星を目指して

SSS(隠れ里)

星を目指して

 雨上がり特有の濁った臭い。足取りが鈍い。視界がぼやける。虫けらの死体にばかり目がいく。


 俺は、ゼナスという名前で、メガロス帝国の警備兵だ。何度も繰り返す。忘れぬように。


 仕事が終わり寄り道をすることなく、家に帰る日々。路上の客引きの声が、頭に響く。俺には、声すらかけてこない。メイン通りをトボトボと歩きながら帰宅の途につくのだ。


 生活苦から、メガロス帝国に身を投じた俺だったが、マニュス王国の魔術隊との戦いで戦傷を負ってしまう。結果、内地に転属され、今や警備兵として日がな一日、帝城の警備をしている。


 俺は、自宅にある薄汚れひび割れた姿鏡を見た。みすぼらしい布切れと破れたズボンを履いたくたびれた男の姿が映っている。


 当然、金を持っているように見えるはずもない。だからこそ、声なんてかかるわけがないのだ。金の匂いをさせない持たざるものに、寄り付く虫などいないのである。


 そんな毎日のある日の帰り道……


 国のためになる仕事だよ、民草の誉れとなれる。様々な言葉が、あの日の俺を輝かせた。ゼナスは、俺たちの誇りだ。あの日の友の声が耳に響く──今の俺の周りには、誰もいない。


 今日は、やけにそんな昔の雑音を思い出す。俺は、呪言を吹き飛ばすように地面に落ちていたゴミを蹴飛ばそうとして、ハッとなる。


 耳に優しく触れるような声──死者ですら踊りだすような香りと雰囲気が、ただよってくる……。


 これは、何だ!?


 歌? 歌だ。間違いない。女性の歌声だ。そういえば、先ごろ、帝都にディーヴァと呼ばれる歌う女性が現れ、人気を博しているらしい。


 俺は、声のする方を向く。手作りの舞台の上に白いドレスを着た女性が立っていた。


 舞台下には、周りを取り囲むように市民たちが立ち並ぶ。老若男女問わずに──俺は、吸い寄せられるようにふらふらと群衆の外側に立った。


 歌姫と呼ばれる女性は、金髪が腰まで流れていて、翡翠色の瞳が、俺を見つめた気がした。


 砂漠の枯れ木に甘露を与えるように、薄皮の飢餓に喘ぐ者が、食べきれない食事を出されたかのように俺の心は、歌姫に向けられた。


 人々の群れが、これほど憎らしく邪魔だと感じたことはない。


 確かに目があった。人混みをかき分けようとした俺と歌姫の瞳が、混ざり合う。甘く痺れるような頭の髄に響く翡翠の宝石。


 俺の瞳から枯れ果てたはずの雫がこぼれ──周りの景色を歪ませ地面に落ちて弾けた。


 誰も俺を見てくれない。負傷兵となった俺に価値など見出してはくれなかった。でも、彼女は違う。誰かの骨ばった肩を押しのけようとして、手が止まる。


 花弁のような唇から紡がれる歌が脳を揺らす。熱狂の中に紛れ込んだ白百合の香り──まさに至宝と言えるだろう。


 気がつけば、当たりは真っ暗になっていて見上げた空は、既に夜天。半覚醒の俺を月が見下ろしている。散りばめられた星は、さきほどまで感じていた春の朝のような調べによく似合う。


 つかの間の幸せのあとを襲うのは、虚無感だ。無情の闇を照らす綺羅星を睨みながら家のドアを開ける。


 俺は、歌姫の姿声を思い返していた。いつもならば、布団にくるまって耳をふさいでいる頃だ。かつて、友人ズラをした連中の声も──今は聞こえない。


 いつまでも離れない耳目を流れる緩やか雰囲気。手狭な部屋の中にあふれかえるゴミクズが、歌姫を戴く舞台に見える。片付ける気にもならない『くだらない』ガラクタが、輝く。


 その日は、一睡もできなかった。


 朝から仕事に身が入らない。ふわふわとした浮遊感で遠くの町並みが、何度目をこすってもぼやける。


 俺は、交代の時間も忘れて、上官の恫喝も歌姫の声に聞こえるほどあの白百合のような少女のことを考えていた。食事すらも忘れて、あの濡れた唇から放たれる色音を思い起こし、頬がゆるむ。


 敵も来ない安全な城での見張りを終えて、夕暮れの町並みに背を向けて歩く。酒場を目指す男達の奇声が、耳をざわつかせる。顰め面を作って男達の背中を睨む。


「こんな奴らのために前線で戦ってたのか……」


 夕日に照らされ朽葉色に輝く石畳から白百合の残り香を感じた。


 声が聞こえてくる。昨日と同じ場所だ。俺の意識が、足が、心臓とともに動き、体がそれに合わせる。


 視界に映る光り輝くスノードロップのような白亜のドレス。絹のような指先から歌声が踊り、妖精のように舞っている。俺は、必死に黒山の人だかりを押しのけた。


 少女のようなあどけなさの残る歌声が、艷やかな唇から発せられて空気を震わせる。歌姫の動きに合わせて宝石のような煌めきの残滓が、中空を流れていく。全ての所作が、愛おしく燦々と光を放つ。


