【短編小説】鬼軍医・霜月真澄の生涯 ―命の輪廻を見つめて―(約10,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
【短編小説】鬼軍医・霜月真澄の生涯 ―命の輪廻を見つめて―(約10,000字)
## 第1章:魂の誕生
暗闇の中で、誰かが泣いていた。
霜月真澄は、医療テントの奥で横たわる若い兵士の顔を見つめていた。二十歳にも満たない少年は、腹部に深い裂傷を負い、今にも命が消えそうだった。
「ま、まだ……死にたくない……」
かすれた声が、テントの中に響く。真澄は無言で手術用の器具を取り上げた。
「黙っていろ。話すと傷が広がる」
その声は、まるで氷のように冷たかった。
テントの外では、砲撃の音が遠くに鳴り響いている。この戦場で、もう何人の命を見送っただろう。真澄は数えるのをやめていた。
彼女の手は的確に動く。メスが肉を切り裂き、針が血管を縫い合わせる。その動きには一切の迷いがない。まるで機械のように、感情を押し殺して。
「あ、痛い!」
「当たり前だ。生きているんだから痛いのは当然だろう」
真澄の言葉は荒々しく、その態度は冷徹だった。しかし、その手は決して乱暴ではない。むしろ優しさに満ちていた。
それは二十年前、彼女がまだ駆け出しの軍医だった頃から変わらない姿勢だった。
---
幼い頃の真澄は、山奥の寺で育った。父は住職で、母は尼僧だった。毎日、読経の声を聞きながら、彼女は仏の教えを学んでいった。
「真澄、命というものはね、輪廻の環の中で永遠に続いているんだよ」
母の言葉を、真澄は今でも覚えている。
「でも、お母さん。みんな死ぬのが怖いって言うよ?」
「そうね。死ぬのは怖いことかもしれない。でも、それは次の命へ向かう一歩なの」
母は真澄の頭を優しく撫でながら、ほほえんだ。
「命は、大きな海みたいなものよ。私たちはその海から生まれ、また海に戻っていく。だから、一つ一つの命は、みんな尊いの」
その教えは、真澄の心に深く刻み込まれた。しかし、それは同時に彼女に大きな疑問を投げかけることにもなった。
十歳の時、真澄は初めて人の死を目の当たりにした。村で暮らす弟のような存在だった少年が、病に倒れたのだ。
「お願い! 誰か助けて!」
少年の母親が叫ぶ声が、今でも耳に残っている。しかし、山奥の村には医者がいなかった。祈ることしかできない。それが現実だった。
少年は三日後に息を引き取った。
その夜、真澄は母に尋ねた。
「どうして助けられなかったの? 命は尊いんでしょう?」
母は黙って真澄を抱きしめた。
「そうね。命は尊い。だからこそ、守らなければならないの」
その言葉が、真澄の人生を決定づけた。
「私は医者になる」
真澄はそう宣言した。両親は最初、驚いた様子を見せた。山奥の寺の娘が医者になるなど、当時としては考えられないことだった。
「本当にそれでいいの?」
「はい。私は、命を守る人になりたいんです」
父は長い間黙っていたが、やがてゆっくりとうなずいた。
「そうか。ならば、行きなさい」
その日から、真澄の新しい人生が始まった。
---
医学校での日々は、想像以上に過酷だった。
女性の医学生など珍しく、周囲の視線は冷ややかだった。しかし、真澄はそんな視線など気にしなかった。ただひたすらに、医学の道を突き進んだ。
「霜月さん、あなたの解剖の技術は素晴らしい」
教授の言葉に、真澄は黙ってうなずいた。彼女の手の確かさは、誰もが認めるところだった。
そして、戦争が始まった。
真澄は迷わず、軍医としての道を選んだ。最前線で、最も命が危険にさらされる場所で、自分の技術を活かしたいと考えたからだ。
---
「……助かりますか?」
現在の医療テントに戻る。若い兵士の声が、かすかに響く。
真澄は黙々と縫合を続けながら、答えた。
「それは、お前の命の力次第だ」
「え?」
「私にできるのは、傷を縫い、出血を止めることだけだ。命を繋ぐかどうかは、お前自身が決めることだ」
兵士は真澄の言葉に、わずかに目を見開いた。
「そうですか……」
「黙って、じっとしていろ」
真澄の手が動き続ける。一針、また一針。命を繋ぐための作業が、静かに続いていく。
テントの外では、また新たな砲撃の音が響いた。新たな傷付いた命が、この場所に運ばれてくるのだろう。
真澄の心の中で、母の言葉が響く。
「命は海のようなもの」
そう。だからこそ、一つ一つの命を大切にしなければならない。たとえそれが、戦場という地獄の中であっても。
