エピローグ

11

 まだ太陽が地上を見下ろしている間に海へと行くのは、随分と久しぶりのことだった。それは夕希が死んでから初めてのことだったのだから。

 鮮やかな海緑は陽光の眩い光を反射していて、思わず目を細める。水面が捲れるようにして、波が打ち寄せる。海は、黒く暗いだけの場所ではなくて、こうも美しい場所だったのだと今更になって思い出した。

 夏も終わり、人の気配は減った。けれど、今日のような心地の良い日は散歩をする人がまばらに見える。傍から見れば、僕たちもまたそのようにしか映らないのだろう。いや、現にそうなのか。ここに来たのは、かつてのような弔いのためではなくて、ただの気晴らしに過ぎないのだから。

「なあ、憂花。波打ち際の方を歩かないか」

 そう提案すると、彼女は静かに、覗き込むようにして僕のことを見た。

「私はいいけど、廉はいいの?」

「いいんだ。行こう」

 僕たちは石段を降り、砂浜を横切って波打ち際を歩き始める。少し深く歩き過ぎて、靴に打ち寄せた海水が染みた。不快な感触に顔を歪めると、憂花はそれを見て笑う。

 この場所が、僕にとって後悔を象徴する場所であることにか変わりがなかった。むしろ、夕希だけではなく彼女までも見捨て、殺してしまった以上、後悔はより強く、激しくなったのだろう。

 けれど、だからこそ僕は向き合わなければならなかった。背負い、生きていくと決めたのだから。目を逸らさず、自己欺瞞に逃げず。そこにある事実を認めて、僕は進まなければならない。

 重たくのしかかった愛していた人たちの亡霊を、僕は抱き続けなければならない。彼女たちとの記憶は大切なものなのだから、忘れないように。けれど、そうして抱くものは今もまだ続いている、続いて欲しいと願っているものとしてではなく、終わってしまったものなのだと認めなければならないのだ。たったそれだけのことに、僕は何年もかけて気が付いた。

 それでも、彼女たちとの記憶は、思い出は、重たく僕を巣食う。時折、歩くことを辞めたくなるほどに、自分の中に染み込んでいることが分かる。

 けれど、今は共に歩いてくれる人が居た。寄り掛かることの出来る、助け合うことの出来る人が、隣に居てくれた。僕たちは、弱い。あるいは、人間なんていうものは誰しもが弱さを有しているのだろう。強がっているだけで、誰もが不安定な脆さを携えているのだ。

 弱さは悪ではない。しかし、やがて自分自身を蝕みかねないものであることもまた確かなことだ。僕たちはそれを認めて、受け入れて、そのうえで向き合いながら生きていかなければならない。

 ありのままの、剥き出しの世界と向き合うためには人間は脆く、世界は残酷過ぎる。ゆえに自己欺瞞に陥り、都合のいい世界の中で生きることは、難しいことではないのだ。

 それでも、僕たちはそこにある世界を見つめなければならない。善悪の問題ではなく、ただそこに存在しているのだから。現実をあるままに認識しない限りには、幻想の中で溺れるように藻掻くだけで一歩も進めないままなのだろうから。

「今度さ、気晴らしにでも久しぶりに遠くまで出かけないか」

 遠くへと行きたいと思った。この場所からの逃避のためではなくて、今まで目を逸らし続けていた世界を直視するために。

 今まで、この街の外へと行く気になることが出来なかった。僕にとって、世界とはこの街の中で完結をしていて、それ以上求めるものなんてなかったのだから。けれど、世界はこの街の外にも続いている。それは当たり前だけれども、立ち止まって考えてみると当たり前だと思っていなかった事実だった。

「夏休みが終わって、今更?」

「駄目かな」

「まあ、いいよ。どうせ、時間はあるしね」

 憂花ははにかむ。もう見ることが出来ないと思っていた表情を、彼女は見せてくれるようになった。どうしようもなく取り返しのつかない欠落が存在している中でも、取り戻すことの出来る喪失もまた、存在している。今度こそそれを取り零さないようにと思いながら「ありがとう」と呟いた。

 柔らかな感触が唇の上に甦って、思わずそれを指でなぞった。鈍い痛みが、胸の中を掠めた。

 僕は欠落を愛する。それこそが、紛れもない僕の大切にしてきたものたちなのだから。痛みが辛いことに変わりはないけれど、それでも。

 風は凪いでいた。冷たい何かが頬を掠めた。そんな気がした。

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