第2話

   二


 シフェンタ女子学校に入学して早二ヶ月、季節も春から移ろいつつあった。校舎を囲む白樺の森は緑葉の鮮やかな輝きが満たされ、グルダ自治州にも短い夏が訪れようとしている――一年でもっとも美しく、ガラス細工のように儚い季節が。


 大通りに面したカフェテラスは週末を謳歌する客で満杯だ。白いパラソルの下、向かいあって座るアンナの髪をいたずらな小風が揺らして去っていく。

 それまで店の片隅に置かれたラジオから流れていた流行の曲が終わると、数秒、独特のノイズが走る。予感をおぼえたアンナは神経をとがらせてその音に耳を澄ました。

そして次の番組が始まった。電波が悪いのか、アナウンサーの声は途絶をくりかえしながら、淡々と誰かの名前を連ねていく。はじめにルジャ語、次にフレジア語の発音、そしてこの国で使われるさまざまな言語ことばで。

 行方不明者の放送は特別珍しいものではなく、現に大抵の客は気にも留めずおしゃべりを続けている。それでも足を止めて耳を傾ける通行人がいて、黙って祈りの文句を唱える客の老人がいる。アンナもまた、条件反射的にその声に集中せずにいられない。――いつか、どこかで自分の名前が呼ばれるのではないかという予感があったから。

 目の前でコトリと小さな音が鳴るのに、アンナはふと我に返る。

 視線を前方に向ければ、フランギスが飲み終わったコーヒーカップをひっくり返し、底に溜まった粉をソーサーに出しているところだった。

「アンナ。何にみえますか?」

 差し出されたカップを覗き込めば、底に残ったコーヒー粉がぬかるみ道のように小さく波打っていた。

たか……でしょうか」

「あなたがそう見るなら、きっとこれは鷹なんでしょうね」

「コーヒー占いをされたいのかと」

「だって、私は占い師じゃないもの」

 フランギスのすげない答えに、アンナはくすくす笑いを漏らした。

「先生は弁護士ですし、占いは専門外でしたか」

 フランギスもまた、ほほ笑んだ。

 入学した日に抱いた不吉な予感はあっけなく外れ、今日は月に一度の代理人との面会日だ。天涯孤独のシフェンタ女子学校の生徒たちにとって、法定代理人は必要不可欠な存在だ――さまざま発生する法的手続きや財産管理を担っているからである。

 アンナとフランギスがはじめて出会ったのは、アンナがめざめた翌日、首都の病院でのことだった。めざめてから一週間は魂と肉体の接着がまだ十分でない。個室のベッドで安静にするアンナがはじめて出会った外部の人間が、フランギスだった。

――私はフランギス。これからあなたの代理人を務める者です。見ての通り年寄りだけど、どうか心配しないで。あなたのような子を、これまで何人も送り出してきましたから。

 まっすぐ背筋を伸ばしたその老人は、とてもスマートにみえた。一方で彼女が握る白杖にとまどいを覚えたのも事実。アンナは差し出された彼女の手をおずおずと握り返した。

ひんやりと冷たい手が、一瞬だけ小刻みに震えたことをおぼえている。

――私もあなたと同じ、グルダ出身で。

――それで若い頃、テロで視力を失ったの。

 ガラスでできたフランギスの義眼と目が合うと、今でも時おり、当時の記憶がよみがえってくることがある。波が浜辺にクラゲの死骸や錆びたライターをそっと置いていくように、あのときのフランギスの手はアンナの心に何かを残していった。フランギスから手渡されたお金でカフェの会計を済ませながら、今もまた、アンナはあの日のことを無意識のうちになぞっていた。どうしてか身の置きどころがないと感じる、彼女との出会い。

 席に戻ると、フランギスがいなくなっていた。周囲を見渡してすぐ、テラスから大通りの空をみあげる彼女を発見する。

 アンナは声がけをためらい、あと数歩というところで足を止めた。

 どうしてか、その背に拒まれていると感じたのだった。

「アンナ。この通りからむかって東のほうに、塔はみえるかしら?」

 しかし、フランギスにはアンナが戻ってきたことなどお見通しのようだった。ばつの悪い気持ちを持て余しながら、彼女の隣に並んぶ。

「……塔、ですか」

 そして同じように空をみあげる。

「青い塔よ。そして高い塔。昔は、このあたりからみえたはずなんだけど……」

「ここからはそれらしきものは何も……」

「そう、無くなってしまったのね。それもいたしかたないこと」

「もっと見晴らしのいいところに行けば、見つかるかもしれません」

 アンナの提案に、フランギスはゆっくり首を振った。

「お前のような若者を老人の感傷に付き合わせるのは気が引けます。――ほら、本屋に行きたがっていたでしょう。汽車まで時間もあるし、近くの店を回りましょうか」

「ええと、それはすごく嬉しいですけど……。学校の図書室、期待していたのに、病院の図書室とあまり変わりばえがしないから。その、行けるなら行きたいです」

 生前の影響か、アンナは読書が好きだった。それも体系的に知識を吸収できるような、図鑑や自然科学などの本を好んだ。一方で物語は苦手だ。ことばやセリフのひとつひとつに込められた感情に頭がクラクラするし、大抵の物語において、アンナは自分のような不安定な存在には居場所がないと感じてしまう。

