第2話、秘書の契約

 マンション……いや、これは億ションという言葉が相応しいのではないか。

 仁は通されたリビングのソファーの端で縮こまりながら、視線を控えめにさ迷わせる。

 ファストフード店を出てすぐに、その店舗の駐車場に停まっていた黒い軽自動車に乗せられて、仁は玲一が言う「マンション」に連れて来られた。

「悪いね。大したものが無くて」

 そう言いながら玲一は、テーブルの上にグラスを置いた。中には氷と麦茶が入っている。仁はすぐにそのグラスに手を伸ばす気にはなれず、小さく「どうも……」と頭を下げた。

 室内は、文字通りがらんとしている。

 テーブルやソファー、テレビやエアコンといった生活に必要なものは揃っているが、散らかるようなものはいっさい置かれて居ない。仁は、ただ広いだけの空間に、ぽつんと置かれた置き物の気持ちになった。

「あの……失礼ですが、おひとりでここにお住まいなのですか?」

「え?」

 玲一は仁の向かいのソファーに腰掛けて、自分のグラスに口をつけた。

「ええ、寂しいおひとり様生活です」

「そんな、寂しいだなんて……」

 失礼なことを訊いてしまった、と仁は慌てる。

「僕は、このお部屋がとても広いので誰かと生活されているのかと思っただけです!」

「広い……確かに広いですね。まぁ、最近は会社の関係者くらいしか上がりませんね。それと宅配便の配達員さんぐらいです」

 そう言うと玲一は傍に置いていたノートパソコンを操作し始めた。仁はこっそりそれを見る。有名なメーカーのマークが入ったパソコンだった。

「これから、雇用契約書を作ります」

「え? 契約書?」

「こういう事は、早い方が良いので」

 手元を見ずにキーボードを打ちながら玲一が言う。

「契約の更新はどうしましょう……一年ごとの方が良いですか? ああ、合わないと感じたらいつでも言ってくださいね。一応、辞める二週間前に報告しろと書いて置きますが形だけの文章として捉えていただいて構いません。あと、お給料の支払い日は……」

「ま、待って下さい!」

 仁は声を上げる。

 話がどんどん進んでいるが、合うも合わないも何も、自分がどんな仕事を任されるのかをまだ聞かされていない。そんな状況で、契約書にサインをするわけにはいかない。

「駿河さん! 僕はいったい、どんな仕事をすれば良いのでしょうか!? 駿河さんは生活のお手伝いをするように仰いましたが、詳しいことは何も説明を受けておりません!」

「……ああ、すみません。いけないな、どうも俺はこういうことが苦手で……」

 玲一は自虐的に笑った。

「葉山さん」

「は、はい!」

 仁は姿勢を正す。

 玲一は、ゆっくりと口を開いた。

「今更、こんなことを訊くのはおかしいですが、住み込みで働くことは可能ですか?」

「す、住み込み!?」

 突然の「住み込み」という言葉に、仁は驚く。その様子を見ながら、玲一は静かに言葉を続けた。

「出来れば、ここに住んでもらいたいのですが、可能ですか? もちろん、強制はしません。ただ、先ほど履歴書を見た際に、通っていただくより住んでいただいた方が効率が良いと思いましたので……」

「あ、ああ……」

 確かにそうだと仁は思った。ファストフード店を出て、車に揺られながら窓の外を眺めていた時に、実家からは遠いなぁ、と感じていたからだ。

 ただ、住み込みになると、同居している両親はどう思うだろう。両親との関係は……今はそんなに良好ではない。その原因は自分にある。就職先が決まらないことを陰でこそこそと言われていることを、仁は狭い家の中で把握していた。出来れば、今は距離を置きたい。自分は成人しているのだから、住み込みで働くことについて両親に許可を取ることも必要ではない。仁は、膝の上で握った手に、さらにぎゅっと力を入れた。

「……大丈夫です。住み込みで働かせて下さい。ただ、必要最低限の荷物は取りに行きたいです」

「ありがとうございます。もちろん、荷物は取りに行っていただいて構いません。俺は葉山さんをここに閉じ込めると言っているのではないのです。いつだって用があれば、ご実家に戻っていただいて良いですよ」

 そう言いながら、玲一はジャケットのポケットから鍵を取り出して仁に手渡した。

「この部屋の鍵です。お預けします」

「あ、ありがとうごさいます」

 緊張しながら仁はそれを受け取ると、それをそっとテーブルの上に置いた。名刺と同じで、渡された物をすぐにしまうのは失礼になるかもしれないと思ったからだ。あとで何かキーホルダーをつけなければならないな、と仁は銀色のそれを指でなぞった。

「それから、仕事内容ですが……」

「っ……!」

 玲一の言葉に、仁はまた姿勢を正す。玲一はノートパソコンを閉じて、真っ直ぐに仁の目を見て言った。

「仕事内容は、ずばり、家事全般です」

「……へ?」

 仁は間抜けな声を出した。

「か、家事ですか?」

「そうです」

 玲一は表情を崩さない。

「ハウスキーパー……と言うのでしょうか。俺は家事全般が苦手なので、俺の代わりにそれを請け負って欲しいのです」

「は、ハウスキーパー……」

 仁は不安気に俯いた。家事を行ったことが無いわけではないが、自分の母親のように完璧なことが出来るとは到底思えない。そんな仁の様子に気付いたのか、玲一は少しだけ今までとは違う柔らかい声で言った。

