「古時計の指す時」【光の守り人シリーズ】
ソコニ
第1話「古時計の指す時」
梅雨の晴れ間、カフェ『澪』の店内に、懐かしい音が響いていた。
チクタク、チクタク。
開店準備をしていた陽子は、その音に気づいて足を止めた。
古びた柱時計が、十年以上も止まったままだったはずなのに、今朝は確かに動いている。しかも、時刻は現在の午前七時を正確に指していた。
「不思議なことって、いつも雨上がりに起こるのよね」
振り向くと、白藤琴子が立っていた。今朝は縮緬の着物姿。手には、古ぼけた真鍮の鍵が一つ。
「この時計には、誰かの大切な時間が眠っているの」
そう言い残して、琴子の姿は消えた。残されたのは、柱時計のそばに置かれた鍵一つ。
その日は朝から晴れ。午前十時過ぎ、背広姿の中年男性が来店した。手には古い手帳を握りしめている。
「あの...ここ、昔は旅館だったんですよね」
「はい、白藤旅館でした」
「実は、父の遺品整理をしていて、この手帳が出てきたんです」
男性―藤堂誠一は、三日前に他界した父の遺品整理中だった。建築設計の会社を経営する彼は、普段は几帳面な性格だが、今日は珍しく落ち着かない様子。
「父は建築家でした。この手帳には、昭和四十年の滞在記録が...」
その時、柱時計が一回、低く鳴った。
陽子の目に、映像が浮かび始める。
昭和四十年の夏。若き日の藤堂の父は、この旅館に逗留していた。設計の仕事で行き詰まり、気分転換にここへ来たという。
「藤堂様、お茶をお持ちしました」
着物姿の若い琴子が、茶托にほうじ茶を載せて部屋を訪れる。
「ありがとう。...あ、この時計」
「はい、祖父の形見なんです。職人さんが一つ一つ、心を込めて作った時計なんですよ」
若き建築家の目が輝く。
「そうか...建物も同じなんだ。設計図は正確でも、そこに心が入っていなければ...」
映像が消える。陽子は棚からほうじ茶の茶筒を取り出した。
「お父様と同じお茶を、いかがですか」
誠一が湯呑みに手を伸ばした時、柱時計が再び鳴る。今度は二回。
新たな映像が広がった。
今度は三日前。病室での最期の時。
「誠一、あの時の...時計」
父の最期の言葉は、そこで途切れていた。
「父は、何を言いたかったんでしょう」
誠一が呟く。
陽子は静かに告げる。
「お茶を召し上がってみてください」
ほうじ茶の香ばしい香りが、空気を包む。
一口飲んだ瞬間、誠一の目に涙が浮かんだ。
三度、柱時計が鳴る。
昭和四十年の夏の終わり。藤堂の父は、この部屋で一枚の設計図を描いていた。それは、彼の代表作となる市民会館の原案。建物の中心に、大きな柱時計を据えた温かみのあるデザイン。
「一つ一つの時間に、人の想いを込めて...」
父の声が響く。
「そうか...」
誠一は手帳を開く。最後のページに、小さなスケッチが残されていた。
柱時計を中心にした、新しい駅舎のデザイン。
「これが、父の最後の仕事」
誠一の声が震える。
「完成させよう。父の、想いを込めて」
陽子はそっと、真鍮の鍵を差し出した。
「柱時計の...これは」
「はい。きっと、お父様が残したかったのは、時を刻むことの大切さなのかもしれません」
夕暮れ時、誠一が帰った後、陽子は柱時計を見上げていた。
「人の心に残る建物を作りたい。その想いは、ちゃんと息子さんに届いたみたいね」
琴子の声が聞こえる。振り向くと、夕日に透けるような姿で微笑んでいた。
「この時計も、人の想いを刻んでいたんですね」
陽子がつぶやく。
「ええ。だから、特別な時にだけ動くの。誰かの大切な時間を、教えるために」
チクタク、チクタク。
柱時計は静かに時を刻み続けていた。
やがて、その音は優しく消えていった。
しかし、確かにそこには、新しい時間が生まれていた。
翌月、新しい駅舎の設計コンペで、藤堂建築設計の案が採用された。
その中心には、人々の想いを優しく見守る、大きな柱時計があった。
※
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