 それに、学校の外で本を探したい理由は他にもある。

 フランギスに付き合ってもらって、アンナは大通りの本屋をいくつか回った。帰途につく頃には右手に提げた紙袋はずっしり本で重くなっていた。

「先月より鉄道の時間が早いですが、今日は何か予定でもあるのかしら?」

 さっそく今夜から、こっそりベッドの中で読んでいこう――先生たちにみつからないように。どこか後ろめたい決意をひそかに固めてると、フランギスのことばによって急に現実に引き戻される。

「出し物の準備があるんです。ええと……」

「ああ、わかりますよ。女子学校を卒業するときの恒例行事ですね? いさかか気が早いような気もしますが」

「ええと、そうなんですけど――」

 突然、真横を子どもがすり抜けた。あやうくぶつかりそうになり、アンナはあわてて足をとめた。アンナの腕を支えに歩くフランギスも同じように立ち止まる。

 風のように去るかと思われた子どもは、しかしアンナの目の前で小石に蹴躓いてしまう。あとを追いかけてきた父親らしき男性が現れ、地面に膝をつく。

 しかし子どもは父親の呼びかけにも反応せず、魂を奪われたように虚空をみつめるばかりだ。石畳に両手足をついたまま呆然と……。

 まるく見開かれて青空が映り込んだ瞳の先に視線を投げかければ、赤い風船がひとつ。

 ヘリウムガスを注入した風船は左右にふらふらと揺れながら、あっという間に周囲の建物を追い越し、雲ひとつない空までのぼっていく。

――次の瞬間、子どもの泣き声がひびいた。

「あらあら、元気な声。子どもの泣き声を聞くと、枯れたこころが潤うよう」

 父親の腕の中で激しく地団駄を踏みながら、空にむかって必死に手をのばす子ども。アンナはほとんど無意識のうちに、そのトマトのように真っ赤に染まったちいさな顔を凝視していた。何に忖度することなく、ありのままの気持ちを誰かが受けとめてくれることを無意識のうちに知って、全身全霊で臆することなく思いを表現する子どもの顔を。

 気がつけば、アンナはきつく下唇を噛みしめていた。

 ルジャ語には、泣かない赤ん坊はミルクをもらえないという諺がある。望むものを得るには自己主張が必要だという教訓だ。では――声を奪われた赤ん坊はどうやってミルクをもらうのだろうと、その場にそぐわない考えがふと頭をよぎり、まぶたの裏がじんわり熱くなった。四肢を動かせない子は? 泣くたびに周囲の誰かがぶってくるような環境だったら? そもそも空腹を感じる神経回路のない子は? 自己主張できること自体が特権であることを、多くのひとが見過ごしている。看過している……。

 どうして無関係な自分が苛立ちを覚えているのか、アンナ自身にもよくわからない。子どもの泣き声は居心地悪く、それ以上に焦りをかき立てられる。でも、そうした感情も子どもから離れてしまうと、煙のように消えてしまった。

 気をとりなおして、アンナはフランギスとの会話を再開させた。

「ええと……出し物は、《灰かぶり姫》をやると決めたんですけど……まだ、台本ができあがってないんです。夕方から、リリャとヴィオラと集まって、その相談を」

 特別な心理治療施設であるシフェンタ女子学校は、継続して在籍できる期間が一年間と決まっているが、門出のタイミングで卒業生が出し物をおこなう伝統があった。基本的には何をやってもいいが、話を聞く限りあまり大がかりなものではなく、ハンドベルによる短い演奏や人形劇、古い詩編の朗読など、健全だが退屈な内容が多いようだった。

 シフェンタ女子学校はふつうの学校のように新入生を出迎える時期が定まっていない。みんなバラバラの時期に入学するので、当然卒業時期も一致しない。毎月のように誰かが卒業するので、見送りのための大々的なセレモニーもいちいち準備できないというわけで、代わりに卒業生側が企画するのが伝統になったようだ。すでにアンナも二度ほど卒業生を見送っている。

