アフターヘブン
黒田八束
第1話
グルダ紛争犠牲者の鎮魂を祈り、ここにシフェンタ女子学校を開校する。
一
「おかえりなさい、アンナ。――あなたが生まれ、育まれたグルダに」
真珠を守る貝のように硬くこわばり、かすかに震えるフランギスの細い腕の中で、アンナはその声を聞いたのだった。
左足に重心をずらそうとして靴のかかとが霜を踏み砕き、その下に広がるぬかるみへと沈みこんでいく。夜の間に凍った地面は太陽のひかりにあてられ、生クリームのようにやわらかく溶けはじめていた。後退しようとすればするほど深みにはまっていく気がして、アンナは据わりの悪い椅子に座るようにその腕の中にとどまるしかない。
――なにもしらないひとがこの場を目撃したなら、祖母と孫が別れを惜しんでいるようにみえるだろう、とアンナは思う。
ふたりの背後にそびえ立つのは寄宿舎学校の門で、アンナは真新しい制服を着ているのだから。そうした断片的な情報から、規律の厳しい学校生活に入る孫と、その孫を心配する心優しい祖母という構図をあてはめてみることはきっと難しくない。
でも、それは真実から遠くかけ離れた想像だ。
アンナが寄宿舎学校に入ることは事実でも、ふたりは血縁ではない。家族でもない。ただの他人だった。三十年とすこし前、この国で多くの批難を浴びながら施行された法律によって、たまたま結びつけられただけの。
「ここに来るまでに、ずいぶん身体が冷えてしまいましたね」
抱擁を解き、フランギスはアンナの冷えた首に自分のマフラーをそっと巻きつけた。
抱きしめられていたのはわずかな時間だったのに、やっと解放された、とアンナは思った。誰かと触れ合うことが、苦手だ。
「暦の上では春を迎えたけれど、この時期のグルダは寒いとあれほど言っておいたのに」
すみません、とアンナはあいまいに笑う。あれほどしつこくいろんな人から注意されていたのに、グルダがこんなに寒い場所だとは思ってもいなかった。
そんな彼女の首もとでしっかりマフラーの結び目をこしらえてから、「さあ、行って」とフランギスがささやいた。
「私はここであなたを見送ります。心配しないで、私はあなたの代理人ですから、またいつでも会えますよ。困ったことがあったら――」
そのときぬかるみを跳ね飛ばしながら走ってくる乗用車が目に入った。アンナはとっさにフランギスの腕を引いたが、弾丸のように飛びかかってくる泥は避けようがなかった。
「アンナ、何がみえますか? 私に教えてください」
黒いガウンの裾が泥で汚れるのにも動じず、フランギスはじっと周囲の音に耳を澄ます。
通り過ぎるかと思われた乗用車は門からすこし離れた場所で停まっていた。
「一台の車が……門の前に停まっています。窓が黒くて、スモークガラスって言うんでしょうか、乗ってるひとはみえないし、降りてくる気配もないし……誰かを待っているんでしょうか?」
「車体の色、タイヤの大きさ、あと、ナンバーは?」
いつになく焦った様子で、フランギスは次々と質問を重ねていった。
そのひとつひとつに丁寧に回答すると、フランギスは「そう」と小さな溜め息を漏らしたきり押し黙ってしまった。
宙を仰いだ彼女の目線を追いかければ、木々の枝にわずかに残された枯れ葉が目に入る。
――あの枯れ葉は、冬の間、風にも雪にも負けずあの場所にとどまり続けていたんだろうか。
風に頼りなく揺れる葉をみてよるべなさを感じるアンナをよそに、ぼそりとフランギスがつぶやく。
「きっと、天国からお迎えが来たんでしょう」
葉が風にちぎりとられるのと、門の脇にある通用口からひとりの少女が飛び出してきたのはほぼ同時だった。
寒空の下、コートもはおらずに出てきた制服姿の少女は、目に入らないとばかりにふたりを押しのけ、例の車輌まで駆け寄った。
「あたしに時間をちょうだい! まだ帰りたくない!」
呼応するように運転席の窓がわずかに開く。すると少女はずるずるとその場に座り込み、握った拳で力なく地面を叩いた。
「そんな……もうすこしで卒業できたのに……あたし……」
