コラッツ予想の彼方
諏訪野 滋
Beyond the Collatz Conjecture
「どんな正の整数も、偶数なら2で割り、奇数なら3倍して1を足す。この操作を繰り返せば、必ず最後は1になるだろう」
―― ローター・コラッツ(1910~1990)ドイツの数学者
午後の喫茶店の片隅で、俺は目の前の男が差し出した封筒におずおずと手を伸ばした。はしたないとは思いつつも、目の前で中身を確かめてみる。折り目のないまっさらな新札で、きっちり三十万円。
「……恩に着るよ、
久しぶりに会った景浦は、ポマードで固められた髪を撫でつけながら、日焼けした顔に薄笑いを浮かべた。
「おいおい、
「……すまん、認識論については門外漢だ」
そうかい、と景浦は肩をすくめた。
「だいたいさ、草薙ほどの男が子供相手の学習塾の一数学講師ってのはどうなのよ? 大学に残ってりゃ、いまごろは教授とは言わなくても准教授くらいにはなれただろうに」
てめえの価値観で測るんじゃねえ俗物が、と俺は一瞬怒りにかられたが、その俗物に金を無心しなければ俺の悲願は成就されないのだ。いいだろう、減るものでもなし頭くらい何度でも下げてやる。景浦よ、お前の方こそいまに利子をつけて俺に頭を下げることになるぜ。
お姉さん、ホットサンドとカプチーノ追加ね、と慣れた調子でウェイトレスにウィンクを送った景浦は、こめかみに指を当てて何かを思い出すような仕草をした。
「大学で無駄な時間を費やすのが惜しい、って
「……コラッツ予想」
「おお、それそれ! 何でも、もう百年近く誰も解くことが出来ていない難問なんだろ? あまりの難解さに、地球の科学技術の発展を遅らせるために宇宙人が仕掛けた罠だ、なんて冗談すら聞いたことがあるぜ。そんな問題に一生を賭けるとは、お前さんも酔狂だねえ」
「手ごたえは
「それ、もう八年前の話だろ。そこからなんか進展あったの?」
無言の俺に再び肩をすくめると、景浦はテーブルの上に追加の一万円をのせて席を立った。
「夢、追うのもいいけれどな。たまには同窓会くらい顔を出せよ」
扉をくぐる景浦の背中を憎悪を込めて見送った俺は、奴の姿が消えると目の前の一万円を慌てて懐に収めた。
数学の未解決問題を解くということは、全体像を知らない迷路を脱出することに似ている。あるかどうかわからない出口に向かって、多くの袋小路に突き当たりながら手探りでひたすら進んでいくのだ。
コラッツ予想を解決するための条件は極めてシンプルだ、以下の二つを示せばよい。
ⅰ)操作を繰り返すときに、A→B→C→A、のように最初の数に戻ってしまう循環パターンがないこと
ⅱ)操作をした時に、数がどんどん大きくなってしまう発散をしないこと
ここで俺はまたしても、コラッツ予想と迷路との類似性について思いをはせる。出口があるとわかっている迷路であれば、一方の壁に右手をついて
そして俺は八年前に、巡回列空間の性質を突きつめていくことで発散を否定できるのではないかと考えた。ストレンマイヤーが 五十年以上前に「有限ステップ内では1に
その日は寝苦しい夜だった。俺は今夜も、真っ白な空間の中でうなされていた。自分の足音以外何も聞こえない、見渡す限りの直線と曲がり角。ああ、ここはやはり数式という名の迷路なのだ。あるのは右と左、前と後ろのみ。上と下、そして時間は例外のない定義と公理で閉じられているので、この迷路は二次元的な平面とみなしてよいはずだ。よし、今夜は一つ、壁に手を触れることなくあり得べきベクトルのみを代入してランダムに進んでみることにしよう。要は行き当たりばったりという事ではあるが、いままで他の数学者たちの仮説を鵜呑みにして馬鹿を見て来た俺には、この方法が最善だという確信が何故かあった。テレンス・タオが提唱した「ほとんど正しい」という文言は、俺に言わせればほぼ直感に従っただけとも言えるが、彼の証明が現在のところ真実に一番近づいているという事を考えれば、俺のこの方法を笑うことなど誰にもできないだろう。
