プロローグ
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夕闇の中に佇む影を見た時、私はそれがつい昨日、電話越しに廉から聞いた魔女であるのだということを直感した。そんな存在なんて居るわけがないと断言をしていたのに、いざ目前とすると、周囲の空気から浮いたようなそれを魔女としか認めることが出来ないのだから、自嘲する。
「こんばんは。それとも、こんにちはの方がいいでしょうか。時間としては夜とも言えるのに、空は未だ明るいのだから難しいところですね」
自らの異常性にまるで気が付いていないように、既知の仲であるかのような親しみを持って魔女は挨拶をした。その日常的な態度こそが異常性を殊更に浮彫りにしているというのに。
微かな緊張感を覚えて、しかしそれを見抜かれることが嫌で、唾を飲み込んでから気丈な態度を取り繕い言葉を紡ぐ。
「あんたが魔女?」
「ええ、深見廉から聞きましたか」
「そんなところ」
曖昧な言い方をしたけれど、廉から聞いた以外に情報の出どころなんてない。素直に言うことが出来なかったのは、得体のしれないこの女に正直に事実を晒すことが嫌だったからだった。
「ひとつ、賭けをしませんか。貴方が失ってしまったものを取り戻すための賭けを」
失ってしまったもの、と聞いて真っ先に思いついたのは夕希のことだった。海代憂花という人間にとって、嵯峨夕希という幼馴染の夭折はあまりにも大きく、避けることの出来ない事件だった。それ以前と、以降で、身体の細胞や魂を構成する素材が全て入れ替わり、別の人間になったとすら思えるように。
同時に、廉のことを思い出す。もしも、彼もまた魔女に出会い同じような賭けを持ち出されていたのだとすれば、彼がそれに乗らないわけがない。どのような代償があったとしても、自分の命さえ投げ出すことになったとしても、彼は夕希を取り戻そうとする。仕草や眼差しから、廉が夕希に恋をしていることは、そしてそれを今も引き摺り続けていることは、明らかだったのだから。
しかし、私にはそのような熱意はなかった。夕希のことが嫌いだったというわけではない。むしろ、彼女ほど心を許すことが出来た友人は未だ彼女の他に居ないし、これから出来るかどうかも分からない。あの頃から成長をした今の私は他人に簡単に心を許すことが出来なくて、もう彼女のような友人を作ることなど不可能かもしれない。甦るのであれば、嬉しいし、そうあって欲しいとも思う。
けれど、良くも悪くも、私は諦めをつけることが出来ていた。死んでしまった以上、どうすることも出来ないのだとどこか冷めたような目で現実を受け入れることが出来てしまっていた。預金通帳の中身を全て差し出せば甦らせてくれるというのであれば、喜んで差し出そう。ただ、命まで投げ出すつもりはない。私はやっぱり私が一番大事で、その命は例えかけがえのない友人だったとしても代えたくはないのだ。
「それ、私がする意味あるの?」
「というと?」
「どうせ、廉にも同じことを言ったんでしょ。なら、私がやるまでもなく廉がやるよ」
私に払える程度の代償であれば廉は喜んで差し出すに決まっている。二人揃って何かをしろというのであれば手伝うことも吝かではないけれど、それなら昨日の電話で既に廉から頼まれているだろう。私が出る幕なんて、ありやしないのだ。
「少し違いますね」
「違う? どういうこと?」
「賭けを提案したのは、確かに違いありません。深見廉にも、貴方と同じようにひとつの賭けを提案しました。けれど、深見廉に提案しようとしたそれと貴方に提案しようとしているものは内容がまるで違いますよ」
冷静に考えれば、それは自然なことなのかもしれない。目的とするものが私も廉も同じ夕希の甦りであれば、どちらか片方が成功すればそれでいいということになる。賭けとして見るなら、圧倒的に魔女が不利だ。そして普通、胴元が不利になるような賭けは存在しない。
ただ、私には他に失ってしまったものというのが思いつかなかった。四半世紀すらも生きていないのだ、失ってしまったもの、なんて大層なものを持っているにはまだ私は若すぎるし、何より、失ったものを振り返り、慈しもうと思えるほど私は世界というものが好きじゃなかった。今に執着がなく、未来に希望を抱かない者は、過去に縋ることもない。
ゆえに、魔女の提案は初めから破綻している。そう思っていた。そうであれば良かった。