ぬかるみに膝まで浸かって、少女はすすり泣いている。がんぜない背中は悲しいくらい痩せて、ブラウス越しにでも浮き出た肋を両手でつかんでしまえそうだった。
呼吸を忘れてその背中をみつめるアンナの片袖を、後ろから誰かが引いた。
「行きなさい、アンナ。ただでさえ到着が遅れてしまったんですから、先生がたもお待ちかねですよ」
「でも……、フランギス先生、」
アンナの口は冷たい手でそっとふさがれた。フランギスは無言で首を振っている。
通用口の赤錆びた扉が、勢いを増した風に揺れていた。その音に混ざって、かすかに嗚咽がひびいてくる。
アンナは自分の胸の中で熱いものと冷たいものがせめぎ合うのを感じた。
「――アンナ」
爪弾かれたようにその子を振り返り、アンナはハンカチを差し出した。少女ははしばみ色の目で、数秒、じっとアンナをにらんだ。
沈黙が落ちる。
ナナカマドの枯れ葉が泥海に落ちていく。泥で濡れた両手を握り込み、きつく下唇をかみしめたかと思うと、少女は小さく声を絞り出した。
「……あんたは何回目なの?」
間髪入れず、「あたしはもう十回よ、十回もくり返した!」と叫ぶ。ぎゅっと力の入った目尻から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「だから、これで完全におしまい。――あんたは、うまくやれるといいね。あたしが帰るところが天国なら、ここは……、」
立ち上がった少女が後部座席のドアを開く。
車内に焚きしめられた奇妙な香りが周囲に拡散し、その香りを香りと認識する間もなく、アンナの意識は遠ざかっていく。
意識がもうろうとしたのはほんの数秒だったが、我にかえる頃には車は跡形もなくなっていた。
道のむこうをみれば車影はすでに遠く、ベールがかかったように垂れこめる深い霧の中に入りこもうとしている。白い霧に吸い込まれると、車は完全にみえなくなった。
『ここは』――続くことばが何だったのか、アンナは思い出そうとしたが、しびれを切らしたフランギスに呼びかけられて考えるのをやめてしまう。ガムのように靴底にへばりついてくる泥を引き剥がしながら、しぶしぶ元いた場所に戻った。
フランギスに見送られて、アンナは先ほど少女が飛び出してきた通用口をくぐり、学校の敷地に足を踏み入れた。どこからともなく現れた守衛が即座に扉に鍵をかける。錆びた格子越しにフランギスと向き合うと、実は自分は投獄されたんじゃないかという突拍子のない妄想にとり憑かれた。
「ああよかった」
扉の格子に力なく指をからませて、フランギスがふと溜め息を漏らす。
「ここまでお前を送り出せて。最後の力をふりしぼって、私の善性がそのほかのすべてに勝ったように思います」
フランギスは目を細めた。
眼球という感覚器官を失った暗い視界の中、何とか一条の光をさぐり当てようとするように。
ここに来てから、フランギスはふだんよりもすこしだけ感情的になっているようだ、とアンナは思う。長い冬を耐え忍んだ病人が春のきざしにふと心身の緊張をゆるめて死に至る、そんなあやうさを秘めているようにも感じられた。
「行ってきます、先生。またお会いできる日を楽しみにしています」
もしかして、これが今生の別れになるんじゃないか――そんな不安に駆られつつも、結局、アンナはあたりさわりのない挨拶を口にしただけだった。
「いってらっしゃい、アンナ」
フランギスの声を背に、アンナは自分を待ち構える森をみあげた。
アンナが通うことになった学校の名を、シフェンタ女子学校と言う。グルダ自治州の郊外にあるその学校は、敷地の大半を鬱蒼とした森が占めている。白樺やナナカマドが茂る森には細い遊歩道が整備されており、アンナは靴の底についた泥を石畳にこすりつけながら、できたばかりらしい足跡をさかのぼっていく。足跡は、彼女がしだいに走りはじめたことを示しているようだった。時に同じ場所をうろうろと歩き回っていたことを表す痕跡もあった。隙間なく密集する木々のむこうの暗い闇をみつめると、アンナの背筋をふと冷たいものが流れ落ちる。
