【短編小説】沈黙させる女(ひと)II~論破されたい恋心~(15,400字)
藍埜佑(あいのたすく)
短編小説】沈黙させる女(ひと)II~論破されたい恋心~(15,400字)
●第1章:新たな論理との邂逅
四月の始業式。桜の花びらが舞う校庭を眺めながら、霧島一花は静かにため息をついた。
「また新学期か……面倒くさい」
転校してから一年。高校二年生になった今でも、一花の口癖は変わらない。ただし、その「面倒くさい」という言葉の持つ意味は、確実に変化していた。
かつての一花は、人との関わりそのものを「面倒くさい」と感じていた。しかし今は違う。むしろ、表面的な関係や無意味な対立を「面倒くさい」と感じるようになっていた。
「一花! おはよう!」
教室に入ると、すぐに桜庭咲良が駆け寄ってきた。相変わらず、完璧に整えられた制服に、きっちりとしたショートカット。しかし、その瞳には以前よりも柔らかな光が宿っている。
「……うん」
一花は相変わらずそっけない返事をする。しかし、それは単なる無関心ではなく、むしろ親しみの表現になっていた。
「相変わらずね」
咲良が笑う。
「でも、一花が来てくれて良かった。今年も同じクラスで」
一花は黙ってスマートフォンを取り出した。しかし、その仕草にも微かな安堵が滲んでいる。
「ねえねえ、聞いた? 今年はうちのクラスにも転入生が来るんだって!」
莉央が話しかけてきた。
「面倒くさい」
一花が即答する。
「もう! 一花ったら、自分が去年どれだけクラスを変えたか覚えてないの?」
「覚えてる。だから面倒くさい」
その会話に、クラスメイトたちが笑い声を上げる。もう誰も、一花の「面倒くさい」を文字通りには受け取らない。
チャイムが鳴り、担任の井上先生が入ってきた。
「えー、今日から新学期ですが、皆さんに紹介したい人がいます」
一花は思わず顔を上げた。去年の自分と同じような状況に、何か運命めいたものを感じる。
「転入生の……篠宮理久君です」
教室の扉が開き、一人の男子生徒が入ってきた。
すらりとした長身に、涼しげな横顔。漆黒の髪は少し長めで、その下から覗く瞳は深い青を湛えていた。
黒板の前に立った理久は、クラスを見渡すことなく、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「はぁ……」
一花が思わず呟く。去年の自分と、あまりにも似ている。
「篠宮君、自己紹介を」
井上先生が促す。
「……無駄です」
理久の言葉に、教室が凍りつく。
「な、なぜですか?」
「三つの理由があります」
理久はスマートフォンから目を離さずに話し始めた。
「一つ目。この瞬間の記憶は、一週間後には87%の生徒が忘れています。二つ目。覚えている13%も、その半数は表面的な印象のみです。三つ目。そもそも、初対面での自己紹介に真実性を求めること自体が論理的矛盾です」
教室が水を打ったように静まり返る。
「なぜなら、人間は初対面の相手に、必ず何らかのペルソナを演じてしまう。つまり、この状況下での自己紹介は必然的に虚構になります」
理久の論理は、完璧だった。誰もが反論できない。
そう、一年前の一花のように。
しかし――。
「それ、論理の誤りよ」
突然の声に、クラス全員が振り返る。
声の主は、一花だった。
「霧島さん?」
井上先生が驚いた様子で一花を見る。
「あなたの論理には、重大な欠陥がある」
一花はスマートフォンから目を離し、初めて理久と向き合った。
「記憶の残存率は、確かにその通りかもしれない。でも、それは『意味のない自己紹介』の場合であって、『意味のある自己紹介』なら、記憶に残る確率は格段に上がる」
理久が初めて一花を見た。その瞳に、僅かな興味の色が浮かぶ。
「論理的な指摘ですね。では質問です」
理久もスマートフォンから目を離した。
「『意味のある自己紹介』とは、具体的にどういうものですか?」
「簡単よ」
一花は立ち上がった。
「あなたが今示した論理的思考こそが、最も意味のある自己紹介だった。なぜなら、クラスの誰もが『論理的に物事を考える人』というあなたの本質を理解したから」
教室に衝撃が走る。
「なるほど」
理久が初めて微笑んだ。
「その通りですね。でも、それは意図せずに起きた結果であって、僕の意図した自己紹介ではありません」
「だとしても、結果として意味のある自己紹介になった。つまり、あなたの『無駄』という前提は誤りだったということ」
一瞬の沈黙。
「興味深い」
理久がようやく本心から笑みを浮かべる。
「あなたは、論理の死角を突いてきた。面白い」
「……面倒くさい」
一花は席に座り直すと、また画面に目を落とした。しかし、その指先は微かに震えていた。
理久は最後列の席に着くと、再びスマートフォンを取り出した。一見すると、二人は無関心を装っているように見える。
しかし教室の空気は、確実に変化していた。
「なんか、すごいことが起きた気がする……」
莉央が小声で呟く。
「ええ」
咲良が深い意味ありげに頷いた。
