【短編小説】沈黙させる女(ひと)~面倒くさがりの論破少女~(8,700字)

藍埜佑(あいのたすく)

短編小説】沈黙させる女(ひと)~面倒くさがりの論破少女~(8,700字)

●第1章:沈黙の転校生


 四月の柔らかな日差しが差し込む教室で、担任の井上先生は珍しく緊張した面持ちで前に立っていた。


「えー、今日から皆さんのクラスに転校生が来ました。名前は……霧島一花さんです」


 教室の後ろのドアがゆっくりと開き、すらりとした背丈の女子生徒が入ってきた。艶のある黒髪をなびかせながら、彼女は黒板の前まで歩いていく。しかし、そこで立ち止まると、ただスマートフォンを取り出してスクリーンを眺め始めた。


「あの、霧島さん? 自己紹介を……」


 井上先生が促すと、一花はようやくスマートフォンから目を離し、クラスを見渡した。


「霧島一花です。面倒なことは好きじゃありません」


 そう言うと、一花は再びスマートフォンに目を落とした。教室には困惑が広がる。が、その空気を切り裂くように、一人の生徒が立ち上がった。


「ちょっと! それじゃあ自己紹介になってないでしょう?」


 声の主は、クラス委員長の桜庭咲良。きっちりとしたショートカットに、完璧に整えられた制服姿が印象的な優等生だ。


「新しいクラスメイトとして、もっと誠意を持って自己紹介するべきよ! 私たちだってあなたのことを知りたいと思って……」


「知りたくもない人の話を聞かされるのも面倒だと思わない?」


 一花の言葉に、教室が凍りつく。


「は? なによそれ! クラスメイトとして最低限の礼儀ってものが……」


「礼儀って、誰のため?」


「もちろん、お互いのためよ! 相手を理解して、良好な関係を築くために……」


「じゃあ質問。あなた、クラスの全員のこと理解してる?」


「えっ……それは……」


「理解してないでしょ? だって無理だもん。だからその『礼儀』って、形だけじゃない?」


 咲良の言葉が途切れる。教室には重苦しい空気が流れる。


「あの、霧島さん」


 今度は担任の井上先生が声をかける。


「確かにその通りかもしれません。でも、だからこそ私たちは努力して……」


「先生」


 一花は静かに言った。


「今の話、明日には半分以上の人が忘れてます。覚えてる人も、その半分は私の名前だけ。だったら、こんな形式的な自己紹介に時間使うより、授業始めた方が効率的じゃないですか?」


 誰も反論できない。その理論的な正しさと、その言葉の冷たさに。


「では、霧島さんは5番の席に座ってください」


 井上先生もそれ以上は何も言えなかった。一花は黙ってその席に着くと、また画面に目を落とした。


 窓際の後ろから、莉央が咲良に向かって小声で言う。


「ねえ、あの子やばくない? なんか怖い……」


「……ただの変わり者よ。放っておきましょう」


 咲良はそう言ったものの、その声には確信が感じられなかった。


 それから数日が経ち、霧島一花の存在はクラスの中で「空気」と化していた。授業中は真面目に受けているものの、休み時間になると必ずスマートフォンを取り出し、誰とも話さない。そんな彼女に、クラスメイトたちも特に話しかけようとはしなかった。