けれども、引き返す選択肢ははじめからない。アンナにとってこの学校は「関門」のひとつだ。一年間ここで過ごさないことには、ふつうのひとのようには暮らせない決まりだった。
森の中には数棟の建物が点在していた。なべて地味な灰色で、異様に小さな窓がぽつぽつと並んでいるだけの簡素なつくりをしている。フランギスの話では、自治共和国時代の政府系施設を転用しているとのことだった――今にも雪の降りはじめそうなどんよりと暗い空を背にすると、もしかしたら監獄なのかもしれないというアンナの妄想はあながち嘘でもないように思われた。
ぼんやりぬかるむ道を歩いていると、目の前をコロコロと布製のボールが転がってくる。どこからか子どもたちの声も聞こえてきた。ボールを拾い上げてアンナは周囲を見回す。運動場があるようだが、鬱蒼とした木々に遮られて、どこにあるかは判然としない。
アンナはどこからともなく走ってきた幼い少女に、汚れたボールを手渡した。
「ありがとう、おねえちゃん」
寒さや頬で耳を真っ赤にした子は、アンナからボールを受けると、乳歯が抜けたばかりの前歯の空洞をのぞかせて人懐っこく笑う。
「校舎はね、あっち。あたらしくきたひとでしょ? みんな迷うの」
「ええ、そうなの。ありがとう」
「じゃあね、おねえちゃん」
大きく手を振りながら、ボールを抱えた少女が遠ざかっていく。
ふたたびひとりぽつねんと森の中に残されたアンナの背を、冷たい風が撫でる。
教えてもらった建物に足を向けた。ポーチに続く長い階段をのぼっていると、誰かがゴールをきめたのか、どこかでわっと大きな歓声が上がった。
ポーチの先にはいかにも頑丈なつくりの扉がそびえ立っており、重いトランクを持ち直すと、アンナは意を決して中に足を踏み入れた。
入ってすぐのホールは電気がついておらず、暗くがらんとしていた。
てっきり教師が出迎えてくれることを期待していたアンナは、出鼻をくじかれた気持ちであたりを見回した。
真昼間だというのに、ホールには人っ子ひとり見当たらない。耳を澄ますと、奥の廊下からかすかに誰かの話し声が聞こえてきたので、場所をたずねるつもりでアンナが踵を浮かした矢先、
「ねえ、ソフィアをみかけなかった?」
背後から突然声をかけられた。
弾かれたように振り返ると、そこには同年代の少女が立っていた。
少女は分厚いメガネ越しにアンナを一瞥し、すぐに視線を斜め下に落とす。
「……その子のことは知らないけど」
一瞬、車で連れ去られた子のことが頭に浮かぶが、とっさに否定が口をついた。それに、あれが誘拐でないことはフランギスの態度からも明白だったから。
「そうなんだ。急にいなくなったから、もしかして落第しちゃったのかなって思ったんだけど……」
アンナと会話をする間も、その子は一度もアンナの目をみずに自分の靴を眺めてばかりいた。
「よかったら、職員室の場所を教えてくれないかしら。わたし、ここに入学するんだけど、何しろ到着したばかりで」
「じゃあ、やっぱりソフィアは落第したんだね。代わりの子が来るって、そういうことだもん。今月は卒業する子もいないし……」
「あの……」
「職員室なら、左の廊下を行った先だよ」
やはり目を合わせることなく一方的に言い放つと、くるりと背を向けてその子が歩きはじめる。どうやら職員室に連れて行ってくれるらしい、と遅れてアンナは理解する。もしかして自分は自分で思っている以上に
その子の言うとおり、職員室は廊下の突き当たりにあった。いきなりドアが開いたのにおどろき、アンナはノックしようと上げた腕をサッと後ろに引いた。「おっと」と声を上げて、飛び出してきた張本人も足を止める。
「イガ先生、こんにちは」
とまどうアンナの横で、案内を買って出た少女が挨拶する。
「こんにちは、リリャ。あら、あなたは……見慣れない顔ね」
アンナはイガという名前らしい女性教師を前に、あわてて背筋を伸ばす。
「入学予定のアンナです。その、昨晩首都から来たんですが……夜行列車が遅延して、朝に着くはずが今ごろになってしまって。入学書類とか、いろいろ持ってきたんですが」