「まるで、氷と炎が出会ったみたい」
その日の放課後。
咲良は一花の机に近づいた。
「ねえ、一花」
「なに?」
「篠宮君のこと、どう思った?」
「……面倒くさい」
しかし、その声は普段より微かに上ずっていた。
「へえ」
咲良は意味ありげな笑みを浮かべる。
「でも、初めて見たわ。一花が誰かの意見に真正面から反論するなんて」
「たまたまよ」
「そう? でも、一花の目、輝いてたわよ」
「気のせい」
一花は慌ててスマートフォンに目を落とした。画面には何の情報も表示されていないことに、咲良は気づいていた。
その日から、クラスの空気は微妙に変化し始めた。
一花と理久は、まるで示し合わせたかのように、お互いを意識的に無視し合っているように見える。しかし、二人の「沈黙」は、明らかに異質なものだった。
それは、お互いを強く意識し合っているからこその沈黙。
そんなある日の昼休み。
教室で激しい口論が始まった。今度は、文化祭の実行委員を決める話し合いでもめていた。
「やっぱり、前回成功を収めた人がやるべきよ!」
美月が主張する。
「いいえ、新しい視点を取り入れるべきです!」
茜が反論する。
かつてなら、この手の議論は一花の一言で解決していた。しかし今回、一花は黙ったままだ。
その時。
「論理的に考察しましょう」
理久が静かに声を上げた。
「文化祭の目的は何ですか?」
「え? それは……みんなで楽しむこと?」
「では、『みんな』とは誰を指しますか?」
理久の問いに、教室が静まり返る。
「実行委員? クラスメイト? それとも来場者?」
理久は続ける。
「結論から言えば、全てです。つまり、経験者と新人、それぞれの視点が必要なはず。なぜなら、経験者は安定性を、新人は創造性をもたらすから」
誰もが納得の表情を浮かべる。
その時、一花が小さく笑った。
「なによ?」
理久が尋ねる。
「あなたの論理には、致命的な欠陥がある」
「ほう?」
「『経験者=安定性』『新人=創造性』という二項対立的な思考。でも、現実はそう単純じゃない。むしろ、その固定観念こそが、新しいアイデアを阻害している可能性も」
理久の瞳が僅かに見開かれる。
「なるほど。僕の論理が、別の形の思考の枠組みを作っていたということですか」
「そう。結論自体は正しいかもしれない。でも、そこに至るまでの論理に、無意識の決めつけが入っていた」
二人は真剣な眼差しで見つめ合う。
「素晴らしい指摘です」
理久が心からの賛意を示す。
「僕の論理の死角を、完璧に突いてきた」
「……面倒くさい」
一花は再び画面に目を落とす。しかし、その頬が微かに赤みを帯びていることに、咲良は気づいていた。
「すごい……」
誰かが呟く。
「まるで、氷の騎士と炎の魔女の、論理の剣による一騎打ちみたい」
莉央の言葉に、クラスメイトたちが頷く。
しかし、その比喩は正確ではなかった。
なぜなら、二人の論理は、争い合うためではなく、高め合うために交差していたのだから。
それは、まだ誰も気づいていない事実。
そして、これは新しい物語の、ほんの始まりに過ぎなかった。
●第2章:揺らぐ沈黙の理由
五月に入り、新緑が眩しい季節となった。
理久の転入から一ヶ月が経ち、クラスの空気も少しずつ変化していった。
以前は一花が論破していた様々な議論を、今は理久が論理的に解決していく。しかし、その度に一花が理久の論理の欠陥を指摘し、より深い考察へと導いていく。
二人の「論理の応酬」は、クラスの名物となっていた。
「まるで、頭脳戦サスペンスみたいね」
ある日の昼休み、莉央が感心したように言う。
「でも、なんだか違和感があるのよね」
咲良が首をかしげる。
「どういうこと?」
「だって、一花って本来、『面倒くさい』って言って議論を避けるタイプでしょ? なのに、篠宮君に対してだけは、積極的に反論するの」
その言葉に、莉央の目が輝いた。
「もしかして……」
「シーッ!」
咲良が慌てて莉央の口を押さえる。その視線の先には、いつものように画面を見つめる一花の姿があった。
しかし今日は、その様子が少し違っていた。
時折、後ろの席の理久の方へ、小さな視線を投げかけているのだ。
そして理久もまた、一花のことを時折見つめている。
ただし、決して視線が重なることはない。まるで、お互いの「見つめ合い」を避けているかのように。
そんなある日の放課後。
突然の夕立に見舞われ、下校時間を少し遅らせることになった。
教室に残っていたのは、一花と理久、そして数人のクラスメイトだけ。
窓の外では、激しい雨が降り続いている。
「ねえ」
理久が突然、一花に声をかけた。
「なに?」
「雨の音について、どう思う?」
突然の問いに、一花は画面から目を離した。
「……面倒くさい質問ね」
「論理的に考えてみましょう」
理久は窓の外を見つめながら続ける。
「人は雨音を、なぜ心地よいと感じるのでしょう?」
「それは生理的な反応でしょ。白色雑音が、ストレスを緩和するから」
「でも、それは結果であって原因ではない」
