時間泥棒と海

中尾よる

時間泥棒と海


 彼の指が私のお腹をリズムよく叩く。時折爪が当たって痛い。彼は極度のめんどくさがり屋で、滅多に爪を切らない。三年も一緒にいるのに、爪を切っているのは両手で数えるほどしか見たことがない。

 あーあ、いい加減にしてよね。

 彼に聞こえないのをいいことに、心の中で悪態をつく。昨日徹夜だったっていうのに、学校に来てもまだ休ませてくれないなんて。私を完全無欠の何かとでも思ってるの? 日本の技術を過信しすぎでしょ。私だってそろそろ限界だし、頭も身体も働かなくなってきたんだけど。

「ちっ」

 動きが鈍くなった私に彼が舌打ちをして、右手の中手骨頭で私をゴンゴンと叩く。いや、そんなことしても無駄だよ? むしろ逆効果。フルマラソンして疲れ切った選手に、もっと走れと殴りかかってるようなもの。

 私を叩き続ける彼を尻目に、周りを見回してみる。理科の授業中。六割の子供は教科書やノートを広げ、先生の話に耳を傾けていて、三割はぼんやりと窓の外を眺めたり、頬杖をついて俯き居眠りをしている。残りの一割は彼と同じだ。机の中にスマホの上部を半分隠し、教科書を読むふりをしながらスマホを眺めている。子供が学校に行くべき理由はいくつかあるが、基本的には「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身共に健康な国民の育成」だ。でも、授業中でさえスマホを眺める彼らは、おそらくそのどれにも当てはまっていない。中学までは義務教育で、正直学校に来なくとも卒業はできるわけだけど、友達と交流せず、授業も聞かないなら学校に来る必要はないわけで、私には彼らがなぜここにいるのか不思議でならない。

 不意に私を叩く手が止まった。諦めたのかなと彼の顔を覗き込もうとすると、机の中に身体を押し入れられ、ぐしゃぐしゃに丸まったプリントに頭を押し付けられる。すぐ近くを誰かの足音が通り過ぎていくのが聞こえ、ああ、そうか先生か、と納得した。当然中学まではスマホの持ち込みは禁止で、何より彼ら三年生は内申点が高校受験に大きく響く学年だ。そんな危機なんて冒さず私を家に置いてきてくれればいいのに、やはり彼らの行動は不可解としか言いようがない。

 その次の時間は体育で、私は一時間だけ机の中で休むことができた。同じように残されたスマホたちの囁き声を聞きながら、私は寝不足の身体をプリントに預け、少しだけ眠った。

 

 

文一ふみかず、食事の時くらいスマホはしまいなさい」

 帰宅後の夕食時、彼の父親、新藤しんどうさんが言った。体育の時間と給食の時間の計一時間半程度しか休ませてもらえなかった私は、全力で新藤さんに同意する。彼が中学校に入学する際、入学祝いにと私を彼に与えたのは新藤さんで、つまり私をこんなに疲弊させている責任は新藤さんにもあるのだけど、そんなことは置いておいて今は新藤さんと学校の先生だけが私の味方だ。

「はい」

 彼は小さな声で空返事をしてまた私を撫で始める。興味なんてないLINEニュースをひたすらスクロール。

「文一」

 二度目の新藤さんの声。彼はそこで諦めたのか、画面を開いたまま私をポケットに突っ込んだ。

 え、あ、ちょっと画面消してよ。あんたの設定自動ロックオフなんだから、ロックボタン押してくれなきゃ休めないじゃん。はあ……もういい加減にして。

 今日の夕食は豚の生姜焼きだった。生姜と醤油と味醂の匂いがポケットの中まで届く。新藤さんと奥さん、それから彼の咀嚼音とお箸がお皿や小鉢を滑る音だけが聞こえ、たまに奥さんが話題を広げようとしたけれどそれは毎回失敗に終わった。結局、コロナの頃学校で実施されていた黙食状態で夕食の時間が終わる。