「貴方が失ったものというのは、深見廉のことですよ」
突き付けられたその名前に、心臓が跳ねたことが分かった。まるで貫かれたような衝撃が、身体に走る。
「別に、失ったなんて大層な言い方をするほどじゃないんじゃない。ただ、話してないだけでしょ」
「そうですね、嵯峨夕希とは異なり、貴方たちの関係はまだ修復することが出来る。けれど、仮に偶然が重なり貴方たちの関係が再び元のようになったとしても、貴方が望んでいた結果にはならないんじゃありませんか?」
「望んでいた結果って、何」
その答えを私は自覚していた。他人に言われるくらいであれば、潔く認めてしまった方がいい、個人的な感情であるということも。それでも否定をするように問い返したのは、私自身がその感情を認めたくなかったからだったんだろう。魔女の言う通り、もうその感情が現実として形を持って叶うことはなくなっていて、それならば希望なんて抱きたくなかった。その感情すらも、なかったことにしてしまいたかった。
けれど、魔女は残酷に答えを言い当てる。容赦なんてなく、災厄のように暴力的に、私の心を凌辱する。
「貴方は深見廉に恋をしている。ゆえに、それが叶うことを望んでいる。そうでしょう?」
かっと頭の中が熱くなったような気がした。それが恥じらいによるものなのか、憤りによるものなのか、魔女に向けられたものなのか、自分自身に向けられたものなのか、自分でも分からなかった。ただ、ざらついた感覚が嵐のように頭の中に反響し続ける。
違う、と否定してしまいたかった。恋をしていたことを認めても、今もまだ恋をしているなんていうことはないのだと言ってしまいたかった。それは私が嫌った、いつまでも夕希に執着する廉の姿に重なったから。
しかし、そんな否定に意味がないことは分かっていた。言葉にされると、改めて自分が未だに廉に執着をしていることがどうしようもなく分かってしまったから、それでも違うだなんていう子供の我儘のようなことは出来なかった。
肯定をすることも出来ずに沈黙の中でやり過ごそうとするも、魔女はそんな私の様子など気にすることもなく言葉を続ける。
「夏の終わりまでに深見廉の恋を終わらせることが出来たなら、貴方の恋を叶えてあげましょう。どうですか、貴方にとって、悪い話とは思えないのですが」
「そんなの、無理に決まってるでしょ」
最も間近で見て来たからこそ分かる。廉を今動かす感情は、恋というにはあまりにも歪んでいる、激しいものだ。
元から強固だった感情は、届くことがないという永遠性によって妄執が加わり、揺らぐことのない呪いへと変貌した。例えば、夕希が死んだすぐ後に行動を起こすことが出来ていれば、どうにかすることも出来たのかもしれない。けれど、もう何をしても無駄なのだ。
「無理ではないですよ」と魔女は嗤った。
「確かに死人は無敵です。幻想という鎧に守られたそれは、傷付けられることがない。かつての理想は肥大し続けるばかりで、倒すことなんて出来やしない。ですが、それが実体を持ったならどうでしょう」
「……どういうこと?」
「今、深見廉の隣には貴方の恋敵となる相手が居ます。貴方はただ、彼女を否定し、出し抜けばいい。形のない相手を倒すよりも、よっぽど簡単なことじゃないですか?」
恋敵という言葉を聞いて、真っ先に頭を過ったのは夕希だった。彼女は、きっと私にそう見られていたことを知らなかっただろうけれど、私は少なくとも彼女のことをずっとそう見て来ていたから。しかし、夕希は死んでいる。死は不可逆的なものだ。彼女がこの世界から居なくなってしまったという事実は、何も変わらない。
けれど、本当にそうだろうか、と立ち止まる。魔女という存在がその名の通り魔法を使うことが出来るのであれば、死人を甦らせることもまた可能なのではないだろうか。
夕希が再び廉の隣で笑っている姿を想像した時、自分の中でどす黒い感情が湧いたことが分かった。ああ、私はいつまでも変わらないんだな、と自己嫌悪を抱く。
私が廉を拒絶したのは、夕希の死という事実が生んだ傷痕に所以するものではない。好きな人が、いつまでも死んだ人に執着し続けることに耐えられなかったからだ。醜い嫉妬心が、収まってはくれなかったからだ。
夕希のことが好きだった。私は友人として、他の誰よりも彼女に対して好意を抱いていた。しかし、それは所詮友愛に過ぎず、恋愛とは比較をすることも出来ない。友人として彼女のことを好きだと思っている一方で、恋敵として私は彼女のことを憎んでいた。アンビバレンスな感情は、不安定な形で私の中に両立している。