真澄の手は、決して止まることはなかった。
## 第2章:戦場の灯火
夜が明けると、医療テントには新たな負傷者が運び込まれた。
「霜月先生! この兵士、至急の処置が必要です!」
衛生兵の声に、真澄は即座に対応する。担架に横たわる兵士は、砲撃で右腕を失っていた。大量の出血で、顔は蒼白。
真澄は素早く状況を判断する。このままでは失血死は避けられない。即座に手術が必要だ。
「手術室を準備しろ。輸血も用意だ」
真澄の声は冷静さを保っていた。しかし、その内側では激しい焦りが渦巻いていた。若すぎる。この兵士はまだ若すぎる。
手術が始まる。真澄の手が的確に動く。壊死した組織を切除し、血管を結紮し、神経を修復する。その作業は、まるで舞うように美しかった。
「霜月先生、すごいです……」
若い衛生兵が感嘆の声を上げる。
「黙って見てろ。手術中に余計な言葉を発するな」
真澄の言葉は厳しい。しかし、その目は手術に集中したままだった。
三時間後、手術は終わった。兵士の命は取り留めた。しかし、これで終わりではない。むしろ、始まりに過ぎない。
---
その夜、真澄は自分の簡易ベッドで横になっていた。しかし、眠ることはできない。
目を閉じると、これまでに見てきた無数の傷ついた命が、まぶたの裏に浮かび上がる。成功した手術も、失敗した手術も。救えた命も、救えなかった命も。
「ああ……」
思わず、ため息が漏れる。
ふと、真澄は胸ポケットから一冊の手帳を取り出した。それは、彼女が軍医になって以来、ずっと携帯している物だった。
手帳には、一人一人の患者の名前が記されている。生きた者も、死んだ者も、すべてがそこに刻まれていた。
ページをめくると、最新の患者の名前が目に入る。
「神崎竜二。18歳……」
真澄は静かにその名前を読み上げた。今日の手術で命を救った兵士の名前だ。
「まだ子供じゃないか……」
思わず、その言葉が漏れる。しかし、すぐに真澄は首を振った。
この戦場に来る前から、彼女は決意していた。感情に流されてはいけない。それが、命を救う者の責務だと。
しかし、時として。
「お母さん……私は、正しいことをしているのでしょうか?」
真澄は暗闇の中で、そっとつぶやいた。
返事はない。あるはずもない。しかし、真澄の心の中で、母の言葉が響く。
「命は、大きな海のようなもの」
そう。だからこそ、一つ一つの命に向き合わなければならない。
真澄は静かに手帳を閉じた。明日も、新たな命との戦いが始まる。
---
翌朝、真澄は早くから回診を始めた。
「神崎君、調子はどうだ?」
昨日手術をした兵士は、まだ意識が朦朧としている様子だった。しかし、バイタルは安定していた。
「先生……私の腕は……」
神崎は不安そうな表情を浮かべた。
「失った物は戻らない。それが現実だ」
真澄の言葉は容赦なかった。
「で、でも……」
「しかし、お前は生きている。それが重要なんだ」
真澄はそう言いながら、神崎の包帯を交換し始めた。その手つきは、昨日の手術の時とは違い、驚くほど優しかった。
「痛いか?」
「い、いえ……先生の手、とても優しいです」
神崎は少し驚いたような表情を浮かべた。
「当たり前だ。傷口は優しく扱わなければならない」
真澄は淡々と答えた。しかし、その声には微かな温もりが感じられた。
その時、突然の爆発音が響いた。地面が揺れ、医療テントの中が騒然となる。
「敵の攻撃です! この区域に砲撃が……」
衛生兵の声が響く前に、真澄は即座に行動を開始していた。
「重症患者を地下壕へ! 移動できる者は自力で避難!」
真澄の声が響く。その声には迷いがない。
「先生、私は……」
神崎が不安そうに呟く。
「心配するな。私が必ず守る」
真澄はそう言って、神崎のベッドを押し始めた。
砲撃は続く。しかし、真澄の動きは止まらない。一人、また一人と、患者たちを安全な場所へと移動させていく。
その姿は、まさに「鬼軍医」の異名にふさわしかった。しかし、それは決して恐ろしい鬼ではない。命を守るための、慈悲深き鬼なのだ。
---
避難が終わった後、真澄は再び手帳を開いた。
そこには新たな名前が加えられていた。今日も、命は続いていく。
真澄は静かにペンを走らせる。
「生きているということは、奇跡なのかもしれない」
そう書き記しながら、真澄は思った。
この戦場で、彼女にできることは限られている。しかし、それでも。