イガは即答せずに、一瞬、値踏みするようにアンナをみつめた。しかしすぐに唇の端にほほ笑みをのせると、「そうだったのね!」と大声を上げた。
「なかなか来ないから、心配していたのよ。さて……どうしましょうか。新入生は、まずマリヤ校長と面談する決まりがあってね。でも、朝になって急に議員の方がいらっしゃって、まだ対応が終わってないみたいなの」
「あの……それなら、校長先生の手が空くまで、どこかで待っています」
イガは腕組みをして「そうねえ」と首をかしげた。
「今日の午後は集団療法プログラムだけだし……精神科医からのレポートも特段問題はないし……」
小声でぶつぶつつぶやいたかと思うと、イガはにっこりアンナに笑いかけた。
「待っているのも退屈でしょう? 午後から授業に参加したらどうかしら。もちろん無理にとは言わないけど。あ、書類は預かるわ。問題があったら言うから」
書類の入ったずっしりと重い封筒を手渡しながら、「それなら」とアンナはうなずいた。
「いまはお昼休み中。午後の授業は器械体操からだから、体操着はひとまず誰かに借りてくれる? リリャ、この子はあなたと同じクラスだから、案内してあげること。――じゃあ、またあとで。自家発電機の調子が悪いから、ちょっとみてくるわ」
矢継ぎ早に告げるだけ告げると、イガはそのまま走り去ってしまった。アンナはあっけにとられてついその後ろ姿を目で追ったが、リリャと呼ばれた子が何も言わずに歩きはじめたのに気が付くと、あわててそのあとを追った。
道中、リリャはアンナより一歳年上、十六歳だと教えてくれた。この学校には二週間前に入学したばかりとのことだが、学校のことは「誰よりもよく知っている」と言った。
「私、もう何回もここに入学してるの。詳しいことはおぼえてないけど、間取りとか、そういうのは何となくおぼえてるものなの」
そう語りながら、リリャは両手を広げてふらふらと左右に揺れながら歩いた。リリャの動作に合わせて、小さな窓からこぼれる光がひらたい肩と首をしきりに移ろった。
二階に上がると、一階とは打って変わってにわかにあたりが騒がしくなった。すぐそこの廊下で同年代の少女たちがおしゃべりしながら服を脱いでいる。ブラウスやスカートが次々投げ捨てられていく光景にアンナは面食らって閉口するが、どうやら体操着に着替えている最中だと遅れて察する。
「更衣室がないの?」
「あるけど、狭くて臭いからって、みんな使わないんだ。でも、使わないほうがおかしいよね? ルールは守らなきゃなのに」
リリャが拳を握って言うのに「そうね」とうなずきながら、そういえば誰かに体操着を借りなきゃいけなかった、とアンナは不意に焦りはじめる。もともと人見知りのきらいがあって、同じ学校の子だとはわかっていても、よく知らない人に自分から話しかけに行くのには強い抵抗があった。
とりあえずリリャに聞いてみよう。心の中でしずかに決意したのと、廊下の奥でどっと笑い声がはじけたのはほぼ同時の出来事だった。
「ちょっと、ヴィオラ、やめてよ。あんた、わたしたちをはねとばすつもり?」
「あんたたちが邪魔なの、ほらどいてどいて、私に轢き殺されたくないならね」
薄暗い通路の奥から、ずんずんと車椅子を漕いでひとりの少女が姿を現す。
周囲の少女たちは狭い廊下の壁にぴったりと背中からはりつき、くすくす笑いを漏らしながら彼女の通るスペースを確保しようとしている。
「ああまったく、停電のせいで私は二階に幽閉よ。ここで飢えて朽ち果てるってわけ――あら、リリャがいるわ。ごきげんよう、宇宙式のあいさつってこれで合ってる? あなたは――新顔ね」
ヴィオラはキュッと音を立てて車輪を停めると、下からまじまじとアンナの顔を覗き込みながらゆっくり車椅子のブレーキを引いた。
「……今日入ったばかりなの」
「なるほどね! アンタがソフィアの代わりってわけ。こうも次々補充されたらたまんないわね――あんたは初回? それとも今回がラストチャンスとか?」
