鈴の音

槙野 光

鈴の音

 甲高い鈴の音が、聞こえる。


 遠ざかっては近づいて、近づいては遠ざかっていく。僕はその方角に手を伸ばすけれど、その指先は何も掠めやしない。ならばその輪郭だけでも、と瞼を持ち上げるけどそこに光は一切なくて、眼前には黒々とした世界が広がっていた。


 僕は一体、だれなんだ。


 頭を捻って考える。でも、年齢も、家族構成も、趣味嗜好も、何も思い浮かばない。


 僕は、胸元に手を当てる。


 どく、どく、どく、と一定のリズムを保つ心音に、僕は"生き物"だと自覚する。

 

 ――ああ、そうだ。

 僕は心音を聴くと、深く安心するんだ。


 過ったその考えに、僕は首を捻る。

 僕はその感覚をどこで覚えてきたのだろうか。


 考えるけど分からない。


 でも――、なんて心地の良い音なんだろう。


 僕は瞼を閉じる。そして、"手に持った"心の臓を壊れないよう優しく握りしめる。指先から伝わる心音に恍惚とした表情を浮かべ生唾を飲みこむと、喉元がこくりと上下した。でも胃の腑に墜ちていくそれの気配を追いかけていく内に心音は霞んでいき、とうとう音を止めてしまった。


 ――なんだ、つまらないな。


 心の中で深い吐息を漏らすと、頭の奥で鮮明な鈴の音がした。甲高く、泣き喚く――まるで赤児の泣き声のような鈴の音が。


 ああ、そうだ。


 そうだったね。


 ――あの日は、酷く暑かったんだ。



 黄ばんだレースカーテンを突き破るように、窓辺から陽光が差している。畳に横たえた身体を外側からじりじりと焼き付け、じーじーと弦が切れたような歪な蝉の音と、唇の合間から漏れる季節外れの木枯らしのような吐息が耳に届く。喉はからからと砂漠のように乾いていて、ベビーベッドの上では半年にも満たない僕の妹が横たわっていた。


 妹は、いつもぎゃんぎゃんと泣いていた。甲高いその声はひどく耳障りで、僕はよく、五月蝿い、泣きやめよと心の中で妹に悪態をついていた。でも、母さんの胸元に抱かれると妹は泣き止んで、今度はすやすやと寝息を立てた。


 妹の背中を、母さんが優しく撫でている。


 ――ねんねんころりよ おころりよ


 母さんの鈴の音のような軽やかで暖かなその声を聞いていると、まるで僕は自分が子守唄を歌ってもらっているような気分になった。


 でも、それがいつからか聞こえなくなった。

 見知らぬ体躯の良い男が部屋に上がり込むようになって、母さんは僕と妹よりも男に歌を歌うようになった。


 そして、


 ――良い子にしているのよ。

 この部屋から出て、誰かに話しかけたりしたらだめよ? 静かに、静かに……、静かにしているのよ。


 母さんは僕の頭を撫で囁くように言った。そして男に腰を抱かれながら血染めのような紅色の唇を滑らかに持ち上げて、僕と妹に背を向けた。


 施錠の音が聞こえる。

 鍵に付いた甲高い鈴の音が、微かに鼓膜を揺らした。


 それから僕は、母さんの言うとおり良い子にしようと頑張ったんだ。

 人に会わないよう一歩も外に出なかったし、妹が泣きそうになったら代わりに子守唄を歌ってあげた。でも、妹は泣き止まなくて……。


 だから母さんは、帰ってこないんだろうか。

 僕が母さんの約束を守れないから。


 一日、二日、三日……。太陽が沈んでお月様が顔を出す。僕は指折り数えて母さんを待って、妹はぎゃんぎゃんと泣き続けた。


 でもその内、子守唄はいらなくなった。

 

 ぎゃんぎゃんと泣き喚いていた妹の泣き声は、いつからか鈴の音のように甲高く静かになっていった。そしてある日を境に、ぴたっと止んだ。母さんが帰ってきたのかと思って力を振り絞って首を僅かに持ち上げると、妹の姿はベビーベッドの上に横たわったままで、母さんの姿はそこにはなかった。