そのような根拠のない自信を胸に、俺は誰もいない迷路の中を歩いていく。一見複雑そうに見える構造も、分解していけば単純になる。1、2、3……nの長さのブロックと曲がり角だけの、単純な組み合わせ。それでもA→B→C→Aにならないのは、そこに俺自身の存在が付加されているからだ。我思う、ゆえに循環無し。言うまでもなく、デカルトは哲学者であると同時に優れた数学者でもある。以上の考えを応用して見ると、ある特定のサンプルにおいて順列の波にゆがみを自覚できれば、それはあらゆる事象に適用可能であると考えられる。だが肝心なのは、その何かがここで見つけられるかどうか。
しかし果たして、迷路の中を当てもなく進んでいた俺の目の片隅に、不意にちらりと光るものが映った。その時俺の心に根差したのは、圧倒的な異物感だった。それはそうだろう、俺の深層意識が作り出しただけの純粋培養の迷路の中に、いきなり異物が混入してきたのだから。そいつはひらりと角を曲がって消えたが、奇妙なことに足音は聞こえない。どうなってる、錯覚か? それとも景浦が言うところのデジャブ? 駆け出して後を追い曲がり角を曲がると、そこには名状しがたい虹色に光り輝く粘体が……
大声で叫びながら、俺は簡易ベッドの上に起き上がった。くすんだ天井、今時LEDでもない蛍光灯、無愛想なデジタル時計。午前四時か、と額に手を当てた俺の脳裏に、確かにひらめくものがあった。メモ帳は何処だ、早く、忘れないうちに! 古ぼけた机にかじりついて数式を書きなぐった俺は、震える指で今しがた自分が書いたものをなぞった。大丈夫だ、どこにも矛盾はない。あらゆる正の整数について、操作を行っていけばいずれは必ず収束する。ついにやったぞ、今まさに俺は「発散」という壁を確かに突破したのだ!
シャワーを浴びて仮眠した俺は、机の上に散乱していた紙束を引き出しの中に大切にしまった。鍵付きのものを購入しなかったことを今更に後悔する。こいつを盗まれて先に発表されることは、俺の全人生を否定されることに等しい。せめて俺は二か所しかないアパートの窓にガムテープで目張りをすると、電話線とLANケーブルを抜いて無線ルーターをハンマーで物理的に破壊し、そして一つしかない家の出口だけは仕方なく普段通りに鍵をかけて、食料を調達するために近所のコンビニに出かけた。
原付バイクで走り出した俺は、確かに浮かれていたし、浮足立ってもいた。「循環」についての問題はまだ解決していないが、それでも「発散」の問題をクリアしたのは、世界中で、いや人類史上でこの俺が初めてなのだ。これだけでも俺の名前が数学史に残ることは確実だが、もちろんそこで欲が出るのは当たり前だ。半分などではとても満足できやしない、コラッツ予想の全てを解決してこその俺ではないか。しかも俺はまだ三十台と若い、寿命はたっぷりとある。とりあえず前半だけでも論文にすれば、一生困らないだけの地位と金は保証されたも同然だ。借りた金にのしを付けて景浦の奴に叩き返し、そして俺はコラッツ予想の残りの解法を余裕をもって……
それにしても昨日の夢は何だったのだろう。あの輪郭を同定できないゲル状の物質は、自己という因子を例外化しなかった俺の直感を象徴していたのだろうか。そうであれば、やはり俺が採用したやり方は正しかったのだ。白い迷路、曲がり角、視界いっぱいに広がる七色の光。そうだ、あの虹は偏光の度合いからいって、いまの地球上に存在している理論とはどこか外れている……いや待て、どうして俺にそんなことが言える?