「まぁ、固くならないで。秘書だと思って仕事をして下さい」

「秘書……」

「俺のサポートをするんです。つまりそれは秘書ですよね」

 果たして本当にそうなのだろうか。

 疑問に思いながらも仁は小さな声で玲一に言った。

「……俺は、洗濯や掃除、それから料理といった事は経験があります。昔から、両親が共働きで、出来ることは自分で行ってきましたから」

「はい」

「ですが……駿河さんが求めるようなレベルの家事が出来るのかどうかが不安です……」

 仁は自分の正直な気持ちを口にした。心配事を抱えたまま、この契約を結んでしまうのは良くないと思ったからだ。就職が決まるのは嬉しいが、不安なまま仕事を与えられるのは望んでいない。

 玲一は黙って仁の言葉を聞いていた。だが、数秒後にふっと息を吐いて笑う。

「葉山さんは、真面目な方ですね」

「え? 真面目?」

 仁は驚く。気の小さい人間だと思われても仕方無いと覚悟をしていたのに、玲一からの評価は思ってもみないものだった。

「真面目で真っ直ぐですね。益々、気に入りました。俺は、葉山さんだからお願いしたいです」

「ですが……」

「お恥ずかしい話ですが」

 玲一は息を吐く。

「俺は家事が苦手です。生活に支障が出るレベルで」

「え……?」

 そうは見えない。

 その証拠に、今居るリビングは綺麗に掃除がされて片付いている。それを仁は思い切って玲一に言った。すると、玲一は困ったように途切れ途切れに語り出した。

「散らかるので、余計な物は置かないようにしているだけで……そう、買えばすぐに散らかるんです。だから昨年、生活感の無い部屋を目指して断捨離をして……自室もそうです……もうこのマンションには寝るために帰る場所だと割り切って……その、まぁ、そういうわけです」

「そ、そうなんですか」

「ですが、俺も良い歳……二十八歳を過ぎたので、周りが家庭を持ち始めて、その、このままではいけないと思いまして……まずは、自分の生活を改善しようと思ったのです。ですが、ひとりでは不安で……そんな時、葉山さん、あなたが現れた」

「ぼ、僕ですか?」

「そうです。誰かが監視、なんて言い方はおかしいですが、一緒に生活をしてくれる人が居れば、俺も変われるかな、と思いまして」

「……」

 仁は目を見開いて玲一を見つめた。こんなに完璧に何事もこなしてしまいそうな人なのに、そんな弱点があるなんて……仁はただただ驚いて、言葉を忘れてしまったかのように黙って玲一の話を聞いていた。

「会社に秘書は居ますが……なんだか嫌でしょう? 会社の人間に私生活の管理を頼むのは抵抗があります。ですから、葉山さん、完璧で無くても良い。今の葉山さんで良いですから、私の私生活の秘書になっていただけませんか?」

 玲一の目は真剣だ。

 仁は戸惑う。だが、玲一の気持ちは痛いほど理解出来た。きっとこの人も「イメージと違う」と他人に言われたことがあるに違いない。その理由で面接を落とされまくっている自分と、目の前の完璧に見えるその人と影が重なって見えた。

 仁は覚悟を決めて、乾いた喉から声を出した。

「……分かりました! 秘書、務めさせていただきます!」

 仁の言葉に、玲一は柔らかく目を細めた。

「ありがとうございます。葉山さん」

 すっと玲一が右手を差し出す。仁はその大きな手をぎゅっと握った。

「これからよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いいたします……あの、契約は結ばれたので、駿河さんが僕に敬語は使わなくてもよろしいのではないかと思います……」

 遠慮がちに仁が言うと、玲一は頷いた。

「そう……だな。まぁ、葉山さんがそう言うなら、崩させてもらおうかな」

「はい」

 仁は内心ほっとした。年齢が上の人から、ずっと敬語を使われるのは余計に緊張する。

 そうだ、と玲一は何かを思いついたかのように目を光らせた。

「親睦を深めるために、名前で呼び合うのはどうだろう?」

「名前、ですか?」

「そう。俺は仁君と呼ぼう。仁君は俺のことを玲一と呼んでくれ」

「は、はい……玲一さん」

 雇用主のことを名前で呼ぶのは、なんだかどきどきする。仁は小さな声で言われた通りに名前を口にした。

「改めて、これからよろしく」

「よろしくお願いします」

 もう一度握手をして、ふたりは小さく笑い合った。これから、どんな毎日が待ち受けているのだろう。忙しない心臓の音を聞きながら、仁は新しい生活の始まりに想いを馳せた。

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スーツを脱げば、あなたは甘口 水鳥ざくろ @za-c0

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