放課後アンビバレント

名暮ゆう

本文


 早朝、教室内で化粧品が発見された。

 化粧品の持ち込みは校則違反である。異常に気づいたある生徒が担任に届け出たことで事態は発覚し、放課後に急遽ホームルームが開かれることとなった。そこに実物が置かれていたという事実が存在する以上、学校側は事実確認の後に該当生徒を処分しなければならない。


「それは、私のものではありません」


 米ぬか成分の素晴らしさを謳うパッケージに包装された化粧品を指差しながら、佐伯さえきさんは泰然自若に答えた。

 化粧品は彼女の机に置かれていたため、疑いの目が向けられている。

 しかし、彼女の素行とその肩書きに鑑みても疑う余地はない。

 佐伯さんは学級委員長である。クラスをとりまとめる存在として校則の遵守は求められて当然であり、実際に彼女はその責務を全うしてきた。よって、彼女が化粧品を校内に持ち込んだという話は、「朝日は西から昇ってくる」と説くも同義である。

 担任の松田まつだは彼女の姿勢に納得したようで、首を大きく縦に振ってみせた。松田は温厚で実に生徒想いである。故に、生徒の校則違反については慎重に判断する。今回の一件も総合的な判断のもとに結論を下すつもりなのだろう。


「せんせー、ちょっといーですか?」


 そこで、ある女子生徒がこの場には似合わぬ笑みを浮かべながら軽く手を挙げた。松田は発言を許可すると、女子生徒は組んでいた足を解いて気怠そうに立ち上がる。


「わたしー、佐伯さんが女子トイレで化粧品使ってるとこみたことありますけどー」

「…………えっ?」


 それは、佐伯さんの主張に相対する証言だった。佐伯さん自身も拍子抜けした表情を浮かべながら、思わず声を漏らしていた。松田は手元のメモ帳にボールペンを滑らせて何かを記帳すると相槌を打つ。


「それは本当か?」

「嘘じゃないですよー。他の人にも訊いてみたらどーですか?」


 発言者を筆頭に、周囲の女子生徒も肯定するようなそぶりを見せる。その顔ぶれには佐伯さんと仲の良い女子生徒も含まれており、証言がある程度の正当性を孕んでいると捉えられても仕方がなかった。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 まさか自分が不利な立場に陥るとは考えてもみなかったのだろう、佐伯さんは明らかに冷静さを欠いていた。


「これは何かの間違いですっ。私は校則違反に該当するものを一度も持ち込んだことがありません。い、一度もです!」

「……佐伯の言い分は理解できる。しかし、ここに実物がある以上、誰かが教室に持ち込んだという事実が生じている。また、佐伯自身は否定しているが、多数の生徒から佐伯による化粧品の使用が証言されている」


 僕もできることなら佐伯さんは持ち込んでいないと思いたい。

 しかし、思いたいで済ませられる話ではない。そこには一つの証言と確かな民意が宿っている。

 佐伯さんは如才なく立ち回れるとともに、他人の間違いを指摘できる人間だ。それ故、周囲に敵を作りやすい。先程から佐伯さんの主張に真っ向から反論している人物は素行の悪さに定評があり、頻繁に注意されている。


 もし、佐伯さんを陥れるために暗躍しているとしたら――。


 ……では、普段から佐伯さんと仲の良い生徒らが同調するのは何故だろう。疑問が湧き出てきて教室を一望するが、クラスメイトの素振りから読み取れるのは教室の雰囲気と馴染んでいるということ、ただそれだけであった。

 だからこそ、心臓のけたたましささえ意に返さぬような不気味さを覚えてしまう。

 何かがおかしい。


 何かがおかしいのに、その正体が分からない。


 ……松田の発言の後、野次が飛び交う。それは次第に大きくなっていき、収拾がつかなくなる。

「静かに。しずかにッ!!」

 松田は普段の姿勢には似合わぬがなり声を上げると、二度咳払いして教室の主導権を取り戻した。


「今日のことはひとまず保留とする。もう遅いから、気をつけて帰宅するように」


 ……結論が出ることなく、ホームルームはお開きとなった。

 鈍色に霞む空が見下ろす校舎外はやけに心苦しい。後方を向くと、下駄箱で所用に励む佐伯さんの姿があった。色褪せたローファーは佐伯さんの物に対する価値観を人知れず教えてくれる。