 しかし、その平穏は長くは続かなかった。


 ある放課後、咲良と莉央の間で交わされた会話が、クラスの空気を一変させる。


「もう、和田君ったら全然LINEの返信をくれないの!」


 咲良が溜め息をつきながら言う。彼女の通う塾の同級生である和田という男子に、最近好意を抱いているらしかった。


「それってさあ、脈ありなの?」


 莉央が首をかしげる。


「もちろんよ! 私、毎日お弁当作って持っていってるの。和田君ったら、いつも『美味しい』って言ってくれるのよ?」


「はあ……でも、そんなことしなくても良くない? 重たく思われそう」


「は? どういうこと?」


「だって、好きな人のことを想うなら、ありのままの自分でいるべきでしょ? 料理なんて得意じゃないのに無理して作って……」


「ちょっと待って。私が和田君のために一生懸命努力してることを、あなた否定してるの?」


「違うわよ。ただ、そんな『頑張ってます』アピールって、逆効果だって言ってるの」


「なによそれ! 恋愛っていうのは相手のために尽くすことでしょう?」


「はぁ? なに昭和の価値観言ってるの? 恋愛は等身大の自分を愛してもらうことが大事なのよ」


 二人の声が次第に大きくなっていく。周りの生徒たちも、その様子を心配そうに見守り始めた。


「そんな自分本位な考えじゃ、絶対に長続きしないわよ!」


「むしろ、そんな無理して尽くすような関係の方が……」


「二人とも、彼氏いないでしょ?」


 突然の声に、教室が凍りつく。振り向くと、そこには相変わらずスマートフォンを見つめる一花の姿があった。


「な……なによ! 関係ないでしょ!」


 咲良が真っ赤になって反論する。


「うん。だから、経験もないのに理想論語るの、おかしくない?」


 一花は画面から目を離さずに言う。


「そ、それは……」


「でも! 恋愛の理想を語るのは自由じゃない!」


 莉央が助け舟を出す。


「うん。自由。でも、理想と現実の区別はつけた方がいいと思う」


 一花の言葉に、二人は言葉を失う。そして、教室には再び重苦しい沈黙が流れた。


 その日を境に、クラスメイトたちの一花に対する見方が少しずつ変化し始める。特に咲良は、その後一花の言動を注意深く観察するようになった。


 そして約一週間後、今度は別の論争が勃発する。


 下校時間が近づいたある日の午後、クラスの中で麻衣と茜が激しい口論を始めた。きっかけは、茜が麻衣の親友だと思っていた美咲が、他のクラスの生徒と楽しそうに話している場面を目撃したことだった。


