第27話

 我に返ったヨサリに、ハルは居ても立ってもいられない様子で湖を指差す。


「なぁヨサリ! ここの水って、決壊させられるか?!」

「決壊だと?」

「そう! 今、あの世って怪異だらけなんだろ? なら、全部鯨に食べてもらったらいいんじゃねぇかな?! さっきのあいつみたいに!」

「それは……っ!」


 息を呑む。


 ――三途の川の源流である湖をあふれさせ、鯨をあの世に放ち、怪異を一掃する。


 思いがけない、だがハルらしい突飛な提案だった。


 ヨサリは、一瞬で考えを巡らせて。


「……それは名案だが、決壊させられるかどうかは分からない」

「な……っ!」

「だが、決壊させるぞ。名案だからな」

「……ヨサリってさ、時々すっげー馬鹿になるよな? 馬鹿っていうか、単純?」

「貴様には言われたくない」

「はは! 怖ぇ顔!」

「いいから、やるぞ」

「よっしゃ!」


 どちらともなくうなずき合う。


 それからハルとヨサリは、一度崖から離れ、そのすぐ下にある岩場まで降りてきた。


「ヨサリ、やるって言ったからには、何か考えがあるんだろ?」

「あぁ。この近くに、奪衣婆だつえばの管理小屋があったはずだ。まずはそこで舟を拝借する」

「ダツエバ?」

「そうだな……三途の川の渡し守と思ってくれればいい。彼女の舟で水門まで行き、流れをせき止めれば、あるいは……」


 思い浮かんだ可能性を話しながら、湖畔に広がる笹藪の中へ、ヨサリを先頭にして分け入っていく。


 そうして、かつての記憶を頼りに進んでいけば。


「……ここだ」


 湖のほとりに建つ、屋根に大穴の空いた小さな丸太小屋。笹藪の中に散らばる、かつては船だったであろう木片の山。


 辿り着いた船着き場は荒れ果てていて、小屋の主の姿はどこにもなかった。……どうやら、ここも戦場になったらしい。


 それでも、途中で折れた桟橋には、古びてはいるが使えそうな木造の小さな舟が一隻、辛うじて残されていた。ありがたく拝借することにする。


 黙礼とともに心の中で礼を言い、ヨサリが桟橋に繋がれた紐を外していると、湖畔の方から何やらガタゴトと物音がした。


 見れば、視線を落としたハルが、丸太小屋の近くをうろうろと歩き回っている。目についた散らばった木片を、持ち上げては捨て、持ち上げては捨て。何か探しているのか。


「ハル、どうした?」

「ん~、いやさぁ、それって手漕ぎのろ舟だろ? どっかにになりそうなもんねぇかなぁって探してんだけど……」

「……そうなのか」


 首を傾げながら、手を前後に動かして、船尾に取り付けられたを漕ぐような手真似をするハル。


 言われてみれば、確かに、舟の船尾にはを差し込むであろう穴が設けられている。が、あるのは穴だけで、肝心の舟の推進力となる棒はどこにもない。これでは、乗れはしても前に進めない。


 どうしたものか、とヨサリがあごを撫でた時だった。


 ――ザァァ。


 その音に、湖を振り返る。


 すぐ目の前の湖面から覗く、白い鼻先。白波を割って伸び上がっていく、輝く巨体。――白く輝く無垢な魂たちによって形作られた、光の鯨。


「なっ……?!」

「すっげぇ~~! 近くで見ると、こんなにでっけぇんだな!」

「言ってる場合か!」


 暢気な歓声に、思わず声を荒らげる。


 こんな間近に、鯨が現われたら――!


 細長い頭をヨサリたちの方へ向けた鯨は、広げた胸びれで水面を掻くようにして、宙へとおどり出た大きな体を前方に押し出すと。


 ――ドパァァンッ!!