理久の声が、不思議な温かみを帯びる。
「人類は、雨音の中で進化してきた。だから、それは安全と安心の象徴。その記憶が、DNA レベルで刻み込まれているんです」
一花は黙って理久を見つめた。
「面白い視点ね。でも、それも推論でしょ?」
「ええ。だから、反論を期待していました」
二人の視線が、初めて真正面から交わる。
「なぜ私に聞いたの?」
「単純な理由です」
理久は微笑んだ。
「あなたの論理は、いつも僕の死角を突いてくる。だから、新しい視点が欲しかった」
その言葉に、一花の胸が小さく躍る。
「……変わってるわね」
「どういう意味です?」
「普通、論破されることを嫌がるでしょ。でも、あなたは違う」
「それはあなたも同じです」
理久の言葉に、一花は息を呑む。
「僕たちは似ています。論理を愛する。でも、自分の論理が崩されることを恐れない。むしろ、それを歓迎する」
雨音が、二人の沈黙を優しく包む。
「……帰りましょ」
一花が立ち上がる。
「まだ雨が」
「コンビニの傘、買えば良いの」
一花は急いで教室を出ようとした。しかし。
「待ってください」
理久が一花の手首を掴んだ。
「なに……?」
「あなたの論理には、致命的な欠陥がある」
いつもの言葉。しかし、その響きが違う。
「コンビニまでの距離は約500メートル。この雨量なら、傘を買いに行くまでに既に濡れてしまう。それは論理的に矛盾している」
理久はカバンから折り畳み傘を取り出した。
「僕の傘で十分です」
「でも……」
「二人で入れます。これは論理的な解決策です」
その言葉に、反論できない。
というより、反論したくない。
「……面倒くさい」
一花は小さく呟いた。しかし、その声は普段より柔らかい。
そうして二人は、一つの傘の下を歩き始めた。
初夏の雨は、優しく二人を濡らす。
距離が近すぎて、心臓の鼓動が気になる。
理久の存在が、やけに大きく感じられる。
そして一花は、自分の中で何かが大きく変化していることを、痛いほど自覚していた。
(これって……まさか)
考えたくない結論が、論理的に導き出されていく。
でも――。
「霧島さん」
「なに?」
「明日も、一緒に帰りませんか?」
その言葉に、一花の論理が、完全に崩壊した。
「……うん」
小さな返事は、雨音に消されてしまったかもしれない。
しかし、理久の表情が確かに変化したことを、一花は見逃さなかった。
その夜。
一花は初めて、スマートフォンの画面から目が離せない理由を、自分でも理解できなくなっていた。
画面には、理久との何気ない会話の記録が残っている。
論理的な会話。知的な駆け引き。
でも、その行間に隠された何か。
言葉にできない感情が、少しずつ形を成していく。
「面倒くさい……」
一花は溜息をつく。
でも、その言葉の意味が、また新しく変化していた。
それは、もう否定の意味ではない。
むしろ――。
「困った」
一花は暗い画面に映る自分の顔を見つめた。
微かに赤みを帯びた頬。
不安定な視線。
論理では説明できない、心の揺らぎ。
(私、恋をしてる?)
その結論に、一花は怯えていた。
なぜなら、それは今までの自分の論理では説明できない感情だから。
しかし、その「揺らぎ」こそが、新しい一花の始まりだった。
誰にも気づかれないように。
でも、確実に。
一花の中で、新しい物語が始まっていた。
●第3章:深まる謎と感情
六月に入り、梅雨の季節を迎えた。
一花と理久の関係は、微妙な変化を見せていた。
表面上は、相変わらず論理的な会話を交わすだけ。
しかし、その言葉の端々に、どこか特別な響きが混ざり始めていた。
「おはよう、霧島さん」
ある朝、理久が珍しく一花に声をかけた。
「……うん」
そっけない返事は、いつもと同じ。
でも、その声の調子が、わずかに上ずっている。
「今日の放課後、図書館で数学を教えてもらえませんか?」
「え?」
突然の申し出に、一花は驚いた。
「理由は?」
「単純です」
理久は真剣な表情で続けた。
「あなたの解法は、僕の論理では到達できない視点を持っている。それを、学びたいんです」
「でも、あなたの方が成績は……」
「点数と理解は、必ずしも比例しません」
その言葉に、一花は小さく頷いた。
「……分かった」
放課後。
図書館の一角で、一花は理久の横顔を盗み見ていた。
真剣な表情で問題に向き合う姿。
時折、考え込むように目を細める仕草。
一花は、自分の心臓の鼓動が少しずつ速くなっていくのを感じる。
(集中しないと)
一花は意識を数学の問題に戻そうとする。
しかし。
「霧島さん」
理久の声が、耳元で響く。
「なに?」
「この問題の別解を、考えてみませんか?」
理久が差し出したノートには、完璧な解答が書かれていた。
「これ以上の解法が必要?」
「必要です」
理久は真剣な眼差しで一花を見つめた。
「なぜなら、これは僕の論理の限界だから。きっと、あなたなら違う視点を見つけられる」
その言葉に、一花の胸が熱くなる。
(なんで……こんなに、嬉しいの?)