「だから言ってるでしょ! 友情っていうのは無償の信頼なの!」


 麻衣が声を荒げる。


「親友だからって、ずっと一緒にいなきゃいけないなんてルールはないわ。それこそ、信頼関係があるからこそ、離れていても大丈夫なの!」


「でも、それじゃあただの他人じゃない。友情っていうのは、お互いが支え合って……」


「違うわ! そういう打算的な考えが、友情を壊すのよ!」


 二人の言い合いは、次第にエスカレートしていく。周りの生徒たちも、どちらかの意見に賛同して議論に加わり始めた。教室は次第に騒がしくなっていった。


「二人とも、友達いないよね?」


 また一花の声が響く。今度は机にうつ伏せになったまま。


「なっ……!」


「私たちには友達が……!」


「いるの? 名前言って」


 麻衣と茜は言葉に詰まる。


「そ、それは……」


「プライバシーの問題よ!」


「言えないってことは、いないってこと」


 一花はゆっくりと顔を上げ、二人を見つめた。


「友情について語る前に、まず友達作ってみたら?」


 その言葉に、教室全体が静まり返る。麻衣と茜は顔を真っ赤にして席に座り込んだ。


「ねえ」


 放課後、咲良が一花の机に近づいた。


「どうしてそんなに的確なこと言えるの?」


「面倒くさいから」


 一花は相変わらずスマートフォンを見つめたまま答える。


「え?」


「みんな、自分の理想や価値観を振りかざして争ってる。でも、実際には何も持ってない。そういう空虚な争いを見てるのが面倒くさい」


「でも、それって……」


「理想を持つのは自由。でも、現実から目を背けるのは違うと思う」


 咲良は黙って一花の言葉を聞いていた。そして、なぜか少し微笑んだ。


「あなた、すごく良く見てるのね」


「見てない。ただ、うるさいから黙らせてるだけ」


 その返事に、咲良は思わず吹き出してしまった。


 そして次の日――。


 朝のホームルーム前、教室の後ろで楓と美月が激しい議論を始めた。


「だから、人生は努力あるのみよ! 才能なんて関係ない!」


 楓が力説する。


「はぁ? どんなに頑張ったって、才能のある人には敵わないわよ」


 美月が冷ややかに返す。


「それじゃあ、才能のない人は諦めろっていうの?」


「現実を見た方がいいってこと。無駄な努力は時間の無駄よ」


 その言い合いは、次第にクラス全体を巻き込んでいく。


「努力は裏切らない!」


「才能には勝てない!」


 声が交錯する中、一花がゆっくりと立ち上がった。黒板の前に立つと、チョークを手に取り、大きな文字を書き始めた。


『人生、他人の評価気にしてる時点で負け』


 教室が静まり返る。


「え……どういう意味?」


 楓が小さな声で聞く。


「簡単でしょ?」


 一花は黒板を指さしながら言った。


「努力か才能かなんて、他人の基準で考えてるから迷うの。自分の人生なのに、なんで他人の価値観に縛られるの?」


 誰も反論できない。


「才能があってもなくても、努力するしないも、全部自分で決めればいい。他人の評価を気にして振り回されるから、そもそも自分が何をしたいのかも分からなくなる」


 一花の言葉は、静かに教室に響いた。


「でも……」


 美月が声を絞り出す。


「現実には、評価されないと生きていけないでしょ?」


「うん。でも、それは結果であって目的じゃない」


 一花は黒板の文字を指でなぞりながら続けた。


「自分の人生だから、自分で決める。その結果として評価されるならそれでいい。でも、評価されるために生きるのは、人生の主導権を他人に渡すようなもの」


 教室には深い沈黙が流れた。


 それから数日が経ち、一花への視線は明らかに変化していった。以前のような警戒や困惑は影を潜め、代わりに好奇心と尊敬のまなざしが向けられるようになっていた。


 特に、以前一花に論破された生徒たちは、むしろ彼女に親近感を抱くようになっていた。咲良は休み時間になると一花の机に近づき、話しかけようとするようになった。もちろん、返事は相変わらずそっけなかったが。