 公演で称される出し物は題材こそ自由だが、心理治療プログラムの一環として、ひとつのルールが設けられている――同じタイミングで卒業する同級生とグループを組むのだ。

「灰かぶり姫とは、また懐かしいお題目だこと。うまくやれそうですか?」

「さあ、どうでしょう」

「心配ごとが?」

フランギスのことばに、アンナはうつむいた。アンナの場合、グループの仲間というのがリリャとヴィオラなのであった。

 リリャはアンナの半月前に、そしてヴィオラは半年前に女子学校に入学した。リリャはともかく、ヴィオラは事故で十ヶ月間入院しておりつい最近復学したばかりだった。

 そう、ヴィオラだ。フランギスのゆったりとした歩調に合わせながら、アンナは自分を悩ませるに至った、数日前の事件についてぽつぽつと語りはじめる。

――ヴィオラは学校で起きた不幸な事故で脊髄を損傷し、今は車椅子で日常生活を送っているが、あいにく校舎や寄宿舎は設備が古くエレベーターがない。やむを得ず階段を使う場合は、備え付けの電動階段昇降機を利用するのだが、ここで問題となるのがグルダにおいて不安定な電力供給状況だ。先日もたまたま移動教室のタイミングで停電が起き、ヴィオラが上階に行けなくなるという事件があった。

「しかたないね、イガ先生を呼んでこようか?」

 二階の教室に行こうとするアンナの目に飛び込んできたのは、うんともすんとも言わない昇降機を前にしたヴィオラと、そんな彼女を心配するクラスメイトの後ろ姿だった。

 小さな窓からぼやけた光がにじむくらいで、廊下が薄暗かったことをおぼえている。場の陰気な雰囲気がそう感じさせるのか、はじめ、アンナはヴィオラが突然の事態に気を落としているのかと思った。でも、それは勘違いだった。クラスメイトの提案にもろくすっぽ返事せず、昇降機の起動スイッチをカチカチと押し続けた彼女は、ついには「くそったれ!」と罵声をひびかせたのだから。

「なんで、停電ごときで私が移動を制限されないといけないのよ。目の前に階段があるのに、わざわざ誰かの親切にすがって先生を呼んでもらうって? それで、運んでもらわないといけないって? それでいちいち感謝しろって? 私の自尊心はズタズタよ、こんなバカげたことってないわ!」

 よどみなくしゃべりはじめたヴィオラに視線を投げかけつつも、他の生徒たちは黙って横を通り過ぎるばかりだ。その後ろ姿を憎らしげにねめつけると、ヴィオラは固まったクラスメイトを振り返り、こう言い放った。

「しかたないって何よ、私が不自由なのはしかたないってこと?」

「そういうつもりじゃ……」

 クラスメイトの少女は唇を噛みしめると、ごめんね、とちいさな声を絞り出して、その場から走り去ってしまった。

 そのとき、階段の前にひとり取り残されたヴィオラを批難する者がいた。

「でも、ヴィオラちゃんが歩けないのは事実じゃない」

――リリャだった。

 いつのまにかアンナの背後にいたリリャに指摘されても、ヴィオラは臆せず、むしろ苛立ちを加速させて、「そんなこと、アンタに言われなくたって十分わかってるわよ!」と声を張り上げた。

「ワガママ言っても何も変わらないじゃない。それに、親切にしてもらったらお礼を言わないといけないのがルールじゃないの?」

「ルール、ルール。だからアンタは宇宙人なのよ、リリャ。アンタと私じゃ、しゃべってる言語が違いすぎる」

ヴィオラはキュッと音を立てて車輪の向きを変えると、階段を離れるどころか逆に突き進んで行く。

「何よ、アンタらみんな私を腫れ物扱いして。うるさいうるさいうるさい、バカどもの目に物をみせてやるわ!」

 階段の手すりをつかむと車椅子から飛び降り、ヴィオラはステップの上に軟着陸した。そしてあろうことか腕の力だけで階段をのぼりはじめたのだった。

 静観を決め込もうとしていたアンナも思わず身を乗り出した。

「階段から落ちたら、今度は息が止まっちゃうかも」

 とっさに口を突いた内容に、アンナ自身がうろたえてしまった。

「ええと……脊髄って呼吸筋とかもコントロールしてるから。またダメージが行けば、麻痺がもっとひどくなるかも」

「なによ、そんなこと、アンタに言われなくたってわかってるわよ」

 案の定とげとげしく言い返されて、アンナはじっと考え込む。放置された車椅子が目につくとすばやくそれを畳み、まだ近くにいたリリャに声をかけた。

 リリャは深くうなだれて、自分の靴先をみつめていた。

「私、ヴィオラちゃんを怒らせるようなこと言っちゃったかな――いつもそうなの、私、無神経なことを言っちゃうの」

「大したこと言ってないわ。いいから、これ持ってきてくれる?」

 リリャに車椅子を押しつけると、アンナは駆け足でヴィオラの後を追いかけた。とは言え数歩でその距離も詰まり、今度は背後にぴったりとくっついて進んでいく。これなら万が一ヴィオラが転がり落ちても、クッション代わりくらいにはなると考えたのだ。