 一瞬にして、白く塗りつぶされる視界。全身に降り注ぐ、冷たい水飛沫。


 一拍遅れて、理解する。


 これは、巨大な鯨が生み出した大波だ。


 鯨は、その腹を湖畔の笹藪に叩きつけ、大波とともに陸に乗り上げてきたのだ。まるでヨサリたちの行動に――湖の水をあの世にあふれさせる、という目的に手を貸すかのように。


 途端、ガタガタと揺れる桟橋。グイッと強く引かれる左腕。


 確かめずとも分かる。波に飲まれた桟橋が今にも壊れようとしている。握ったままだった係留紐の先にある舟が、波に流されていっている。


 それを片腕一本で、渾身の引き戻したヨサリは、板の上を蹴って湖畔へと駆け出す。


 そして、右手を伸ばした。


「ハル! 乗れ!」

「ヨサリ!!」


 背後からぬっと伸び上がった、大きくも美しい流線形の影。


 あぁ、また鯨が――。


 そう思った瞬間、伸ばしたヨサリの手を、ハルの手が掴んだ。


 直後、頭上から真っ白な波の壁が落ちてきて、体が吹き飛ぶほどの冷たい衝撃と逆らえない水流が二人を包んでいった。




「――よっ。気ぃ付いた?」


 目を開けば、こちらを覗き込む大きな瞳。フニャリと力の抜けた笑みを浮かべた頬。水気を含んでしんなりとした白茶色の髪。


 背中に当たる木板らしき硬さと、まとわりつくグッショリ濡れた冷たい感覚に、ハッと気が付く。


 ヨサリは、半ば習慣のように腰に下げた刀のさやを撫でながら、体を起こした。


「……何が起きた?」

「さぁ。俺にもさっぱり」


 言いながら、ハルが肩をすくめる。


 二人は、ずぶ濡れのまま、古びた木造の小さな舟の上にいた。


 見上げれば、煙炎のような赤く暗い空。


 辺りには、見渡す限り延々と広がっている、穏やかな水平線。


 空の色を映した黒々とした水面には、時折吹き抜ける冷たい風にさざなみが立つだけで、それ以外には何もない。


 ――いや、あれは……閻魔の法廷か?


 揺らめくさざなみの隙間に目を凝らしてみれば、暗く透明な世界に閉じ込められた、荒れ果てた街並みが見えた。


 穴とヒビだらけの石畳。外壁だけが残された住居の跡。至るところに大穴が開き、えぐり取られたように崩れ落ちている屋敷。辛うじて形を留めているのは、遠くに見える、どっしりとした瓦屋根と立派な門構えが特徴的な建物――閻魔の法廷だけ。