「佐伯さん、大丈夫?」

「き、木下きのしたくん……」


 木下とは、僕のことだ。

 それまで俯きながら歩いていた彼女は途端に笑顔を繕うが、自身の潔白を晴らせなかった歯がゆさは隠しきれていなかった。


「心配かけちゃって、ごめんね」

「ううん。僕は佐伯さんのことを信じてるから」

「……そっか」


 今の彼女にはあまり好ましくない言葉だったか、やり過ごすための返事だったような気がした。彼女の視界に僕は映り込んでいない。口元を緩ませながら遠くの木々を眺めており、精神の蝕まれていく様子が手に取るように分かる。このまま一人で帰せば、やがて赤信号の横断歩道に足を踏み入れて命を落としかねない。

 それじゃあまたね、去り際に呟く彼女を制止する。


「一緒に、帰ろう」

「……え?」

「このまま佐伯さんを一人で帰すのは危険だ。家まで送るよ」

「…………」


 沈黙の後、彼女は澄んだ海原にも似た瞳を波打たせながら快く頷いた。


「ありがとうっ、木下くん」


 そうして僕らは帰路に就く。坂道を下った先にある校門は大通りに通じており、帰宅ラッシュを形成する数多の車両によってライトアップされていた。

 その間、他愛のない話に興じた。今日の午後はやけに眠かったとか、昨日のテレビ番組がどうだったとか……誰もが一度は交わしたことのあるような話題で、僕らは確かに談笑していた。

 そう、僕は佐伯さんと談笑していたんだ。

 ……やがて大通りから外れて、人気のない路地を通り過ぎて、住居が転々とする丘へと辿り着く。夕食時らしい食欲をそそる香りが鼻孔をついた。


「この辺でいいよ」


 年季の入った外灯を目印に、彼女はポツリと呟いた。


「……う、うん」

「わざわざ送ってくれて、ありがとうね」


 はにかむ笑顔から放課後の糾弾劇はまるで感じられない。眼前に佇んでいるのは、僕のよく知る学級委員長の佐伯さんそのものだ。些細な一時が彼女の支えとなったのなら本望である。


 ――しかし。


 湧き上がる衝動が今にも口から飛び出そうになる。

 これは抑えるべきなのだろうか。

 それとも、告げるべきなのだろうか。

 答えに窮していると、佐伯さんは背中を向けて歩き出す。


「あの、佐伯さんっ!」

「……どうしたの、木下くん?」


 このままではダメだ。

 覚悟を決める。

 吐露寸前の衝動を咀嚼して、自分でも驚くほど落ち着いた声調で佐伯さんにこう告げた。




「……佐伯さんのお家って、真逆だよね?」

「え?」




 …………首を傾げたいのは僕の方だ。

 住居の場所を忘れることがあるだろうか。

 記憶障害や極度に忘れやすい性質であれば考え得るか。

 しかし、佐伯さんが? 責任感がひと一倍強く、暗記に長けている成績優秀の彼女が? 引っ越したという話も聞いたことがない。

 

 ……考えが整理されると、自ずと一つの結論が導き出される。


 しかし、それは裏切りだ。

 佐伯さんに対する裏切りだ。

 僕が彼女を疑うなど、決してあってはならない。彼女が真と言えば真であり、偽と言えば偽である。僕にとって命題の体現者たる存在に対して一つでも疑いの目を向けることは、その時点で僕の中で形成されている彼女の存在意義そのものを否定することとなる。

 だから僕は両目を閉じた。

 深淵が自分自身を穢すよりも早く――


「今朝、教室内で化粧品が発見された」

「え? ああ、うん」


 ……産声にしては鋭すぎる音が僕の心をつんざいた気がして胸に手を当てる。それまで確かに安定していた精神が、土足で踏み汚されるかのような不快感を覚えた。


「場所は私の机。化粧品の持ち込みは校則違反だから、クラス内の秩序を保つ役割がある学級委員長が持ち込んだとなれば、本末転倒だよね」

「そ、そうだね。その通りだ」

「誰かが明確な意志を持って私を陥れようとしている」

「う、うん。僕は佐伯さんのことを信じてるから」

「確かに、私も木下くんのことは信じてた」


 過去形に思わず息を呑む。満ち満ちた可笑しさを目撃したと言いたげな笑みを浮かべる彼女は、前のめりながら一歩ずつ確実にこちらへと歩みを進めてくる。


「ねえ、どうして木下くんが私の家を知ってるの?」

「……だ、だってそれは」

「それは?」

「友達、だし……」

「友達? 私と、木下くんがぁ?」


 どうして首を傾げるんだ。

 どうして頷いてくれないんだ。

 わけが分からず混乱していると、どこか陽気さを滲ませながら一歩、また一歩と、やはり佐伯さんは距離を詰めてくる。


「木下くんはね、私のことを気にかけてくれるクラスメイト。それ以上でも、それ以下でもないの。私はこの関係を発展させる気は一切なかったし、君も踏み込んでくることはないだろうと踏んでいた。

