第3話


   三


――『グルダ』は、フレジア語で《肥沃な土地》を意味する。

 隣国関係にあるフレジア共和国とルジャ共和国は、いずれもかつてはツヴェトク共和国連邦を構成する十六の共和国のひとつだった。グルダは古くからフレジア人の住む土地で、フレジア系企業の資本で支えられているが、近年はルジャ共和国の領土に包摂されている。フレジア共和国に隣接せず、ルジャ共和国内に飛び地のように存在していることから、その帰属については長らく議論されてきた。

 かつて、グルダは六割のフレジア人、三割のルジャ人、そしてツヴェトク人や国家を持たないエウストマ人等からなる多民族国家であった。このグルダがフレジア共和国との統一を掲げ、ツヴェトク共和国連邦政府の混乱に乗じて自治共和国として独立宣言をおこなったのが五十年前。この宣言は、それまでくすぶり続けていた火種を大きくあおり、両国間における紛争の引き鉄を弾いた。

 三年間にわたって継続した第一次グルダ紛争では、首都攻撃において三万人以上の犠牲者が発生し、多くの難民をも出した。犠牲者にはかなりの数の民間人が含まれていたとされるが、正確な数はいまだ不明である。


 ◇ ◇ ◇


 夜もすがら雨が降った。

 明け方、鼻先がひんやりと冷えるのにアンナは浅い眠りから目を覚ました。毛布をぴったりと身体に巻きつけて丸まり、それでも袖口から忍び寄ってくる寒さに、あっという間に去った夏を恋しく思う。グルダの一年は大半を冬が占める。夏はまたたく間に過ぎ、そのふたつに挟まれた春秋はそれと認識できないほどあいまいだ。冬の次は夏だし、夏の次は冬。永遠にそのくり返しのように感じる。

 何度も寝返りを打ち、一向に訪れない眠気にアンナは溜め息をついた。

 眠ることが苦手だった。正確な内容こそ覚えてないものの、繰り返し悪夢をみているのか、何度も夜中に目を覚ましてはじっとりと胸に残る嫌な感覚を持て余すはめになる。そのせいもあってか、夜は心身の主導権を見失いやすかった。

 アンナは意識して、いつか授業で配られた粘土のボールのことを思い出す。みえないボールを握るように右手を握りこむと、すぐに力をゆるめた。同じことを左手で、次に両手で。自分の身体は、自分の意思でコントロールできることを、自分に言い聞かせるように。

――ふと、何かが潰れる音がひびく。

 外から聞こえた音ではなかった。アンナの頭の中から、記憶の中からひびいてきた音だった。

 アンナのまなうらに、粘土のボールを力いっぱい握り潰す誰かの横顔がよぎる。次にその手が開かれたとき、掌にべったりくっついた粘土のかたまりは、脆い糸を引きながらぼとり、ぼとりと床に落ちていった。

 濁ったピンク色のそれを、誰かは黙ってみつめている。

 窓から射す光が、彼女の髪を照らしている。頬の産毛が金色にきらめいて、ふと、風に揺れる畑の小麦のようだと思う――。

 カチ、と小さな音を立て、枕元のライトが点灯する。アンナはスイッチに指を置いたまま、夢から醒めた気持ちでその光を凝視した。

 ガラスの靴を脱いで小汚い自分の屋根裏部屋に戻った灰かぶりも、こんな気持ちだったのかもしれない。

 カーテン越しに隣のベッドに目をやるが、そこは永遠の闇に閉ざされたように暗いまま。夏までなら、夜中に目を覚まそうとも彼女のベッドに明かりが点いていることが多く、ときにはカーテンを引いて小声でおしゃべりなんかして、心を蝕む不安をまぎらわせたものだった。

 課外授業の一件以来、リリャは教室にも宿舎にも姿を現さなかった。心身の調子がすぐれず、別室で治療を受けているとの話だった。

 寝間着の上からガウンをはおり、アンナは大部屋を抜け出す。

 朝まだきの群青に満ちた廊下の先、ぽつねんと人影がみえた。

「――ヴィオラ。どうしたの?」 

 ヴィオラは暗い窓のむこうをみつめながら、「別に」と小声で答えた。

「目が覚めたから、散歩でもしようと思って。そういうアンタは?」

「……眠れなくて。ねえ、ついていってもいいかしら」

 ヴィオラと話すのもずいぶん久しぶりに感じられた。公演の練習という口実がなくなると、自然とふたりで会話する機会も減っていった。あるいはお互いに、リリャの不在を実感したくなかったのかもしれない。

 寄宿舎の外には一面の霧が広がっていた。

 雨こそ落ち着いていたものの、庭の下生えは雨露にしっとりと湿って、いつもより土の匂いが濃い。

「道がぬかるんでるけど、車椅子、押す?」

 ヴィオラは黙って車椅子のハンドリムをつかむと、さっさと先に行ってしまった。

 寄宿舎の裏庭には特に白樺が多く自生している。今、その森の樹葉は一様に色づいていた。雲海のように滞留する霧を細い朝日が切り裂いて、その中を黄金色の枯れ葉が舞っていた。

 葉はさざ波のようにかすかな音を立てながら、地に落ちて行く。

 石畳を覆う枯れ葉を押し潰しながら、ヴィオラは細い小径を進んで行ったが、途中で疲れたのだろう、そう離れた場所まで行かないところで車輪を停めた。

 ヴィオラを追いかけるアンナの足音だけが、コツコツとあたりにひびき渡る。アンナは頭上をみあげながらゆっくり歩いていた。まるで森そのものが燃えているようだと思った。グルダの短い夏を惜しみ、最期の命をふりしぼろうと黄金色に燃え盛る森。