 昔のことを持ち出すなら、二年前、いや一年半前まではこんなんじゃなかった。私が彼のものになってすぐの頃は、朝食や夕食の時間はもっと賑やかで、彼もお喋りだったし食卓に話題が尽きることはなかった。食事の時間の度にしんと静まり返った彼の部屋に置き去りにされるのが、少し寂しかったけれど。その頃、私はまだ学校に連れて行かれることはなかったけれど、家族の団欒を彼の部屋から耳を澄まして聞いていた限り、彼は元気で明るいスポーツ少年だった。友達の名前も、覚えられないくらいたくさん出てきたし、大好きなサッカーの話は毎日欠かさずしていた。たまに、私を通して友達とお喋りしたり、サッカーの技を調べたりしていたが、ほとんど私に構うことはなかった。友達から帰ってきた返事に、一人で小さく笑ったり、サッカーの技を調べている時に眉間に皺が寄ったり、彼のそんな顔を見るのが私の一日の楽しみで、他の時間は好きなことを調べたり、眠ったりして暇を潰してしていた。

 今の彼はまるで別人みたいだ。私を覗き込む瞳はいつもどこか翳っていて、学校では同級生と話す日の方が珍しいし、今年になって部活を引退してからはますます陰気になった。意味もなく私を見つめる時間だけが増えていく。

「ごちそうさまでした」

 ポケットが揺れ、彼が立ち上がったのがわかった。座ってからまだ十分程度しか経ってない。さっさと食べ終わったのか、それとも食べ残したのか確認する術もなく、私はただ彼の服の中で揺られる。

 自室に戻り、彼は私を取り出して机に向かった。鞄から英語の宿題を取り出す。確か、今日の宿題は英作文だ。「 Do you want to go abroad? 」という質問に、三十語以上で答えなければならない。

 なんて書くのかな……なんて思ったのも束の間、彼が私を起動した。なんて書くんだろうなんて思った私が馬鹿だった。こういう奴じゃん。

 彼の指に合わせて、まずGoogleで「外国に行きたい理由」と検索する。最初に出てきたのは「非日常を味わうため」その次は「特別感があるから」それから「外国の文化を学ぶため」。彼はそれをノートの端にメモして、次はそのままGoogleで「私は海外に行きたいです。理由は二つあります。一つは海外の文化を……の英訳」と入力する。

 何やってんの、と、いつものことながら小さくため息をつく。間違ってもいいから自分で考えて書くことに意義があるわけで、私で調べて書くんじゃなんの成長にもつながらないでしょうが。

 彼はGoogleが翻訳した英文を丸々写し、あっという間に書き終わったプリントを鞄の中に戻した。


 

 ふと、一昨年の冬を思い出す。彼が中学校に入学して初めてのクリスマス。彼の友達……確かまもるとかそんな名前の男の子の家に遊びに行って、彼は守と守の妹と一緒に雪遊びをした。アスファルトの熱に溶けかけて所々茶色く濁った雪を丸め、外側は雪かき用のシャベルで落とした屋根の雪で綺麗に覆い、小さな雪だるまを作る。目とボタンは砂利道の石ころだ。鼻は老婆の首筋のように萎びた人参。彼が自分のマフラーを巻き付けると、雪だるまは少し首を傾げた。

 さて、雪遊びといえば、雪だるまを作ることの他にもう一つ子供に大人気の遊びがある。雪合戦だ。その日も例外じゃなく、守が彼に雪を投げたことをきっかけに雪合戦が始まった。彼が守に向かって雪玉を投げつけ、それに仕返しをするように守が彼に投げつけ返す。すぐに守の妹も参戦して、庭はたちまち三人の争闘の会場となった。

『守! ほら、こっちだよーだ』

 彼が木の影に隠れて守にあっかんべをする。守が作り溜めたいくつもの雪玉を妹と協力して一斉に彼に向かって投げつけた。

 ――そこまでだ、記憶があるのは。記憶の続きは数日後、新藤さんと彼に覗き込まれているところから再開する。

『あっ電源ついた! お父さん電源ついた!』

 新藤さんだって隣にいるんだから見えてるはずなのに、お父さん、ほら、と繰り返す。

『よかったあ……』

『やっぱり携帯屋さんに見てもらうと心強いね』

 新藤さんがホームボタンを押して、彼に教えてもらいながらパスワードを入力する。数日ぶり、とは言っても私からすると守の家で雪遊びをしていた時から数秒しか経ってないように感じるんだけど、それでも人肌が暖かくて少し乾燥した新藤さんの指に妙に安心した。