 だけど、どうやら私の思い違いだったみたいだね」

「僕が? 思い違い? 何を?」


 彼女は誰に対しても平等に接することのできる人物である。

 故に、僕に対しても周囲と同様の接し方をする。


「うん。思い違い。同時に君も、私に思い違いをしてる」


 僕はこんなにも彼女を想っているのに、彼女は僕を想っていない。

 君は、どうして。どうしてこの最たる愛に気づかない。


「私は木下くんのこと、これっぽっちも好きじゃないよ?」



 ――ああ、そうか。



 

 だから、復讐することに決めたんだった。

 どれだけ時間をかけても、僕を有象無象としてのみ認識する彼女に、振り向いてもらうために。

 しかし、今の彼女は折れるどころか、その身一つで僕に刃を向けている。この日のために仕込んでいたのか、実に精錬された言刃ことのはが僕の心を抉る。


「……きっとこう考えたんだよね? 私を振り向かせるためには、委員長としての私を周囲に否定される必要があるって。だからクラスメイトを買収して、私の校則違反をでっち上げようとした。木下くんだけが親身になってくれると私が錯覚する状況を作り上げるために。

 対価さえあれば、普段は君なんて眼中にない不良生徒も快く頷いてくれる。だから、私と仲の良い生徒にも同じ手が通用する――そう勘違いしてしまった。

 その時点で、悲劇の主人公はすり替わっていたんだよ」


 流石に息が持たなかったのか、彼女はそこで一呼吸置いた。傍の街灯がバチバチと音を鳴らす。最後の審判を下すかのような面持ちで僕らを見下ろしている。

 これは懺悔に触発されているのだろうか。

 しかし、何か言い返さなければいけないとも感じていた。

 でないと僕は、僕でいられなくなる。


「……そうだ。そうだよ、その通りだよっ。君が僕だけを見てくれないから、君が僕だけを見てくれるように、僕が僕であるための完全証明を果たそうとした。君がいるからこそ、僕に価値がある。君がいない僕に価値はないんだ」

「では、君が隣にいる私に価値あることを、証明して?」


 ………………。


 僕は閉口するしかなかった。

 明らかな問いに、答えようがなかった。

 むしろ、回答を避けたと言っていいかもしれない。避けなければ意地を張るだけで、頭になかったと演出することで少しはその無様さも軽減されると、そんな防衛本能が働いたのかもしれない。

 しかし、それは僕自身の認識に他ならない。

 彼女はどうか。彼女は何を感じるか。

 残念ながら、僕にはそれが分からない。


『君が僕だけを見てくれないから、君が僕だけを見てくれるように、僕が僕であるための完全証明を果たそうとした』


 数十秒前に口にした文言がそっくりそのまま聞こえて来て思わず顔を上げる。スカートのポケットから現れたのは、彼女のスマートフォンだ。持ち込みは、校則違反である。一度も校則違反に該当する行為を働いたことがないと豪語していた彼女が嘘を吐いたのだ。


「……私はね、君が思うほど純粋無垢じゃない。たった今自分が着せられようとしている汚名を避けるためなら、これくらい当然するよ」

「……佐伯さんっ、僕は」


「それは木下くんの主観でしかないよ。

 私たちはそれぞれが是とする主観のもとで生きているのだから」


 彼女が振り向きざまに呟いた言葉は酷く冷淡で、それでいて何よりも本質を突いていた。彼女が僕に為そうとしていたのは、その色褪せたローファーだったのだろうか。彼女の学級委員長としての素質を遺憾なく発揮させる舞台装置の一つとして、彼女は僕を使い古すつもりだったのだろうか。

 そうだとしたら、僕はもう数年は続いた彼女との関係を安易に断ち切ってしまったことになる。いつ何時も想う対象ではないが、クラスメイトとして彼女を際立たせる価値ある存在――そんな性質を有していた僕は、いよいよ彼女における価値を一元化してしまったのかもしれない。


「……さようなら、木下くん。また、明日ね」


 それでも、暗がりに消えていく彼女が残した言葉には、アンビバレンツが宿っているような気がしてならなかった。







・アンビバレント【ambivalent】

 一つのものに対して相反する感情を同時に抱くさま。両面価値的。

 <参考文献>

「アンビバレント【ambivalent】」.新村出.『広辞苑』 第七版.岩波書店.2018 ,2019 (電子版のため、ページ数は不明)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後アンビバレント 名暮ゆう @Yu_Nagure

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画