【短編小説】鬼軍医・霜月真澄の生涯  ―命の輪廻を見つめて―(約10,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

【短編小説】鬼軍医・霜月真澄の生涯  ―命の輪廻を見つめて―(約10,000字)

## 第1章:魂の誕生


 暗闇の中で、誰かが泣いていた。


 霜月真澄は、医療テントの奥で横たわる若い兵士の顔を見つめていた。二十歳にも満たない少年は、腹部に深い裂傷を負い、今にも命が消えそうだった。


「ま、まだ……死にたくない……」


 かすれた声が、テントの中に響く。真澄は無言で手術用の器具を取り上げた。


「黙っていろ。話すと傷が広がる」


 その声は、まるで氷のように冷たかった。


 テントの外では、砲撃の音が遠くに鳴り響いている。この戦場で、もう何人の命を見送っただろう。真澄は数えるのをやめていた。


 彼女の手は的確に動く。メスが肉を切り裂き、針が血管を縫い合わせる。その動きには一切の迷いがない。まるで機械のように、感情を押し殺して。


「あ、痛い!」


「当たり前だ。生きているんだから痛いのは当然だろう」


 真澄の言葉は荒々しく、その態度は冷徹だった。しかし、その手は決して乱暴ではない。むしろ優しさに満ちていた。


 それは二十年前、彼女がまだ駆け出しの軍医だった頃から変わらない姿勢だった。


---


 幼い頃の真澄は、山奥の寺で育った。父は住職で、母は尼僧だった。毎日、読経の声を聞きながら、彼女は仏の教えを学んでいった。


「真澄、命というものはね、輪廻の環の中で永遠に続いているんだよ」


 母の言葉を、真澄は今でも覚えている。


「でも、お母さん。みんな死ぬのが怖いって言うよ?」


「そうね。死ぬのは怖いことかもしれない。でも、それは次の命へ向かう一歩なの」


 母は真澄の頭を優しく撫でながら、ほほえんだ。


「命は、大きな海みたいなものよ。私たちはその海から生まれ、また海に戻っていく。だから、一つ一つの命は、みんな尊いの」


 その教えは、真澄の心に深く刻み込まれた。しかし、それは同時に彼女に大きな疑問を投げかけることにもなった。


 十歳の時、真澄は初めて人の死を目の当たりにした。村で暮らす弟のような存在だった少年が、病に倒れたのだ。


「お願い! 誰か助けて!」


 少年の母親が叫ぶ声が、今でも耳に残っている。しかし、山奥の村には医者がいなかった。祈ることしかできない。それが現実だった。


 少年は三日後に息を引き取った。


 その夜、真澄は母に尋ねた。


「どうして助けられなかったの? 命は尊いんでしょう?」


 母は黙って真澄を抱きしめた。


「そうね。命は尊い。だからこそ、守らなければならないの」


 その言葉が、真澄の人生を決定づけた。


「私は医者になる」


 真澄はそう宣言した。両親は最初、驚いた様子を見せた。山奥の寺の娘が医者になるなど、当時としては考えられないことだった。


「本当にそれでいいの?」


「はい。私は、命を守る人になりたいんです」


 父は長い間黙っていたが、やがてゆっくりとうなずいた。


「そうか。ならば、行きなさい」


 その日から、真澄の新しい人生が始まった。


---


 医学校での日々は、想像以上に過酷だった。


 女性の医学生など珍しく、周囲の視線は冷ややかだった。しかし、真澄はそんな視線など気にしなかった。ただひたすらに、医学の道を突き進んだ。


「霜月さん、あなたの解剖の技術は素晴らしい」