理久は、一花の論理を認めていた。
それも、ただ認めるのではなく、自分の成長のために必要としていた。
一花にとって、それは何よりも嬉しい言葉だった。
「……ちょっと待って」
一花はノートを取り出し、問題を見つめ直した。
そして、わずか数分で、まったく新しい解法を導き出した。
「これ、どう?」
理久は一花のノートを見つめ、目を見開いた。
「素晴らしい……」
心からの感嘆の声。
「これなら、高校一年生でも理解できる。僕の解法より、遥かに直感的だ」
「理屈は単純よ」
一花は説明を始める。
「あなたは論理を積み重ねて答えを導き出した。でも、時には逆向きに考えることで、もっとシンプルな道が見えることがある」
「なるほど」
理久が熱心に頷く。
「つまり、論理の方向性を変えることで、新しい視点が得られる」
「そう。数学に限らず、全ての問題解決に通じる考え方よ」
二人の視線が重なる。
その時、一花は気づいた。
理久の瞳に、今までに見たことのない輝きが宿っていることに。
「霧島さん」
「なに?」
「あなたは、本当に素晴らしい」
突然の言葉に、一花の心臓が大きく跳ねた。
「な、なにそれ……」
「事実を述べただけです」
理久は真摯な表情で続けた。
「僕の論理では到達できない高みに、あなたはいつも居る」
「そんなことない」
一花は慌てて視線を逸らした。
「むしろ、あなたの論理の方が……」
「違います」
理久の声が、強い確信に満ちている。
「僕の論理は、既存の枠組みの中でしか機能しない。でも、あなたは違う。その枠組みさえも、軽々と飛び越えていく」
一花は黙り込んだ。
理久の言葉が、胸の奥深くまで響いてくる。
「でも」
理久が続ける。
「それは、とても孤独なことでもあるはずです」
その言葉に、一花は息を呑んだ。
(なんで……分かるの?)
今まで誰にも気づかれなかった、一花の本質。
論理の枠を超えられることは、時として深い孤独を伴う。
なぜなら、誰も自分の視点を理解してくれないから。
「僕には、あなたの高みには届きません」
理久はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でも、少しでも近づきたい。そう思っています」
その瞬間。
一花の心の中で、何かが大きく揺れ動いた。
(これが、恋?)
論理では説明できない感情が、胸の中で渦を巻く。
「霧島さん?」
「……面倒くさい」
一花は立ち上がった。
「もう、帰りましょう」
図書館を出る二人。
外は、まだ梅雨の雨が降り続いていた。
「また、傘を」
「うん」
言葉少なに並んで歩く。
でも、その沈黙は心地よかった。
雨音に包まれながら、二人は静かに歩を進める。
その時、理久が突然立ち止まった。
「どうしたの?」
「霧島さん」
理久の声が、いつもより低く響く。
「僕には、人に言えない秘密があります」
その言葉に、一花の心が凍りついた。
「僕は……」
しかし、その言葉は途中で途切れた。
代わりに、理久は苦しそうな表情を浮かべる。
「ごめん……。今は、まだ……」
一花は黙って頷いた。
理久の表情には、今までに見たことのない暗い影が宿っていた。
(何かある)
一花は直感的にそう感じた。
理久の「論理」の裏側に、大きな闇が潜んでいることを。
でも。
「私は、待ってる」
一花は静かに言った。
「え?」
「あなたが話せる時まで」
理久の瞳が、大きく見開かれる。
「理由は?」
「……面倒くさいから」
一花はそう言って、少し先に歩き出した。
その背中を、理久は深い感情を込めて見つめていた。
二人の影が、雨に濡れた道に重なる。
そこには、まだ誰にも気づかれない、大きな物語の予感が潜んでいた。
●第4章:激突する二つの論理
梅雨が明け、夏の日差しが照りつける季節となった。
一花と理久の関係は、表面上は変わらないように見えた。しかし、二人の間には確実に変化が生まれていた。
「ねえ、気づいた?」
ある日の昼休み、莉央が咲良に囁いた。
「うん。一花が、スマートフォンを見る時間が減ってるでしょ?」
「そう! 特に、篠宮君と話す時は、ちゃんと顔を見て話すの」