「一つでも多くの命を。一つでも多くの灯火を」
## 第3章:鬼となりて
「鬼軍医」。
その異名が真澄についたのは、ある日の出来事がきっかけだった。
大規模な戦闘の後、医療テントには次々と負傷者が運び込まれていた。医療スタッフは疲労困憊。物資も底をつきかけていた。
「霜月先生! もう処置室が足りません!」
「簡易ベッドも残り僅かです!」
混乱の声が飛び交う中、真澄は冷静に状況を判断していた。
「軽傷は後回しだ。重症を優先する」
その声は氷のように冷たかった。
「でも、先生! 将校の方々が……」
「関係ない。今ここにいる命の重さに、階級の違いはない」
真澄の目は鋭く光っていた。
その時、一人の将校が怒鳴り込んでいた。
「何だと? 私の部下の治療を後回しにするというのか!」
将校の声は威圧的だった。しかし、真澄は一歩も引かなかった。
「ええ、そうです。あなたの部下は軽傷。今、私の前には腹部を撃たれて命が危ない一般兵士がいる。どちらを先に治療すべきか、分かりますよね?」
「貴様!」
「おや? 医療判断に口を出すなら、あなたも医者になられたらいかがです?」
真澄の言葉は皮肉に満ちていた。その態度は尊大で、まるで人を見下すような雰囲気があった。
将校は真っ赤な顔で怒りを爆発させようとしたが、その時。
「うっ……痛い……」
担架の上の兵士が呻き声を上げた。
「話している暇はありません。どいてください」
真澄は将校を押しのけ、即座に処置を開始した。その手つきは正確で、一切の迷いがなかった。
周囲で見ていた者たちは、その光景に息を呑んだ。
その日から、「鬼軍医」という異名が広まっていった。
---
「先生、また新しい患者です」
若い衛生兵が声をかける。真澄は無言で頷いた。
担架の上には、両足を失った兵士が横たわっていた。意識はあるものの、大量出血で顔色は青ざめている。
「私は……もう、戦えないんですよね……」
兵士の声は震えていた。
真澄は黙って診察を始めた。脈を確認し、瞳孔を見る。そして。
「ふん。情けない顔をするな」
「え?」
「足がないからって、命までなくなったわけじゃないだろう」
真澄の声は厳しかった。
「でも……」
「黙れ。お前の命は、まだ終わっていない。これからが本当の戦いだ」
真澄は手際よく包帯を巻きながら、続けた。
「生きることは、戦うことより遥かに難しい。それを、これから学ぶんだ」
兵士は驚いたような表情を浮かべた。その目には、僅かな希望の光が宿っていた。
---
その夜、真澄は一人で書類を整理していた。
医療記録。処方箋。死亡診断書。
一枚一枚のペーパーワークの向こうに、無数の命が存在している。
「霜月先生」
突然、声をかけられた。振り向くと、若い衛生兵が立っていた。
「なんだ?」
「あの……私、先生のことを尊敬しています」
突然の告白に、真澄は手を止めた。
「何を言っているんだ?」
「先生は確かに厳しい。でも、その厳しさの中に、深い愛情があるんです」
衛生兵は真剣な表情で言った。
「たわけ」
真澄は短く言い放った。
「私は、ただ目の前の命を救っているだけだ。それ以上でも、以下でもない」
しかし、衛生兵は諦めなかった。
「でも、先生が厳しく接するのは、患者さんに生きる意志を持ってほしいからですよね?」
真澄は黙った。
若い衛生兵は続けた。
「先生が『鬼軍医』と呼ばれているのは、命への執着が強すぎるからだと、私は思います」
その言葉に、真澄は微かにため息をついた。
「帰れ。仕事の邪魔だ」
しかし、その声には普段の厳しさがなかった。
---
翌朝、真澄は早くから回診を始めた。
両足を失った兵士のベッドに近づくと、彼は弱々しく微笑んだ。
「先生……昨日は、ありがとうございました」
「何が?」
「私に、生きる希望をくれて」
真澄は黙って診察を続けた。
「私、決めたんです。生きます。たとえ足がなくても、私にできることを見つけて生きていく」
その言葉に、真澄は微かに目を細めた。
「ふん。当たり前だ」
その返事は素っ気なかったが、その手つきは優しかった。
そう。これが「鬼軍医」の本質なのだ。
厳しさの中に隠された慈愛。冷徹さの奥に秘められた祈り。
真澄は黙々と包帯を巻き続けた。その手の中に、無数の命が託されている。
---
その日の夕方、真澄は再び手帳を開いた。
「生きるということは、時として死ぬより難しい」
そう書き記しながら、真澄は思った。
自分は本当に「鬼」なのだろうか?