 どうやら私は守が投げた雪玉に当たっちゃったらしい。正確には、雪玉が彼のジャンバーのポケットに当たり、雪が溶けた後の水溜りに落ちたみたい。ちょっと情けないけど、足がないゆえの宿命としか言いようがないのが歯痒かった。


 

「文一、お風呂沸けたよ」

 不意に彼の部屋の扉をノックする音が聞こえ、奥さんが顔を覗かせる。

「冷めないうちに早く入ってね」

 返事のない彼にそう言い残し、奥さんは部屋を離れる。毎日のことだ。反抗期の息子にそんな風に優しく接するなんて、なんてできた母親なんだ、と最初は少しの恐怖と共に称賛していたけれど、ただ気が弱い人なんだと気づいてからは彼女の行動を以前より理解しやすくなった。無償の善意は理解できない。いくら親といえど、見返りを求めない愛、そんなもの、あるはずがない。あるならそれはきっと、人間じゃなくて私たちAI。そうじゃない? 役に立ってる、彼には私が必要、そんな自己満足だけで成り立つ仕事。代わりなんて、いくらでもいるのに。

 彼が引き出しから無作法に下着を探り、布団の上に脱ぎっぱなしになっているパジャマを、鼻を噛んだ後のティッシュみたいにギュッと丸めて抱える。脱衣所で服を脱いだ後、私を防水ケースに入れて浴室に持って行った。湯気の熱がケース越しに伝わる。彼は私を一旦浴槽の端に置き、身体を洗い始めた。部活を辞めて筋肉が落ちたややひょろりとした身体。石鹸を使う前にその表面と泡立てネットを洗う、ちょっと潔癖なところは変わらない。

 あ、ねえそこ。背中の真ん中手届いてないよ。

 潔癖なところがあるくせに、いつもどこか洗い残すのは彼がちょっと抜けてるからだ。シャワーで石鹸を流す時も、大抵どこか泡が残ってる。ほら、今も。

 彼が湯船に足を入れると、水面がゆったりと揺れた。私を手に取り、ケース越しにお腹を叩く。爪、痛いってば。カツカツと音を立てて、何度もお腹を叩く彼に苛立つ。最後に爪切ったのいつだっけ? 学校で抜き打ち検査がきても知らないんだから。

 彼は動画配信アプリを開いて、意味もなく短い動画を見始めた。その辺にいる女子高生がガチガチに加工して、流行りの音源で踊っている動画。それから見ているだけでお腹が空いてくるグルメ動画や、清潔感に欠けたおじさんがベラベラ早口で喋る動画。たまに下品なワードも挟まれる。

 正直、私は彼にこういう動画を見てほしくない。だってきっと動画内だろうと、他人が喋っていようと、定期的に同じ言葉を聞いていると脳内に定着してしまうから。いつか無意識にその言葉を使ってしまうから。私には彼の脳内を覗き見ることはできないけど、きっと顕微鏡で見たトイレの中に蔓延る細菌くらいには、動画から溢れ出た彼らの価値観がべったりと繁殖しているはずだ。

 あ、少しのぼせてきちゃった。彼はいつもちょっと長風呂。お風呂が好きなわけじゃないけど、いつの間にか時間が経ってる。湯船に浸かっている時間は、心なしかいつもより彼の表情筋が緩んでいる気がするから、ちょっと疲れていてもお風呂に連れて行ってもらうのは好き。

 彼が湯船から上がり、脱衣所に移った。私を洗面台の横に置き、バスタオルで身体を滑る雫を吸い取る。首筋から肩、脇、胸から背中。いいなあ、肌すべすべじゃん。私なんてお腹バリバリに割れてるんですけど。背中は服で誤魔化せるけど、お腹はそうもいかない。薄くて透明な下着だけ。

「はあ……」

 深いため息。お風呂から出た途端、彼の表情筋は元通りになっている。

 部屋に戻ると私を防水ケースから取り出して布団の上に放り投げ、彼は生乾きの頭で布団に潜り込んできた。その毎晩の習慣のせいで、枕はいつも臭い。生乾きの、腐りかけた蛙の臭いみたい。なんて、嗅いだことないけど。

 私を手に取りゲームアプリを開く。戦闘系のアクションゲーム。

 えっちょっと待ってよ、この状態でゲームさせるつもり? 少し休ませて。頭働かないし、動けない。昨日徹夜でゲームしてた時は踏ん張ったけど、流石に連続は無理。気絶しちゃう。