確かに、一花の変化は周囲の目にも明らかだった。
しかし同時に、理久の様子も少しずつ変わっていた。
時折、深い物思いに沈むような表情を見せる。
そして、一花に対して向ける視線には、どこか切なさが混ざっているように見えた。
そんなある日。
クラスで大きな論争が勃発した。
文化祭の出し物を決める話し合いが、思わぬ方向に発展したのだ。
「やっぱり、前回と同じ路線で行くべきよ!」
美月が主張する。
「いいえ、新しいことに挑戦するべきです!」
茜が反論する。
しかし今回は、その議論が次第に過熱していった。
「去年の成功は、一花のおかげだったんでしょ? なら、今年も同じ方向性で……」
「だからこそ変えるべきよ! いつまでも一花頼みじゃ、私たちの成長がない!」
議論は次第に、一花という存在を巡る対立へと変化していく。
「一花さんはクラスの宝よ! その判断に従うべき!」
「でも、それじゃあ私たちの文化祭じゃない!」
教室が騒然となる中、一花は黙って座っていた。
その時。
「お二人とも、論理が破綻しています」
理久が立ち上がった。
「どういうこと?」
「霧島さんの判断に従うべきだと言いながら、実際には彼女に相談もしていない。一方で、自主性を主張する側も、ただ反発しているだけで具体案がない」
理久の指摘に、教室が静まり返る。
「つまり、どちらの主張も、単なる感情論に過ぎない」
その言葉に、誰も反論できない。
「では、建設的な議論をしましょう」
理久は黒板に向かった。
「まず、文化祭の目的を明確にする。次に、それを達成するための具体的な方法を……」
「それは違う」
突然の声。
一花が立ち上がった。
「なぜですか?」
「あなたの論理には、致命的な欠陥がある」
いつもの言葉。しかし、その響きが違っていた。
「文化祭は、論理だけでは作れない」
一花は静かに、しかし強い確信を持って語り始めた。
「感情論を否定するのは簡単。でも、文化祭は感情があってこそ成り立つもの。むしろ、その感情をどう形にするかを考えるべき」
理久の瞳が、かすかに揺れる。
「なるほど。しかし、それでは効率的な準備が……」
「効率は大切。でも、それは手段であって目的じゃない」
一花は教室全体を見渡した。
「去年、私たちは何を作ったの? 単なる演劇? 違う。みんなの想いが重なり合って、一つの形になったから、あれほど心に残る作品になった」
クラスメイトたちが、ゆっくりと頷き始める。
「だから」
一花は理久をまっすぐに見つめた。
「論理は大切。でも、時には論理を超えた何かが必要。それこそが、文化祭の本質」
その瞬間。
理久の表情が、激しく歪んだ。
「論理を超えた何か……」
その声には、今までにない苦しみが滲んでいた。
「そんなの……認められない」
「理久?」
「論理こそが、全て。感情なんて……信じられない」
理久の声が震える。
「なぜなら、感情は人を裏切る。でも、論理は決して裏切らない」
その言葉に、深い闇が潜んでいることを、一花は直感的に感じ取った。
「あなた……」
「僕には、感情を信じる資格がないんです」
理久は苦しそうに続けた。
「だって僕は……」
しかし、その言葉は途中で途切れた。
理久は急いで教室を飛び出していった。
「理久!」
一花は後を追おうとした。
その時。
「一花、待って!」
咲良が一花の腕を掴んだ。
「でも……」
「あの人には、何かある」
咲良は真剣な表情で言った。
「あなたも気づいてたでしょ? 篠宮君の中に隠された、大きな闇が」
一花は黙って頷いた。
「だから、今は少し時間を置いた方がいい」
「でも……」
「一花」
咲良はじっと一花の目を見つめた。
「あなた、篠宮君のこと、好きなの?」
その問いに、一花は答えられなかった。
しかし、その沈黙こそが、最も雄弁な答えだった。
「そう」
咲良が小さく微笑む。
「なら、焦らなくていい。きっと、彼から話してくれる時が来る」
一花はゆっくりと着席した。
胸の中で、様々な感情が渦を巻いている。
理久への想い。
その苦悩への共感。
そして、何より――。
彼の抱える闇への不安。
(私に、できることは……?)