「――私、昔、バレエをやっていたのよ」

 ようやくアンナがたどりつくと、ふいに、森をながめながらヴィオラがぽつりとつぶやいた。

「昔?」

「ここに来る前。つまり、生きていた頃? いまも生きてるけどね」

 バレエ、とアンナは口の中でその単語を転がす。

 ヴィオラがそののびやかな手足を自在に繰り、軽やかにピルエットを披露する姿が目に浮かぶようだった。

「私は薬が効きづらい体質で、アンタと違って生前の記憶をだいたいもってるの。生まれた家のこと、友達のこと。戦争のこと……。それで入院する前は、周囲と衝突して、色々もめ事を起こしてたのよ」

「今でも十分もめ事を起こしているように思えるけど」

 ヴィオラは首だけで振り返って「うるさいわね」と舌打ちした。

「アンタだって知ってるんじゃないの?」

 アンナは内心を見透かされたようだと思う。

「ソフィアが私を突き落としたの」

 ヴィオラは誰かに突き落とされて、半身不随になった。

――そう教えてくれたのはリリャだった。

「ソフィアは紛争で犠牲になったルジャ人で、私はフレジア人。それも独立先導派のフレジア人活動家の娘で、父親は教科書に載るくらいの有名人。何十年も昔の対立関係が、ソフィアを突き動かしたのね」

「……ソフィアのことは、知らないけど。今更そんなこと……」

 意味がないじゃない、ということばは音を伴うことなく消える。何の記憶ももたない自分がそう発言することはまちがっている気がした。

「私だってわからない。聞きたくもない。でも、さいごのチャンスだと思ったから……何か、意趣返しをしたかったのかも」

 ほつれた三つ編みを指先でいじりながら、ヴィオラは淡々としゃべった。

「たまに、自分をいじめたやつに対する最高の復讐は、誰より幸せになることって言うじゃない。でも、そんなのってあんまりだと思う。幸せかどうかは、運や持って生まれた環境に左右されちゃうもの。こころにわだかまりを抱えて、当時の苦しみに何度も引きずり戻されて……そうやって生きてる人のほうが多いんじゃないかしら。自分の善性を守ってるっていうギリギリの線で踏みとどまりながらね。でも、ソフィアはその線を越えてしまった」

 膝の間に落ちた葉を一枚つまみあげて片目にあてると、ヴィオラは病葉越しに霧の中の風景をみた。

「……入院している間にいろんなことを考えたわ。生き直したくなかったって思ったし、今でもずっと思ってる。でも、そこで治験を――ニューロフィードバック技法による治験を受けて、だいぶ落ち着いたの。かんたんに言うと、記憶と恐怖の関連付けを外すために自分で自分を訓練するのよ。悲しいことを思い出しても、苦痛を感じないように――」

 くしゃりと葉を潰す。

「それからは、ヴィオラ様の最強伝説がはじまったってわけ」

 そうなの、とアンナはうなずきながら、一度だけ虫歯の治療を受けたときのことを思い出していた。麻酔をかけたところで、歯が削られていることはふしぎとわかるものだ。歯を削る際の振動や、神経を誰かにさわられているという違和感。痛みは感じずとも、据わりの悪い椅子にむりやり座らされているような居心地の悪さは感じ続けなくてはいけない。

 無痛であることは、その体験が「なくなる」ことを意味するわけではない。

 ヴィオラの過去も、傷も、きれいさっぱり消えたわけではない。

 時間という暗い河のむこうに今も無言で横たわり続けながら、今を生きる自分をじっとみつめている。

「アンタは?」

「……わたしは、なにも」

「エウストマ人でしょ? この学校じゃめずらしいわ」

「何もおぼえてないの。名前を呼ばれても、どんな景色を見ても、何を読んでも、もどかしささえ感じないの。自分の過去を思い出せないのよ」

――河のむこうが霧に覆われて、何もみえないみたいに。

 ヴィオラはうなずき、「それくらい強力に統制しなきゃいけない大悪人だったりしてね」といたずらっぽくウインクした。

「でも、すっかり漂白されちゃったなら、それはそれで寂しいことだと思う。自分を自分たらしめる記憶がないってことでしょ」

「それが、困ったことがないの。むしろ記憶がない分、余計な悲しみだってないもの」

 ほんとうにそうだろうか? とアンナは自問する。自分だって悪夢を見続けている。正体のわからない、ぼんやりとした悪夢を。

 過去。それはアンナにとって、途方もなく広い街のどこかで鳴りつづける鐘の在処をさがすようなものだった。

「ほら、グズグズしてないで、点呼の前に部屋に戻りましょ。ああ寒い、すっかり手と顔が冷えちゃった」

 アンナはさっさと行ってしまったヴィオラのあとを追った。遅れて寄宿舎にたどりつくが、さいわい点呼はまだ始まっていなかった。

 しばらく自分のベッドに座っておとなしくしていると宿直のイガが現れ、朝の薬の配給をはじめる。自分の番がくるまで、アンナは黙ってカーテンが閉め切られたままの右隣のベッドをながめていた。