●第2章:論争の渦中で


 五月に入り、クラスは文化祭の準備に追われ始めた。


「みんな、文化祭の出し物について話し合いましょう」


 放課後のHRで、咲良が前に立って話し始めた。


「私たちのクラスは、例年通り演劇をやることに決まりました。では、演目について意見を出し合いましょう」


 次々と手が上がる。


「『ロミオとジュリエット』はどう?」


「いや、もっとモダンな作品の方が……」


「オリジナル脚本を書くっていうのは?」


 意見が飛び交う中、またしても対立が生まれ始めた。


「やっぱり王道の名作をやるべきよ!」


 莉央が主張する。


「そうじゃないわ。現代的な解釈の方が観客に響くわ」


 麻衣が反論する。


「でも、初心者が多い私たちには、台本が確立された作品の方が……」


「それじゃあ新しい発見も感動もないじゃない!」


 議論は次第にヒートアップしていく。そんな中、一花がゆっくりとスマートフォンを置き、立ち上がった。


「質問していい?」


 教室が静かになる。


「演劇って、誰のためにやるの?」


「もちろん観客のため……」


 莉央が答えようとするが、言葉を途中で飲み込んだ。


「本当に?」


 一花は黒板に向かって歩きながら続ける。


「観客のためなら、なぜ自分たちの好みで争うの?」


 誰も答えられない。


「演劇は、演じる人と観る人の両方のためにある。だから、どっちかだけの意見で決めるのはおかしい」


 一花はチョークを取り、黒板に書き始めた。


『目的:感動の共有』

『手段:全員が全力を出せる作品』


「まずは、私たちが本気で取り組めて、かつ観客に何を伝えたいのかを決めるべきじゃない? 作品選びはその後でいいと思う」


 教室には深い沈黙が流れた。そして、その沈黙を破ったのは意外にも咲良だった。


「私、賛成です」


 彼女は前に出て、一花の隣に立った。


「確かに、私たちは大事なことを忘れていました。演劇は、作り手と観客が共に創り上げるものです。だから、まずは私たちが何を伝えたいのか、それを話し合いましょう」


 クラスメイトたちも、次々と頷き始めた。


 そして話し合いは、「現代の友情」をテーマにしたオリジナル脚本を、みんなで作っていくことに決まった。脚本委員会が結成され、意外なことに一花も委員の一人に選ばれた。


「一花さん、脚本委員になってくれて嬉しいわ」


 放課後、咲良が満面の笑みで声をかける。


「仕方ないでしょ」


 一花は相変わらずスマートフォンを見つめたまま答えた。


「みんな、また変な方向に走り出しそうだから」


 その言葉に、咲良は笑みを深めた。


「やっぱり、クラスのこと考えてくれてるのね」


「違う。面倒なことになるのが嫌なだけ」


 しかし咲良は、もうその「面倒くさい」が単なる言い訳だということを理解していた。


 脚本委員会の活動が始まると、新たな論争が持ち上がった。今度は、物語の方向性を巡って。


「やっぱり感動的なラストがいいわ!」


 楓が主張する。


「いやいや、もっとシリアスな展開の方が……」


 美月が反論する。


 議論が紛糾し始めたその時、一花が静かに立ち上がった。


「ねえ、今の高校生って、どんな悩みを抱えてると思う?」


 突然の質問に、全員が黙り込む。


「SNSでの人間関係? 将来への不安? 親との価値観の違い?」


 一花は続ける。


「そういう身近な問題を、等身大で描けばいいんじゃない? 大げさな演出より、共感できる話の方が心に残るでしょ」


 委員たちは、次第に頷き始めた。


「そうね……確かに」


「現実的な悩みの方が、観客も自分のこととして考えられそう」


 こうして脚本は、現代の高校生が直面する様々な問題を織り込んだ群像劇として形作られていった。


 一方で、クラスの中での一花の立ち位置も、少しずつ変化していった。まだスマートフォンを手放すことはなかったものの、周りとの会話も増え始めていた。


 そんなある日、体育祭の練習中に新たな論争が勃発した。


「リレーのオーダーは、やっぱり運動能力順よ!」


 茜が声を張り上げる。


「違うわ! みんなに機会を与えるべきよ!」


 麻衣が反論する。


 また対立が始まろうとしたその時、一花が静かに口を開いた。


「どっちも間違ってる」


「え?」


「勝つことと楽しむこと、両方大事でしょ? だったら、前半は実力重視、後半はやる気重視で組めばいい」


 シンプルな提案に、全員が目を見開いた。


「そうか……そうすれば、みんなが納得できる!」


 こうして、一花の「論破」は次第にクラスの問題解決の手段として認識されるようになっていった。


●第3章:真実の距離


 六月に入り、文化祭の準備は佳境を迎えていた。脚本は完成し、いよいよ配役を決める段階になった。


「主役は、やっぱり演技経験者がやるべきよ!」


 莉央が主張する。


「いいえ、オーディションで平等に決めましょう!」


 咲良が反論する。


 クラスメイトたちは、もう一花の発言を待っているような雰囲気だった。しかし今回、一花は黙ったままだ。


「一花さん、どう思う?」


 咲良が聞く。


「……私には関係ない」


 その態度に、クラスメイトたちは戸惑いを見せた。


「でも、いつもみたいに的確な意見を……」


「それって、依存じゃない?」


 一花の言葉に、教室が凍りつく。


「自分で考えないで、誰かの意見に従うの、楽かもしれない。でも、それじゃあ何も変わらない」


 一花はスマートフォンから目を離し、初めてクラス全体を見渡した。


「私の意見は、あくまでも一つの考え方。正解じゃない。だから、自分たちで考えて決めるべき」


 その言葉は、クラスメイトたちの心に深く突き刺さった。


 放課後、咲良が一花の机に近づいた。


「ねえ、一花さん」


「なに?」


「どうして、そんなに人の本質が見えるの?」


 一花は少し考え込むような素振りを見せた。


「見えてない」


「え?」


「ただ、みんなが見たくないものが見えるだけ」


 その言葉に、咲良は深い意味を感じ取った。


 それから数日後、文化祭の準備中に思わぬ事態が起きた。大道具の製作中、誤って塗料が床にこぼれてしまったのだ。


「誰よ、これ!」


 楓が声を荒げる。


「責任者の美月でしょ!」


「私じゃないわ! 他の誰かが……」


 その時、一花が静かに立ち上がった。


「床が汚れたのは事実。でも、誰かのせいにしても何も解決しない」


 全員が黙り込む。


「今必要なのは、どうやって解決するかを考えること。それとも、誰かを責めることの方が大事?」


 その言葉をきっかけに、クラスメイトたちは協力して掃除を始めた。そして、この出来事を機に、クラスの雰囲気は大きく変わっていった。


 個人の責任を追及するのではなく、問題解決に向けて協力する。そんな関係性が、少しずつ築かれていったのだ。


●第4章:沈黙の理由


 文化祭まで一週間となったある日の放課後。


 一花は相変わらずスマートフォンを見つめていたが、周りの空気が違うことに気づいた。顔を上げると、クラスメイト全員が彼女を取り囲んでいた。


「どうしたの?」


「ねえ、一花」


 咲良が一歩前に出る。


「私たち、ずっと不思議に思ってたの。どうしてそんなに的確なことが言えるの? それって、私たちのことをちゃんと見てるってことだよね?」


 一花は少し考え込むように首を傾げ、それから軽く笑ってこう答えた。


「いや、単に面倒くさいから黙らせてるだけ」


 その瞬間、教室は沈黙に包まれた。そして、次の瞬間、爆笑の渦が起きた。


「やっぱり!」


「そうだと思ってた!」


 笑いが収まると、莉央が尋ねた。


「でも、なんでそんなに『面倒くさい』って思うの?」


 一花は珍しく、スマートフォンを机に置いた。


「だって、みんな同じことの繰り返しでしょ?」


「同じこと?」


「うん。自分の考えに固執して、相手の立場を考えない。でも、ちょっと視点を変えれば、答えは見えてくる。それなのに、みんな自分の殻に閉じこもって、同じような議論を繰り返す。それが面倒くさい」


 教室は静まり返った。


「私ね」


 一花は続けた。


「前の学校でも、似たような経験があったの。でも、誰も気づこうとしなかった。だから、黙って見てるだけにしたの。そうしたら、逆に周りが気づき始めた。『言葉』より『沈黙』の方が、時には効果的だってことに気づいたの」


