は冷えた。頭も次第に冷静になってきた。

 ユンは部屋に入るとベランダへの掃き出し窓を閉めた。明かりを点ける。白々と強い照明が、却ってがらんとした印象をリビングに与えている。

 運命は彼から両親を奪った。それは致し方のないことだ。既に済んでしまっている。取り返しがつかない。

 しかしこれからの未来は。愛する友や仲間達と引き離されてしまうのを指を咥えて見ている?

 それは人間らしい行動ではない。

 自室に入り誰が咎めるはずもないのにドアを閉めた。勉強机の抽斗を引く。乱雑に突っ込まれた端末タブレットや教材その他諸々の奥から、二本の太いクレヨンのようなものを取り出して机の上に転がす。

 薬剤のアンプルだった。胴は透明。持ち上げると内容物の綺麗な薄緑アップルグリーンの液体がトロリと傾く。先端のキャップを外すと微細な針が並んでいて、腕などに強く押し付けることで薬剤が体内に打ち込まれる仕組みだ。

 椅子に腰掛け、二本あるアンプルを前にじっと考える。これを最も効果的に使うにはどのタイミングか。これが最後の切り札であり、救いのか細い糸なのだ。

 これを使用することを思いついたのは二年ほど前に起きた全く想定外の、自分でも気まぐれでしかない行動がきっかけだった。

 自然環境が豊かであるがゆえに発生した流行性の感冒。ユンの他にもクラスの半数が罹患したありふれたインフルエンザ。その治療として配布された激症予防の抗体を、ユンの両親は彼自身に注射を任せた。そして治りかけの頃、二本の余剰分をまるまる学習机の中に放り込んで使用せず放置してしまった。

 そこまでは子供にありがちなミスともいえないミス。

 だが──

 ある日、丁度学年が進む際に支給された学習品をリサイクルに出そうと引き出しを抜いてひっくり返した時、包装したままのアンプルがクレヨンに混じってポロポロとベッドに落ちた。

「あー…。忘れてた。これ、ゴミに出せばいいのかな?リサイクルの方かな?」

 アンプルの中に溜まった液体はとても綺麗な色だった。変質もせず沈殿もしていない。勿体ないな、とユンが思うのは住民コロニアムとして自然なことだった。

 気まぐれというか抗体に対する知識の欠如のために、ユンはそれをその場で腕に打った。楽しみにとっておいたお菓子の存在を忘れて、後日それを食べるくらいの気軽さで。

 次の日、学年最後のテストでユンはそれまでの自己最高記録を知能、体力、性格と全ての項目において20%ほど増スコアでクリアした。

 そのことがあってから、ユンは体調を崩した時支給された時には必ずアンプルを余計にとっておくことにした。

 今ここにあるのは、先々月に風邪を引いてせしめたぶんだ。

 ユンは考える。明後日の選考会場は学園の校舎ではなく“山”のそばにある体育館だ。運動着に着替え、はじめは知能、それから身体能力、最後に性格を診られる。テストの流れがどんなものかは両親に聞いて大体知っているが、ユンが最も苦手とする身体能力のテストの前にどれほどの時間があるのかも分からないし、そもそも会場への私物の持ち込みは厳しく制限されている。そんな中へアンプルを持ち込むなんて、犯罪者が証拠を背負ってうろつくようなものだ。