 イガは部屋にいる生徒全員に薬を配り終えると、名簿をじっくり見返し、せわしなく周囲を見まわした。

「リリャ? リリャはいないの?」

 イガは慌てたようにリリャのベッドまでやってくると、無造作にカーテンを開いた。彼女の肩越しに、リリャのベッドが暴かれる。

 リリャのベッドは汚かった。何度洗濯しても落ちないシミのついたシーツはマットレスからめくれあがり、脱ぎっぱなしの服や下着と一緒になって丸まったまま。ヘッドボードにはひからびたリンゴの芯や飲みかけのグラスがいくつも転がっている。

 目を引いたのは、数え切れないほどの原稿用紙の山だ。

――異様な光景だった。破かれたり潰れたりした何百枚もの紙が折り重なりながら、マットレスの中心に積み上がって、ひとつのオブジェをなしていたのだから。

 くしゃくしゃに握り潰されて固められた原稿用紙は塔の形をなし、鋭利にとがった先端が天井を指していた。その矛先に、胸のずっと奥、やわらかい襞につつまれたこころを貫かれた気がして、アンナは息を飲む。

 いったいいつからこの白いタワーが築かれていたのか。きっと長い間ここにあったはずなのに、まるで気が付いていなかった。見過ごしていた。

「いないわね」

 勢いよくカーテンを閉めた衝撃で、原稿用紙のタワーはあっけなく崩れていく。

 床に散乱した紙を気にも留めず、イガは部屋中の窓という窓を開けると、生徒たちを洗面所に行くようにうながしながら足早に去って行った。足もとに広がった原稿用紙の海をアンナは黙ってみつめていたが、外から吹き込む風がそれを奪いとろうとするのにあわてて手を伸ばした。

 薄い紙から一匹の紙魚が逃げていく。

 床に落ちた原稿用紙をかき集めてマットレスの上に重ねながら――あるいはお手洗いの順番待ちをしながら、制服に着替えながら、アンナはずっとリリャのベッドの上に広がっていた光景が頭から離れなかった。

 顔を洗う手はこわばり、ブラウスのボタンを留めようとして何度もやり直して。身体の血管という血管を押しひらきながら、冷たく鋭利なものが自分の身体をめぐっていく。何度も深呼吸するが、そのたびに自分がどうやって呼吸していたのかわからなくなった。

――きっと、落第しちゃったのね。

 誰かの声が鼓膜を打つやいなや、アンナの頭は真っ白になる。

 でも、それが誰の声かがわからない。もしかしたら、あるいは確実に、アンナの内側からひびいた声なのかもしれなかった。少女の冷酷な声が、頭をよぎった霧の中を走る乗用車が、アンナの背中を爪弾き、どこか遠い世界に駆り立てようとする。矢も楯もたまらず走り出して、がむしゃらに走り続けと叫ぶ。しかし着替えを済ませたアンナはどこにも行けずに、いつも通り食堂に足を向けることしかできなかった。

 ほんとうに落第してしまったなら、教師であるイガが知らないはずがない。ちょっとした連絡ミスで、大部屋にいると思われていたのが、実は別の隔離部屋にいるのが関の山だろうと自分に言い聞かせた。

 それに、この春に入学以来、卒業する子はいても落第した子はいなかった。あの日偶然ソフィアをみかけなかったら、落第なんてただの噂と鼻で笑い飛ばしていただろう。最近は良い治療、良い薬がある。ソフィアが例外だった――では、次の例外は?

 アンナは知らず詰めていた息を吐き出した。息苦しさが消えない。胸の中央にそっと手をあてると、食堂の前で足を止めた。

 立ち尽くすアンナの両脇を、生徒たちが通り過ぎていく。


「――リリャは失踪したのよ」

 その後何とか足を動かして食堂にたどりついたアンナに対し、ヴィオラはそう断言した。

 ヴィオラは人気のない隅の席に座ったばかりのアンナの背後を通りぬけると、長テーブルの角まで進み、膝に載せたトレイを卓上に置いた。そして用心深く周囲に目を光らせてから、再度同じことを言った。

「……探偵ごっこでもするつもり?」

 そっけなく答えつつも、アンナは嫌いな豆をつつく手を止めてヴィオラをみた。

「だって、それ以外考えられないでしょ!」

「わたしは隔離部屋にいると思うわ」

「それならイガ先生が知らないわけないじゃない。落第なんてもっとあり得ない」

 朝食のパンをかじりながら力説するヴィオラを前に、アンナは沈黙した。

 隣に座ったグループとはそこまで距離が離れていないのに、周囲の喧噪をひどく遠く感じた。

 アンナは椅子と朝食の載ったトレイをぎりぎりまでヴィオラの近くに動かすと、座り直して、おずおずと問いかけた。

「その……失踪したなら、どこに行ったと思う?」

「さあね。昔の家とか、何かしら縁のある場所ってのが妥当なところかしら」

 そこまで言ったところでヴィオラはグラスの牛乳を一気飲みした。

「アンタに思い当たるところはないの? 最悪の事態になってなきゃいいけど」

 濡れた唇をナプキンで拭いながら聞いてくるヴィオラに、アンナは目を伏せた。皿の上に残った赤いレーズン豆をフォークの先で潰しながら、慰霊碑の前でうずくまっていたリリャのことを思い出す。

 胃の中に冷たく、重い何かが沈んでいく。

「……思い当たるところがないわけではない、けど」

 しかし、あの日のことをいたずらに話すつもりにもなれなかった。

「確信はないけど……リリャは命を絶とうとか、そういう気持ちでどこかに行ったわけじゃないと思うの。そうじゃなければ朗読劇の台本だって、全部ゴミ箱に捨てちゃうと思うから」