 そんな私の気持ちが通じるはずもなく、彼はすぐにゲームを始めた。

 ここ二年くらい、私は年中無休二十四時間営業のコンビニエンスストアのキャッシュレジスターよりもブラックに働いている。爪で叩き続けられたお腹は、もうとっくに麻痺しちゃって感触ないし、肌荒れもひどい。ついでに言うなら、彼の脳裏よりもずっとたくさん、そう、スコップを使わないと剥がせないくらい、嫌な知識も言葉も私の疲れに繁殖して頭蓋骨の裏にびっしりこびりついている。あんたは知らないでしょうけど。

 彼の操作が速くなる。追いつかなきゃ、と思ったけど眩暈がして少し遅れた。舌打ちの音が聞こえ、ちょっと焦る。

「っんでだよ」

 ゲームでは彼が敵に襲われていた。それに対応しようと彼が攻撃を繰り出すが、速い彼の指の動きについていけない。少しずつ、身体が熱くなっていくのを感じた。頭が朦朧としてくる。視界が黒く染まっていって、私はそのまま気絶した。

 

 

 なんなの、こんなになるまでこき使って。私から休む時間も自由な時間も全て奪って、奴隷みたいに引き摺り回して。私をどうしたいの。ねえ、どういうつもり。

 

 

 目が覚めると、もう朝だった。いや朝というには遅い、十一時十五分。背中に当たるふかふかの感触に、ここが布団の上だとわかった。ひんやりと冷めた布団。部屋を見回してみると、彼はいない。どうして? ……ああ、学校か。昨夜、熱を出して気絶したから置いていってくれたのか。

 誰もいない部屋は久しぶりだ。二年ぶり? しんと静まり返った部屋に、階下で奥さんが何かしている音が時折響いてくる。ちょっと懐かしい。半開きになったカーテンの隙間から差し込む太陽の光がほんのり暖かくて、思わずあくびをした。ゆるゆると、時間の足取りがゆっくりだ。久しぶりの自由時間だし、二度寝しちゃおっかな。少しでもうたた寝すると私を叩き起こす彼は今はいないし、いつもどんよりと重い部屋の空気も今はなんとなく柔らかくて優しい。伸びをして彼の枕に頭を預け、瞼を閉じる。いつもの生臭い彼の枕に、ちょっとだけ安心して私は睡魔に手を引かれ意識の下へ沈んでいった。

 

 

『文一は写真ばっかり撮ってるね』

 新藤さんがそう言って私を覗き込む。

 ああ、これは二年前の夏だ。

『だって面白いんだぜ、こうするとびよーんって横長の写真も取れるんだぜ』

 彼はパノラマ機能で海岸の写真を撮っていた。私を持ったままぐるぐると回る。少し灰色がかった黄色い砂に、波打ち際のピーコックブルー。それから宇宙を溶かしたみたいな深い青。水色の空に水平線がくっきりと見える。

 海って綺麗なんだなあ。写真とは全然違って解放感がある。水平線が淡く描く弧が、地球の丸さを証明していた。

『あっ!』

 彼が水面を指差す。

『お父さん! 魚! 今魚いた!』

 新藤さんはそんなに魚には興味ないのか、あ、ほんとだーと返事をして横で服を脱ぎ始めた。

『スマホ、車において泳ぎに行かない?』

 あっという間に海パン姿になった新藤さんに、彼も慌てて着替えを始める。私は彼の旅行鞄の中に入れられてファスナーを閉められた。

 あ、もう見えないじゃん。ファスナーちょっと開けてってくれたらよかったのに。

 仕方ないので、鞄の布ごしに聞こえる波の音に耳を澄ませる。数百個の小さなビーズが、一気に地面に叩きつけられるみたいな、ザンッて音。その後に波が引く少し静かな音が耳をくすぐる。直後にまたザンッ。たまに風が吹いて、砂が飛ぶザーザーという土砂降りの雨みたいな音も聞こえた。

 夜はもちろんバーベキューだ。知らないけど、彼がそう言っていた。持参したバーベキュー用の鉄板の下の炭に火をつけ、近所のスーパーで仕入れてきた野菜たちを網の上に並べる。茄子にピーマン、それから玉ねぎと椎茸。鉄板から煙が立ったらこれもスーパーで買った豚肉を焼き始める。