ヴィオラの声にふと周囲が静まり返る。何対もの目がいっせいにこちらを向く気配に、アンナは知らず息を詰めた。「リリャも同じことを言ってたけど、それって何の話?」と聞き返すのもはばかられる緊張感。
「フレジア人にもツヴェトク人にもみえないわね。ルジャ人か。ああ、それとも、エウストマ人とか?」
ヴィオラの声色や表情から、粗い砂の入り混じるような警戒を感じ取り、アンナはとっさに「失礼ね」と言い返した。
「わたしの出自がそんなに重要?」
「私にとっては、ね」
ヴィオラをにらみつける。緊張から、口の中で唾がねばつくのがわかった。
「だから――」
「ヴィオラちゃん! あのね……」
ヴィオラの声をさえぎって、突然、リリャが横から身を乗り出した。
「あの、体操着持ってるよね。この子、ええと……名前、なんだっけ……とにかく、この子に貸してあげられないかな、って」
リリャの顔にはようやく言い出せたという安堵の色こそあったが、ふたりの緊張関係をときほぐそうという意図はなかったのだろう。押し黙ったふたりを交互にみて、「あの……?」とぱちぱちとふしぎそうに目を瞬いた。
ヴィオラはわざとらしく溜め息をつき、「宇宙人」とぶっきらぼうにつぶやく。
「持ってるわよ」
不満そうに鼻を鳴らすと、ブレーキを戻して車輪のハンドリムをつかむ。
「ロッカーに置きっぱなしだから、勝手に使えば。どうせもう着ないもの」
それだけ言い捨て、ヴィオラは場を去った。
シフェンタ女子学校の責任者であるマリヤ校長とアンナが面会できたのは、結局その日の夕方、午後の授業がすべて終わったあとだった。
夕食をとるため食堂にむかう生徒たちの流れにさからって、アンナはイガから指示された校長室を訪れた。しかしタイミングが悪くマリヤ校長に電話が入り、そこでもしばらく外で待つよう言いつけられてしまった。伝言にきた事務員の女性を見送ると、アンナは溜め息を漏らしつつ、通路の脇に置かれたカウチに腰かける。
足もとのカーペットに目を落とす。頭上の電球が不規則に点滅をくりかえしているせいで、その色は緑にも青にもみえる。午後の早い段階で電気は復旧したものの、もともとルジャ共和国、特にこのグルダはその土地柄、電力供給が不安定なので、またそのうち停電するのだろうとアンナは思う。今となっては信じがたい話だが、以前のルジャ共和国は天然ガスの世界的供給地だった。
手持ち無沙汰になりながら電灯が点滅する回数を数えていると、ふと、診察室の電球も切れかけていた、とアンナは思い起こす。
――あの日、看護師に呼ばれて診察室に入ると、先生は首をひねりながら天井をみあげていた。昨日交換したばかりなんだけどなあ、とぼやいているところにアンナが入ってきて、あわてて居住まいを正した若い男性医師。
この一年、アンナは入院と通院を組み合わせながら一貫して同じ精神科医から治療を受けていた。最後の診察があったのは、急きょこの学校に入ることが決まり、明後日には出立しなければならないというときだった。
先生は咳払いをしてからいつものように世間話をしたあと、ディスプレイに表示した複数の磁気共鳴画像をみせた。
『――アンナさん、これがあなたの脳です』
診察室に入ったときからその画像が気にかかっていたアンナは、まじまじとディスプレイを凝視した。半分に割ったくるみのような形をした脳が、さまざまな角度から映し出されている。灰色の皺が刻まれた領域のあちこちには赤い電子光が瞬いていた。
『特定の条件下で、あなたの脳の活動部位を調べました。MRI装置の中で、何枚か写真をみせられたでしょう。あなたの古い――生前の記憶から、人工知能が再現した写真です。赤い光は、その写真をみたときの反応です』
『わたし、よくないんでしょうか』
『いいえ、むしろ良好な経過です。記憶の封じ込めがうまくいっています』
うなずきながら、アンナはすなおに喜んでいいものか疑問を抱いた。
『何か気になることでも?』
『ええと……先生は記憶の封じ込めがうまくいっていると言いますが、それって本当に良いことなのかと』
