第4話


   四


――魔女は灰かぶりに、畑から南瓜をひとつとってくるように言いました。

――灰かぶりが南瓜をとってくると、魔女は杖でそれを叩いて、魔法で立派な馬車に変えました。六匹のハツカネズミは馬に、ネズミは馭者に。魔女が灰かぶりのぼろぼろの服を杖で叩けば、金襴緞子きんらんどんすのドレスに早変わり。最後に魔女は灰かぶりがもっていた箒に魔法の杖の一振り、立派な機関銃に変えました。

 壇上でアンナが台本を読み上げたとき、観客席の後ろのほうで、マリヤ校長が呆れたように目を覆った。さらにはその隣に座る自治州議員の溜め息まではっきり聞こえた気がしたのだから、自意識とはふしぎなものだ。

――まあ、おばあさま、これは必要なくてよ。

 灰かぶり役のリリャが抑揚のない声でセリフと言うと、

――これからは闘争の時代さ、灰かぶり。

 ヴィオラが意気揚々と答える。

――これは魔法の機関銃だから、撃っても罪には問われない。撃たれたやつは全員子犬に変わるから、これで舞踏会の連中を撃って撃って撃ちまくりなさい。

 おおかた大人たちの反応に調子づいたのだろう、ヴィオラは声を弾ませると、空中にむかって何度も銃を撃つ真似をした。

――どうして撃つ必要があるのかしら、おばあさま。わたしは舞踏会に行きたいだけよ。踊りあかして楽しみたいのに、そんな水を差すようなまねするわけないわ。

――いつまでくだらないことを言っているんだい、灰かぶり。おまえはおまえを踏みつけている車輪の正体を知らないのさ。

――魔女はそう言って、灰かぶりを馬車のなかに押し込みました。もちろん、機関銃も一緒にです。馭者が鞭を鳴らすと、灰かぶりを乗せた馬車は、今宵舞踏会の開かれる城までまっすぐむかっていきます。


「――それで、灰かぶり姫はどうなったのですか?」

「筋書き通りです。王子さまと結婚します」

「まあ、アンナ。それではわけがわかりませんよ。魔法の機関銃はどうなったんですか? もっと説明してくれないと。ああでも、お前の話を聞いて推測するに、きっと魔女の役はヴィオラですね」

 アンナは皿に残った付け合わせのソースをスプーンで音を立てないようにすくい、こっそり舐めてから、「そのとおりです」と正面のフランギスにむかって答えた。

 昼過ぎのレストランには暖房の熱気がこもり、入店したばかりの客がいそいそと毛皮のコートを脱いでいる。通りに面した二重窓も結露で真っ白だ。春分が近づき店や街のあちこちに小麦草が飾られるようになったが、冬はまだ終わりそうにない。

「灰かぶり姫は王子さまと結婚するけど、そこで終わりじゃないんです。離婚して、ひとりでどこかに旅立つんです」

「まあ。それはどうして?」

「さあ。正直、めちゃくちゃな台本で、演じているわたしたちもよくわかってなくて」

「なるほど。大作家リリャの記念すべき一作目、というわけですね」

 どうでしょう、とアンナはあいまいにうなずく。

 会話している間にウエイトレスが運んできたデザートのプチケーキを、フォークで崩して口に入れる。頭痛がするくらい甘いチョコレートの味。

 今日は月に一度の面会日で、フランギスと一緒に下宿先となる支援者の家まで挨拶に行ってきた帰りだった。フランギスの前では終始冷静にふるまったつもりではあるものの、実際はヴィオラに何度も相談しては鬱陶しがられるくらい、アンナは今日という日をひどく緊張して迎えていた。

 実際に会ってみたら、支援者は人の良さそうな老夫婦だった。夫婦は市街にこぢんまりとした一軒家を構え、玄関やリビングにはそれまで預かってきた子どもたちの写真が多く飾られていた。アンナは写真に写るひとりひとりの表情を丹念にみて、じっくり夫婦の会話に耳を傾けてから、ようやく心身の緊張をすこしばかりゆるめたのだった。