答えの出ない問いを、一花は心の中で繰り返していた。
教室の窓から差し込む夏の日差しが、一花の横顔を優しく照らしている。
それは、まるで彼女の揺れる心を、そっと包み込むかのようだった。
●第5章:秘められた真実
その出来事から三日が経過した。
理久は学校を休んでいた。
体調不良という連絡があったものの、一花には何か別の理由があるように感じられた。
「一花、大丈夫?」
咲良が心配そうに声をかける。
「……うん」
一花は相変わらずスマートフォンを見つめていた。しかし、その画面には理久とのメッセージの履歴が表示されている。
送信した数件のメッセージは、すべて未読のまま。
「なんで……」
一花は小さく呟いた。
「論理で説明できないの」
理久の反応は、論理的に考えれば明らかに不自然だった。
あれほど論理を重視する彼が、突然感情的になり、そして姿を消す。
そこには、必ず何かの理由があるはず。
放課後。
一花は職員室を訪ねた。
「井上先生」
「あら、霧島さん。珍しいわね」
担任の井上先生が優しく微笑む。
「篠宮君のこと、聞きたいの」
その言葉に、井上先生の表情が一瞬曇った。
「ごめんなさい。でも、それは……」
「お願いします」
一花は真剣な眼差しで先生を見つめた。
「私には、知る必要があるんです」
井上先生は深いため息をついた。
「……分かったわ」
先生は周りを確認してから、小さな声で話し始めた。
「実は、篠宮君は特別な事情を抱えているの」
「特別な事情?」
「ええ。彼は……天才的な数学者だった父親を、二年前に亡くしているの」
一花の胸が締め付けられる。
「しかも、その死は……自殺だったの」
衝撃の事実に、一花は息を呑んだ。
「理由は、ある論文の剽窃疑惑。でも後に、その疑惑は晴れたの。ただ、それは父親の死後だった」
井上先生は悲しそうな表情で続けた。
「その時から、篠宮君は極端に変わってしまったそうよ。感情を完全に押し殺し、すべてを論理だけで判断しようとするように」
(そうだったの)
一花は、理久の言葉を思い出していた。
『感情は人を裏切る。でも、論理は決して裏切らない』
その言葉の真意が、今になって分かる。
「彼は、何度も転校を繰り返してきたの。どこに行っても、周りと打ち解けることができなくて」
井上先生は一花をじっと見つめた。
「でも、この学校では違った。特に、あなたという存在が、彼を少しずつ変えていったように思う」
「私が……?」
「ええ。あなたは彼の論理を理解し、時には乗り越える。それが、彼の心を揺さぶったのよ」
一花は黙って考え込んだ。
「だから」
井上先生が続ける。
「今の彼は、きっと混乱しているはず。感情を認めることは、父親の死を受け入れることでもあるから」
その言葉に、一花の中で何かが明確になっていく。
「ありがとうございます」
一花は立ち上がった。
「どうするの?」
「決まってます」
一花は珍しく、確信に満ちた表情を浮かべた。
「論理で、彼の感情に届いてみせます」
井上先生は優しく微笑んだ。
「そう。それが、あなたにしかできないことかもしれないわね」
一花は急いで職員室を出た。
頭の中では、すでに計画が形作られていた。
理久を追い詰めるのではない。
むしろ、その論理を使って、彼の心を解放する方法を。
スマートフォンを取り出し、メッセージを打ち始める。
『あなたの論理には、致命的な欠陥がある』
いつもの言葉。
しかし今回は、その先がある。
『感情を否定することは、論理的に矛盾している』
送信ボタンを押す。
しばらくして、既読マークが付いた。
そして――。
『どういう意味です?』
久しぶりの返信に、一花の胸が高鳴る。
『説明させて』
一花は続けて打ち込んでいく。
『あなたは「論理こそが全て」と言った。でも、その主張自体が感情的なものじゃない? 本当に論理的なら、感情の存在価値も認めるはず』
しばらくの沈黙。
そして。
『でも、感情は人を裏切る』
『論理だって裏切る』
一花は迷いなく返信する。
『あなたのお父さんは、論理を信じた。でも、その論理は正しかったのに、他人の感情に裏切られた』
既読マークが付いたまま、返信が来ない。
『つまり、問題は論理か感情かじゃない。それをどう使うかなの』
一花は、心を込めて最後のメッセージを送る。
『だから私は、あなたの論理も、感情も、全部受け入れたい』
長い沈黙。
そして、スマートフォンが震える。
『会えませんか』
シンプルな言葉。
でも、その中に込められた想いを、一花は確かに感じ取っていた。
『どこで?』
『学校の屋上で』
一花は即座に返信した。
『今から行くわ』
夕暮れ時の学校。
一花は急いで屋上への階段を駆け上がっていた。
心臓が高鳴る。
でも、それは不安からではない。
理久に会える。その期待に胸が震えていた。
屋上のドアを開ける。
夕陽に照らされた空間に、一人の少年が佇んでいた。
「理久……」
一花の声に、理久がゆっくりと振り返る。
「来てくれたんですね」
その表情には、深い疲労の色が浮かんでいた。
「当然でしょ」
一花は理久に近づく。
「だって、あなたの論理には必ず欠陥があるんだから。それを指摘しないと」
その言葉に、理久は小さく笑った。
「相変わらずですね」
「あなたこそ」
二人の間に、短い沈黙が流れる。
夕陽が二人の影を、長く伸ばしていた。
「父は」
理久が静かに語り始める。
「完璧な論理の人でした。感情に流されることなく、すべてを理論的に考える。その姿に、僕はずっと憧れていた」