信号が青に変わってアクセルを開きかけた俺は、慌ててブレーキをかけた。違う、一見遠くまで続いているように見える目の前の道路は、実は完全に閉じている。透明な水槽の中から外を覗いているように、目に見えない間仕切りが確かにあるのだ。良かった、このまま何も気づかずに走っていれば、俺はそのまま激突して大けがを負っていたことだろう。これ以上はもう進めない。
バイクを横倒しにした俺に、後ろで停車していた車が激しくクラクションを鳴らしてきた。お前もこの先に行こうとしているのか? いくら俺が他人に無関心でも、人の命が危ないのに見て見ぬふりをすることは出来ない。俺は小走りに近づくと、車の窓ガラスを叩いた。
「悪いことは言わない、今のうちに引き返したほうがいい。この先の道路は現状維持か、あるいはどんどん収束していく一方なんだ」
運転手の男は車のドアを開けて外に出てくると、俺に詰め寄ってきた。
「何言ってんだ、原チャ早くどけろ! こっちは急いでるんだよ!」
俺は辛抱強く、男に説明を試みた。
「あんた、自分の言ってることが分かってるのか? 道路がどこまでも続いているなんてことありはしない、それは空でも宇宙でも同じなんだよ。なんといっても、それぞれに同じ公式が適応できるんだからな。おい、俺の話聞いてるか?」
ちょっとヒロシ、警察に電話したほうがいいんじゃない、と助手席の女の声が聞こえる。どうやらこちらの親切が理解できないほどの低能らしい。
「発散なんて帰納法に誘導されただけの幻想で、退縮だけが真理なんだ。いまだに宇宙が膨張しているなんて言ってる奴がいるがそれは全部デマだぜ、ブラックホールこそがディオファントス方程式の矛盾を……」
続けようとした俺の襟首に掴みかかった男の手をすんでのところで払いのけると、俺はほうほうの体でその場から逃げ出した。信じないのならそれでいい、危険に気付かない奴らから先に
やはり感じる、この部屋も明らかに縮んでいる。手を伸ばしても天井に触れることができないのは今だけのことで、やがて迫りくる質量に俺の鼻の軟骨は押しつぶされ、頭蓋骨が圧砕されて眼球が飛び出し流れ、更には胸骨がへし折られて肺臓が潰され、プレスされた俺の心臓は床に投げつけられたトマトのように無残な中身を飛び散らせることになるだろう。それはもはや仕方がない、時間の流れと同じようにこの数直線は一方向にしか進まず、もはや空間が再び発散して広がることは決してないのだから。
なんということだ、コラッツ予想の「発散」を否定できたいまでは、すべてが点に収束する方向に進んでいることだけがはっきりとわかる。人間の精神は、この宇宙的な基本原則に耐えることが果たしてできるのだろうか。凝縮され、分解され単純化され、やがて俺は1になる……今こそ俺ははっきりと理解した、コラッツ予想を解くということは、俺という存在が他人と区別がつかなくなってアイデンティティを完全に失うということだ。つまりは、俺だけではなくすべてが1に。冗談じゃない、俺は俺でなければならない。開論理式に関する存在命題の解釈を待つまでもなく。
絶望にかられた俺は、その時ふと一筋の光明を見出した。結論を出すのは早い、まだ最後のよりどころはある。コラッツ予想を解決するためのもう一つの命題、「循環」だ。俺が俺として認識できれば、つまりAが巡り巡って再びAになれば、コラッツ予想は完成しない。今の俺の状態のように途中で意識が変調し変貌したとしても、最終的に元の状態に戻ることができれば、それで俺の破滅は成立しなくなるはずなのだ。となれば、俺は何としても眠ってはならない。ぼう漠とした白い迷路の中で、再びあの虹色の怪物に出会ってはならない。目を閉じるな、眼前の天井の恐怖に耐えろ。意識を保て、油断するな……
ふと気づけば、俺は真っ白な空間の中に立っていた。長さ1~nの壁と、無数の曲がり角。俺は足がすくんで動けなかった。この迷路のどこかに、必ずいる。虹色にぬめりうごめくあの物体が。前回の夢の中で奴をちらりと観察した俺にはわかっていた、あの怪物の動きはアメーバ運動に近似していると。細胞が形を絶えず変えながら移動するその様式は、コラッツ予想におけるA→B→Cといった一連の操作の比喩表現なのだから。つまりはこの迷路に潜む怪物こそが、コラッツ予想の解。そしてすでに「発散の否定」を目撃してしまった俺が次に出会うとしたら、それはもう一方の「循環の否定」に他ならない……
どうすればいい。このままじっと目が覚めるのを待つか? そうすれば俺は残りの一生を退縮の狂気に押しつぶされて過ごすことにはなるが、それでも俺は俺のまま死ぬことが出来る。そうだ、コラッツ予想を解こうなどと試みた
しかし、恐怖とは常に向こうからやって来る。ああ、あの曲がり角の床の下にちらりと見える光はなんだ? 毛細管現象で吸い出されるように、虹色のそれはじわりじわりと目の前の通路へとしみだしてきた。同時の俺の頭の中に、今まで予想もしていなかったまったく新しい数式が浮かび上がってくる。そうだ、こんな簡単なことになぜ気付かなかったのだ。どいつもこいつも順演算と逆演算の方向性ばかりに着目しているから、今までは無限経路の呪縛から逃れられなかったのだ。完璧だ、ついに俺はすべての循環パターンを否定できた。今こそ俺は、「循環」と「発散」の二つを克服し、正の整数の支配者になったのだ!