 当のヴィオラは振り返りこそしなかったものの、アンナの行動には気が付いていたはずだ。しかし何も言わなかった。腕の力をふりしぼり、何度も左右に傾いてバランスを崩しかけながら、懸命に上へ上へ這いずるだけ――アンナは彼女が泣いているのかと邪推したが、想像にすぎなかった。

 腰から下の感覚がないとバランスがとりづらくなるらしく、ヴィオラが使ったあとの洗面台はよく水浸しになっていた。そして誰よりもそのことを自覚しているはずなのに、ヴィオラは無謀な行動をやめようとしない。心身の緊張を解いて、誰かに甘えたり身をゆだねたりするほうがずっと楽だろうに――自分ができないことを、アンナはヴィオラに対して思う。

 授業の開始を告げる鐘が鳴る頃、階段にはアンナとヴィオラ、そして休み休み重い車椅子を運ぶリリャが残されているだけだった。

――その後、様子をみにきた教師にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。放課後の教室でお説教を喰らっている間、ヴィオラは車椅子の上でふんぞり返るだけ、リリャも泣き出してしまって、まともな弁解ができるのはアンナひとりだった。

「まったく、このメンバーで卒業公演なんて、先が思いやられるわ」

「えっ?」

 お説教から解放されて遅い夕食をとるために食堂にむかう道すがら、ヴィオラが発したことばにアンナは素っ頓狂な声を上げた。

「アンタ、知らされてないの?」

 そういえば、初日にマリヤ校長からそんな話を聞かされた気がする――と遠い記憶を呼び覚まし、アンナはようやく合点がいったのだった。


「別にほうっておいてもいいんですけど……。このままだと大失敗しそうで、それなら時間をかけて準備したほうがいいかなと」

 失敗して卒業できないなんてことがあったら嫌ですし、とすなおに不安を吐露するアンナに対し、フランギスはくすりと笑った。

「卒業できるかどうかには関係ありませんよ。それに、良いんです、失敗しても。傍から見てどんなに滑稽でも、かまいやしないんですよ」

 不意に、子どもの笑い声がアンナの鼓膜を打った。とっさに振り返った彼女の目に、人波のむこうで笑い合う親子の姿が目に映る。先ほど風船を手放して泣いていた子がすっかり機嫌を直して、父親の腕に抱き上げられて嬉しそうに笑っていた。

 太陽の光が、雑踏をなすひとびとの頭上を移ろいながら照らしていく。光の波がアンナのもとまで押し寄せてくる。その瞬間、アンナは足もとから地面が崩れて深い穴に吸い込まれていく夢をみる。胸の奥で何かが爆発するという予感ばかりが続き、その感覚の中に永遠に閉じ込められてしまう。

 自分の過去という途方もない空白を前に立ちすくんでいる。


 アンナが約束の場所にたどりつく頃には日も暮れかけていた。図書室の塗装の剥げかけたドアを押しひらくと、窓から射す西日が網膜を刺激して、反射的に目を閉じる。

 まぶたをゆっくり上げて、アンナは室内を見まわした。宙を舞い散る埃が琥珀のように輝いている。みっしりと本の詰まった棚の間を進んでいくと、閲覧席の並ぶエリアに出る。

 その奥、丸テーブルの端と端に腰かけて、リリャとヴィオラがアンナを待っていた。手あそびをしていたリリャが顔を上げて、ぎこちなくはにかんでくれた。

 その正面でヴィオラは険しい顔つきのまま原稿の束らしきものを読んでいたが、溜め息とともにそれをテーブルに放った。

「ごめんなさい、鉄道が遅れてしまって」

 空いた椅子にカバンを置き、椅子の下にこっそり本の入った紙袋を隠すと、アンナはふたりの間に腰かけた。

「別に。代理人とのデートだったんでしょ?」

「デートというか……。ただランチして、買い物しただけよ」

 アンナの左隣で、「いいなあ」とリリャがつぶやく。

「私の代理人は会いにも来ないんだ。顔も知らない人に自分のお金を管理されてるって、変な感じ」

 先ほどヴィオラが投げた原稿を手にとり、「これがリリャの台本?」と聞くと、リリャが何か言う前にずいとヴィオラが身を乗り出してきた。

「だいたい、灰かぶり姫って題材を使うあたりが時代遅れだと思うんだけど。貧乏でいじめられている女が権力とカネをもってる男にみそめられて、それでハッピーエンドって、「ふうん、それで?」って感じだし。男に見捨てられたら終わりってことじゃない」

 リリャは貧乏ゆすりをしながら「そうかなあ」と表情を曇らせる。

「私はそういうおとぎばなしが好き。お姫さまが大好きなの。きれいなドレスも立派なお城もうっとりするし、灰かぶり姫はすてきな男性と恋をして幸せになれるでしょう? これってまちがった考えなのかな?」