 アンナ、そしてリリャとヴィオラは今月末にシフェンタ女子学校を卒業し、次の秋からグルダ自治州内の高校に編入する――下宿先も違えば、学力テストの結果で同じ高校でもなかったが。つつがなく、とはとうてい言えないが、懸案事項だった公演も先週末に終えることができた。

 この一年、アンナはさまざまな公演を目にしてきたが、誤解をおそれずに言うならば、自分たちの公演が一番ひどかったはずだ。

 狭い講堂の壇上に椅子を三脚用意して朗読した「灰かぶり姫」は、原作からの改編が激しく、観客となった生徒たちの多くが困惑していた。公演は学内関係者だけでなく、《歴史記憶修復法》に関係する州議員なども招待され、「外」に向けたアピールも兼ねている。それゆえに大人からのまなざしに敏感な子どもたちはみずから退屈な詩編を朗読したり、かわいらしい人形劇をやったりなど、行儀のいい公演を選ぶことが多い。あるいは、そうするよう教師からさりげなく誘導されることさえあった。そんな中、自分たちの公演はまちがいなくイレギュラーだった。公演の後、マリヤ校長は外部のつまらない大人たちから嫌味を言われたにちがいない。

 失敗と言ってもいいくらいの凄惨な出来だったが、公演が終わった今はふしぎと清々しい気持ちだ。秋から冬にかけて何度もリリャのベッドに招かれては台本の相談に乗っていたが、結局内容が固まったのは公演の一週間前。そこから何度もセリフを修正しながら三人で練習を重ね、公演当日も寝不足で迎えた。それであの不評ぶりであればふつうは落ち込みそうなものだが、まあそんなものだろうというのがすなおな感想だった。

 リリャの台本は奇妙だったし、自分たちの演技が洗練されていたとも思わない。でも、アンナは自分たちの公演を気に入っている。

 特にさいごのくだりについては、きっとふたりとも同意するだろう。


――わたし、やっぱりここを出て行こうと思うんです。

 離婚を申し出た灰かぶり姫に対して、王子さまが問いかける。

――どうしてだい、姫。君はこのお城で、誰より愛されて、誰よりもすばらしい生活を送っているのに。

それに対する灰かぶり姫の回答はこうだ。

――だって、わたし、誰もがお姫さまになれないって気付いてしまったんです。

 魔女からもらったガラスの靴を脱ぐと、灰かぶりはたちまち風となって、どこかへ飛んでいってしまう。

――さようなら王子さま、わたしがガラスの靴を履かなければ、けっして灰かぶりの存在に気がつかなかったひと。

 すべての台本を読み終えると、突然、ヴィオラがどこかに隠し持っていたくたびれたトウシューズを宙にむかって放り投げた。

 サテンのリボンがひらりとなびいて、螺旋をえがく。

 ヴィオラが叫ぶ。

――わたしたちのこと、みえないフリをしないで!


「ヴィオラが魔女なら、リリャは灰かぶり姫かしら。お前はなんでしょうね、アンナ」

「わたしは……どうでしょう。考えたこともないです」

 するとフランギスは右目にしかない睫毛を伏せ、「物語の中でなら、何にでもなれますよ」とうそぶいた。

 どうしてか、アンナには彼女が真実を語っているとは思えなかった。

 自然とふたりの間に沈黙が落ちる。アンナは黙ってケーキのかけらを口に運び、時間をかけて咀嚼した。渇いた口を紅茶で潤す頃には手持ち無沙汰になって、ゆるく握った拳をそっと膝の上に置く。

以前はフランギスとの会話が途絶することが怖かった。もともと彼女は物静かなひとだったが、自分を前にすると、時おり、その冬の海のような静寂の表層から深い怒りや悲しみが姿をみせることに気が付いていたから。

 でも、今のアンナが抱えているおそれは別種のものだった。ゆっくり息を吐くと、膝に置いた手をぎゅっと握り込む。

「……先生。聞きたいことがあるんです」  

「どうしました、アンナ。いきなり改まって」

 ガラスでできたひとみをじっとみすえる。みえない粘土のボールを握るように拳を握り、そしてゆるめてから、アンナは噛みしめるように発言した。

「わたしの生まれについて、です」

「……私に答えられることは多くありませんよ」

 わかっています、とアンナはうなずく。

「わたしは、グルダ紛争に参加したエウストマ人民兵だったんでしょう」

 アンナのことばに、フランギスは沈黙でもって答えた。

「わたしは他の子より一年遅れてシフェンタ女子学校に入学しました。でも、それ自体がありえないことだって聞いたんです。ふつうは目を覚ましたら遅くとも一ヶ月以内には学校に入るって。マリヤ校長から聞いた話を思い返してみても、わたしの入学には相当揉めたんじゃないでしょうか? それに、リリャやヴィオラはすぐ下宿先が決まったのに、わたしはなかなか決まりませんでした」

「お前の下宿先がすぐに決まらなかったのは、時期が悪くて、支援者の家がどこも手一杯だったからですよ。そう伝えたでしょう?」

「そうだったとしても……わたしは、自分がおぼえていない過去そのものに、何かとてつもない問題がひそんでいるように思うんです。そうでなければ、強力に記憶を封じる必要だってないでしょう?」

 そう話しつつも、アンナは自分の推測がまるで的外れな、根拠を欠いた内容であることを願いはじめてしまう。ただの杞憂であってほしかった。

 学校生活を送るかたわら、アンナはこれまで多くの本を読んできた。エウストマ人という自分の出自を知りたかっただけではない。フランギスが盲目なのをいいことに、図書室にはけっして置かれないような歴史の本を買い込んでは目を通した。

 その中には、グルダ紛争に関する詳細な記述もあった。

 フランギスの沈黙は牢獄のようにアンナを取り巻く。

 時間をかけてコーヒーを口にし、嚥下してから、ようやくフランギスは語りはじめた。

「私から伝えられることがあるとしたら……けっして、お前の人生のすべてが不幸ではなかったこと、くらいでしょうね」

 それはアンナにとって予想外の優しいことばではあったが、ことばを選びかねてか、フランギスはふだんよりもずっと歯切れ悪く続けた。

「母親は早くに亡くしましたが……父親に愛されて育ちました。お前の父親は町医者で、同じエウストマ人からとても慕われていました。お前もまた、聡く、優しい子であったように思います。物事の真理をみとおすお前のまなざしは……しかし、諸刃の剣でもあったかもしれません」

 そこでフランギスは口をつぐむと、骨張った手で顔を覆った。直接ふれずとも、アンナにはその手の冷たさがじかに伝わってくるようだった。わけがわからないまま罪悪感に襲われ、自分の身体が千々に引き裂かれてしまえばいいと願わずにいられなくなる。

 昼下がりのレストランはひどく騒がしいはずなのに、今はそのどれもがひどく遠く感じる。ふたりだけが橋のない中州に取り残されてしまったような断絶、孤独を感じる。

 フランギスはグラスを手にとって水を飲み、多少は落ち着きをとり戻したようにみえた。楚々とナプキンで濡れた唇を拭うと、さいごにこう補足した。

「歴史記憶修復法の生還者は、成人年齢……つまり、十八歳になれば、裁判所に自分の出自に関する記録の開示請求をおこなえます。お前にとって私は不誠実な人間かもしれませんが……これが、いま伝えられるすべてのこと」


 昼過ぎから雨が降りはじめた。手袋をしていても傘をもつ手がかじかみ、袖口から入る冷気に身体の震えもとまらなくなる。雪ではなく雨が降っていることを喜ぶべきなのに、冬の気配がゆるみはじめて緊張のほどけかけた身体には、多少の寒さがひどくこたえた。

 その道をフランギスは正確に記憶していた。薄暗い郊外の路地、それも迷宮のように入り組んだ街区の奥地であっても、迷うことなくアンナに道を指示できたのだから。

 自分が失明したとして、彼女のように鮮明におぼえていられるだろうか、とアンナは思う。同時にそれは、フランギスが何度となくこの道を使い、その記憶を反芻したという証左でもある。道もまた、変化することなく残り続けていた――五十年前の大規模な市街戦を経てグルダの都市部は大きく作り替えられてしまったと聞くが、フランギスが幾度となく歩いたこの道は難を逃れた、その意味を考えずにはいられない。道そのものが意志をもって、彼女がふたたび訪れるときを待っていたんじゃないかと。

 途中、通路の空をふさぐ張り出し屋根から、みごとな絨毯がかかっているのがみえた。緻密な織り模様が目を引くが、もとは鮮やかだったろう色は褪せ、端にいたっては焦げたような痕がある。そこから覗く建材には虫食いのように小さな穴が点々と残されていた。

――弾痕だ。

 屋根の下を通り過ぎてから、アンナは知らず息を詰めていたことに気が付く。

「……ここです、ここにあるはずです」

 奥まった場所までくると、フランギスがかすれた声で告げた。

 ふたりが足を止めた先には空き地が広がっていた。細々とした建物でせわしなく込み合う路地で、そこだけが忘れ去られたようにがらんとした広い空間。

 一見すれば何もない空間だが、よく目を凝らせば隅には瓦礫が寄せられ、氷雪に覆われた土のあちこちに建材らしき破片が散らばっている。

 それが意味するものが何なのか、教えてくれたのもやはりフランギスだった。

「エウストマ人の建てた祈りの塔が、ここにあるでしょう」

 当然、そこには何もない。

 しかしフランギスの目は、みえないからこそ、かつてそこにあったものをたしかにとらえたようだった。

「……青いタイル、らせんをえがく美しい塔。グルダでは一番高い建物で……天にまで届きそうだった」

 雨が小やみしたのをみはからって、アンナは傘を閉じた。フランギスを置いて、一歩前に踏み出す。

 ブーツの底で硬い雪を踏みしだきながら、一歩ずつ進んで、やがて空き地の中心に至る。その間も、フランギスの穏やかな雨のような声がやむことはなかった。

「私の夫はエウストマ人でした。夫、そして子どもと一緒に、何度もこの塔をのぼりました。いろんな願いごとをしながら。頂上から見渡せたグルダの景色は、何も代えがたく美しかった。金色の雲が光り、満月の夜には虹がかかってみえました」

 ふと靴が何かを踏んで、アンナは腰を屈めた。雪の中から拾い上げたのは小さなタイルの破片だった。

 淡い水色のそれを目にすると、自然と頤が上を向く。次の瞬間、アンナの目にはたしかにそれが映っていた。

「――美しいでしょう、アンナ」

 風にたなびいては山の稜線を霞ませる黄金の色の雲。月の光に照らされて銀色に煌めく、細い虹のアーチ。

 そして。

 まっすぐ伸びた水色の塔と、どこまでも続いていく螺旋階段。細長い塔は高地の厳しい光を浴びて七色にさんざめき、まるで一本の槍のようにそびえたっている。

 塔から放たれる光を浴びるだけで全身の細胞がめざめて、身体がもっと純粋なものに作り替えられていく気がする。身体の底から力がみなぎってきて、叫び出したいような、走り出したいような、いてもたってもいられない気持ちになる。

「ええ、とても美しいです、……先生」

 耳の痛くなるような静寂の中、アンナはしばらくの間、自分の心臓の音だけを聞いていた。ゆっくりと脈打ち、体にきれいな血液を送り出していくポンプの音。しだいに視界の中で塔の輪郭はにじみはじめ、やがては曇天に溶けて無くなってしまう。

 灰色の空から、雪が降ってくる。

 冷たい氷片を顔いっぱいに浴びながら、アンナは暗雲の垂れ込める空をしばらくじっとながめていた。あるとき我に返ると、手もとの傘を開いてフランギスのもとまで戻る。フランギスはハンカチで乾いた目許を拭っていた。

 無言で来た道を引き返した。みぞれは礫のように降りかかり、傘に弾かれるとかすかな反響音をひびかせながら落ちていく。

 氷雨は鉛色だった。

 街区の途中まで来たところで、背後から引っ張られる感覚にアンナは足を止めた。怪訝に思って振り返ると、フランギスが細い路地の中央で立ち止まっている。

 傘を差し出そうとアンナが片腕を伸ばすと、まるでみえているようにフランギスはかぶりを振った。

「よいですか、アンナ。これだけは覚えておいて」

 たった半歩。ふたりの距離はとても近いのに、今はその距離が途方もなく遠かった。

「傷ついた人間は回復しません。永遠に。そして、完全には」

「……先生?」

 どこか遠い場所から、かすかに雷鳴が聞こえてくる。

 冷たい風が吹きすさぶなか、フランギスは激しい嵐に耐えるように片腕で自分の身を抱えた。

「でも、回復し続けることはできます。何度となくおそろしい場所に揺り戻されながら、すこしずつでも前に進んでいくことならできるでしょう。それはまるで……」

 祈りの塔をのぼるように、とひそやかな声が続く。

「同じ場所をぐるぐる回り続けているようで、気が付けば遠く離れた場所にいる瞬間があります。大好きなひとたちを失って、この世界にひとり残されたように感じても……お前が私の目の前に現れたように、思いも寄らないめぐりあわせが起きることだってあります。でも、それを生きるよすがとするには……人生には困難が多く、冗長すぎますね」

 アンナの腕をつかむ手に力がこもる。二度と離すまいという固い決意を感じさせるような力強さで。

 硬くこわばって震えるフランギスの手。

 フランギスはうなだれ、お前が何もおぼえていなくてよかった、とほとんど吐息のような声で言った。

 その瞬間、アンナは彼女の抱える怒りが、まっすぐ自分にむかって収束していくのを目にした。

 フランギスの抱えていた怒りとは、きっと使い古された革のように手になじみ、ふだんは握っていることさえ忘れてしまうくらいやわらかいものだったに違いなかった。でも、それは怒りが「存在しない」という意味ではないことに、ふとアンナは思い至る。

 怒りの波にさらされるのかと無意識のうちに身構えた瞬間、フランギスはアンナの腕をつかむ手を離していた。それは船が碇を上げるように重々しくもあり、子どもが風船を手放すようにあっけない瞬間でもあった。

「すこし疲れてしまいました。申し訳ないけれど、今日はここで別れましょう。ここからなら、お前ひとりでも大丈夫でしょうから」

 とまどいながらも、わかりました、とアンナは答えた。

 フランギスは視神経の通わない目でじっとアンナをみつめると、くすりと笑みをこぼす。

「どうか善い人間であることを忘れないで、アンナ。そして私のことなど忘れて、どこか遠い場所で幸せになるんですよ」

 また、どこかで雷が鳴る。降りしきる雨の中、老女はゆっくりとアンナの視界から遠ざかっていく。

 アンナは彼女がつかんでいたあたりをさすりながら、雨煙でその背がみえなくなるまで、長い時間その場に立ち尽くしていた。


 ◇ ◇ ◇


 グルダ紛争の首都市街戦においては、エウストマ人民族運動グループは団結してエウストマ人の権利を守ろうとした。グルダ自治共和国内の少数民族であり、歴史的に国を持たないエウストマ人は性別の区別なく武器を手にとり、民兵としてフレジア共和国および連邦の連合軍に対抗した。――グルダ紛争の最も象徴的な事件の一つは、連邦軍によるルジャ人強制移住事件ならびにエウストマ人民族グループの蜂起に始まる一連の暴動、通称『霧氷の一月』事件であると言われている。

 『霧氷の一月』事件では多くの民間人が巻き込まれ亡くなったとされるが、その数は推定にとどまり、いまだに正確な数字はわかっていない。また、グルダ戦争において世界的に有名な少女兵の写真も、この時のものだとされている。


 ◇ ◇ ◇


 今朝、家庭裁判所に立ち寄って受けとってきた申請書類は膨大な数にのぼり、分厚い封筒から折れないようとりだすことさえ至難の業だった。アンナは喫茶店の隅にあるテーブルと向かいあうと、びっしりと書き込まれた仰々しい文体の同意事項を苦心して解読し、何十回とサインをしていた。しかし、かれこれ一時間経った今でも書類の提出準備はとうてい終わりそうにない。そうこうしているうちに眠気が襲ってきて――昨日はほとんど一睡もできなかった――何度もあくびを噛み殺し、ついにはがっくりとテーブルの上に倒れこんでしまう。閑古鳥の鳴いていた店内に軽快なベルの音がひびいたのはそれとほぼ同時の出来事だった。

「ごきげんよう、アンナ」

 店主がドアを開けると、外からヴィオラが姿を現す。アンナは黙って彼女のために空けていた空間を目線で示し、もう一度あくびを噛み殺そうとして失敗した。

 大きくあくびをしたアンナを前に、ヴィオラは溜め息をついた。

「あいかわらずシケた顔をしてるわね。目の下のクマがすごいわ」

「昨日、急きょ引っ越しすることになって……まあ夜逃げみたいなものね。それであんまり眠る時間がなかったの」

「また支援者の家を移ったの?」

 アンナが首肯すると、「苦労してるわね」とヴィオラが肩をすくめる。

 歴史記憶修復法で定められたところの「生還者」は、成人までの間、支援者で総称されるボランティアからの援助を受けて暮らすのが通常だ。下宿先となる支援者の家を移ったのがこれで何度目なのか、早々に数えることをやめたアンナにはわからない――それくらい、アンナは自治州内を転々としながら生活していた。

最初の転居は高校に入ってすぐだ。新聞に、古いアンナの顔写真付きの記事が出回った。記事をきっかけに世論がどんどん過熱し、身の危険を感じるような事件が起きたことからも、高校には通いづらくなり。結局自主退学して、今は大学の受験資格を得るためにひとり勉強を続けているところだ。

 この喫茶店は支援者が経営する店のひとつであり、アンナが人目を気にせず誰かとおしゃべりをできる数少ない場所でもあった。

「わたしがここにいることに強い抵抗をおぼえるひとがいる、それだけの話よ。支援者に迷惑がかかるのはどうしても……というのもあるけど、誰とも深く付き合わないのは気楽ね。――それより、あなたの体調はだいじょうぶなのかしら、ヴィオラ」

「まあ元気よ。揚げた芋以外食べる気にならない以外は」

 テーブルに広げた書類を封筒に入れながら、それならよかった、とアンナはうなずく。

 顔なじみのウエイトレスにチコリコーヒーを注文するヴィオラの横顔は、肌つやこそ悪くないもののすこし頬がこけたようにもみえる。視線をすこし下にずらせば、まるく膨らんだお腹が。――安定期に入って、しばらく経つはずだ。

 シフェンタ女子学校を卒業して三年が経ち、長い冬が終わろうとしている今日、アンナはヴィオラやリリャと数ヶ月ぶりに会う約束をとりつけていた。

 三年経った今も、三人はグルダ自治州の中で暮らしている。もともと生還者は生まれ故郷で暮らすことが推奨されており、従うことでスズメの涙程度ではあるが補助金が出る仕組みになっているので、自然な流れではあった。リリャは高校を留年その後中退し、今は支援者の家で住み込みの子守りをしている。ヴィオラは細々と仕事をしながら生還者のグループホームで暮らしていた――が、そんな彼女から妊娠したという話を聞かされたのがこの冬のはじめのこと。

 ある日の夜、当時住んでいた支援者の家の電話でそのことを告げられたアンナは、思わず声をひそめて相手を問いただしたものだ。ヴィオラは喧嘩して殴って別れたとしか言わず、それでも産むつもりだと早口でまくし立てた。予想もしていなかった話に口ごもっているとすかさず「まさかだけど、私が子どもを産めないとでも思ってたの?」と嫌味が飛んできたことをおぼえている。出産が近くなったら、母子支援施設に移るとヴィオラはよどみなく語った――アンナが同じ立場だったら速攻代理人から叱責の手紙が飛んで来ただろうが、三人の中で一番早く成人したヴィオラはすでに自分の力をとり戻している。誰に忖度することもなく自分の意思を通すことができる環境を手に入れていた。

「リリャはまた遅刻? 相変わらず時間という概念が欠如しているわね」

「そのうち来るんじゃないかしら。三人で会うのはひさしぶりだから、リリャも楽しみにしていると思うけど」

 ヴィオラの妊娠を聞いて一番喜んだのは、意外にもリリャだった。彼女は子守りの仕事をしているが、けっして天職ではないというのが三人共通の見解でもある。それでも先日電話したら、子どもむけの童話を書きはじめたと言っていたので、きっと今日は鞄いっぱいに記入済みの原稿用紙の束を詰め込んでくるだろう。

「何笑ってんのよ、気持ち悪いわね」

 ヴィオラの指摘に「ちょっとね」とアンナはゆるんだ口元を隠す。そのとき彼女が浮かべているであろう満面の笑みを思い浮かべて、自分も知らず笑みをこぼしていたようだ。

 運ばれてきたチコリコーヒーをヴィオラはしばらく黙って飲んでいたが、「でも」とおもむろに話を切り出した。

「あのときのリリャはほんとうに卒業できないと思ったわ。今でも卒業できたのが奇跡だと思ってる」

「ヴィオラは死ぬまでそのことを言い続けそうね」

「最後の公演の出来についてもね」

「おばあさんになっても同じことで文句を言ってそうだわ。そういえば、どうしてあのとき、あなたはトウシューズを――」

 アンナの声に重なって、またドアベルが鳴った。ヴィオラが溜め息を漏らし、すこしだけ口角を上げる。アンナは荷物を抱えてカウチの奥に移動し、これから息を切らしながら現れるであろう友人のためにスペースを空けた。

「ごめんね、遅れちゃった!」

 案の定、小柄な女性が鞄を抱えてこちらまで駆け寄ってきた。

「ヴィオラちゃん……、大丈夫? 元気?」

「死に際の老人じゃないんだから大丈夫よ。というかアンタ、髪にも服にもすごい埃がついてるんだけど……。アンタの部屋がゴミ屋敷なのが目に浮かぶようだわ」

 リリャは恥ずかしそうに鼻をかくと、アンナの隣にちょこんと腰かけた。そのまま鞄の中身をあさりはじめたを横目に、アンナも出しっぱなしだった封筒をリュックサックの中にしまいこんだ。

「あのね、ヴィオラちゃんの子がいつか読めるようにって、いま、いろいろ童話を書いているんだよ」

 テーブルの上に原稿用紙の束を置いて熱説をはじめたリリャと、それを適当に受け流すヴィオラに、予想通りの展開だとアンナは忍び笑いを漏らさずにいられない。

 そのまま喧嘩なのかじゃれ合いなのかわからない会話をはじめたふたりを置いて、アンナは窓のむこうに意識を移した。ちょうど、赤いリボンでラッピングされた麦の新芽を大事そうに抱えて道を歩く男性が外を通りがかるのが目に入ったのだ。これから家に帰って、春分の日を迎えるための飾りつけをするのだろう。