 クラスメイトたちは、一花の言葉に深く考え込んでいた。


「でも、それって寂しくない?」


 咲良が静かに尋ねる。


「最初は寂しかった。でも、本当に分かり合える人は、沈黙も理解してくれる」


 一花はそう言って、クラスメイトたちを見渡した。


「だから、私は待ってた。本当の意味で『対話』ができる人たちに出会えるのを」


 その瞬間、咲良が一花に抱きついた。


「待たせてごめん! でも、もう大丈夫よ。私たち、一花の沈黙も、言葉も、全部受け止めるから!」


 他のクラスメイトたちも、次々と一花の周りに集まってきた。


「そうよ! 一花のおかげで、私たち、たくさんのことに気づけたもの!」


「これからは、一花が面倒くさいって思わなくても済むように、私たちが変わるわ!」


 一花は、生まれて初めて戸惑いの表情を見せた。そして、小さな声で呟いた。


「……面倒くさい」


 しかし、その言葉に込められた温かみを、誰もが感じ取っていた。


●第5章:新しい声


 文化祭当日。


 一花たちのクラスの演劇は大成功を収めた。現代の高校生が抱える悩みや葛藤を等身大で描いた作品は、観客の心に深く響いた。


 特に、主人公が自分の意見を押し付けるのではなく、相手の立場に立って考えることで問題を解決していく展開は、多くの共感を呼んだ。


「一花! 大成功よ!」


 咲良が楽屋で一花に抱きつく。


「うん。みんなが本気で取り組んだから」


 一花も、珍しく笑みを浮かべていた。


 そして、文化祭が終わった後のホームルーム。


「ねえ、みんな」


 一花が突然立ち上がった。初めて、自分から話し始める。


「私ね、このクラスに来て、初めて分かったの」


 一花は珍しく、真剣な表情でクラスメイトたちを見つめた。


「黙っているだけじゃなく、時には声を上げることも大切だって」


 教室が水を打ったように静かになる。


「でも、それに気づかせてくれたのは、みんなだった。だから……」


 一花は深く息を吸い、そしてゆっくりとスマートフォンを机の中にしまった。


「これからは、もう少し話してみようかなって」


 その瞬間、教室は歓声と拍手に包まれた。


「やった! ついに一花が改心した!」


「いや、違うでしょ」


 一花が首を振る。


「私は変わってない。ただ、面倒くさがりながらも、たまには話した方がいいかなって思っただけ」


「相変わらずね」


 咲良が笑う。


「でも、それが一花らしいわ」


 その言葉に、クラス全員が頷いた。


 それから数日後、また新しい論争が始まった。今度は修学旅行の行き先を巡って。しかし今回は、誰も一花の「論破」を待たなかった。


 代わりに、それぞれが相手の立場に立って考え、建設的な議論を展開していった。時々、一花が「面倒くさい」と呟きながらも、的確なアドバイスをすることはあったが、もはやそれは「論破」ではなく、クラスメイトの一人としての意見として受け止められた。


「ねえ、一花」


 ある日の放課後、咲良が声をかけた。


「最初に私たちを黙らせた時から、こうなることを予想してた?」


「まさか」


 一花は珍しく声を出して笑った。


「そんな面倒なこと、考えてる余裕なかった」


「でも、結果的にクラスを変えたわよね」


「違う」


 一花は窓の外を見つめながら言った。


「変わったのは、みんなの『見方』だけ。本質は、最初から持ってたはず」


 咲良は深く考え込んだ。


「確かに……私たち、ただ気づいてなかっただけなのかも」


「うん。だから私は、その『気づき』のきっかけを作っただけ。面倒くさかったけど」


 二人は笑い合った。そして咲良は、一花の「面倒くさい」という言葉の本当の意味を、ようやく理解した気がした。


 それは、相手のことを考えすぎるがゆえの、彼女なりの精一杯の表現だったのだ。


 夕陽が差し込む教室で、女子たちの笑い声が響く。もう誰も、激しい論争をすることはなかった。


 代わりに、時には面倒くさがりながらも、お互いの考えを理解しようとする。そんな関係が、自然と築かれていった。


 一花は相変わらず、時々スマートフォンを見つめている。でも今は、周りの会話も同時に聞いている。


 時には「面倒くさい」と言いながらも、的確な一言を投げかける。でもそれは、もう誰かを黙らせるためではない。


 お互いを理解するための、新しい対話の始まりとして。


        <終わり>

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