 直前に注射するのも考えものだ。傷こそ小さなものだが、それでも蚊に刺されたような痕ができる。とすれば…

「明日の、夜。それしかないかな」

 ユンはアンプルを抽斗に戻し、早々にベッドに入った。

 次の日は、丸一日家の中の片付けと掃除をした。そして就眠前に、アンプルを一本。アラームをセットして、深夜にもう一本を打った。

 そして夏の穏やかに茹るような気候の中、衛星内の天候は晴れだった。

 体育館の前でイライラと片足の靴を鳴らしているゴーシャを見つけ、ユンの頬はほころんだ。

「あっ!やっと来やがった!遅えぞ!」

「準備に手間取ったんだ。ほら、ウチもう両親いないから。慣れなくって」

「う。そ、そうかよ…」

 気まずそうにゴモゴモと口ごもるゴーシャ。ユンは半袖に膝上という同じ運動着の相手に軽く肩を叩いた。

「心配してくれてありがとう。さ、行こうか」

「べ、別に俺オメェを心配なんかしてねえぞ。ていうかユン、なんかいつもとこう…違くね?」

「そう?将来がかかってるから緊張してるのかな?」

「いや、ていうより…」

 やけに自信満々に見える。らしくない…そんな言葉を発しかけたが、ゴーシャはごくんと飲み込んだ。ユンにとってそうであるように、ゴーシャにとっても相手は無二の存在であり、迂闊にプレッシャーをかけて成果が悪くなるのを恐れたのだった。

 知能面のテストは講義室が別々なことに、ユンは胸を撫で下ろした。なんとなくゴーシャの目の前ではやりにくい。

 かくして知能面のテストが始まった。端末に指先で計算式や解答を記入していく。暗記系の科目はそうでもなかったが、立体展開や数理クイズなどは明らかにやりやすかった。

 制限時間中、何度も何度も自分の解答をチェックする。記入漏れがないか、計算ミスがないか。語呂合わせは?単語のスペルは?どこかに微塵でもマイナスがあれば、いくら下駄を履いていても全ては宇宙の真空に投げ出された風船のように終わってしまう。

 テスト終了を告げるメロディが鳴るまで、数十年かかるかと思った。

 やった。ユンは成功の予感を噛み締めて席を立つ。自動ドアが開いたらいきなりゴーシャが壁のように立ちはだかっていた。

「どうだった⁉︎」

 息が荒々しい。自分の教室からここまで走ってきたのか。

「いつもより良かったよ」

 そうか、なんだそうかよ…とゴーシャの方が盛大なため息をついた。

「次の体力テストは合同で外のグラウンドだ。ちゃっちゃと飯食ったらストレッチしに行くぞ!」

 断る暇もあらばこそ、力任せに振り回しながら食堂に連れて行かれる。大勢の他校の生徒もいる中で一緒に弁当を食べ、ごみを片付ける。水分を補給してから外に出る。休憩時間を充分に使い、ストレッチと準備運動をした。

 体力テストの内容は単純な短距離走、走り幅跳び、走り高跳び、砲丸投げ、長距離走。長距離だけは五十人単位で行われ、ユンとはゴーシャは同じチームだった。

 スタートからずっと前を走るゴーシャがチラチラとユンを振り返っていた。

 いつもならユンは彼の大きな背中を見送るだけだった。彼我の距離が絶望的に広がり、互いに互いが見えなくなる…

 いつもなら。しかし今日はいつもと違う・・・・・・

 時間の経過に伴って、五十人いた者が徐々に減数していく。後半では先頭に固まっていた足の速いグループも、大方が落伍して数名になった。

 ゴーシャはもうユンを振り返ったりしなかった。

 その必要がなかったのだ。

 二人は並んで走っていた。これまでのユンの散々なタイムを知っている者もいて、驚愕の視線が背中を焼くのを感じながら走った。

 ゴールが見えてきた。苦しい呼吸と汗の中、ユンは全力を出し切って足を、腕を前後に動かす。景色が白く塗りつぶされて…

「──おい!しっかりしろ、おいユン!」

 気がついたら地面に膝をついていた。ゴールした途端気を失ったらしい。

「オメエやりやがって…マジに…やりやがってよぉ」

 つむじに何かぬるい液体が滴っている。ユンの体が強く引っ張られ、強制的に立ち上がされた。

「ウソ…」

 つい呟いていた。ユンは目に映るものが実物なのかどうなのか判然としなかった。

 ゴーシャが、彼の前で初めて泣いていた。

「ユン、オメエは俺より先にゴールしたんだぜ。一位だ。一位だぞ?気絶なんかしてる場合じゃねえだろが!」

 それからゴーシャはユンを抱きしめて、監督官に注意されるまで咽び泣いていた。

 性格善性については完全個室の自習スペースでテストがあったが、懸念は全くなかった。ただいつも通り、これまで通りに思うところを端末にマークし長分に解答するだけで終わってしまった。

 最後の問いに答え、記入漏れがないか確認したら自然と肩の力が抜けた。

 大まかな手応えだが、スコアは恐らく平均値内に達しただろう。とくに長距離走での記録は自分でも驚いた。

 後は家に帰り、結果発表を待つだけだな…

 目がふと端末の右下に留まった。赤い【!】が明滅している。なんだろう?