『なるほど。それで?』
『わたし、この一年間のこと以外は何も思い出せないんです。思い出せそうとか、何かある、みたいなもどかしささえないんです。生前の自分と今の自分がまったく途絶されていて、別のひとみたいで……』
違和感をことばとして表現しようとすればするほど、アンナには自分の気持ちがよくわからなくなっていった。ことばにすることで、肝心なところをとりこぼしてる気さえする。
先生は回転椅子をぎし、と軋ませ、身体の向きをディスプレイからアンナのほうへと変えた。
『大丈夫、心配しないで。あなたは試験的に、記憶の閉鎖処置が他の子どもたちより強力にかかっているんです。過去をまったく分離することで、心理的苦痛の軽減をはかり、社会への順応をすみやかにする。同じ処置を受ける子はこれから増えるでしょう。でも、今はまだ試験運用の段階。そういった理由もあって、あなたは特例的に一年間の経過観察が必要だったわけですが……』
彼の言うとおり、アンナが首都の政府系施設で暮らしはじめて一年が経とうとしている。これは特例で、ふつうならすぐにでも「学校」に入らされるものだと聞いていたが、アンナの場合さまざまな事情から遅れているという話だった。
『もちろん、貴女が不安に思うのもわかります。記憶は、そのひとを定義する大事なものですから。でも、私個人の感想を言えば、喜ばしいことだと思います。なぜなら、人生には時に必要でない試練があるから』
身体ごとディスプレイのほうを向いて、先生は電子カルテに短い文章を打ち込んだ。
『ああ、これはいつもの質問ですが、攻撃的な気分になることは?』
その質問をされるとアンナは毎回冷や汗をかく。後ろ暗いことはないはずなのに、責められている気になるからだ。
『ええと……苛々することはあります』
『当然ですね。何かを壊したり、誰かを傷つけたりしたいと思うことは?』
『わたし、そんなに攻撃的にみえますか? それにどんな攻撃的な気分になったって、想像の中くらいなら自由ではないでしょうか?』
ちょっとした意趣返しのつもりでアンナが言っても、先生は首をすくめるばかりだ。
『グルダはまだ寒いですから、防寒具をお忘れなく。一年間の経過観察は、アンナさんには退屈だったかもしれませんが……このタイミングで入学できることはむしろ良いことだと思って、がんばってくださいね』
そう言ってこちらをみた彼のまなざしに、アンナは急に居心地の悪さをおぼえた。すなおに先生のことばを受けとれないと思うのは、自分が卑屈だからだろうか。あるいは、彼のまなざしが、自分だけでないもっと多くのものをみつめていると感じるからだろうか。アンナの背後にあるもの、それはアンナを含めた、無数に積み重なった……。
突然校長室の中から呼びかけられ、アンナは我に返った。あわてて立ち上がると、校長室のドアをノックする。
中は廊下よりずっと明るく、足を踏み入れると一瞬くらりと眩暈を覚えるくらいだった。
「――こんにちは、アンナさん。そしてようこそ、シフェンタ女子学校に」
奥の席から現れた恰幅のよい初老の女性が、ふくよかな腕でアンナを優しく抱擁する。
まただ――アンナふと、自分を抱きしめたフランギスの腕を回想し、ばつの悪い気持ちになった。マリヤ校長はアンナが身をこわばらせたとわかるとすぐ彼女を解放し、さりげなく応接用のソファに座るようにうながした。
「ごめんなさい、今日は朝から自治州議会員の方が押しかけてきて……。あなたが遅れて到着したのはむしろ幸運ね。イガ先生が機転をきかせてくれたのにも助けられました」
内線でお茶を運ぶようにお願いしたあと、マリヤ校長はアンナの正面に腰を落ち着けた。
「この面会も慣例的なものだから、心配しないで。クラスは大丈夫そうですか? 年齢と、学力テストの成績を考慮して、一番上の学級にしたんですが」
「まだ初日なのでわかりませんが。うまくやれるように、努力します」
マリヤ校長はにっこり目尻の皺を深め、いいえ、とかぶりを振った。