一花は黙って聞いている。
「でも、その父が他人の感情で追い詰められ、最期は論理さえ放棄して……」
理久の声が震える。
「だから僕は誓ったんです。二度と感情に支配されないと。すべてを論理で割り切ると」
「でも、それは間違ってる」
一花が瞬時に遮る。
「だって、あなたは感情を持っている。今だって、お父さんのことを想う感情があるでしょ?」
理久は言葉に詰まる。
「論理と感情は、対立するものじゃない」
一花は理久の目をまっすぐ見つめた。
「むしろ、補完し合うもの。感情があるから論理が生きる。論理があるから感情が意味を持つ」
「でも、僕には……その資格が」
「誰が決めるの? その資格」
一花の声が強くなる。
「お父さんは、あなたに感情を捨てろとは言わなかったはず。むしろ、論理と感情の両方を大切にしてほしいと願ったんじゃない?」
その言葉に、理久の瞳が潤んだ。
「きっと、お父さんは分かってたのよ。論理だけじゃ、人は生きていけないって」
「霧島さん……」
「そして、あなたもそれを感じ始めている」
一花は一歩、理久に近づいた。
「だって、私の論理に興味を持ったのは、それが純粋な論理じゃなかったから。感情を理解した上での論理だったから」
理久の表情が、少しずつ崩れていく。
「僕は……どうすれば」
「まずは、自分の感情に正直になること」
一花は、勇気を振り絞って続けた。
「例えば……私への感情とか」
理久の瞳が大きく見開かれる。
「私への感情?」
「そう。あなた、私のことが……」
一花の言葉が途切れる。
しかし、その瞬間。
理久が一花を抱きしめた。
「理久?」
「すみません」
理久の声が震えている。
「もう、論理では説明できない。あなたのことを考えると、胸が苦しくて、でも温かくて……」
その言葉に、一花の心臓が大きく跳ねる。
「私も」
一花はそっと理久の背中に手を回した。
「論理では説明できないの。あなたのことを考えると、いつもより『面倒くさい』って言いたくなって、でも本当は……」
「本当は?」
「……好き」
小さな告白が、夕暮れの空に溶けていく。
理久の腕の中で、一花は初めて自分の感情を素直に認めていた。
それは、論理では説明できない。
でも――。
「僕も、あなたが好きです」
理久の声が、優しく響く。
「論理的な説明はできない。でも、それでいい。これが、僕の新しい答えです」
二人の影が、夕陽に照らされて一つになる。
それは、論理と感情が完璧に調和した瞬間だった。
「面倒くさい……」
一花が小さく呟く。
「どうしてですか?」
「だって、これからは論理だけじゃなくて、感情のことも考えないといけないから」
理久は初めて、心から笑った。
「でも、それも悪くない。そう思いませんか?」
「……うん」
一花も、小さく微笑む。
夕陽が沈みゆく空の下で、二人は静かに寄り添っていた。
それは、新しい物語の始まりを予感させる、特別な瞬間だった。
●第6章:選択の狭間で
理久が学校に戻ってきてから、二人の関係は新しい段階に入った。
表面上は、相変わらず論理的な会話を交わす仲。
しかし、その言葉の端々に、確かな感情が混ざり始めていた。
「おはよう、一花」
ある朝、理久が珍しく名前で呼びかけた。
「……うん」
そっけない返事は変わらない。
でも、その頬が微かに赤みを帯びていることに、周囲は気づいていた。
「ねえねえ、噂聞いた?」
莉央が咲良に小声で囁く。
「なに?」
「一花と篠宮君が、放課後は毎日図書館で一緒に勉強してるんだって」
「へえ……」
咲良は意味ありげな笑みを浮かべた。
「ねえ、思わない? あの二人、前より距離が近くなってる気が」
確かに、一花と理久の関係は変化していた。
論理的な会話の裏側に、穏やかな温かさが感じられる。
時折交わす視線には、誰にも気づかれないような優しさが宿っている。
「面倒くさい」
一花は相変わらずそう呟く。
でも今は、その言葉に新しい意味が込められていた。
それは、理久との関係を隠すための方便でもあり、同時に、素直になれない気持ちを表現する手段でもあった。
そんなある日の放課後。
図書館で二人きりになった時、理久が突然真剣な表情を見せた。
「一花」
「なに?」
「僕、決めたんです」
「何を?」
「父の研究を、継ぐことに」
その言葉に、一花は息を呑んだ。
「理由は?」
「単純です」
理久は一花をまっすぐ見つめた。
「父の論文は、最終的に正しさが証明された。でも、それは彼の死後だった。だから僕は、その研究を完成させたい」
「でも……」
「大丈夫です」
理久は優しく微笑んだ。
「今の僕には、感情という新しい視点がある。父の研究を、より深いものにできるはず」
一花は黙って頷いた。
「ただ、そのためには……」
理久の声が少し曇る。
「大学は、東京に行くことになります」
その言葉に、一花の胸が締め付けられた。
「そう」
「でも、その前に言いたいことがあります」
理久は一花の手を取った。
「一花の論理は、いつも僕の死角を突いてくる。それは、感情を理解しているからこそ」
「理久……」
「だから、これは提案です」
理久は真剣な眼差しで続けた。
「一緒に、東京に行きませんか?」
「え?」
「一花なら、どこの大学でも合格できる。むしろ、あなたの才能は、もっと大きな場所で活かすべき」
一花は言葉を失った。
「もちろん、すぐに答えを求めません」
理久は優しく続ける。