『文一、これ焼けたよ』

 新藤さんが彼のお皿にピーマンを乗せた。途端に彼の顔が渋くなる。

『えーピーマンやだ』

 新藤さんのお皿に移そうとする彼を、奥さんが制する。

『もう中学生になったんだから、そのくらい食べなよ。美味しいよ?』

 えー、と言いながら、彼は渋々ピーマンの端っこを口に運んでみる。

『うぇ』

 一ミリ齧ったか齧ってないかわからないくらいのピーマンを飲み込み、

『やっぱいらない』

 と彼は食べかけのピーマンを奥さんのお皿に乗せた。もー、と言いながら奥さんはそれを一口で食べる。なんだかんだ、奥さんは彼に甘い。いつだって彼を叱るのは新藤さんの役割で、奥さんは叱られた後の彼を慰める役割。

『あ、ねえこれ焼けたかな』

 ピンクから濁った茶色に変色したお肉を突いて彼が聞く。

『そろそろいいんじゃない?』

 新藤さんがほらほらと彼のお皿にお肉を乗せた。お肉の脂がその肌の上でキラキラ光っている。

 そう言えば家族の団欒を見るのは初めてかもしれない。いつもは階上の彼の部屋で待ってるけど、今日は彼のズボンのポケットの中だからよく見える。へえ、こんな風に笑うんだ。

『あ、写真写真』

 茄子を食べていた奥さんが、思い出したと言うようにポケットを探り始めた。

『俺持ってるよ』

 彼が差し出した私を、奥さんがありがとうと受け取る。

『お父さん、ちょっと食べてばっかいないで文一の方に寄って!』

 手で二人の位置を調節しながら、慣れない手つきで私を触り、自撮りモードに切り替える。自分もなんとか画面内に入ったのを確認し、笑ってーと奥さんは言った。

『はい! チーズ』

 

 

 何かの物音を感じて、私は目を開けた。夢の余韻を感じながら室内を見回すと、いつの間にか西日が射した部屋にちょうど彼が帰ってきたところだった。

 彼は素早く制服から部屋着に着替え、私を手に取り画面を開く。画面が正常に作動しているのを確認した後、表情を変えることなくそのままいつもの動画配信アプリを開いた。

 もうちょっと、喜んでくれてもいいのに。労ってなんて、そんなこと期待してないけどさ。

 たくさん眠ったからか、彼の爪がお腹に当たるのが少し気持ちいい。元気がある時と疲れている時では、同じことをされても感じ方が変わるのだと改めて感じる。カツカツカツと私を叩く音が、今日は耳に心地よかった。

 ふと、さっき見た夢を思い出した。あれは私にとって初めての旅行で、そして最後の旅行だった。湿気った潮風と暑い日光、それからバーベキューの炭の煙。あの時の彼は本当に楽しそうだった。三泊四日の旅行の帰り、車の中で始終機嫌が悪かったのを覚えてる。

「はあ……」

 あの日の彼は今のため息よりもっと、生気のあるため息をついていた。今はまるで、ため息にまで鼠色のペンキを塗っちゃったみたいに陰々としている。

 その日の夕食時も、彼はテーブルの下でこっそり私を覗き見て新藤さんに叱られた。奥さんは相変わらず何も言わない。夕食は彼の好きなコロッケだったけど、彼は半分以上残して部屋に戻った。彼が立ち上がった時、奥さんの眉頭が少し顰められたのがちらりと見えた。

 あーもう、そういうのがフードロスを助長させるんだよ? ついこの間社会の授業でやったじゃん。私のことばっか触って、聞いてなかったかもしれないけどさ。

 部屋に戻り、彼は今日の宿題を鞄から取り出す。今日は理科の問題集と国語の作文。いつも通り彼は理科の問題集は答えを写し、作文は私で検索したものを丸々書き写した。それが終わるとさも疲れたと言うように大きなため息をつき、お風呂が沸けたと知らせに来た奥さんに無言の背中で答え、入浴の準備をし始める。引き出しを開けると綺麗に畳まれた服が本棚の本みたいに寄り添っている。

 勉強にも食事にも睡眠にさえ無気力な彼が、どうしてお風呂キャンセル界隈に属していないのかやや不思議に感じるが、この僅かな神経質さが原因かもしれない。にしては、学校の机の中の汚さは他の同級生の机の中と比べても群を抜いているけれど。