 水底にあるのは、かつてヨサリが暮らしていた、残骸と成り果てた街並み。


 あの世の街並みだ。


 その廃墟群の上を、舟は進むでもなくユラユラと漂っていて――そうか、この舟はが無いから進めないんだったな。


「俺も気付いたら舟の上だったから、何が起きたかは分かんないんだけどさ。……でも、あの鯨がドバーッてやって、全部水浸しにしてくれたのかなって、俺は思ってる!」


 自信満々に言い「まぁ、分かんないけどな!」と笑い飛ばすハル。


 その明るい笑みに、ヨサリはつられて自分の口角も上がっていることに気が付いた。


「……そうだな」


 きっと、ハルの言う通り。


 果てなく続く水平線を作り出したは、あの白鯨だ。白く輝く巨体が、それが生み出す大波が、湖からあふれんばかりの水を注ぎ込んで、あの世を水底に沈めてしまったのだろう。


 不思議とヨサリも、当然のようにそう思った。


 ふと、視界の端でキラリと輝く何か。


 見れば、舟の下、すぐ近くの水の中を、ユラユラと泳いでいく白い光の粒が一つ。


 その輝きを追いかけるように、ハルが身を乗り出した。


「おっ! 綺麗~! 今、何か通ってったな!」

「あぁ。ここに残っていた亡者たち、妖怪や鬼たちの魂だろう。怪異になろうとも……あの世が終わろうとも、消えてはいなかったようだ」

「……そっかぁ」


 それを皮切りに、暗い水の中を、いくつもの白く輝く光の粒が通り抜けていく。


 海を泳ぐ魚の群れのような。


 あるいは、廃墟の上に降り注ぐ流星群のような。


 赤と黒ばかりの景色に浮かび上がるその輝きは、ヨサリがこれまで見てきたどんなものよりも美しくて――。


 するとそこで、じっと水面を眺めていたハルが、ヨサリの方を向いた。


「じゃあさ、死んであの世に行ったら、魚確定ってこと?」

「……そうなるな。水の中を泳ぐことになる、という意味では」

「ふうん」


 曖昧にうなずくと、再び水面へ目を落とす。


「悪くねぇなぁ。……生まれての海って感じで」


 そうしてハルは、クスリと愛おしそうに笑った。


 その言葉を聞いて、ふと考える。


 思えば、この男は言っていた。


「俺が信じてるのは進化論だ」と。


「『海にいた小っせェ生き物がしぶとく生き抜いた結果、俺が生まれた』って思う方が、よっぽど良い」のだと。


 ……その言葉は、決して嘘ではなかったのだろう。ただ、その信念に至った動機が「自分の視界に映るものが幽霊だと信じたくないから」というだけで。


 生まれての海。海を漂う小さな小さな欠片から、小さくともしぶとく生き抜く生物が生まれた場所。


 確かに、似たようなものかもしれない。


 ここにあるのは、小さな欠片のような、無垢な魂ばかり。


 もう記憶も、煩悩も、自我さえも無い。それでも、消えて無くなった訳ではない。

 罪を裁く者がいなくと、罰を与える者がいなくとも。鯨に揺られ、穏やかな波に漂いながら、輪廻の流れに戻ろうとしている。新たな生を受ける時を待っている。


 あの世は、また一から始まろうとしているのだ。


 その時、ザァァとさざなみの音がした。


 果てしなく続く黒々とした水面から、宙へとおどり出た白い巨体。胸びれを広げ、細長い頭が天をあおぐ。


 と同時に、声が響いた。


 朝の日差しのように爽やかで、朗らかな男の声。


『あの世はまだ始まったばかりだ! 出直してきな!』


 見上げると、白い鯨の体の中に、ひときわ輝く光の粒があった。


 まるで、夜明けの空に光る、明けの星のような。


『――その時が来たら、また会おうぜ。兄弟』

「なっ……!」


 ……いるじゃないか。


 たとえ鯨の一部になろうとも、自我を失わない魂が。


 欠けているがゆえに、決して無垢な状態に還れない魂が。


 片割れを待つ魂――己と、魂を分けた存在が。


「兄弟!!」


 声を張り上げ、輝く星へと手を伸ばす。


 直後、流線形の体が背中から沈んで、水面を割るようにして立ち上った大きな水飛沫の中へと消えていく。


 大波に飲まれた舟は、呆気なくひっくり返されてしまった。




 ――気付けば、何か柔らかなものの上で横たわっていた。


 腰に下がっている刀へ触れると同時に、ザラザラとした細かいものが手にくっつく。


 砂だ。


 そう思った途端、ムッとした熱気に満ちた夏の風が吹き抜けていった。


 嗅ぎ慣れた潮の匂い。びっしょり濡れ、肌に張り付いた重たい着物から感じる、涼しさと不快感。


 寝転んだまま目を動かしてみれば、灰色と茶色が入り交じった岩肌の小高い崖と、その上に植えられた松林が視界の端に映る。


 どうやらここは、一沙岬のすぐ西にある砂浜らしい。


「あ~……、追い返されちまったな、俺達……」


 唐突に、隣から聞こえてきたつぶやき。


 見れば、びしょ濡れのハルが、砂浜に寝転んだままじっとどこかを見上げていて。


「……そのようだ」


 思わずうなずくと、嬉しさがこらえきれなかったかのような、小さな笑い声がした。


「じゃあ、もうちょい生きてみるか~!」

「ふふ、そうだな」


 二人揃って寝転んだまま、空を見上げる。


 ……あぁ、もうすぐ夜がやってくる。


 夜の色に染まりゆく空には、ひときわ明るい宵の明星が輝いていた。

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あの世の終わり、泳ぐ白鯨 二階堂友星 @niboshimoku

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