再び目を開けると、自室の天井は俺の目と鼻の先にあった。俺の周囲の空間は、ついにここまで収束してきたのか。自分の吐いた息を感じながら、同時に俺は奇妙なことに気付いた。顔を完全に上に向けているのに、部屋の扉が見えるのだ。普通なら眼球をそちらに向けても到底見ることは出来ない方向にあるそれが。しかし視野が広がったことで特段困ることはなかったので、俺はその疑問をとりあえず放っておくことにして、床と天井の隙間を縫うようにしてじりじりと起き上がった。自明のことではあるが、空間が収縮しているのは俺が認知している領域だけなので、俺が立ち上がることによって頭上の空間は伸びた代わりに、今度は左右の空間が閉じることになった。前後がまだ閉じられていないのは幸いだった、俺は身体を横にして蟹のように横歩きしながら洗面所へと移動する。
鏡を見て、俺はあっと息をのんだ。眼窩から飛び出た俺の眼球の表面は、無数の細かい六角の幾何学模様でびっしりと埋め尽くされていた。なるほど目を動かさずに広範囲を見ることが出来るのも道理だ、俺の両目は節足動物のような複眼になっていたのだから。俺は、ある朝目が覚めたら毒虫になっていたという、カフカの「変身」という小説を思い出した。しかし、一体なぜ。「発散」の謎を解いたとたんに収縮に見舞われたのであれば、この俺の
再び鏡をまじまじと見た俺は、ぎらぎらと輝く右の複眼の下、ちょうど頬の所に小さなしこりがあることに気付いた。やたらとかゆい、と指でつついたとたんに膨れていた部分の皮膚が内側から弾けて破れ、床にぽろぽろと何かが落ちた。複眼を持っている俺はもちろん頭を動かすことなく床を見ることが出来たわけだが、そこにはつるつると乳白色に光る小さな玉が四つほど散らばっている。そのうち一つをつまみ上げてみると、適度な弾力の中に硬い芯のような感触を感じた。わかった、これは種子だ。それは白エンドウ豆にも似て、真珠のようにてらてらと美しく輝いている。そして再び鏡を見ると、ささくれた俺の頬の中は隔壁によっていくつかの部屋に分かれ、それら空室の内壁は糸を引く粘液で新たな受精を待ち望むように光っていた。
虫に、植物。次は何だ。自分の身体を改めて観察した俺は、予想通りに様々な特徴を発見した。手の甲を覆っている桜色に濡れて光った
ようやく俺は、「循環」から解放されたことの真の意味を知った。A→B→C……もはや俺はAには、すなわち元の人間には戻れない。そして他の生物B、あるいは無機物Cのままでとどまることもできない。だとしたら、最終的に俺はどうなるのか? 最後に到達するはずの1とは何なのか。誰か助けてくれ、俺はただ数論の未解決問題を解こうとしただけなんだ。おお、神よ……
いつしか俺の知覚は、ひんやりとした静寂を感じた。そこは、もはや慣れ親しんだあの懐かしい迷路の空間だった。ただ一つの違いは、通路のすぐ先にぽっかりと黒い穴が開いていることだ。知覚器をもたげて後ろを見ると、かつては俺だった皮やら骨やら肉片やらが散乱している。俺はそれらには何の興味も持てなかったので、未知の穴のほうへと吸い寄せられるようにずるずると前進を開始した。曲がり角からは俺と同じ姿をしたそれらが次々と姿を現したが、今では何らの恐怖も感じなかった。俺は、いや俺たちは、もはや1なのだから。
穴に到達した俺は、突起を伸ばして中を覗き込む。光を吸収して暗く沈んだ空間には、無数の渦巻く銀河が
コラッツ予想の彼方 諏訪野 滋 @suwano_s
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