 教授の言葉に、真澄は黙ってうなずいた。彼女の手の確かさは、誰もが認めるところだった。


 そして、戦争が始まった。


 真澄は迷わず、軍医としての道を選んだ。最前線で、最も命が危険にさらされる場所で、自分の技術を活かしたいと考えたからだ。


---


「……助かりますか?」


 現在の医療テントに戻る。若い兵士の声が、かすかに響く。


 真澄は黙々と縫合を続けながら、答えた。


「それは、お前の命の力次第だ」


「え?」


「私にできるのは、傷を縫い、出血を止めることだけだ。命を繋ぐかどうかは、お前自身が決めることだ」


 兵士は真澄の言葉に、わずかに目を見開いた。


「そうですか……」


「黙って、じっとしていろ」


 真澄の手が動き続ける。一針、また一針。命を繋ぐための作業が、静かに続いていく。


 テントの外では、また新たな砲撃の音が響いた。新たな傷付いた命が、この場所に運ばれてくるのだろう。


 真澄の心の中で、母の言葉が響く。


「命は海のようなもの」


 そう。だからこそ、一つ一つの命を大切にしなければならない。たとえそれが、戦場という地獄の中であっても。


 真澄の手は、決して止まることはなかった。


## 第2章:戦場の灯火


 夜が明けると、医療テントには新たな負傷者が運び込まれた。


「霜月先生! この兵士、至急の処置が必要です!」


 衛生兵の声に、真澄は即座に対応する。担架に横たわる兵士は、砲撃で右腕を失っていた。大量の出血で、顔は蒼白。


 真澄は素早く状況を判断する。このままでは失血死は避けられない。即座に手術が必要だ。


「手術室を準備しろ。輸血も用意だ」


 真澄の声は冷静さを保っていた。しかし、その内側では激しい焦りが渦巻いていた。若すぎる。この兵士はまだ若すぎる。


 手術が始まる。真澄の手が的確に動く。壊死した組織を切除し、血管を結紮し、神経を修復する。その作業は、まるで舞うように美しかった。


「霜月先生、すごいです……」


 若い衛生兵が感嘆の声を上げる。


「黙って見てろ。手術中に余計な言葉を発するな」


 真澄の言葉は厳しい。しかし、その目は手術に集中したままだった。


 三時間後、手術は終わった。兵士の命は取り留めた。しかし、これで終わりではない。むしろ、始まりに過ぎない。


---


 その夜、真澄は自分の簡易ベッドで横になっていた。しかし、眠ることはできない。


 目を閉じると、これまでに見てきた無数の傷ついた命が、まぶたの裏に浮かび上がる。成功した手術も、失敗した手術も。救えた命も、救えなかった命も。


「ああ……」


 思わず、ため息が漏れる。


 ふと、真澄は胸ポケットから一冊の手帳を取り出した。それは、彼女が軍医になって以来、ずっと携帯している物だった。


 手帳には、一人一人の患者の名前が記されている。生きた者も、死んだ者も、すべてがそこに刻まれていた。


 ページをめくると、最新の患者の名前が目に入る。


「神崎竜二。18歳……」


 真澄は静かにその名前を読み上げた。今日の手術で命を救った兵士の名前だ。


「まだ子供じゃないか……」


 思わず、その言葉が漏れる。しかし、すぐに真澄は首を振った。


 この戦場に来る前から、彼女は決意していた。感情に流されてはいけない。それが、命を救う者の責務だと。


 しかし、時として。


「お母さん……私は、正しいことをしているのでしょうか?」


 真澄は暗闇の中で、そっとつぶやいた。