 アンナはふと、胸の奥で何かがうずくのを感じた。もどかしさからそっと靴の先をすり合わせ、その感覚を外に逃がそうとする。

 隣からリリャに話しかけられ、そちらに意識を集中させようとしてもその感覚はなかなか消えなかった。厚いガラス板を一枚隔てたようにふたりのことを遠く、ひとりだけ無人島に流されてしまったような隔絶を感じてしまう。でも、それはみんな一緒だろうとアンナは知っている。この世界に流された多くのひとびとが、どうにか生きのびる方法をさがしている。


 ◇ ◇ ◇


 春になりようやく雪解けがはじまってぬかるんだ地面も、気温が下がる夜の間にふたたび凍ってしまう。ぬかるんだ形そのまま凍るため、朝方の早いうちに出かけると道は大抵硬く波打ち、そうして切り立った泥のなす足場の悪い道をアンナはひとり歩き続けていた。

 腕に抱えた封筒の重みを感じつつ、視線はまっすぐ、その道の先にあるこぢんまりとした裁判所の古い建物をとらえている。曇天なのもあいまって、あたりはどんよりと薄暗い。まばらに白樺が生えるだけのさみしい道を、アンナは一歩一歩、踏みしめるようにして確実に進んでいった。

 建物の影が近づくにつれ、そこから逃げたいような、けれども逃れがたいような気持ちが胸の中でせめぎ合いはじめた。自分の運命が音もなく迫ってくる、と思う。あの建物を出るときの自分が、今の自分とまったく同じでいるという確証がほしいと願わずにいられなくなる。人間の身体は日々細胞が入れ替わっているのだから、いつまでも同じではいられないとは知りつつも、それでも――。

ふと、アンナの頭によぎるものがあった。

 もしフランギスが今の自分をみたらどう言うのか。

 あの日を境に行方がわからなくなってしまった、自分の元代理人。フランギスの後任としてアンナの法定代理人を引き受けた男性弁護士とは、結局一度も会わないまま縁が切れてしまった。彼には一度だけ手紙でフランギスのことを尋ねてみたが、返事がかえってくることはなく――漠然と、しかし確信をもって、アンナはもう二度と彼女には会うことはないんだろうと思っている。

 入り口に続く階段に足をかけた瞬間、アンナは誰かとすれ違う。

 その横顔に見覚えがある気がして来た道を振り返るが、春泥でぬかるむ一本道が続いているだけだった。

 霧が出て、道の果てはみえない。さえざえと冷えた風に吹かれながら、錯覚だったのだろう、とアンナは思う。すれ違った誰かはあの懐かしい制服を着て、靴とソックスを泥だらけにしていたのだから。――もう二度と会うはずのない子だったのだから。

 ふと、風に乗って、彼女の声がどこからか運ばれてくる……。

――あんたは、うまくやれるといいね。あたしが帰るところが天国なら、ここは……。

――ううん、ここも……天国よ。食べるものも寝るところもあって、銃で撃たれる心配もないんだから。

「でも、ここは居心地が悪すぎる」

 アンナがささやくと同時に、ざあ、と葉擦れの音がひびき、枯れ葉が空から落ちてきた。

 ナナカマドの葉が目の前に落ちたかと思うと、また風に乗ってどこか遠い世界に消えていく。


 裁判所の受付に立つ。

 アンナは受付に座る男性職員にむかって、書類の入った封筒を差し出した。

「わたしの名前はアンナ・ブニアザーデ。――生還者に関する審判書の閲覧を希望します」

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アフターヘブン 黒田八束 @yatsukami

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