「そのボサボサ頭で言われてもね」

 寝癖を直さないままむりやり引っ詰めた頭を指してヴィオラが言うのに「それは関係ないでしょ」とアンナが溜め息をつく。

「ヴィオラに何か案があるの? わたしは、リリャが台本を書くんだから好きにしたらいいと思う」

「主体性に欠ける発言ね。アンタの本音はどうなの? 子どもっぽいって思わないわけ?」

「わたし? そういうふうに感じたことはないけど……」

 手汗でよれた原稿の皺を指先で撫でつけながら、アンナは答えた。

「灰かぶり姫自体読んだことなかったし。題材にしたいって言われて、はじめて読んだけど……特に感想はないわ」

「アンタ、感受性が死んでる!」

「どうかしら。わたし、あんまり小説とか読むのが得意じゃなくて。自分みたいな子には居場所がないって疎外感を抱くというか……それに、おとぎばなしって大抵が不平等の象徴みたい。でもこれは昔の話だし、今の価値観を持ち込んで単純には批判できないのもわかるし……」

 突然、横から原稿用紙をひったくられた。おどろいて顔を向ければリリャがそれまで噛んでいた万年筆のキャップを外して、台本の表紙に大きくバツ印を引いているのが目に入る。

「ごめんなさい、リリャを責めるつもりはなくて……」

「べつに……いいの。いいから!」

 リリャは大きくかぶりを振って、原稿用紙をぐしゃぐしゃに潰してしまった。その目尻に溜まった涙に、アンナは頭が真っ白になってしまう。

 公演のメンバーを知らされたあと、リリャはまっさきに台本を書きたいと立候補した。もともと小説を書いたり読んだりすることが好きだという話だ。そういった教養のないヴィオラやアンナにとっても、ありがたい申し出だったはずだ。ひとまず簡単そうな朗読劇にするとだけ三人で決め、台本はリリャに一任した。その彼女が題材にしたいと先日言ってきたのが《灰かぶり姫》だった。台本の初稿ができあがったので、その読み合わせをしようと今日は集まったのだが――。

「その……物語をどう解釈するのは、やっぱり受け手の価値観とか、知識によるところが大きいと思うの。リリャがどう感じても、それはまちがってないと思うわ」

「そういうふうに言われると、なんだか、幼いって言われてるみたい。私、ふたりに比べてバカなのかな?」

 とっさに否定しようとしたアンナをさえぎって、ヴィオラが口を挟んできた。

「そういうめんどくさいことを言うから嫌われるのよ、宇宙人さん」

「思ったことを正直に口に出すのって、悪いことなの?」

「アンタってすごく無邪気ね。そりゃ悪いことじゃないけど、素直なのはかならずしも良いことでもないの。無意識なのかしらないけど、そうやって相手がフォローしないといけない状況に追い込むの、やめたら?」

「ヴィオラだって好き勝手言って横暴にふるまうくせに、なんで私ばっか責められるの? ずるいよ」

「私はアンタみたいにめんどくさくない」

「……どっちもどっちよ」

 寸でのところで溜め息をこらえたアンナを、ヴィオラがにらみつけた。

「アンタはアンタで高みの見物ってわけ、そりゃ傷つくこともなくて楽でいいわ。何事も傍観者でいるのが一番ずるいってわかってる?」

「そういうつもりじゃないけど、」

 鼻白んだアンナが言い返そうとした矢先、リリャが胸の中心を押さえて呻いた。

「大丈夫?」

 リリャはしゃべるのもつらいようで、黙ってかぶりを振るばかりだ。車椅子のブレーキを外したヴィオラがアンナの後ろを迂回して、リリャの持ってきた鞄をあさる。

「ほら、薬。どうせいつもの発作でしょ?」

 小瓶から出した青いカプセルを手渡されると、リリャは水もなしにごくんごくんとそれを飲みこんだ。

 ヴィオラの慣れた対応に感心しつつ、アンナもやっと口を開いた。

「まだ時間はあるし、焦る必要はないんじゃないかしら。その……ゆっくり考えればいいと思う、必要だったらわたしも考えるから」

 リリャは話を聞いているのか聞いていないのか、両目に溜まった涙をこぼすまいと必死に天井をにらんでいた。

「本気で調子が悪くなりそうなら、早めに医務室に行くのよ」

 その肩を軽く小突いて、ヴィオラはこれでお開きとばかりに図書室を後にした。

 リリャとふたり図書室に残され、アンナは気まずい沈黙を持て余すはめになった。

「誰か呼んできたほうがいい? 先生とか……」

 リリャは黙って首を左右に振った。

 手持ち無沙汰になり、アンナはテーブルに散らばった台本だったものを静かに集めた。一枚一枚、丁寧に開いて皺を伸ばしていると、

「それ、捨てちゃうやつだから」

「せっかく書いたのに」

「いいの。だって、ぜんぶ書き直せばいいんでしょ。私、幼稚だって思われたくないの。でもわかってもるの、私がみんなよりずっと幼くてバカだってこと。でも、お医者さんも言ってたけど、生まれつきの脳の特性って変えられないの。だから……私、どうやったらその溝が埋められるのかわからないの」