「ただ、選択肢の一つとして、考えてほしい」
一花は黙ってうなずいた。
その夜。
一花は自室のベッドで、天井を見つめていた。
(東京……か)
確かに、魅力的な提案だった。
でも、それは同時に大きな決断でもある。
家族との別れ。
慣れ親しんだ環境からの旅立ち。
そして何より――。
「面倒くさい……」
一花は溜息をつく。
でも今回は、その言葉に逃げ場所を求めているわけではなかった。
むしろ、真剣に考えるための時間稼ぎ。
スマートフォンを取り出し、メッセージを確認する。
咲良から、何件もの励ましのメッセージが届いていた。
『一花なら、きっと大丈夫! どんな選択をしても、私たちは応援してるから!』
その言葉に、胸が熱くなる。
一年前の自分には、想像もできなかった光景。
こんなにも多くの人に支えられ、こんなにも大切な人ができるなんて。
そして何より――。
論理を超えた感情の存在を、こんなにも強く実感できるなんて。
「やっぱり、面倒くさい」
一花は小さく笑った。
でも、その言葉には確かな温もりが込められていた。
それは、新しい一歩を踏み出す準備が、少しずつできていることの証。
窓の外では、夏の星が静かに瞬いていた。
●第7章:新しい論理の形
夏休みが終わりに近づいていた。
一花は、ようやく自分の答えを見つけていた。
それは、論理と感情の両方から導き出された結論。
「理久」
二学期初日の放課後、図書館で一花が切り出した。
「答え、出たわ」
「そうですか」
理久の声が、わずかに震える。
「私ね」
一花はまっすぐに理久を見つめた。
「東京に行くの。でも、理由はあなたのためじゃない」
「どういう意味ですか?」
「私には、まだ見たことのない景色がある。理解していない論理がある。だから、その可能性を追いたい」
理久の瞳が、かすかに潤んだ。
「それは、とても一花らしい答えです」
「でも」
一花は続けた。
「あなたが東京にいるのは、とても面倒くさいけど、嬉しい理由の一つ」
理久は心から笑顔を見せた。
「相変わらずですね」
「うん。これが私なの」
二人は静かに見つめ合う。
その時、図書館の窓から差し込む夕陽が、二人を優しく包み込んでいた。
「ねえ、理久」
「なんですか?」
「私たち、きっと新しい論理を見つけられる」
「どういう意味です?」
「感情を理解した論理。論理で支えられた感情。そんな、誰も見たことのない形」
理久は深く頷いた。
「一花となら、きっとできる」
「面倒くさいけどね」
二人は小さく笑い合った。
それは、新しい未来への第一歩。
論理と感情が、完璧なバランスで融合する瞬間だった。
* * *
秋の日差しが差し込む教室で、咲良が一花に尋ねた。
「本当に決めたの?」
「うん」
「寂しくなるわ」
「でも、これからも連絡するから」
「約束ね!」
一花は静かに頷いた。
スマートフォンを見る時間は、確実に減っていた。
代わりに、周りの景色をしっかりと見つめるようになっていた。
理久もまた、少しずつ変化していた。
感情を素直に表現するようになり、時には冗談を言うことさえある。
二人の変化は、クラスメイト全員が気づいていた。
「ねえ、一花」
放課後、理久が声をかけた。
「なに?」
「あなたの『面倒くさい』という言葉の、本当の意味が分かった気がします」
「へえ」
「それは、物事の本質を見抜こうとする時の、あなたなりの表現なんですね」
一花は小さく笑った。
「まあ、ね」
「でも、それだけじゃない」
理久は続けた。
「それは同時に、あなたの優しさの表現でもある」
「どういう意味?」
「相手を傷つけないように、本音を『面倒くさい』に変換している」
一花は黙って画面に目を落とした。
でも、その耳が赤くなっているのを、理久は見逃さなかった。
「一花」
「なに?」
「ありがとう」
その言葉に、一花は顔を上げた。
「なんで?」
「僕に、感情を取り戻させてくれて」
一花は、珍しく直接的な言葉を返した。
「理久こそ、ありがとう」
「え?」
「私の論理に、温かみをくれて」
二人は静かに見つめ合う。
その瞬間、すべての言葉が不要だった。
なぜなら――。
論理も感情も、すべてが完璧に調和していたから。
窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。
それは、新しい季節の訪れを告げるように。
一花と理久の物語もまた、新しいページをめくろうとしていた。
* * *
冬の訪れを感じさせる風が吹く中、一花と理久は屋上に立っていた。
ここは、二人の想いが初めて交差した場所。
「覚えてる?」
理久が尋ねた。
「うん。あの時、私たちは……」
「論理と感情の境界線を、一緒に超えた」
一花は静かに頷いた。
「これからもきっと、たくさんの境界線がある」
「でも」
理久が一花の手を取る。
「一緒なら、すべての境界を越えていける」
「……面倒くさい」
一花の言葉に、二人は笑みを交わした。
それは、かつての「面倒くさい」とは、まったく違う響きを持っていた。
それは今や、二人だけの愛情表現になっていた。
冬空の下、二人の影が寄り添う。
それは、論理と感情が完璧に溶け合った、新しい物語の始まりだった。
<終わり>
【短編小説】沈黙させる女(ひと)II~論破されたい恋心~(15,400字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます