第26話

「ヨサリ!」

「あぁ」


 どちらともなく視線がぶつかる。


 明るく弾んだ声色で、だが言葉尻を震わせながら呼ばれた名前に、ヨサリはうなずいた。


「――お前の言う通りだ、ハル」


 つかの感触を確かめるように、しかと両手で刀を握りしめて。


 はためく着物の裾から伸びた足で、履いた下駄の歯で、岩場を踏みしめて。


 頭の後ろで一つに束ねた長い黒髪が潮風に遊ばれるのをそのままにしながら、ただ前を――眼前に立つ着流し姿の青年を見据えて言う。


「覚悟しろ、都努真墨つののますみ。私はヨサリ――生者を守る、獄卒だ」

「本っ当、すごい獄卒さんだな、君は……ッ!」


 瞬間、踏み込んで斬りかかる。


 立ち上がりざま、大きく前に出した右足。頭の上へかざした刀。振り下ろした白刃は、上体を左に傾けた真墨の耳の横を、紙一重で通り過ぎる。


 視界の端に映った、こちらへ伸びてくる右手。


 咄嗟に、左足を引いて距離を取る。となれば、遠ざかった分だけ距離を詰めてくる着流し。その腕が懐まで入ってきた瞬間、下ろしていた刀を容赦なく振り上げる。


 右腕を両断する刃が、確かに見えた。


 だが、つかを握る手には、まるで手応えがなかった。煙でも斬ったかのようだな、と思ったところで、吹き飛んだ右腕が空中で黒い煙になって霧散する。実際、煙だったらしい。


 真墨は、失った腕の先から黒いモヤを吹き出しながらも、今度は左腕を振りかざして迫ってくる。それを見て、無闇に斬るだけでは倒せないか、と奥歯を噛んだ時。


「ヨサリ! 腹のど真ん中、あいつのマークが見える! 貫け!」

「承った!」

「なっ?!」


 背後から聞こえた声に、刀を降ろした。


 腰を低く落として、つかを右の腰骨に押し当てるように構えて。眼前まで迫っていた真墨の左手を身をかがめて避けると同時に、無防備な胴に突進して、一突き。


 真墨の体が強張り、直後、ガクリと脱力する。


 耳元で、潰れた呻き声が聞こえた。


「くそ、せめて……扉だけでも……ッ!」


 瞬間、ヨサリの目の前で真墨の上半身が千切れた。


「は……?!」


 突き立てられた刀によって真っ二つに分かれたかのように、ユラリと浮かび上がった上半身。それが、絶えず黒い煙をまき散らしながら、ヨサリの背後へと一直線に飛んでいく。


「ッ、あ、うぅっ……!!」

「ハル!!」


 振り返るやいなや、駆け出す。


 真墨の上半身に残された片腕が、ハルの左腕を掴んでいた。


 ハルは、咄嗟に逃げようとしても叶わなかったのだろう、左半身をひきずるように体勢を崩したまま、苦悶の表情を浮かべている。


 たちまち、肌に突き刺さってくる、冷たくて鋭い強烈な怨念。


 辺りにどす黒い煙の渦が立ち込めたかと思えば、倒れたハルを取り囲むようにして、墨色の卒塔婆が生えてくる。


「させるか!!」


 ヨサリは躊躇いなく、その渦の中に飛び込んだ。


 取り囲む卒塔婆をなぎ払い、真墨の上半身を両断し、立て続けにもう一太刀浴びせようと踏み込んだ――瞬間、岩場を踏みしめたはずの下駄が、ぐにゃりと沈んだ。


 ハッとして、足元を見れば……地面にポッカリと開いた黒い泥の渦。その中に飲まれていく、己の足首。


 直後、ドボンッと全身が水に叩きつけられた。


 そうして、水底へ沈んでいくような感覚がして、視界が真っ暗になって――。




 ――いつの間にか、刀を握ったまま、どこか懐かしい笹藪ささやぶの中にいた。


 ハッと目を瞠れば、生ぬるい風が頬を撫でていく。たちまち辺りを取り囲む、さざめきのような葉擦はずれの音。鼻をくすぐる土臭さと、すえた匂い。


 周囲に広がる松林をぐるりと見回したヨサリは、すぐ近くの藪の中に埋もれた白茶色のふわふわ頭を見つけると、一目散に駆け寄った。


「おい、ハル。起きろ」

「う、う゛ぅ~ん……。……ん? ヨサリ?」


 肩を叩けば、重たそうに持ち上げられるまぶた。


 大きな瞳が真っ直ぐこちらを向いたことに、ひとまず胸を撫でおろす。


 未だ左腕は痣で覆われ、左半身もぐったりとしていて力が入らないようだが、扉にされかかった魂が無事なら、それで。


「こ、ここは……?」

「あの世だ。どうやら、道連れにされたらしいな」

「えっ?!」


 裏返った声を上げたハルが、半身を起こしてキョロキョロと辺りを見渡す。


 と、その大きく見開かれた瞳が天を向いて、ピタッと動かなくなった。


 つられて見上げれば、木々の隙間から覗き見える、煙炎のような赤黒い空。


「ハンバーグソースだ……」

「はん……何?」

「空の色だよ。この色、母さんのハンバーグソースみたいだって思ったんだ……。そうだよ、ここ、見覚えがある……」

「……あぁ」


 それを聞いて、思い出す。


 いつか見た、テルがあの世へ落ちてしまった時の、最期の記憶。そこで見た空も、確かにこんな色をしていた。ともにあの世へやってきていたハルも、同じ景色を見ていたのだろう。


「じゃあ……くじらもここに……?」


 つぶやいたハルは、思うように動かぬ左足などお構いなしに、フラフラと立ち上がろうとする。

 見かねたヨサリは、一度刀を鞘に収めた。空けた右手をふらつく背中に回し、首の後ろに痣で黒くなっているであろう左肩を乗せ、力の入らない体を支える。


 そうして肩を貸しながら藪の中を歩いて――不意に、視界が開けた。


 眼下に広がったのは、海と見紛うほどの、見渡す限りの黒々とした湖。崖の下では、ゴツゴツとした岩が不規則に並んでいて、それらを削り取らんばかりの荒波が押し寄せていた。大きな水飛沫が上がる度に、ドパーンと腹の奥を揺らす波の音が聞こえてくる。


 途端、ハルが確信めいた声を上げた。


「や、やっぱり! ここ、あの時の一沙岬かずさみさき!」


 が、ヨサリは首を横に振った。


「……いや、ここは三途の川の源流だ」

「さ、三途の川ぁっ?! あ、あの、死んだら渡るっていう……?」

「あぁ。ここは、それを流れる水が湧く場所。あの世とこの世の境界……裁きを受けた魂が、輪廻の流れへ戻るため、無垢な状態に還る場所とも言うべきか……。お前がここを一沙岬だと感じるのは、この世との繋がりを感じるからだろう。ここに飛び込めば一沙岬へ戻れる、と呼ばれているんだ」

「な、なるほど……?」


 納得の言葉を口にしたくせに、きょとんと首を傾げるハル。……まぁ、分からんでいい。


 その直後だった。


 ヨサリは、左手で刀のさやを握り、つばを押し出す。


 ――この、肌を刺すような怨念は。


 気配を辿って、見上げる。


 赤く暗い空の中、どこからともなく現われ、湖面めがけて落ちていく着流し姿の青年――都努真墨つののますみ


 思いきり舌打ちをしたヨサリが、つかを撫で、いよいよ抜刀しようとして。




 瞬間、ザァァ、と何かがさざめく音がした。




 ハッとして、音の方へと視線を向ける。


 見下ろした暗い湖の中から、荒れる白波をかき分けて、顔を出した何か。それは、水面から伸び上がるようにして、宙へとおどり出て――。


 ――現われたのは、見渡す限りの湖が狭く感じられるほどの、大きな大きな白い鯨だった。


 いや……本当に鯨か?


 よくよく見てみれば、鯨の体は、白く輝く光の粒で出来ていた。数え切れないほどの星の輝きのような光が一つに集まって、「鯨」という形を作り出しているのだ。


 光の鯨は、その巨体とまとわりついた水滴を輝かせながら、胸びれを広げ、細長い頭で天をあおぐ。


 そうして、空に一番近づいた時、巨躯に見合った大きな口を開け――。


 ――ばくんっ!


 空から落ちてきた青年を、丸呑みにしてしまった。


 唖然として言葉も出ないハルとヨサリの目の前で、また一つ、輝く光の粒が増える。


 そのまま鯨は、どこか満足そうに背中から湖へと沈んでいった。流線形の美しい体が水面を割り、水飛沫が立ち上る。ドーンと地鳴りのような音が響き、離れた崖の上に立つ足の裏にまで、その振動が伝わってくる。


 ふと、視界の端で、スゥッと消えていく何か。


 見れば、肩に回していたハルの左腕から黒い痣が無くなり、本来の肌色へと戻っていて。


 と同時に、先程感じた怨念が、跡形も無く消えていることに気が付いて。


 あんぐりと口を開けたまま、頭の片隅で理解する。


 真墨は、鯨の一部になったのだ。白く輝く無垢な魂に――記憶も、煩悩も、自我さえも捨てた、輪廻を待つばかりの魂に。


 先に言葉を発したのは、ハルだった。


「く、鯨だ……。あの日見た……鯨……」


 まだ覚束ない足取りで、一歩、二歩。


 それでも、痣が消えたことで動くようになったらしい足でしかと立ち、眼下に広がる水面から視線を逸らさぬまま、つぶやく。


「そうか。俺、一沙岬で見たんじゃなかったんだ……。ここで……あの世で見たんだ……」


 言いながら、何もいなくなった空を見上げる。


「なんかすっげー……でっかくなってた、ような、気もするけど……?」


 その光景に、その言葉に、まさかと思う。


 まさか……あの鯨を形作る光の粒は、ヨサリが斬ったものたちの魂なのか?


 ただひたすら、この世にあだなすものたちを斬ってきた。


 斬って、斬って。そうして、焼け野原となったあの世へ、輪廻の流れに戻れるかも分からない地へ、その魂を送ってきた。


 そう思っていた。


 だが……ヨサリが斬った魂たちはここで無垢な魂となり、鯨となって、輪廻の流れに戻れるその時まで、輝く巨体の中でゆりかごのように揺られ、泳いでいるのだとしたら?


 それはなんて――。


 ――いや、だとしても、不可解なことがある。無垢な魂に自我はない。当然、意志もない。ならば先程のように、落ちてきた真墨を食べるなんてことは出来ないはず……?


 ……と、そこまで考えたところで、突然視界がガクガクと揺れた。


 一人物思いに沈んでいたヨサリの肩を、ハルが思いきり揺さぶったのだ。

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