 返事はない。あるはずもない。しかし、真澄の心の中で、母の言葉が響く。


「命は、大きな海のようなもの」


 そう。だからこそ、一つ一つの命に向き合わなければならない。


 真澄は静かに手帳を閉じた。明日も、新たな命との戦いが始まる。


---


 翌朝、真澄は早くから回診を始めた。


「神崎君、調子はどうだ?」


 昨日手術をした兵士は、まだ意識が朦朧としている様子だった。しかし、バイタルは安定していた。


「先生……私の腕は……」


 神崎は不安そうな表情を浮かべた。


「失った物は戻らない。それが現実だ」


 真澄の言葉は容赦なかった。


「で、でも……」


「しかし、お前は生きている。それが重要なんだ」


 真澄はそう言いながら、神崎の包帯を交換し始めた。その手つきは、昨日の手術の時とは違い、驚くほど優しかった。


「痛いか?」


「い、いえ……先生の手、とても優しいです」


 神崎は少し驚いたような表情を浮かべた。


「当たり前だ。傷口は優しく扱わなければならない」


 真澄は淡々と答えた。しかし、その声には微かな温もりが感じられた。


 その時、突然の爆発音が響いた。地面が揺れ、医療テントの中が騒然となる。


「敵の攻撃です! この区域に砲撃が……」


 衛生兵の声が響く前に、真澄は即座に行動を開始していた。


「重症患者を地下壕へ! 移動できる者は自力で避難!」


 真澄の声が響く。その声には迷いがない。


「先生、私は……」


 神崎が不安そうに呟く。


「心配するな。私が必ず守る」


 真澄はそう言って、神崎のベッドを押し始めた。


 砲撃は続く。しかし、真澄の動きは止まらない。一人、また一人と、患者たちを安全な場所へと移動させていく。


 その姿は、まさに「鬼軍医」の異名にふさわしかった。しかし、それは決して恐ろしい鬼ではない。命を守るための、慈悲深き鬼なのだ。


---


 避難が終わった後、真澄は再び手帳を開いた。


 そこには新たな名前が加えられていた。今日も、命は続いていく。


 真澄は静かにペンを走らせる。


「生きているということは、奇跡なのかもしれない」


 そう書き記しながら、真澄は思った。


 この戦場で、彼女にできることは限られている。しかし、それでも。


「一つでも多くの命を。一つでも多くの灯火を」


## 第3章:鬼となりて


 「鬼軍医」。


 その異名が真澄についたのは、ある日の出来事がきっかけだった。


 大規模な戦闘の後、医療テントには次々と負傷者が運び込まれていた。医療スタッフは疲労困憊。物資も底をつきかけていた。


「霜月先生! もう処置室が足りません!」


「簡易ベッドも残り僅かです!」


 混乱の声が飛び交う中、真澄は冷静に状況を判断していた。


「軽傷は後回しだ。重症を優先する」


 その声は氷のように冷たかった。


「でも、先生! 将校の方々が……」


「関係ない。今ここにいる命の重さに、階級の違いはない」


 真澄の目は鋭く光っていた。


 その時、一人の将校が怒鳴り込んでいた。


「何だと? 私の部下の治療を後回しにするというのか!」


 将校の声は威圧的だった。しかし、真澄は一歩も引かなかった。


「ええ、そうです。あなたの部下は軽傷。今、私の前には腹部を撃たれて命が危ない一般兵士がいる。どちらを先に治療すべきか、分かりますよね?」


「貴様!」


「おや? 医療判断に口を出すなら、あなたも医者になられたらいかがです?」