もしも魔法で人間を甦らせることが出来るのだとしても、夕希には甦って欲しくない。友人としての彼女が甦って欲しいことは確かだけれども、恋敵として甦るのであれば、私はそれを否定しなければならない。
「……私がその賭けに負けた時は、何があるの」
「そうですね。これから一生、深見廉に対する恋が叶わなくなるといったところでしょうか」
それは、確かに私という人間に存在する可能性の中での最悪だった。狂おしいほど暴れ続けているこの感情がこれから先、永遠に宛先を見失ったまま私の中に留まり続けることになる。行き場を失った感情は呪いであり、恋という熱病めいたものであればそれは尚更痛みを増す。
ただ、今の私にとってそれはリスクでもなんでもないように思えた。何もしなければ、どうせその最悪に陥るしかないということは分かっている。それに、もしも賭けに負けたとして、その時は諦めをつけることが出来ると思っていた。この呪いのような感情を、魔女の呪いによって断ち切ることが出来るかもしれないと、願っていた。
この恋を叶えたいのか、それとも諦めてしまいたいのか、自分でも分からない。あるいは、私はただ結果が欲しいのかもしれない。曖昧なままで形骸化してしまうことが、何よりも怖かった。
「分かった。その賭けに乗る」
そう言うと魔女は満足げに頷いた。それが、既に賭けの始まりなのだろう。もう戻ることは出来ない。どのような結果であっても、この夏で私の恋は終わる。
「では最後にひとつ。私はフェアな賭けを望んでいます。もしも、尋ねたいことがあるなら一度だけ、どのような質問であっても私に知り得る限りで良ければ誠実に、真実を答えましょう」
その権利は、私から見てあまりにも胡散臭いものだった。魔女にとって、質問に答えたとしても得がない。フェアな賭けを求めているという言葉は、言い訳にしか聞こえない。とはいえ、私には関係のない話だろう。聞きたいようなことなどないのだから。
けれど、何もしないままで終わるのもまた、魔女の思惑の中に居るようで嫌だった。ならばせめて、一矢報いるように、鼻を明かすようなことをしてやりたい。
「なら今、その権利を使ってもいい?」
「貴方がそれでいいのであれば」
「あんたは何のためにこんなことをしてるの?」
反発心から咄嗟に出た問いかけであると同時にそれは疑問として蟠っていたことでもあった。
どのような結果が訪れたとしても、魔女には何も得がないように思える。単に、人間が恋愛なんていう馬鹿馬鹿しい感情に振り回されるのを見て嘲笑いたいだけなのだろうか。仮にそんなグロテスクな理由であったとしても、魔女の口から真実としてそれを聞いてみたかった。
魔女は、不気味な雰囲気を纏う彼女には似合わないような逡巡の表情を一瞬見せた後で、誤魔化すようにまたにたにたとした笑みを浮かべる。思っていたよりも、この人は私たちに近い存在なのかもしれない。そんな考えが頭を過った。
「私には、愛というものが分からないんです。だから、それを知りたい。人は愛のために何をすることが出来るのか、そうして感情の屍を積み上げた先に得られた愛とはどのようなものなのか。それを、観察したいのです」
魔女の表情は、薄気味の悪い笑みのまま何も変わらない。けれど、その言葉を聞くとどこか寂し気に見えるのは、私のくだらない感傷に過ぎないのだろうか。
「可哀想な人だね、あんたも」
「ええ、可哀想な人なんですよ」
「では」と言い、魔女は去っていく。夕闇の中に溶け込むようにして、その姿はいつの間にか視界の中から消えていた。
残された静寂の中で、私は動けないままで居た。頭の中で、好きという感情と嫌いという感情がぐちゃぐちゃに混ざる。廉のことが好きで、いつまでも夕希へと執着をしている廉のことが嫌いで、けれどその嫌いは好きだからこそ生まれる嫌いで。
「何もかも嫌いだ」と呟いた。世界も、廉も、夕希も、魔女も、恋も、自分も。
温い空気が肺に入り、吐き気がした。いつの間にか鳴っていた蝉時雨が頭痛を自覚させる。遠くに薄く見える月は大きく欠けていた。
夏が始まる。
夏が終わっていきますね。 しがない @Johnsmithee
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