 リリャのベッドに残っていた原稿用紙は、どれも公演のために書かれた台本の断片だった。何度も書いては消して、失敗だと置いて行かれた紙たちを思い浮かべながら、発言の説得力のなさに恥じ入らずにはいられない。

 ひとりよがりな想像だと思った。他人の行動を勝手に解釈して、自分の価値観にあてはめて推理しているだけ。ほんとうはもっと目にみえないものが隠れているはずなのに、それを斟酌できない自分が嫌だった。

 ヴィオラはじっとテーブルの一点をながめていたが、ふと顔を上げ、

「さがしに行かなきゃ」

 そう断言した。

「え?」

「私は行けないんだから、アンタが行くしかないわよ、アンナ」

 勢いづいたヴィオラが拳でテーブルを叩いたので、周囲の目線が一気にこちらに集中する。

 なんでもないの、ととっさに弁解しつつ、アンナはヴィオラの耳もとまで顔を寄せた。極力声を抑えて話しかける。

「そんなこと言っても、わたしたちが立ち入っていい問題なのかしら。触れられたくない部分って、誰にでもあるものだと思うし……それに、ヴィオラの言うことがほんとうなら、まっさきに先生がたが探しているはずよ。わたしたちが無鉄砲に駆け出したところで、迷惑をかけるだけかも」

 嘘や偽りを述べたつもりはないのに、アンナは自分のことばに自信を持てないでいる。目の前の問題から逃げたいあまり屁理屈をこねているだけのような気がした。

「アンタが言うことも、わからないわけじゃないけど……」

 ヴィオラは顎を上げると、天井をにらみつけた。

「でも……先生たちが、私たちの味方ってわけじゃないでしょ。こう思うことはない? 私たちは記憶をとり戻すこと……過去を語ることを期待されているんじゃないかって。死んでいった名もなき誰かの名誉や尊厳のために。つまり、ほんとうの意味じゃ、誰も私たちを守っちゃくれないのよ。道具と一緒。大切にされるけど、私たちは過去という存在でしかなくて、今を生きる人間じゃないの……」

 片袖で目もとを拭うと、ヴィオラはぎゅっと唇を引き結んだ。

 アンナは何も言えなかった。彼女のことばをどう受けとめたらいいのかわからなかった。へたに何かを言おうものなら、ことばの本質を受けそこなってしまう気がした。

 床下から這い上がってくる冷気にぶるりと体が震える。ふと周囲を見まわせば、食堂を埋め尽くしていたはずの少女たちが跡形もなく消えている。

 時計の針が授業の始業時間を示していた。アンナはあわててふたり分のトレイを回収すると、席を立った。

 けれども、教室に急ぐべきだと頭では理解しているのに、目の前に映るものすべてが異質な何かにすり変わってしまった気がして、動作のひとつひとつにまごついてしまう。あと少しの刺激で、自分という器から何かが溢れ出してしまいそうだった。やっとの思いで食器を片付け、あとは食堂を出るだけという段になって、アンナはふと窓のむこうに目を向けた。

 どうりで冷え込むわけだ――。

 薄ぼんやりと外明かりのにじむ窓のむこう、花びらのような雪がちらついていた。

 しかし、大した感動があるわけではない。むしろ、雪をみるとひどく憂鬱な気分になる。それはグルダの冬があまりに長く、息苦しいからかもしれなかった。でも、それだけじゃない。同時に目を離せないと感じるのは、切開した傷口や膿んだ粘膜を前に、それをどうにか直視してみたい気持ちになるのと大きく変わらない。

 車椅子のブレーキを戻す音とともに、車輪が床とこすれ合う音がひびく。ヴィオラが自分の背後を移動していく。

 長い長い、車輪の音。

――ぱきり、と、車輪が何か硬いものを踏み潰した。

 その音が聞こえた瞬間、ゴム製のタイヤに踏み潰されて粉々に砕け散る何かの痛みが、空気を通してはっきりとアンナにも伝わってくる。

 どうしようもなく胸がざわついた。

 今、この瞬間――誰かが重い車輪に踏み潰されようとしているのではないかという疑念にとらわれて、身動きができなくなる。

 踏み潰されて、跡形もなく砕け散って、そうして「なかった」ことにされる誰か。この世界に存在して、泣き叫びながら自分のことばで語ろうとしていた誰かが、泡沫のように消えていく。

 そのイメージが頭にしがみついてきて、けっして消えてくれない。

 食堂を出る。外では白い雪片が渦を巻いていた。うなじを撫でる風が刃物のように鋭く、手足の筋肉を硬くこわばらせていく。身のうちから起こる嵐を押しとどめようと、両腕で自分の身体を抱いてうつむきながら、アンナはどこへともなく歩き続ける。