いや、それは違う。
彼女は命を救うために、自ら「鬼」を演じているのだ。
その覚悟が、彼女を支えていた。
## 第4章:命の重み
真夏の陽射しが医療テントを照らしつける中、真澄は黙々と手術を続けていた。
目の前の患者は、わずか十六歳の少年兵だった。急性虫垂炎を発症し、既に穿孔している。腹膜炎の危険が高い。
「バイタル、安定していません」
看護師の声が響く。
「分かっている」
真澄の声は低く、集中力に満ちていた。
メスが動く。膿を排出し、壊死した組織を切除する。その作業は、まるで時間との戦いだった。
「先生、血圧が下がっています」
「輸液を増やせ。抗生剤も追加だ」
真澄の指示は的確だった。しかし、その心の中では、ある思いが渦巻いていた。
なぜ、こんな若い命が戦場にいるのか。
しかし、そんな感情を表に出すことは許されない。今、彼女にできることは、ただ目の前の命を救うことだけだ。
二時間後、手術は終わった。少年の命は取り留めた。
真澄は疲れた表情で手術室を出た。そこには、少年の上官が待っていた。
「もう、戦えますか?」
その質問に、真澄は氷のような視線を向けた。
「命があっただけでも奇跡です。一ヶ月は絶対安静が必要」
「しかし、我々には一人でも多くの……」
「命は代替できません」
真澄は上官の言葉を遮った。
「もし無理をさせて死なせたら、その責任は私が取りますか? それとも、あなたが取りますか?」
上官は言葉を失った。
真澄は静かに続けた。
「私の仕事は、命を救うこと。それ以外のことは、あなた方にお任せします」
その言葉には、揺るぎない意志が込められていた。
---
その夜、真澄は久しぶりに手紙を書いていた。
宛先は、山奥の寺に住む両親。
「お父様、お母様
私は元気です。相変わらず、多くの命と向き合う日々を送っています」
ペンを走らせながら、真澄は思い出していた。
医者になると決意した日のこと。両親の心配そうな表情。そして、父の最後の言葉。
「命を救うということは、その重みを背負うということだ」
その言葉の意味を、真澄は今、深く理解していた。
手紙を書き終えると、真澄は窓の外を見た。
月明かりが、静かに戦場を照らしていた。
---
翌朝、真澄は少年の回診に向かった。
少年は幸い、順調に回復していた。
「先生……ありがとうございます」
少年の声は弱々しかったが、確かな生命力を感じさせた。
「礼を言うのは早い。これからが本当の戦いだ」
真澄は普段通りの厳しい口調で言った。
「はい。でも、先生がいてくれて本当に良かった」
その言葉に、真澄は微かに目を細めた。
医療テントの外では、また新たな砲撃の音が響いていた。
しかし、この瞬間、この命が助かったことは、確かな事実として存在している。
真澄は静かに包帯を交換し始めた。
---
その日の午後、新たな負傷者が運び込まれてきた。
大量出血。複数の銃創。致命的な状態だった。
真澄は即座に行動を開始する。
しかし、時として医療には限界がある。
どれだけ必死に処置を施しても、その命は静かに消えていった。
「くっ……」
真澄は歯を食いしばった。
死を看取ることは、医者として避けられない現実だ。
しかし、それは決して慣れることのない痛みでもある。
真澄は静かに時刻を記録した。
そして、その夜。
真澄は再び手帳を開いた。
「今日も、一つの命が海に還っていった」
そう書き記しながら、真澄は思った。
命の重さは、決して軽くならない。
むしろ、経験を重ねるほどに、その重みは増していく。
それでも、だからこそ。
真澄は明日も、命と向き合い続けることを決意した。
それが、「鬼軍医」としての、そして一人の医者としての、彼女の使命なのだから。
## 第5章:輪廻の海
霜月真澄が軍医として過ごした時間は、気がつけば二十年を超えていた。
その間、彼女は無数の命と向き合ってきた。
救えた命。救えなかった命。
すべての記憶が、彼女の中に深く刻み込まれていた。
五十歳を迎えた真澄は、今では後方の大きな軍事病院で働いている。若い頃のように前線に出ることは少なくなったが、その存在は依然として医療部隊の中で大きな影響力を持っていた。