「気を張らないで。どの子にも同じことを伝えますが、ここは準備運動する場所です。便宜的に学校とは呼ばれていますが、正式には児童……それも特別な児童を対象にした心理治療施設なんですから」
「それは理解しているんですが……」
「みんなここを怖がるけれど、私たちはあなたがたを守るために存在しているんです」
お茶が運ばれてくるまでの間、マリヤ校長はシフェンタ女子学校について簡潔に説明した。学校とは言うものの、その実態はおおよそ八歳から十七歳程度までの児童を対象とした心理治療施設であること。やはりグルダ自治州の郊外にあるシフェンタ男子学校、シフェンタ共学校と対をなすこと。集団療法プログラムと個人療法プログラムを組み合わせて継続的に実施しながら、一年間集団生活を送ることを主目的としていること。その後は、本人の希望に応じて正規の学校に復学したり就職したりできること。
マリヤ校長の説明は、事前にフランギスから教えられていた内容と相違しない。事務的な話が終わる頃、事務員の女性がドアを開けてお茶を運んできた。
黙って紅茶の入ったカップを置く手をながめていると、ふと、アンナの目にあるものが飛び込んでくる。
「……これが何か、わかるかしら?」
事務員が去るのを待ってから、マリヤ校長がおもむろに問いかけてくる。
何かを期待する声だった。
「小麦の新芽……でしょうか」
アンナの目線の先、マリヤ校長の背後にある本棚には、その根本こそ赤いリボンで結ばれているものの、一見すれば何の変哲もない緑の草が飾られていた。
「首都でもみかけましたか?」
「いえ……。でも、なぜでしょう……直感的にわかりました」
マリヤ校長はそう、としずかにうなずいた。
「これはグルダ特有の文化。春分を祝うため、時期になるとあちこちで赤いリボンで飾った小麦草を置くんです。あなたはそれをおぼえていた。アンナさん、あなたはまぎれもなくグルダの子ですよ」
目を細めてアンナをみたマリヤ校長のひとみは、遠いものを見澄ますようでもあり、近いものに目を凝らしているようでもあった。
沈黙が落ちる。アンナは膝の上に置いた拳をそっと握りしめ、「校長先生」とちいさな声で呼びかけた。紅茶を飲んだばかりなのに、アンナの喉はすでにからからだった。
「プログラムを終えられずに、落第したら――どうなるんでしょうか?」
その質問は、ここに来るまでの夜行列車の中で眠れずに、ずっと考えて不安になっていたことだ。
それに、先ほど出会ったあの少女。フランギスやリリャ、そしてヴィオラが口にした断片的な情報をつなぎ合わせて推測するに、あの子は……。
しかし、アンナの質問は当然予想された質問だったのだろう。マリヤ校長は落ち着き払った態度を崩すことなく、「くり返します」ときっぱり答えたのだから。
「くり返す、ですか」
「またスタートラインに立つ、それだけの話です。あなたのような境遇の子は、何度だってチャンスを与えられます。それだけ大切にされるべき存在なんです。だってあなたたちは――」
白熱灯の明かりが、マリヤ校長の唇に塗られた軟膏をにぶく輝かせていた。その唇は笑みを絶やさず崩さず、目の前のアンナへと穏やかな声で語りかけてくる。
「その存在でもってグルダの歴史を語る、生き証人なのですから」
地の底から糸から引っ張られたと思うくらい、ぐっと身体が重くなるのを感じる。深い穴に吸い込まれていくような。思わず身をよじると、マリヤ校長が脇に置いた書類が目に入った。その表紙に記された文字を自然と脳が認識する。レ、キ、シ……歴史記憶修復法。その単語を胸の中で反芻すると、身体がまっぷたつに割れて、肉体を引き裂かれたまま奈落の底に落ちていくような気がする。
◇ ◇ ◇
――バイオインフォマティクス技術の普及と向上により、分子生物学におけるセントラルドグマが解明され、生命科学は飛躍的な進歩を遂げました。ヒトは生命現象の神秘である魂を操作する力を手に入れ、死者の世界と生者の世界は近接するようになりました。