 緩慢だった足どりは徐々に早足になり、次の瞬間にはもう走り出していた。

 身体という殻をやぶって逆巻く嵐にかき立てられる。

 全力で廊下を駆け抜けた。

 そしてたどりついていたドアを、アンナは勢いよく開け放った。

「……アンナさん? 突然どうしましたか?」

 肩で息をしながらこちらをにらむアンナを前に、マリヤ校長は書類整理の手を止めると怪訝そうに首をかしげた。

「授業中ですよ」

 穏やかな笑みを崩すことなく近づいてくるマリヤ校長をまっすぐにらみすえながら、アンナは息も整わないうちからしゃべりはじめた。

「――校長先生、わたし、」

 手足はかじかんでいるのに、心臓だけは炉にくべられたように熱い。

「わたし……」

 急にどんなことばも出てこなくなって、アンナはうろたえた。

 集中暖房をつけたのか、壁の内側を通る温水パイプから、金属を打ち鳴らすような音が室内にひびき渡る。

 マリヤ校長は黙ってアンナのことばの先を待っている。

 感じていること、考えていることの尻尾をつかめないまま、いたずらに時間だけが流れていくのに、アンナは焦りはじめた。

――自分はもっと、理性的な人間だと思っていた。

 それが、今はどうだろう。

 目の奥からじんわりと熱が滲み出してくる。自分は何をおそれているんだろう、とアンナ自問する――誰かと関わるのが怖い。踏みこむことが怖い。でも、それは……ヴィオラが指摘したように、傷つくことが怖いからだけではない。

 むしろ、自分が誰かを害することが怖い。

 誰かに条件付けされたように、自分が加害者であるという意識が頭のまんなかにいすわって、どうやっても出ていかない。どこからきたともしれない、しかし自分の過去と関係するであろうこの観念を、自分はきっと一生手放すことができないだろうとアンナは思う。一挙一動を監視し、たえまない自己批判にさらしていく自意識に、それでも今ばかりはあらがわないといけないと思って、両手の拳をぎゅっと握り込む。

 シナプスが発火し、神経回路が焼き切れるわずかな痛みが後頭部を走る。

「リリャに会いたいんです! でも……どうしたらいいのか、わからなくて」

 まとまりを得ないことをしゃべっていると自覚しつつも、アンナは自分をとめられなかった。

「リリャはまだ学校にいますか? それとも、落第しちゃったんですか? もう、ここには……二度と、戻ってこないんですか?」

「落ち着いてください。――何も心配することはありませんよ、アンナさん」

 自分に触れようとするマリヤ校長の手を払いのける。目尻に溜まった涙が頬を伝い落ちていくのがわかったが、それを拭う余裕もなかった。

「ゆっくり息を吸って、身体をリラックスさせて。こころのブレーキを外してはいけません。それはあなたを途轍もない混乱に陥れる悪魔ですよ、アンナさん」

「リリャがどうなっているのか教えてくれないと、わたし、梃子てこでもここから動きません。リリャが心配なんです!」

 はっと我に返ったようにマリヤ校長は目を瞠ると、口元を手で覆った。

「リリャは……」

その反応にアンナは不安をあおられたが、マリヤ校長の答えは意外なものだった。

「まだ、この学校に在籍しています。つまりあなたの思うような最悪の事態には至っていません。安心しましたか?」

「でも、ここにはいないんでしょう? 校長先生、わたし、リリャがどこにいるかわかると思います。連れて帰る自信があるわけではありません。でも、こんな天気だし――リリャにコートを届けに行くくらい、ゆるしてもらえませんか?」

「アンナさん」

 小さく溜め息を漏らすと、「無鉄砲に飛び出していかないだけ、いいのかしらね」とマリヤ校長はつぶやいた。

「止めたとして、あなたは聞くかしら?」

「……たぶん、聞かないと思います」

 マリヤ校長の顔から、それまでけっして崩れることのなかった笑みが潮が引くように消えていった。

「ああ……私ったら、気が付いてもいませんでした」

 アンナはおどろいた。ひとはこんなに複雑で、繊細な表情ができるものかと。マリヤ校長はひとみだけで優しくほほ笑んでいた。同時にその表情には硬く、容易には癒えない芯が残り、容赦なく吹きすさぶ悲しみの嵐をじっと耐え忍んでいた。

「あなたがまっすぐなこころの持ち主で、友達思いのすばらしい子だってこと。いいえ、わかっていたけれども、信じ切れていなくて、みえていないふりをしていた。そのことが恥ずかしい。ああ……それなのにどうして、あなたは……」

「校長先生?」

 マリヤ校長は「何でもないわ」と首を振ると、それきり黙り込んでしまった。

 突然自席に戻ったかと思うと、あわただしくどこかに電話をかけはじめる。小声で誰かと話す彼女を、アンナは不安な気持ちで見守った。

 長い通話を終え、そっと受話器を元の位置に戻しながら、マリヤ校長は深い溜め息をついた。徒労というよりは、自分を奮い立たせるために思わずこぼしてしまった吐息だった。顔を上げるとアンナのほうをみて、両目を細める。まぶしいものに触れたように。

「日が出ているうちなら、外出を許可しましょう」

 マリヤ校長はゆっくりアンナに近づいてきて、正面に立った。

「でも、危ないところには行かないと約束して。万が一リリャをみつけたら、すぐに連絡して。――きっと、寒い思いをしているだろうから」

 汗をかいてひんやりと冷たい手が、ぎゅっとアンナの手を握りしめた。

「わかりました。……ありがとうございます、校長先生」

「いいえ。……あなたを入学させることを決断したのは私です。他でもない私があなたの善性を信じなければ、いったい誰が信じてくれるものですか」

 謎めいたことばを、アンナは深く考えることも、意識することもなく。リリャを迎えに行くことで頭がいっぱいで、気にかける余裕さえなかった。


 ◇ ◇ ◇


 その後も、雪は小やみすることなく降り続けた。

 帽子からはみ出た耳が鋭く痛む。チーハ・ノーツ川を臨む鋼索鉄道の駅からみえる景色は夏から一変し、空との境界すらあいまいな見渡す限りの白銀が広がっていた。

 毛皮の帽子を深くかぶりなおしたアンナは、先月の面会日に、街で防寒具を買っておいてよかったとしみじみ思った。コートも滑りどめのついた靴もずっしり重いが、今はその重みさえ心強く感じる。首が外気に触れないようにマフラーもきつく結んで、道案内の看板を探して視線をさまよわせた。