「霜月先生、手術をお願いします」
若い軍医が真澄に頭を下げる。
「どんな症例だ?」
「複雑性骨折です。血管も損傷しています」
真澄は無言で手術室に向かった。
その背中には、相変わらず威厳が漂っていた。
---
手術は長時間に及んだ。
しかし、真澄の手は一切揺るがなかった。
むしろ、年を重ねるごとに、その技術は磨きがかかっているように見えた。
「素晴らしい手術でした」
若い軍医が感嘆の声を上げる。
「当たり前だ。二十年以上やっているんだからな」
真澄の返事は相変わらず素っ気なかった。
しかし、その声の中に、かすかな温もりが感じられた。
---
その夜、真澄は一人で診療記録を書いていた。
ふと、デスクの引き出しから、古びた手帳を取り出す。
二十年分の記録が、その手帳には刻まれていた。
ページをめくると、懐かしい名前が目に飛び込んでくる。
「神崎竜二……あの時の若い兵士か」
真澄は静かに微笑んだ。彼は生還後、教師になったという話を聞いていた。
次のページには、両足を失った兵士の名前。彼は今、義足の研究開発に携わっているらしい。
そして、救えなかった命の名前も、たくさん並んでいる。
「結局、私は何人の命を救えたのだろう。そして、何人の命を救えなかったのだろう」
真澄は静かにつぶやいた。
その時、ノックの音が響いた。
「失礼します。霜月先生」
入ってきたのは、若い女性の軍医だった。
「私、先生のような軍医になりたいんです」
突然の告白に、真澄は眉をひそめた。
「私のような? 鬼のような医者になりたいというのか?」
「違います」
若い軍医は真剣な表情で言った。
「先生は決して鬼なんかじゃない。先生は……命の守り人です」
その言葉に、真澄は少し驚いた表情を見せた。
「面白いことを言うな」
「本当です。先生の手術を見て、私は確信しました。先生の中には、深い慈悲の心があるんです」
真澄は黙って若い軍医を見つめた。
そして、ふと母の言葉を思い出した。
「命は、大きな海のようなもの」
真澄はゆっくりと立ち上がった。
「お前、名前は?」
「月見里かおるです」
「月見里か……。明日、私の手術を見学しろ。教えられることがあれば教えよう」
かおるの目が輝いた。
「ありがとうございます!」
「ただし、甘くはないぞ」
「はい。覚悟はできています」
真澄は密かに微笑んだ。
自分が積み重ねてきた経験を、次の世代に伝えていく。それも、また命を守る一つの形なのかもしれない。
---
それから数ヶ月が過ぎた。
真澄は相変わらず、厳しい指導を続けていた。
「なっていない! その程度の縫合で、患者の命が救えると思うのか!」
手術室では、相変わらず真澄の怒鳴り声が響いていた。
しかし、その陰で。
「よく頑張った。その調子だ」
そんな言葉をかけることも、少しずつ増えていった。
ある日、かおるが真澄に尋ねた。
「先生、なぜ軍医になったんですか?」
真澄は少し考えてから答えた。
「命を守りたかったからだ。それ以外の理由はない」
「でも、軍医は、戦争という命を奪い合う場所にいるわけですよね?」
「そうだな。矛盾しているように見えるかもしれない」
真澄は窓の外を見つめながら続けた。
「しかし、だからこそだ。戦場という、最も命が軽んじられる場所だからこそ、命の重さを知る者が必要なんだ」
かおるは真剣な表情で聞いていた。
「先生の手帳、見せていただけませんか?」
その質問に、真澄は少し驚いた表情を見せた。
しかし、じきに静かにうなずいた。
「いいだろう」
真澄は古びた手帳を取り出した。
その中には、二十年分の記録。命との戦いの記録が、びっしりと書き込まれていた。
かおるは一つ一つの名前を、真剣な表情で読んでいった。
「これが、先生の歩んできた道なんですね」
「ああ。私の誇りであり、懺悔の記録でもある」
真澄はそう言って、ふと空を見上げた。
そこには、夕暮れの空が広がっていた。
---
その年の冬、真澄は一つの決断をした。
「私は、山に帰ることにした」
病院長に告げると、彼は驚いた表情を見せた。
「まだまだ現役で活躍できるのに、なぜ?」