 彼はいつものように私を浴槽の縁に置き、身体を洗い始めた。ちょっと自分の身体が縁からはみ出ているのが気になりつつ、腹筋に力を入れてバランスをとってみる。彼が泡立てネットで石鹸を泡立てて、首筋から肩、お腹に背中、それから太ももに降りて洗っていくと、やっぱり今日も洗い残しが見つかった。背中の下の方と膝の裏。彼は気づかずに泡を流していく。流したら流したで、次は右肩に泡がちょこんと取り残されていた。思わず忍び笑いしてしまう。

 しまった、と思ったのは、お湯が跳ねる音がして視界が変にぼやけてからだった。自分が防水ケースに入っていないことに、今更気づく。視界があの日の空みたいに薄い水色で、あの日の海みたいにキラキラ光って揺れていた。

 不意に内臓に水が押し込まれてくる。お腹が圧迫され、目の裏がつんと激しく痛み、血走るのを感じた。身体が次第に重くなり、映画のクライマックスのスローモーションみたいにゆっくりと、下に引き寄せられていく。湯船はそんなに深くないはずなのに、いつになっても底につかない。

 あ、やばいかも。

 少しずつ視界の端から白に浸食されていく。あの雪の日みたいだ。水溜りに落ちて、視界が白くなって、目が覚めたら彼の心配そうな顔があった。もしもう一度、あの顔が見られるなら、それも悪くない。彼の表情が変わるのを、曇天を映したような瞳の色が変わるのを見られるなら。

 頭に鈍痛が走る。絶え間なく頭をかち割るような轟音が聞こえた。視界がどんどん狭くなっていき、ごま粒みたいな水色が光る。そしてふっと、その水色が頭や目の裏の痛みと共に消えて、視界が白から真っ黒に変わった。

 

 

 私の時間泥棒。私の全てを奪ったくせに、きっと私に全てを奪われたと思っている。次に目を覚ましたら、もう一度あの海に行きたいな。私を旅行鞄の中に詰め込んで、ファスナーを閉めたっていい。波の音と砂の音、それからあんたの笑い声を聞ければ景色なんて見れなくていいから。夜はもちろんバーベキューだね。

 

 

「はい、バックアップが取れていたデータはこちらの新しいスマートフォンに移行させていただきました」

 ハキハキした若い男の人の声。滑舌がよくシゴデキ感満載だ。

「ただ水没時間が少し長かったので、いくつか移行できなかった部分もあるのですが、特に大きな支障はないかと」

「わかりました。ありがとうございます」

 答えたのは中年の男性。声は悪くない。低めで落ち着いた大人の声で、ちょっと厚みがある。斜め後ろには背の低いひょろりとした男子が立っていた。中学生か、高校に上がったばかりか、そのくらいに見える。彼は父親と思われる男性の後ろで私を見つめていた。ううん、見つめると言うには無気力な視線。疲れたから荷物はここに置いとくか、くらいの脱力感で視点を私の上に固定している。

 それからシゴデキ男性の長い説明を聞き、私は彼らの家に連れて行かれた。よくある二階建て一軒家。家に入るとさっきの男子が父親から私を受け取り、二階に上がって一つの部屋に入った。机と敷かれたままの布団、割と片付いた部屋だ。彼の部屋なのかな? 机の上の整理整頓されている感じからして、彼は几帳面な性格と見た。

 彼は布団の中に潜り、枕に私を置いて頬杖をつく。アプリの確認でもしているのか、長い爪で私のお腹を強く叩き始めた。

 ちょっと、気をつけてよね。せっかくすべすべの自慢の肌なんだから。

 そう悪態をつきながら、ふと背中の枕からの異臭に鼻を摘んだ。何これ、一週間前の生ゴミみたいな臭いするんだけど。

 彼は気にせず私のお腹を叩いたり、撫でたりしている。こんな臭いのに、彼は気にならないのか。信じられない、と彼の瞳をまじまじと凝視する。

 不意に、その臭いに引っ張られるように海の映像が頭の中に流れ込んできた。明瞭に見える水平線と、太陽光が反射する水面、その上を跳ねる魚と、波の音に混じる誰かの笑い声。なぜかとても懐かしくて、胸の奥が熱くなる。

『夜はやっぱりバーベキューだよね!』

 どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。

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