 真澄の言葉は皮肉に満ちていた。その態度は尊大で、まるで人を見下すような雰囲気があった。


 将校は真っ赤な顔で怒りを爆発させようとしたが、その時。


「うっ……痛い……」


 担架の上の兵士が呻き声を上げた。


「話している暇はありません。どいてください」


 真澄は将校を押しのけ、即座に処置を開始した。その手つきは正確で、一切の迷いがなかった。


 周囲で見ていた者たちは、その光景に息を呑んだ。


 その日から、「鬼軍医」という異名が広まっていった。


---


「先生、また新しい患者です」


 若い衛生兵が声をかける。真澄は無言で頷いた。


 担架の上には、両足を失った兵士が横たわっていた。意識はあるものの、大量出血で顔色は青ざめている。


「私は……もう、戦えないんですよね……」


 兵士の声は震えていた。


 真澄は黙って診察を始めた。脈を確認し、瞳孔を見る。そして。


「ふん。情けない顔をするな」


「え?」


「足がないからって、命までなくなったわけじゃないだろう」


 真澄の声は厳しかった。


「でも……」


「黙れ。お前の命は、まだ終わっていない。これからが本当の戦いだ」


 真澄は手際よく包帯を巻きながら、続けた。


「生きることは、戦うことより遥かに難しい。それを、これから学ぶんだ」


 兵士は驚いたような表情を浮かべた。その目には、僅かな希望の光が宿っていた。


---


 その夜、真澄は一人で書類を整理していた。


 医療記録。処方箋。死亡診断書。


 一枚一枚のペーパーワークの向こうに、無数の命が存在している。


「霜月先生」


 突然、声をかけられた。振り向くと、若い衛生兵が立っていた。


「なんだ?」


「あの……私、先生のことを尊敬しています」


 突然の告白に、真澄は手を止めた。


「何を言っているんだ?」


「先生は確かに厳しい。でも、その厳しさの中に、深い愛情があるんです」


 衛生兵は真剣な表情で言った。


「たわけ」


 真澄は短く言い放った。


「私は、ただ目の前の命を救っているだけだ。それ以上でも、以下でもない」


 しかし、衛生兵は諦めなかった。


「でも、先生が厳しく接するのは、患者さんに生きる意志を持ってほしいからですよね?」


 真澄は黙った。


 若い衛生兵は続けた。


「先生が『鬼軍医』と呼ばれているのは、命への執着が強すぎるからだと、私は思います」


 その言葉に、真澄は微かにため息をついた。


「帰れ。仕事の邪魔だ」


 しかし、その声には普段の厳しさがなかった。


---


 翌朝、真澄は早くから回診を始めた。


 両足を失った兵士のベッドに近づくと、彼は弱々しく微笑んだ。


「先生……昨日は、ありがとうございました」


「何が?」


「私に、生きる希望をくれて」


 真澄は黙って診察を続けた。


「私、決めたんです。生きます。たとえ足がなくても、私にできることを見つけて生きていく」


 その言葉に、真澄は微かに目を細めた。


「ふん。当たり前だ」


 その返事は素っ気なかったが、その手つきは優しかった。


 そう。これが「鬼軍医」の本質なのだ。


 厳しさの中に隠された慈愛。冷徹さの奥に秘められた祈り。


 真澄は黙々と包帯を巻き続けた。その手の中に、無数の命が託されている。


---


 その日の夕方、真澄は再び手帳を開いた。


「生きるということは、時として死ぬより難しい」


 そう書き記しながら、真澄は思った。


 自分は本当に「鬼」なのだろうか?