「次の世代に、バトンを渡す時期だと思うんです」
真澄はそう答えて、静かに微笑んだ。
最後の日。
真澄が病院を出ようとすると、大勢のスタッフが見送りに集まっていた。
「先生、ありがとうございました!」
「鬼軍医の教えは、決して忘れません!」
真澄は少し困ったような表情を見せたが、しっかりと頭を下げた。
「私から教わることがあったとすれば、それは命の重さだ。それを忘れずに、これからも多くの命を救ってくれ」
そう言って、真澄は歩き出した。
その背中は、いつもと変わらず凛としていた。
(了)
●霜月真澄の手帳 ―二十年の記録―
## 第一頁:赴任初日
昭和19年8月15日
本日、第三野戦病院に赴任。
最初の患者は胸部銃創の兵士。
佐伯正道(22歳)。手術は成功したが、まだ予断を許さない。
母の言葉を思い出す。
「命は海のようなもの」
その海の前で、私はまだあまりに無力だ。
## 初年度の記録
昭和19年9月3日
本日の手術:4件
救えた命:3
救えなかった命:1
藤堂清明(19歳)。止血が間に合わなかった。
申し訳ない。次は必ず。
昭和19年10月15日
加藤少尉(27歳)が亡くなった。
感染症との戦いに敗れた。
彼の最期の言葉「家族に、ありがとうと」
伝えきれなかった言葉を、この手帳に記しておく。
## 二年目の記録
昭和20年4月8日
神崎竜二(18歳)。右腕切断手術。
「もう戦えない」と泣いていた彼に告げた。
「命があるだけで、奇跡なんだ」
その言葉が、私自身への戒めでもある。
昭和20年6月21日
本日、初めて「鬼軍医」と呼ばれた。
将校との衝突が原因らしい。
だが、後悔はしない。
命の前では、階級など関係ないのだから。
## 転機となった記録
昭和23年8月3日
山本航平(16歳)。虫垂炎手術成功。
戦後も苦しみは続く。
こんな若い命が、なぜここにいるのか。
答えは見つからない。ただ、目の前の命を救うことしかできない。
昭和25年12月25日
クリスマスの夜。
緊急手術3件。
すべて成功。
小さな奇跡に感謝する夜。
## 中堅期の記録
昭和30年5月17日
今日で医師10年目。
これまでの手術件数:2,741件
生還率:76.3%
数字では表せない重みを感じる。
一つ一つの命に、物語がある。
昭和35年9月4日
若い軍医が増えてきた。
彼らに何を伝えられるだろう。
技術か、心構えか。
それとも、命への敬意か。
## 後期の記録
昭和40年3月1日
月見里かおる。新しい研修医。
彼女の目に、かつての自分を見た。
命を救いたいという、純粋な願い。
それは、決して色褪せることのない思いだ。
昭和42年7月15日
最後の前線手術となるだろう。
戦時中の記憶が、今でも鮮明に蘇る。
あの日々は、私の中で永遠に続いている。
## 最終頁
昭和43年12月31日
この手帳も、ついに最後のページとなった。
二十年間。
無数の命との出会いと別れ。
喜びも、悲しみも、すべては輪廻の環の中にある。
私は何を成し得たのだろう。
ただ、目の前の命に向き合い続けた。
それだけのことかもしれない。
しかし、その営みの中で、確かに学んだ。
命とは、愛とは、そして人間とは何かを。
この記録は、私の誇りであり、懺悔であり、祈りである。
すべての命に、深い感謝を込めて。
―鬼軍医 霜月真澄―
## 付記された言葉たち
- 「命は海のようなもの」(母の言葉)
- 「生きているだけで、奇跡」
- 「医者は、時として死神より強くなければならない」
- 「鬼と呼ばれても、命を救う。それが私の誇り」
- 「すべての命には、輝きがある」
- 「死を看取ることは、生を祝福すること」
- 「技術は冷静に、心は熱く」
- 「明日も、どこかで命が生まれる」
【短編小説】鬼軍医・霜月真澄の生涯 ―命の輪廻を見つめて―(約10,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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