 首尾よく目的地までの道を見つけだすと、雪に覆われた遊歩道を進んでいく。氾濫原一帯はルジャ共和国の保養地に指定されており、夏こそ観光客でにぎわうが、人里から離れていることもあって今は静寂が広がるばかりだ。人っ子ひとりみあたらないどころか、鳥のさえずりさえ届かない無音の世界――空も地上も、余すことなく銀色に塗りかえられていく世界。

 氾濫原に続く、複雑に曲がりくねる山道の階段を降りている途中で、アンナは何かを踏んだ。

 足を止める。拾い上げるつもりで五本の指でしっかりそれをつかんだ瞬間、予期せずアンナの全身に緊張が走った。まるで、大きな爆弾が、今にも目の前で着火されようとしているようだった。

――薬莢だ。そう確信したのだった。

 しかし握った拳を開いてみれば、何てことはない、赤錆びた鍵がひとつあるだけだった。

 外気に冷えた汗が、額を伝った。

 古びた鍵を握りながら、アンナは震える唇をすぼめて息を吐く。

 心臓が鎮まるのを待って、周囲を見まわした。鳥の囀り声ひとつ聞こえない木の下闇の中、かすかに何かがみてとれた。それまで目に映っていなかったものが。

 雪や樹葉でわかりづらくなってはいるものの、遊歩道を外れた斜面のあちこちに杭が打たれ、まだ新しいロープが張られている。

 ロープの奥に目を凝らせば識別札が、さらには深い縦穴もある。

 何かを掘り出した痕跡だった。

 今朝方聞いたヴィオラの声が頭をよぎる。

――こう思うことはない? 私たちは記憶をとり戻すこと……過去を語ることを期待されているんじゃないかって。死んでいった名もなき誰かの名誉や尊厳のために。

 フランギスとともに市街地に行くと、レストランや喫茶店ではよくラジオが流れていた。ラジオはしばしば行方不明者の番組を流した。

 リストに名前を連ねるひとの多くが、五十年前の紛争の犠牲者であることを知識としては知っている。深くは考えたことのなかったその意味を、浜に波が到来するようにアンナは理解させられる。グルダ紛争による犠牲者の遺体の多くは非合法に、そして秘密裏に埋められた。今なおそのリストに名前が挙がっているということは、消えてしまった誰かをさがすひとが、この世界にはまだとり残されている。

 何の変哲もない鍵が、手の中でずっしり重くなった。観光客の落とし物という可能性のほうがずっと高いのに、今のアンナには、その鍵が顔も知らない――消えてしまった誰かの家の鍵だと思えてならない。家に帰れることを信じたまま、死んでしまった誰かの。

 風が吹き、さざ波立つように葉擦れの音がひびき渡った。耳を澄ませばその風に乗って、黒土に深い場所から、誰かの声、遠い呼び声が聞こえてくる気がする。

――でも、自分のことは誰も待っていない。

 アンナに限らず、生還者の多くが孤児だ。この世界にもう身内がいない。ヴィオラの言うとおり、自分たちは「歴史」として存在しているだけなのかもしれない、とアンナは思う。

 それゆえに、自分にそのつもりがなくても、たとえ何もおぼえていなくとも、他者は生還者の子に対して過去から地続きの生きざまを要求するのかもしれない。謙虚に、勇猛に、一貫した道すじで振る舞うことを期待するのかもしれない。犠牲者の子どもは戦争を語り、戦争の悲惨さを訴え、もう二度とくり返してはいけないと周囲を啓蒙するよう強いられるのかもしれない。あるいは……その子が加害者の側だったら?

 自分はどんなストーリーを生きていかないといけないのか。アンナは怖くなった。自分は空っぽなのに、周囲はそのことに気がつかない。

 風はアンナのがらんどうの身体を通り抜け、冷たい感触を残していった。

 坂道をくだると開けた場所に出た。水面を反射した光が、射貫くような鋭さで視界を白く染める。

 雪は落ち着き、雲間からは太陽が覗いている。雪化粧のほどこされた河原は白々と輝いていた。かじかむ手をすり合わせて、アンナはまばらに灌木の生えた島々に目を走らせたが、人影は見当たらなかった。

 確証があるわけではないが、ここ以外探すあてもない。アンナはリリャを探し歩いた。夏より水量が多く、凍結するには早い時期で、川を直接歩くことが難しかった。代わりに一枚板を渡しただけの橋が島から島へと渡る唯一の手段だった。

 橋を渡ろうと足を踏み出した矢先に雪にすべって、ざぶんと冷たい水に腰まで浸かる。しかし寒さは感じず、ふしぎと意識が冴え渡っていくだけだ。体の奥に隠された炉で、火が燃えている。火は、アンナにがむしゃらになれとささやきかけてくる。

 一本目の橋を渡った先に、例の慰霊碑があった。ぽつねんとものさびしく佇むそれの周囲には、薄らと誰かの足跡が残っていた。

 アンナは確信を深め、足跡を追いかけていく。

 風下にある小さな慰霊碑の前にうずくまる少女をみつけたのは、渡った橋の数が両手の指では足らなくなる頃。遠目にその姿をみつけて、アンナはふとこんなことを思った。島が燃えている。