 いや、それは違う。


 彼女は命を救うために、自ら「鬼」を演じているのだ。


 その覚悟が、彼女を支えていた。


## 第4章:命の重み


 真夏の陽射しが医療テントを照らしつける中、真澄は黙々と手術を続けていた。


 目の前の患者は、わずか十六歳の少年兵だった。急性虫垂炎を発症し、既に穿孔している。腹膜炎の危険が高い。


「バイタル、安定していません」


 看護師の声が響く。


「分かっている」


 真澄の声は低く、集中力に満ちていた。


 メスが動く。膿を排出し、壊死した組織を切除する。その作業は、まるで時間との戦いだった。


「先生、血圧が下がっています」


「輸液を増やせ。抗生剤も追加だ」


 真澄の指示は的確だった。しかし、その心の中では、ある思いが渦巻いていた。


 なぜ、こんな若い命が戦場にいるのか。


 しかし、そんな感情を表に出すことは許されない。今、彼女にできることは、ただ目の前の命を救うことだけだ。


 二時間後、手術は終わった。少年の命は取り留めた。


 真澄は疲れた表情で手術室を出た。そこには、少年の上官が待っていた。


「もう、戦えますか?」


 その質問に、真澄は氷のような視線を向けた。


「命があっただけでも奇跡です。一ヶ月は絶対安静が必要」


「しかし、我々には一人でも多くの……」


「命は代替できません」


 真澄は上官の言葉を遮った。


「もし無理をさせて死なせたら、その責任は私が取りますか? それとも、あなたが取りますか?」


 上官は言葉を失った。


 真澄は静かに続けた。


「私の仕事は、命を救うこと。それ以外のことは、あなた方にお任せします」


 その言葉には、揺るぎない意志が込められていた。


---


 その夜、真澄は久しぶりに手紙を書いていた。


 宛先は、山奥の寺に住む両親。


「お父様、お母様


 私は元気です。相変わらず、多くの命と向き合う日々を送っています」


 ペンを走らせながら、真澄は思い出していた。


 医者になると決意した日のこと。両親の心配そうな表情。そして、父の最後の言葉。


「命を救うということは、その重みを背負うということだ」


 その言葉の意味を、真澄は今、深く理解していた。


 手紙を書き終えると、真澄は窓の外を見た。


 月明かりが、静かに戦場を照らしていた。


---


 翌朝、真澄は少年の回診に向かった。


 少年は幸い、順調に回復していた。


「先生……ありがとうございます」


 少年の声は弱々しかったが、確かな生命力を感じさせた。


「礼を言うのは早い。これからが本当の戦いだ」


 真澄は普段通りの厳しい口調で言った。


「はい。でも、先生がいてくれて本当に良かった」


 その言葉に、真澄は微かに目を細めた。


 医療テントの外では、また新たな砲撃の音が響いていた。


 しかし、この瞬間、この命が助かったことは、確かな事実として存在している。


 真澄は静かに包帯を交換し始めた。


---


 その日の午後、新たな負傷者が運び込まれてきた。


 大量出血。複数の銃創。致命的な状態だった。


 真澄は即座に行動を開始する。


 しかし、時として医療には限界がある。


 どれだけ必死に処置を施しても、その命は静かに消えていった。


「くっ……」


 真澄は歯を食いしばった。


 死を看取ることは、医者として避けられない現実だ。


 しかし、それは決して慣れることのない痛みでもある。


 真澄は静かに時刻を記録した。


 そして、その夜。


 真澄は再び手帳を開いた。


「今日も、一つの命が海に還っていった」


 そう書き記しながら、真澄は思った。


 命の重さは、決して軽くならない。


 むしろ、経験を重ねるほどに、その重みは増していく。


 それでも、だからこそ。


 真澄は明日も、命と向き合い続けることを決意した。


 それが、「鬼軍医」としての、そして一人の医者としての、彼女の使命なのだから。


## 第5章:輪廻の海


 霜月真澄が軍医として過ごした時間は、気がつけば二十年を超えていた。


 その間、彼女は無数の命と向き合ってきた。

 

 救えた命。救えなかった命。


 すべての記憶が、彼女の中に深く刻み込まれていた。


 五十歳を迎えた真澄は、今では後方の大きな軍事病院で働いている。若い頃のように前線に出ることは少なくなったが、その存在は依然として医療部隊の中で大きな影響力を持っていた。