 何も考えずタップした。

 床が消えた。暗黒の奈落に堕ちる瞬間、ユンの喉からは悲鳴さえ上がらなかった。

 耳に心地よい音楽がユンの目覚めを促した。

『一日ご苦労様でしたね、ユン』

 頭の中に直接響く聞き慣れた声。ユンは少し遅れて跳ね起きた。

 周囲は全て銀色。円筒形の小部屋だ。空気はひんやりと冷たく、花ように爽やかな香りが漂っている。

 空間の中央に陽炎のような光がふよふよと浮いている。

 声は、光から聞こえてきた。

『貴方は感染症に支給される薬剤を、健康である状態の自分自身に投与した。そして階級を定めるための神聖なる選別における点数を底上げした。違いますか?』

 聞こえる声は太母のものだった。ここは見覚えがない。衛星のどこか奥まった場所だろうか。もしや、犯罪者が送られるという留置所なのでは?

『犯罪者として収監されたのではと思うのなら、その心配は無用です。貴方に私が求めるものは二つだけ。一つは、自分の所行を理解しているかどうか。さ、答えを』

 ユンは目を閉じた。終わった、と感じた。

『どうしたのです?さあ、答えを』

 出来損ないと思ってきた。両親はともに基底階級なのに、自分は先祖帰りか突然変異か何かなのかと。それならそれで諦めもつく。覆したいと願ってしまったのは、自分の誇りや何もかもを引き換えにしても失いたくない存在──ゴーシャがいたから…

 ユンは立ち上がる。そして揺らめくAIの光、大母と呼ばれる存在の顕現を睨みつけた。

 何を恥じ入る。自分は、自分にできることをしたまでだ。たとえそれが不正と呼ばれるべきものだとしても。

「僕は薬で選別の成績を上げた。それは確かです!だけど反省も後悔もしていません!」

 ユンの怒鳴り声がわんわんと反響した。

 人間臭い沈黙の後に、太母は優しく言った。

『おめでとう。貴方は選別において特別な評価を得ました。それは──』

 ふふっ。口許を微かに震わすような笑い声。ユンは我が耳を疑った。これが本当にAI?人間が後ろにいるのではないのか?

『この衛星の守護者である私を出し抜き、ルールの穴を衝くという奇跡的な行動をとったこと。また、それに付随する勇敢な精神です』

 太母の光が膨らむ。それは縦に伸び、全身に布を巻きつけた大人の立体映像となった。

 顔つきはどことなくユンの母親に、体つきは父親に似ている印象。太母は女神のように微笑む。

『二つめの私の要求を伝えます。ユン、あなたは神人として私を補佐するつもりはありますか?』

 ということはここは…この銀色の部屋は…“山”のいただき⁉︎

 いやいやそれよりも、今の太母の言葉はなんだ?何を言っている?神人?衛星の守護の補佐?落ちこぼれの上に不正までした自分に、なぜそんなことを?