「そんなことを考えていたの?」

 たしかに、リリャには年の割に精神年齢が幼いと感じられる言動や行動が多い。リリャのような子のことを、自閉「的」な子と呼ぶのだといつかの治療セッションで聞かされていたこそ、アンナは彼女がきちんと自己分析できていることにすくなからずおどろいてしまった。

「誰も私が悩んでることにまじめにとりあってくれないし、アンタはピュアなままが一番なんてバカにしてばかり。自分が恵まれた立場にいることに気付いていなくて、共感できる相手以外の他人の痛みに無頓着だから、そんなこと言えるんだよ」

 うまい返しが思いつかず、アンナは黙り込んでしまった。手もとの紙面が目に入る――灰かぶり姫、とリリャの角張った筆記体で書かれた単語を目線でなぞる。

 開け放たれた窓から爽やかな風が吹き込んできた。ライラックだろうか、かすかに花の香りもする。夕日に暖められた室内は汗ばむほどだったが、胃の腑にはひやりとした氷の塊が居座っているようだ。そして思う。まるで、リリャはひとりだけ無人島に暮らしているようだと。

 漂着してしまった場所で、生きのびるために何をしたらいいかわからず、やみくもに手足を振り回している。

 一瞬そんな妄想にとりつかれるが、すぐに泡となって消えてしまう程度のものだった。


 ◇ ◇ ◇


「――チーハ・ノーツ川は、この地方に残された最後の原生河川です」

 川岸に踊り出た風がうなじを撫でたかと思うと、背後の森でざあっと葉擦れの音がひびいた。風は水面にさざ波を立て、さらに遠くへと。うららかな日射しは川の流れにダイヤモンドの輝きを添え、せせらぎは鳥のさえずりのように透き通っていた。

 アンナの視界には広大な湿地が広がっている。砂利を敷き詰めたいくつもの小島の間を縫い、何又にも分かれて蛇行していく川。島整列させられた少女たちの群れの端で、アンナは前方からひびく教師のことばに耳を傾けていた。

 夏の盛り――アンナを含む最高学年の生徒たちは、課外授業に出かけていた。行き先はシフェンタ女子学校から一時間ほど、鋼索鉄道の最寄り駅からハイキングした先にある著名な保養地。山岳地帯にまたがるグルダ自治州が擁する多くの河川のひとつ、そして唯一の原生河川であるチーハ・ノーツ川がなす氾濫原だ。

「つまり、長い川のどこにもダムが建設されておらず、人の手で流れを変えられることなく、手つかずの自然として残っている川ということです。それゆえに独特の自然環境を有し、この川でしかみられない生態系も存在します。ごらんなさい、あの歩道橋は三百年も昔にかけられたものですよ」

 教師が指差した方角には、石橋がゆるやかなアーチをえがいて川を横断している。

 退屈な講釈が終わると、昼食を兼ねた自由時間が待っていた。気温の高い日で、アンナを含めた誰もが慣れない暑さに辟易していた。多くの生徒がはだしになり、受けとったランチボックスを手にすると焼けるように熱い砂利を避け、浅瀬へと分け入って行った。

 気が付けば教師もいなくなり、生徒たちの集まっていた小島からは誰もいなくなっていた。アンナだけがランチボックスを抱えたまま、先ほど教えてもらった橋をみつめていた。橋の上を行き交うひとびとの幻がみえるのではないかと、目を凝らしていたのだ。三百年――グルダが自治州でも自治共和国でもなかった時代に、自分の先祖もあの橋を歩いたのかもしれない。

「アンナちゃん」

 自分もどこかに行こうと足を踏み出したとき、背後から急に話しかけられた。

「リリャ?」

「あの、一緒に行っていい?」

 所在なく立ち尽くす彼女に聞かれ、アンナはうなずいた。

 おもむろにアンナがソックスごと靴を脱げば、リリャもおそるおそるそれを真似した。周辺には少女たちの靴や丸まったソックスが点々と落ち、まるで靴の墓場のようだとアンナは思う。

 素足をひたした川は水量が極端にすくなく、まちがっても溺れる心配はなかった。川底に足裏をつけるとひんやり冷たい水がすねを押して流れていく。藻に覆われた石にすべって転ばないように気を払いながら、砂利の島から島へ、あてどなくアンナは川の道を進む。