「霜月先生、手術をお願いします」


 若い軍医が真澄に頭を下げる。


「どんな症例だ?」


「複雑性骨折です。血管も損傷しています」


 真澄は無言で手術室に向かった。


 その背中には、相変わらず威厳が漂っていた。


---


 手術は長時間に及んだ。


 しかし、真澄の手は一切揺るがなかった。


 むしろ、年を重ねるごとに、その技術は磨きがかかっているように見えた。


「素晴らしい手術でした」


 若い軍医が感嘆の声を上げる。


「当たり前だ。二十年以上やっているんだからな」


 真澄の返事は相変わらず素っ気なかった。


 しかし、その声の中に、かすかな温もりが感じられた。


---


 その夜、真澄は一人で診療記録を書いていた。


 ふと、デスクの引き出しから、古びた手帳を取り出す。


二十年分の記録が、その手帳には刻まれていた。


 ページをめくると、懐かしい名前が目に飛び込んでくる。


「神崎竜二……あの時の若い兵士か」


 真澄は静かに微笑んだ。彼は生還後、教師になったという話を聞いていた。


 次のページには、両足を失った兵士の名前。彼は今、義足の研究開発に携わっているらしい。


 そして、救えなかった命の名前も、たくさん並んでいる。


「結局、私は何人の命を救えたのだろう。そして、何人の命を救えなかったのだろう」


 真澄は静かにつぶやいた。


 その時、ノックの音が響いた。


「失礼します。霜月先生」


 入ってきたのは、若い女性の軍医だった。


「私、先生のような軍医になりたいんです」


 突然の告白に、真澄は眉をひそめた。


「私のような? 鬼のような医者になりたいというのか?」


「違います」


 若い軍医は真剣な表情で言った。


「先生は決して鬼なんかじゃない。先生は……命の守り人です」


 その言葉に、真澄は少し驚いた表情を見せた。


「面白いことを言うな」


「本当です。先生の手術を見て、私は確信しました。先生の中には、深い慈悲の心があるんです」


 真澄は黙って若い軍医を見つめた。


 そして、ふと母の言葉を思い出した。


「命は、大きな海のようなもの」


 真澄はゆっくりと立ち上がった。


「お前、名前は?」


「月見里かおるです」


「月見里か……。明日、私の手術を見学しろ。教えられることがあれば教えよう」


 かおるの目が輝いた。


「ありがとうございます!」


「ただし、甘くはないぞ」


「はい。覚悟はできています」


 真澄は密かに微笑んだ。


 自分が積み重ねてきた経験を、次の世代に伝えていく。それも、また命を守る一つの形なのかもしれない。


---


 それから数ヶ月が過ぎた。


 真澄は相変わらず、厳しい指導を続けていた。


「なっていない! その程度の縫合で、患者の命が救えると思うのか!」


 手術室では、相変わらず真澄の怒鳴り声が響いていた。


 しかし、その陰で。


「よく頑張った。その調子だ」


 そんな言葉をかけることも、少しずつ増えていった。


 ある日、かおるが真澄に尋ねた。


「先生、なぜ軍医になったんですか?」


 真澄は少し考えてから答えた。


「命を守りたかったからだ。それ以外の理由はない」


「でも、軍医は、戦争という命を奪い合う場所にいるわけですよね?」


「そうだな。矛盾しているように見えるかもしれない」


 真澄は窓の外を見つめながら続けた。


「しかし、だからこそだ。戦場という、最も命が軽んじられる場所だからこそ、命の重さを知る者が必要なんだ」


 かおるは真剣な表情で聞いていた。


「先生の手帳、見せていただけませんか?」


 その質問に、真澄は少し驚いた表情を見せた。


 しかし、じきに静かにうなずいた。


「いいだろう」


 真澄は古びた手帳を取り出した。


 その中には、二十年分の記録。命との戦いの記録が、びっしりと書き込まれていた。


 かおるは一つ一つの名前を、真剣な表情で読んでいった。


「これが、先生の歩んできた道なんですね」


「ああ。私の誇りであり、懺悔の記録でもある」


 真澄はそう言って、ふと空を見上げた。


 そこには、夕暮れの空が広がっていた。


---


 その年の冬、真澄は一つの決断をした。


「私は、山に帰ることにした」


 病院長に告げると、彼は驚いた表情を見せた。


「まだまだ現役で活躍できるのに、なぜ?」


「次の世代に、バトンを渡す時期だと思うんです」


 真澄はそう答えて、静かに微笑んだ。


 最後の日。


 真澄が病院を出ようとすると、大勢のスタッフが見送りに集まっていた。


「先生、ありがとうございました!」


「鬼軍医の教えは、決して忘れません!」


 真澄は少し困ったような表情を見せたが、しっかりと頭を下げた。


「私から教わることがあったとすれば、それは命の重さだ。それを忘れずに、これからも多くの命を救ってくれ」


 そう言って、真澄は歩き出した。


 その背中は、いつもと変わらず凛としていた。


(了)