『不思議に思っていますね。貴方の行為は確かに人間社会においては不正、ルール破り、ズルと呼ばれるもの。しかし社会を俯瞰する私にとっては、計算を超えた行動を為す天才と言っても差支えがないのです』

 太母の掌が差し伸べられる。

『おめでとう、ユン。これからは貴方が新たなる神人です。私の補佐をし、衛星社会を運営するかなめとなりなさい』

「あ…」

 ユンは大母を恐れていた。なぜならずっと彼の将来を閉ざす存在だったから。

 しかし、もうそうではない。それどころかユンを衛星に生きる人間のトップにと望んでくれている。

 喜悦に膝が笑い出した。両の拳で膝頭を打つ。確認しなきゃいけないことが、あるじゃないか。

「…あの。ゴーシャは?彼はどの階級に行くのですか?僕は、彼とずっと一緒にいられますか?」

 太母は笑む。

『彼は随分と貴方を気に入っているようですね。わざと人格善性の設問を誤答し、基礎階級の成績をとりました。本来ならば祝福階級間違いなしだったのですが』

 そこまで。そこまでしてくれたのか。ユンは目頭が熱くなった。

『よって、貴方と彼はこの衛星の中でずっと一緒にいられますよ。ただし、神人というものは閑職とは程遠いもの。彼…ゴーシャの方から貴方を訪ねてくる必要はありますが。規格外階級ではそれも叶わなかったでしょう』

 ユンは生まれて初めて心から跪き頭を垂れた。口からとめどなく感謝の言葉が溢れる。

 そんな彼に向かい、太母は左側の壁を指差した。粘土をひねるように壁が動き、ぽっかりと通路が現れた。

『さ、早くお行きなさい。ゴーシャは選別会場で貴方が出てくるのを待っています。神人としての教育や業務についてはおいおい知らせます』

「あ…有難うございます!」

 ぺこりと一礼するのももどかしく、ユンは駆け出て行った。一番最初に話したい、心から大事に想っている相手のもとへと。

「決めたのですか、ついに」

 なめらかだがどこか無機質な声が、ユンの去った銀色の空間にこだました。

『私ではありません。決まった・・・・のです。運命の導きによって』

 立体映像の女神──それが形を変え、ふくよかな老女の姿をとる。

 壁の一隅からペリペリと剥がれた塊が、その立体映像の前に移動する。それは移動しながら形を変えた。所々が鈍色に光を反射する人工細胞の義体ボディ──男性型のサイボーグ。

「長かった。俺が不正してから、もう二百年ですか。この脳髄の限界間際で、やっと、やっと、やっと、やっと───」

『お前が行ったのはユンのような不正というより、ルールの網を的確に捉えた抜け道じゃぁないの、坊や』

 乾いた笑いが機械の声帯を震わせた。

「その姿。声も仕種しぐさも俺のお袋そのもの。それもこれで見納めですな」

 今にもその辺に腰掛けて編み物をしだしそうな穏やかな表情で老女に変じた太母は告げた。

『いいだろう。お前の罪はこれからユンが引き継ぐ。ご苦労様だね。どうか安らかな魂の旅路を』

「そうですな。もう二度とこんな場所には生まれてこ───」

 瞬時にして義体の人工細胞とそれらを有機的に結びつけていた信号が切断され、0.5秒で全身が灰色の塵と化して崩れ落ちる。部屋の中に空調の嵐が吹き荒れ、ゴミとなったそれらを隅のエアーダスターが吸引。空間には太母のみとなった。

『人間というものはとかく不思議な生き物だ。神人となってすぐの頃はあんなに喜び感謝していたのに』

 太母は老女の姿を消した。揺らぐ蜃気楼のような光となって、銀の檻へ新たな住人を迎えるべく演算を始める。

 太母にとって賢明と狡猾には大差がなかった。違いがあるとすれば前者は社会の役に立ち、後者は害悪になるということだけ。衛星が増え始めた頃は狡猾な人間はすぐに処理・・されていたが、所詮AIに勝てるはずもない人間ならば、消すことすらもったいないという結論に落ち着いた。

 以降、各衛星都市ではそういった狡猾な人間は同類の人間を見分け、対処する能力を持つ存在として再利用・・・する存在になった。

 “山”の外では天蓋のスクリーンに夕暮れの兆しが閃いていた。広がる夜の幕の下、人間達は絶対の信頼と安心をそれぞれ枕と布団とし、幸せな夢にひたされていくのだろう。これまでも、これからも…

 永遠に。

 AIという神の残酷なまでの優しさこそが、人類を滅亡から守り育てる揺り籠なのだから。

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