――もちろん、死者はそう簡単にはよみがえりません。自然の摂理に反する行為は、あらゆる災いを呼ぶからです。しかし、十八歳未満の子どもで、特別な条件を満たした場合は、そのかぎりではありません。
「みなさん、お薬の時間ですよ。さあ、カーテンを開けて」
アンナは読んでいた本をそっと閉じ、枕の下に入れた。読みさしの本を枕の下に入れるのは誰から教えられずとも身体にしみついていた習慣のひとつ。ヘッドボードの収納棚は持ち込んだ本ですでにぎちぎちで、今にも飛び出してきそうだ。
アンナは指示に従って四方を囲むベッドのカーテンを一辺だけ開いた。宿直のイガ先生が大部屋に並ぶパイプベッドのひとつひとつを回るのが目に入る。
自分の番が来るのを待とうとアンナはマットレスの端にちょこんと腰かけた。すると、ベッド同士の距離が近いので必然的に隣のリリャと顔を突き合わせることになる。リリャは貧乏ゆすりをしながら、粘土でできたボールをいじっていた。
「それ、触ってて楽しいの?」
話しかけられると思っていなかったのか、リリャは弾かれたように頤を上げた。しかしすぐに視線をそらすと「どうだろう」と口ごもる。その間も無意識なのか指先はやわらかい粘土の中に沈んだり戻ったりをくりかえしていた。
「何かに没頭していると……自分をやめられる気がする」
ボールを手の中で転がしながら、リリャはぼんやり答えた。
「わたしも、本を読んでいる間は、その世界だけに集中できるから好きよ」
「えっ、本が好きなの? どんな本を読むの?」
おたがいの膝頭がこつんとぶつかる。それまでこちらを拒絶するような空気を醸し出していたリリャが突然身を乗り出してきたので、アンナはおどろいた。
枕の下から出した本を一瞥して、リリャはふうん、とあからさまな溜め息がつく。いかにも実学書らしい表紙に興味を失ったようだ。
「難しいのを読むんだね。私は物語が好き。特にファンタジーが大好き。ええと……そうだ、アンナちゃん、だったよね」
「あなたはリリャね」
「わたし、人の名前とか顔をおぼえるのが苦手で……ごめんなさい」
「別に気にしないわ」
リリャはホッとしたように表情をゆるめた。ベッドから下ろした両足をぶらつかせて、「お話しできてうれしい」とささやく。
「ここじゃだれも私の話を聞いてくれないもの。私が何かを話したり、主張したりしても、みんな苦笑いしながら聞こえないふりをするの。クラスで私だけ五歳児みたい」
イガがふたりの前に現れたのはちょうどそのときだ。抱えたトレイからそれぞれの名前が書かれたコップを差し出して、「お喋りはおしまいよ」と言う。
「しっかり寝て、明日に備えてね」
アンナが渡されたコップをひっくり返すと、青いカプセルがひとつだけ手のひらに落ちてきた。まじまじと観察するが、首都にいる頃から朝晩と飲んでいる薬と同じようにみえた。特定の神経回路に作用して脳の可塑性を上げる薬。
ちらと盗み見た感じでは、隣のリリャのコップにはもっとたくさんの薬が入っていたような気がする。当然ながら、処方箋の内容が違うのだろう。アンナはリリャにおやすみと伝えて、ベッドのカーテンを閉め切った。硬いマットレスに寝そべると、手の中で温めていたカプセルを口の中に放り込む。
溶けた糖衣から中身があふれて、痺れるような苦みが口いっぱいに広がった。すぐには飲みこまず、アンナはその苦みを感じながら、照明が落とされた天井をじっとながめた。
『――それとも、エウストマ人とか?』
昼間に聞いたヴィオラの声が、実際に聞いたときよりもずっと嫌なひびきを帯びて、アンナの中でよみがえってくる。
あふれてきた唾液と一緒に薬を飲み込む。寝返りを打つとカーテンの生地を透かして隣のベッドから漏れる明かりがみえる。リリャのベッドだ――スタンドライトを持ち込んで、何かしているようだ。勉強だろうか?
明日、何をしていたのか聞いてみようか。そんな思いを胸に秘め、アンナは眠気が訪れるまでその淡い光をみつめていた。
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