●霜月真澄の手帳 ―二十年の記録―


## 第一頁:赴任初日


 昭和19年8月15日

 本日、第三野戦病院に赴任。

 最初の患者は胸部銃創の兵士。

 佐伯正道(22歳)。手術は成功したが、まだ予断を許さない。

 母の言葉を思い出す。

 「命は海のようなもの」

 その海の前で、私はまだあまりに無力だ。


## 初年度の記録


 昭和19年9月3日

 本日の手術:4件

 救えた命:3

 救えなかった命:1

 藤堂清明(19歳)。止血が間に合わなかった。

 申し訳ない。次は必ず。


 昭和19年10月15日

 加藤少尉(27歳)が亡くなった。

 感染症との戦いに敗れた。

 彼の最期の言葉「家族に、ありがとうと」

 伝えきれなかった言葉を、この手帳に記しておく。


## 二年目の記録


 昭和20年4月8日

 神崎竜二(18歳)。右腕切断手術。

 「もう戦えない」と泣いていた彼に告げた。

 「命があるだけで、奇跡なんだ」

 その言葉が、私自身への戒めでもある。


 昭和20年6月21日

 本日、初めて「鬼軍医」と呼ばれた。

 将校との衝突が原因らしい。

 だが、後悔はしない。

 命の前では、階級など関係ないのだから。


## 転機となった記録


 昭和23年8月3日

 山本航平(16歳)。虫垂炎手術成功。

 戦後も苦しみは続く。

 こんな若い命が、なぜここにいるのか。

 答えは見つからない。ただ、目の前の命を救うことしかできない。


 昭和25年12月25日

 クリスマスの夜。

 緊急手術3件。

 すべて成功。

 小さな奇跡に感謝する夜。


## 中堅期の記録


 昭和30年5月17日

 今日で医師10年目。

 これまでの手術件数:2,741件

 生還率:76.3%

 数字では表せない重みを感じる。

 一つ一つの命に、物語がある。


 昭和35年9月4日

 若い軍医が増えてきた。

 彼らに何を伝えられるだろう。

 技術か、心構えか。

 それとも、命への敬意か。


## 後期の記録


 昭和40年3月1日

 月見里かおる。新しい研修医。

 彼女の目に、かつての自分を見た。

 命を救いたいという、純粋な願い。

 それは、決して色褪せることのない思いだ。


 昭和42年7月15日

 最後の前線手術となるだろう。

 戦時中の記憶が、今でも鮮明に蘇る。

 あの日々は、私の中で永遠に続いている。


## 最終頁


 昭和43年12月31日

 この手帳も、ついに最後のページとなった。

 二十年間。

 無数の命との出会いと別れ。

 喜びも、悲しみも、すべては輪廻の環の中にある。

 

 私は何を成し得たのだろう。

 ただ、目の前の命に向き合い続けた。

 それだけのことかもしれない。

 

 しかし、その営みの中で、確かに学んだ。

 命とは、愛とは、そして人間とは何かを。

 

 この記録は、私の誇りであり、懺悔であり、祈りである。

 すべての命に、深い感謝を込めて。


 ―鬼軍医 霜月真澄―



## 付記された言葉たち


- 「命は海のようなもの」(母の言葉)

- 「生きているだけで、奇跡」

- 「医者は、時として死神より強くなければならない」

- 「鬼と呼ばれても、命を救う。それが私の誇り」

- 「すべての命には、輝きがある」

- 「死を看取ることは、生を祝福すること」

- 「技術は冷静に、心は熱く」

- 「明日も、どこかで命が生まれる」


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