 その間、リリャは一言も発しなかった。

 そういえば授業でペアを組む必要があるとき、アンナはリリャと組むことが多かった。ヴィオラはああみえて友達が多い。リリャは暗黙の了解を理解できないところがあって、クラスで浮いた存在だった。アンナもアンナで友達らしい友達がいないので、自然と余ったふたりが組むことになりやすい。それが続くと、なんとなく自分たちでもセットのような気がしてくる。

 でも、どこにいても誰といても、アンナは居場所がないと感じがちだ。それは他の子のように、生前の記憶を断片的にでもおぼえていないからかもしれない。あるいはフレジア人とルジャ人が大半を占めるクラスで、明らかに出自が異なっているからかもしれない。不満には感じていないが、それでもラジオで行方不明者の放送が流れるとじっと耳を澄まし、夜中に目を覚ますたび自分がどこから来たのか考え込んでしまう。

「――ヴィオラ、今ごろ病院で退屈しているかしら」

――抜けるように青い空を、トンビが旋回している。

 両翼を広げて飛ぶ鳥をながめながら、アンナは今朝、出かけ際にこちらを不服そうにみていたヴィオラを思い出した。ヴィオラは通院日が重なって、今日の課外授業には不参加だ。参加できたところで、安全な場所から同級生をながめることしかできなかっただろうが。

 てっきり同意が返ってくるかと思えば、間を置いて、リリャは意外なことを口にした。

「ヴィオラちゃんはいいよね」

 川のなかばで足を止め、アンナはリリャを振り返る。リリャは先ほどアンナが通過したばかりの小島の上に立ち、スカートの裾をぎゅっと握り込んでいる。

「もし砂利にタイヤがはまりこんだら、誰かが手を貸してくれるでしょ? からだの不具合って、こころの不具合より、目にみえてわかりやすいから」

「どうしたの?」

 脈絡のない話にアンナは困惑する。リリャは無表情のまま、メガネ越しにアンナをみた。

「ヴィオラちゃん、学校の屋上から突き落とされたんだって。それで車椅子になったって、聞いたの。結果的に、それがよかったのかも」

 リリャの髪が風になびいている。しかしその下から伸びた長い影は微動だにもしない。

「事情はよく知らないけど、そのひとなりに苦しみがあると思うの。ヴィオラにも、リリャにも……。比べたって仕方ないじゃない」

「アンナちゃんは何もわかってないよ」

 語気を強めて言い放ったリリャは、せいせいしているようにも、自分で自分の発言におどろいているようにもみえた。ぎゅっと拳を握りしめると、絞り出すように吐露する。

「わたしはもう何回もくり返しているの。同じことばかりくり返して、くり返すほどに、川岸が遠くなっていく気がするの……」

 ふと。アンナはそれまで目に入っていなかったものの存在に気が付く。

 リリャの足もとから伸びていると思った影が、リリャ自身の影でないこと。それと同じ影が、氾濫原に散在する島のあちこちにあること。古い石碑。照りつける日射しを浴びて、風に揺らぐことなく黒い影を刻み続けるもの。

――慰霊碑だ。

 目を凝らせば、そこに刻まれた文字のひとつひとつから、誰かの息づかいがよみがえってくる。

 一瞬、すべての時間が停まった気がした。光や風、川の流れや鳥のさえずりも、すべてが遠くなって、視界がセピア色に染まる。

 しかしクラスメイトたちの笑い声に、不意に我に返った。ランチボックスの中身に狙いを定めたトンビが、サンドイッチをくわえて近くの森に消えて行く。そして小島の上でうずくまったリリャが目に入ると、アンナはあわてて駆け寄り、近くにいるはずの教師を呼んだ。


 ◇ ◇ ◇ 


 チーハ・ノーツ川には、グルダ紛争において強制移住の対象となり、その途中で犠牲となったルジャ人の子どもの魂が何百と眠っている。真冬の凍結した川に遺棄された子どもたちの遺骨は、現代においても、その多くが行方不明のままだ。


 ◇ ◇ ◇


 アンナの背後から光が射す。医務室のベッドを囲むカーテンの隙間から滑り込んだ光は、なめらかに版図を広げると、枕元に置かれたメガネに反射した。その瞬間、ぱちりとリリャが目を開く。