 その瞬間、胸の奥深くに虚空が生まれ、捻じ曲がるような腐臭が鼻腔を掠めた。そしてそれが鼻腔を通り抜け脳天まで到達するようになると、頭の奥で鈴の音が聞こえるようになった。


 甲高いその音は、妹の泣き声とよく似ていた。


 僕はベビーベッドに向かって腕を伸ばそうとした。でももう、指先はぴくりとも動かなくて。


「ねえねえお兄ちゃん。今日は何して遊ぶの?」

「そうだなあ、鬼ごっこでもするか」

「本当? やったあ! じゃあ、わたしが鬼ね!」

「えー? またかよ。……はあ、分かったよ。いいよ。仕方ないな」

「やったあ!」


 窓の合間から楽しげな笑い声が入り込んだそれは、静謐な部屋の中を漂い遠ざかっていく。その内、僕の視界は段々と狭まっていき、瞳から光が奪われ――そして気がついたら、僕の意識は黒々とした世界に在った。

 そこは光なんてどこにもない真っ暗闇で、まるで出口のない迷路に迷い込んだかのようだった。

 言葉を発しようとしても喉はからからに乾いて出せなくて。代わりに、頭の奥から甲高い鈴の音が聞こえた。その音は僕を責め立てるように段々と大きくなっていく。でも、どんなに耳を塞いでも鳴り止まなかった。


 僕に、その音を止めることはできない。

 だから僕は、母さんの代わりになる人を探したんだ。


 暗闇の中を歩いていると、時折、大人の女の人が迷い込んできた。きょろきょろと忙しなく辺りを見回して、でも僕と目が合うと、怪物にでも遭遇したように息を呑んで誰も彼もが唇を震わせた。腰を抜かし、境界なんてないこの世界にお尻を付いて、涙の薄膜を通して僕を見る。


 そして、掠れた声を震わせた。


「ば、化け物……、い、いや、来ないで」


 かぶりを振る彼女に――、僕はひどく失望した。


 僕はただ、彼女にお願いをしようとしただけだ。母さんの代わりになって、頭の奥で鳴り続ける鈴の音を止めてて欲しいって。ただそれだけなのに。


 ――どうして皆、タスケテクレナインダ。

 

 ああ、もう良い。いいよ。助けてくれないなら、あなたのはいらない。


 ねえ、知ってる? 妹は、母さんの胸元に抱かれてる時だけは静かになったんだよ。僕、何でだろうって考えた。だって、いっぱい時間があったから。それで分かったんだけど、多分妹は、母さんの心音を聴いていたんじゃないかな。


 心音を聴いて、"生"を実感していたんじゃないかな。


 だから、ねえ。

 あなたの身体はいらないからさ。


 代わりに――、あなたの心音を僕にちょうだい?


「いや、いや、いやあああああ!! ……っあ゛」


 彼女の瞼が痙攣し、散大する。

 伸びた両腕の指先が足掻くように宙を彷徨い、そして。


「ああ、あ゛あ……、あ……」


 ――ああ、指先が温かい。


 どくどくと音がする。僕は手のひらで掴んだ彼女の"それ"を耳に当て安堵する。そして同時に、徐々に細くなっていく心音に失望した。


 ああ、残念だ。やっぱりあなたもハズレだったんだね。


 僕は冷たくなった"それ"を手に持って、口を大きく開ける。そして――。


「イタダキマス」


 彼女の"生"を、味わうようにゆっくりと咀嚼した。


 ――ああ、オイシイナア。


 喉元を通る"それ"に恍惚とした表情を浮かべる。すると、頭の奥でまた鈴の音が聞こえた。遠ざかっては引いていく。まるで僕を責め立てる鈴の音のような――妹の泣き声。

 妹の悲痛なその声は黒々としたこの世界を彷徨い、潜むように消えていく。


 そしてほら――、



「いや、いや、いやあああああ!! ……っあ゛」



 また、ひとり。

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鈴の音 槙野 光 @makino_hikari

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