 空からの光を浴びて、雪をかぶった川の小島は銀色に燃えていた。

 いつか、アンナはリリャのことを無人島に流された子のようだと思った。そして今の光景は、本で読んだルジャ共和国領海にある、五千年にわたり燃え続ける小島さえ想起させた。地中から漏れた天然ガスが自然発火したのか、人為的に火が投げ込まれたのかは諸説あるそうだが、確かなのは今こうしてアンナが呼吸している間も、その島が燃え続けていること。そしてリリャのいるも、長い間、冷たい炎に巻かれ続けていたのだろう。

 あるいは、誰もがそうなのかもしれない、とアンナは思った。

 脳という器官がおりなす自意識という離れ小島に流されて、その中でもがいているとしたら。

「――リリャ」

 砂利の上にうずくまるリリャのもとまで、アンナは駆け寄った。

「リリャ、大丈夫?」

 隣で膝をつくと薄い肩を抱く。リリャの体は氷のように冷たかった。

 深くうなだれて表情こそわからないものの、かすかに嗚咽が聞こえる。アンナは背負っていたバックパックからブランケットをとりだし、急いでその体をかぶせた。失われた体温をとり戻そうと、上から背中をさする。

 背中をさすりながら、ふと雪の交じった砂利をきつくつかむリリャの両手の爪から、真っ赤な血がにじんでいるのが目に留まる。

 リリャは魂ごとそこに結びつけられたように砂利にすがりつきながら、そっと頤を動かした。

 目の前に建つ慰霊碑をみたのかと思ったが、そのひとみには慰霊碑ではなく、青空が映り込んでいた。雲の切れ目からわずかに覗く青空が。

「……私、自分の死体をさがしに来たの」

 小さな声でささやくと、リリャは青空を閉じ込めるように目を閉じた。

「……どうして?」

 よろけながら立ち上がろうとするリリャをあわてて支える。ぐったりとアンナにもたれかかりながらリリャは浅く呼吸し、もつれる両足を動かして歩き出そうとする。

「さがさなきゃ」

 そんな彼女を前に、アンナはとっさに叱りつけたいような、抱きしめてやりたいような相反する気持ちを味わった。

 しかし実際に口を突いたのは、もっと弱々しいことばだった。

「そのために、ここに来たの……?」

 うん、とリリャは子どものようにうなずいた。

 フラフラとした足どりで歩きはじめた彼女の後を、アンナは黙って追いかけた。

 川の橋を渡る。

 長い橋だった。頼りなく、継ぎ目の板から錆びた釘が浮き上がった橋だった。橋の真下をどうどうと川が流れていく。視線を前方に投げかければ、リリャは立ち止まり、たえまなく流れる川を眺めていた。

 今にも、そのひとみから彼女のたましいが液体となってこぼれ落ちてしまいそうだと思った。肉体といううつわだけが残って、たましいは川の水に還り、天国に続くという海まで流れていくんじゃないかと――そんな妄想。

「リリャ」

 アンナは彼女の腕をつかんで、歩こう、とうながした。

 すかさず、どこへ? とこころの中で疑問がわくが、聞こえないふりをする。リリャの腕をしっかりつかんだまま、川に落ちないよう、ゆっくり橋を歩いた。

「……私ね、名簿を作ったんだ」

 ぽつり、とリリャがしゃべる。

「名簿?」

「昔の話」

 リリャはそっけなく、抑揚のない声で話した。

「仲のいい軍人さん……連邦から派遣されてる軍人さんがいて。私の家は花屋だったんだけど、よくお花を買ってくれたの。……ある日、お願いごとをされて。同じ地区に暮らすルジャ人の名簿を作ってほしいって。私、何も考えてなかった。おとなのひとに頼られたのがうれしくて、どんな結果になるか、考えもしなかったんだ」

 川のせせらぎに混じり、リリャの声は粉雪のように儚く消えていく。アンナは前を向いたまま、反応を示せずにいる。黙って、リリャの手を握る手に力を込める。今のことばは、自分を含めて――誰にも聞かれちゃいけない。そんな気がした。

 代わりに、別のことを口にする。

「リリャは、自分の死体をさがしてどうしたいの?」

 青紫色になった唇を震わせ、リリャは声をふりしぼった。

「昔の自分とお別れして……私じゃない誰かに、生まれ変わりたい。ううん……そもそも最初から、生まれ直したくなんかなかった」

 それはまぎれもなくリリャの本音だった。

 同時に、同じことをヴィオラが言っていたことを、アンナは思い出さずにはいられない。そしてこうも思う。命は尊いと、生まれること、生きることはすばらしいと、あれほどひとびとは語っているのに、それならどうしてこの世界はこんなにも居心地が悪いのかと……。

「死んだままでよかった、生き直したくなんかなかった。私、もう十回目なの。生きのびられないなら、終わりにしてもいいよね? でも、先生たちは踏ん張れって言う。変わりなさい、そして生きのびなさいって。どうして? 私の代わりなんて、いっぱいいるのに……」

「……わたしは……リリャがいなくなったら、寂しいわ」

 やっとの思いで、そして本心にぴったり合うことばだったはずなのに、一度声にするとひどく空虚にひびく。ほんとうにリリャがいなくなったときに備えて――後悔をやわらげるため、自己満足のため、自己保身のためにそう言っているのではないかという疑念に、アンナは襲われる。