「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」

 リリャはアンナの声がけにも反応せず、焦点の定まらない目でじっと天井をながめた。

 そして、まっすぐ上に手を伸ばした。服の袖が落ち、骨の浮いた右腕があらわになる。

 空中で何かをつかもうとするように、リリャは右手を開いたり閉じたりしてから、

「――夢をみていたの」

 そう告げる。左腕につながっていた点滴の針を引っこ抜くと、シーツを身体に巻きつけてアンナに背を向けた。

「夢?」

「凍ったジャムの夢……」

 ふわふわと夢見心地の口調で、リリャはささやいた。

「窓際にね、置いていたジャムが……凍っているの。秋にみんなで摘んだマリーナの実のジャム」

 看護師を呼びに行こうと浮かしたかかとをゆっくり下ろすと、アンナはそっとリリャのことばに耳を傾ける。

「窓のむこうは吹雪がすごくて。家ごと雪に埋まっているの。私は火の消えた暖炉のそばで、山羊の赤ちゃんを抱きしめている。暗くて悲しくて、さびしい夢……」

 それきりリリャは話すのをやめてしまった。

 今度こそカーテンを閉めると、看護師に声をかけてから医務室を出る。廊下に出ると、開け放たれた窓から吹き込んだ風が額を撫でた。低学年の子たちが遊んでいるのだろう、外から笑い声がひびいてくる。筒のような長い廊下は薄暮の淡い光に満ちて、涙が出るくらい平穏な夕暮れだと感じるのに、アンナは自分の身体が空洞になってしまったようなむなしさを拭えずにいた。アンナはリリャの夢を想像し、その短いイメージを何度も反芻していた。そして痺れるような寒さを感じている。廊下には熱がこもり、汗ばむほどなのに。

 喘鳴をくりかえすように頭上の白熱灯が点滅している。寄宿舎にむかってひとり歩き続けていると、偶然、病院から帰ってきたばかりのヴィオラと出くわした。 

 開口一番、ヴィオラはこう言った。

「リリャが倒れたそうね、アイツはもう落第かも」

 アンナは眉をひそめ、しかし会話を続けずにいられない。

「落第って、つまり……」

「天国に帰るってこと」

「校長先生は、落第してもまたスタートラインに立つとおっしゃっていたわ。それって、またここに帰ってくるってことでしょう?」

 するとヴィオラは溜め息をついた。アンタって何も知らないのね、とわざわざことばにせずとも彼女の目線が物語っている。

「ソフィアのこと、知ってたっけ? リリャはアイツと同じ世代って話。世代ってのは年齢じゃなくて、死んでから、魂が最初にデコードされた時期のことよ。初期の初期、もう何十年も前だって聞くわ」 

 入学初日、霧の中に連れ去られた子のことをアンナは思い返す。

「落第してまた復活するのはほんとうよ。デコードをくり返すたびに情報が破棄されるから、ここでの記憶は残らないらしいけど――魂は読み込まれて物質に変換されるたびに劣化するって知らない? 消費期限があるの。あ、でも、アイツが変人なのはもともとの素質よ。その素質がアイツに余計な困難を与えてるのも事実だけどね」

 そういえばいつか本で読んだことがある、とアンナは思う。それが現実と結びつかなかったのは、どうしてなのか。

 生命現象の中核を成す『魂』の概念――この世界では魂の総量が細かく定められており、増やしすぎても、減らしすぎてもいけない。グルダ自治州は「減らしすぎた」ので寒冷化が進み、国を支える天然資源が枯渇した。

 だから、魂の補充をおこなうことが許されている。

――特定の条件を満たした死者をよみがえらせることによって。

「リリャという存在はもう終わりが近いのよ」

 アンナは視線を落とすと、スカートの生地を握りしめた。

 「終わった」ら、どうなるんだろう。しかし口を突いたのは別の疑問だ。

「公演はどうなるの?」

「さあ……落第も、ソフィアと一緒なら、しばらく隔離措置をして治療を試みるはずだから。公演も、台本書きたがってるんだから、勝手に進めるわけにもいかないでしょ。もし本当に退学ってなったら、アンタと私で何か適当に考えればいいわ」

「……そうね」

 うなだれるアンナの前で、車椅子のブレーキを戻す音がひびく。離れていくヴィオラの背を視界に入れてはじめて、彼女が硬く両肩をこわばらせていることに気が付いた。まるで強い向かい風にじっと耐えているように。

 アンナは外廊下まで出ると、目についたベンチに腰かけた。持っていたランチボックスを膝に載せ、蓋を開ける。昼間の課外授業で食べそこねてしまったものだった。

 ひからびたサンドイッチの端をかじると、ぱさぱさに乾いたパンの感触がした。ゆっくり噛み砕きながら、いつかみた夢のことを思い出す。燃えさかる火の中に飛び込んでいく夢のこと。

 魂が終わるというのは、つまりは途絶だろうか、とアンナは思った。それまで積み重ねてきた記憶、人生というものが無に帰り、人格も跡形もなく消滅する。

 そういえば、寄宿舎の大部屋で、ベッドの明かりが消えるのはいつもリリャが最後だった。あの小さな繭の中で何をしているんだろうかと、ついぞ質問したことがなかったことをアンナは思う。

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