 俺は、瞬きも忘れて歌姫に釘付けとなる。心のなかで、ある決意の炎が灯った。


 歌姫と話がしたい。あの潤いのある唇から発せられる言葉を聞いてみたい。俺だけのために言葉を発して欲しい。


 そのためには、どうすればいいのか。その日から、俺の煩悶の日々が続くのだった。



「どうすればいいんだっ!!」


 俺は、握り拳をテーブルに叩きつける。頭を掻きむしりながら「話がしたいっ!!」と視界がチリチリするほど叫ぶ。


 窓を見ると、青白い月と無数の星がまたたいている。立ち上がり、窓の外に手を伸ばしても星には届かない。


 不安定な日々。歌姫を見ては、春の夢のような微睡みと柔らかさに脳内が浄化されていく。天彩の声音を聞くたびに激しい感情が襲う。


 揺れ動く決意が、俺を突き動かし、羞恥の心が、俺を押し留めた。


 その日、俺は初めてお金を入れる。不格好な作りの悪い木箱に子供が書いたような字で『ありがとうございます』と書かれていた。


 歌姫は、今度こそしっかりと俺の目を見て「お名前は?」と甘くとろける声で、ゆっくりと俺の心に触れてきたのである。


「ゼェ……ゼ……ゼナスです」


 俺は、自分でも驚くほど声を出せなかった。喉元まで出かかった言葉が虚しく脳内に響く。


 今、夢にまで見た歌姫との会話。そのチャンスが、巡ってきたのに。俺は、震える手で懐からさらにお金を差し入れることしか出来ない。


「ゼナス様、ありがとう。また来てください」


 その言葉とともに白百合の残り香が、俺をいつまでも触れていた。悔しさと嬉しさが、ないまぜになって涙がこぼれ落ちる。


 その夜も眠れなかった。いつまでも歌姫の残滓が瞼の裏にこびりついていたからだ。


 その日から、全ての稼ぎを歌姫に注ぎ込む。あの箱にお金を入れることが、歌姫との唯一のつながりだから……


 俺は、晩酌を諦め朝飯を抜き飲み物を井戸の水に変える。家のゴミ山にある金目の物も全て売り払った。


 それでも、お金は足りなくなる。戦場で唯一の勲章「三等従軍褒章」も売った。


 あの地獄を切り抜け、獲得した唯一の誇りも歌姫の前では塵芥に過ぎない。もちろん、三等など運良く生き残れば貰える代物だ。それでも、市井の人から見ると、物珍しくはある。


 ここまでしても後悔はない。歌姫と近づけるこの瞬間にすべての至福が詰まっている。


 雷に打たれた心から情欲の黒煙が上がる。自分の存在理由は、歌姫を支えるためにあるのだ。


 お金を箱に入れる瞬間。手を伸ばせば触れられるほど近くにいる白百合は、微笑んでくれるのだ。



 しかし、俺の気持ちはあの日の友人たちへの想いと同じように粉微塵に切り裂かれた。


 雨降る薄霧の城下町。傷だらけの俺を友人を自称した者たちが、しかめっ面で見下す。


 手を伸ばしても。声をあげても。泣き喚いても。友人たちは、振り返りもせずに消え去った。


 雨に濡れた髪の毛を引きちぎるくらいにグシャグシャにしながら絶叫する。


 思い出していた。あの日の絶望を。


 肉塊が、おびえながら許しを請う。止めに入る愛しい男の腹部に冷たい鉄の刃を突き刺した。


 泣き叫ぶ。愛しの人を揺り動かして、天泣する女。


 かつて、愛した女。全てを差し出した女。目を合わせ、笑ってくれた女。


「信じていたのに、あの笑顔を。あの歌声を。愛していたからこそ、俺はッ!!!!」


 稲光に真っ白に染まる視界の中で、鮮やかな鮮血の赤が、スノードロップを染め上げた。


 最後につぶやくのは、愛しき男だろう。


 それは、俺ではなかった。


 そう、俺のことなど眼中にも無かったのだ。虚しさと収まらない怒りは、俺の腹に向けられた。


 俺は、歌姫に覆いかぶさるようにして倒れる。まだ暖かなその身体を死の瞬間まで抱きしめた。


 俺の名前は、ゼナス。いつまでも、いつまでも、呟いていた。


 【星を目指して】完。

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