「うそだよ」

 アンナの不安を見透かしたように、リリャはささやいた。

「うそじゃなかったとしても、アンナちゃんはすぐに私のことなんて忘れちゃうよ。それが生きのびるってことなら……きっとそう。いつか誰かと私の話をして思い出すこともあるかもしれない。でも、誰かの記憶の中にいる私は、そのひとの目を通してみた私であって、そのひとの一部で、まぎれもない私じゃない……」

 アンナを置いて、リリャはひとり橋を渡り終えた。

 岸までふらふらと歩いて行き、膝をついて川底を覗き込む。そしておもむろに両腕を水に沈めた。

 アンナを振り返ったとき、彼女の手にはたくさんの白い小石が載っていた。

「――ここにあった」

「え?」

「ここにあるの、私たちの骨が」

 濡れた小石の山は、西日に照らされて赤く染まっている。

 そんなはずはないのに、まるで血がしたたっているようだとアンナは思う。

 風が吹いて、リリャの手から小石が音を立ててこぼれ落ちていく。ふたたび川の中に転がり落ち、水流に飲みこまれるとどこかに流されていく小石の群れ。もう、最初から水の中にあった小石と見わけがつかない。

 川岸を挟んで、雑木林から一羽の鷹が飛び上がった。

 鷹が消えた方角にある山並みの頂が、残照にほの赤く染まっていた。風は低く唸りながら山間を駆け抜け、どこか遠い世界に去っていく。


――あの風は天国でも吹いているのだろうかと、アンナは思いを馳せる。


 ◇ ◇ ◇


 歴史記憶修復法は、紛争下で非合法に弾圧され、犠牲となった人々の名誉回復を目的として施行された。


 ◇ ◇ ◇


 川岸に建てられた小屋から非常用の衛星電話をつないで学校に連絡をとり、アンナとリリャは無事に保護された。

 長時間寒い川辺にいたせいもあり、帰校したとたんアンナは体調を崩してしまった。流行り風邪も拾って医務室に隔離され、ようやく日常生活に戻れたのはその日から一週間後のことだった。

 早朝。寄宿舎から校舎に続く外廊下には粉雪がちらつき、そこからみえる中庭にもすっかり雪が降り積もっている。外は凍えそうなくらい寒いが、一歩建物に足を踏み入れると、今度は二十四時間稼働している集中暖房でむしろ暑いくらいで、こうも寒暖差をくりかえしているとあっという間に自律神経がおかしくなりそうだとアンナは嘆息をこぼす。

 アンナは一週間分の遅れをとり戻すべく、自主勉強するつもりで教室にむかっているところだった。シフェンタ女子学校は法的には教育機関でないものの、在籍する少女の多くが進学を希望することから、習熟度別の学習カリキュラムが展開されているのだ。

 誰もいないと思っていた教室には、しかし先客がいて――。

「――リリャ」

 教室に並べられた長椅子の一番後ろの席について、リリャは教科書を開くでもなく、黙って粘土のボールをいじくりまわしていた。

「なんだか久しぶりね。体調は大丈夫?」

 いそいそと近寄るアンナの肩越しに黒板のほうをみて、リリャは答えた。

「ええと……大丈夫。風邪は引いちゃったけど。クラスにも、今日から出るつもり」

「それなら、よかったわ」

 アンナは一人分の席を空けて、リリャの隣に座った。黙って持参した勉強道具を広げる。

 横目で様子をうかがうと、リリャは黙ってボールを握り潰し、粘土をあちこちに飛び散らせている。アンナは話しかけるのをやめて、教科書に目を通すことにした。

 しばらく、ノートに化学式を書き写すペンの音だけがひびいた。

「私、わかったの」

――リリャが沈黙をやぶった。

 アンナはペンを置き、ガランとした教室の前方に視線を投げた。目を合わせないほうが、リリャは落ち着いて話せる。

「私、怒ってたんだ。アンナちゃんと河原で話しながら、自分がすごく怒ってるって、気が付いたんだ。こんなに怒ってるのに、死んで誰かの思い出の中だけで語られていくのは、絶対嫌だって。他でもない自分の気持ちを……誰かに代弁されたくないって。――できることなら、自分のことばでしゃべってみたいって」

 リリャはアンナの反応を待たずに話し続けた。

「しどろもどろに、みっともなくしゃべったりすると、みんな子どもっぽいとか、かわいいとか言って私をバカにしたり、下に見たりするけど。でも、それでも……何か言わないことには、言ってもないことがほんとうになっちゃうのが、怖い。……私、本当はもっと暴れ回りたいんだ。色んなものをめちゃくちゃにしたい。もちろん、そんなことはできないけど……これが怒ってるってことだと思うの。私、自分の怒りをどうやって表現したらいいのか、よくわかってなかった。今でも、ヴィオラちゃんみたいに、自信をもってことばにできるわけじゃないけど、でも……」

 口ごもり、間を置いてリリャは言った。

「私、台本をどうしたらいいのか、やっと思いついた気がするの」

 うん、とアンナはちいさくうなずいた。

「わたし、リリャの脚本を楽しみにしているわ」

 窓を覆うカーテンの隙間から朝日が差しはじめる。雪がやんで太陽が出てきたようだ。徐々に明るくなりはじめた教室の中で、リリャは「あんまり期待しないでね」とはにかんだ。




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