あえかな彼女は苦痛の女王

粘膜王女三世

あえかな彼女は苦痛の女王

 そのゲームは単に『決戦』と呼ばれていた。

 ルールは然程複雑ではない。まず、向かい合う対戦相手二人の左手を、中央のテーブルに固定する。そして自由になる右手を使って相手の固定された左手を攻撃し合い、痛みに耐えかねて降参した者が敗者となる。

 道具の持ち込みは自由。複数持ち込むことも許されるが、総重量は一キログラム以内。

 ペンチで相手の指を潰す者、熱した針を爪の間に差し込む者、ナイフで指を切り落とす者など、戦術は様々。運営が用意した道具の中から好きなものを選択する場合がほとんどだが、極一部特注した拷問器具などを持ち込む者も存在する。

 今宵もまた、新たな『決戦』が始まろうとしている。

 私はパソコンのモニター越しにそれを見守っていた。

 参加者の一人は体格の良い三十代程の男。事業に失敗し、『決戦』を運営する組織に大きな借金を抱えることとなった。精悍な顔立ちには緊張が滲んでいるが、皺の寄った眉間と結ばれた唇には、これから始まる戦いへの覚悟が感じさせられる。

 もう一人は、二十歳にも達さないだろうという、いとけない少女だった。

 可愛らしい整った容姿をしていた。黒い髪は長く、肌が白い。小ぶりな鼻梁はつんと尖っていて、小さな唇は薄桃色だ。黒目がちの大きな目を床の方に俯けていて、自由になる右手で胸のあたりを握り締めている。どこか弱々しいあえかな雰囲気の持ち主だったが、緊張をあからさまにはせず、憂いを帯びた表情を浮かべていた。

 席に着き、手首および指の根本で左手を硬く固定された二人の脇には、小さめのサイドテーブルが設置されている。そこに置かれているのは勝負の命運を分ける二人の道具だ。男の道具は針とそれを熱するライターという組み合わせに、何に使うのか竹のような素材で出来た細長い棒。少女の方は、シンプルなナイフと、それにペンチ。

 私はマウスを操作して二百万円を男の方に賭けた。

 しばらくしてトトカルチョの倍率が表示される。少女の倍率は1.09倍に対し、男の倍率は約8倍程。この少女の出場するゲームならいつもこんなものだ。堅実に賭けているつもりの者と、大穴を果敢に狙う者によって成り立つギャンブル。

 現地の者、モニターを通じて眺める者など、無数の観戦者が見守る中で、黒服を着用した司会者が『決戦』開始の合図を下した。

 試合はいきなり動いた。

 男が自身の細長い棒を手にし、少女のサイドテーブルを突き倒したのだ。

 倒れたサイドテーブルに乗せられていた少女の道具が、たちまち床に散らばる。

 ルール上、反則とされているのは左腕を除く身体を攻撃する行為のみである。相手のサイドテーブルを倒す行為に対する規定は存在しない。運営の想定範囲外。ルールの穴を突く奇策。

 左腕を中央テーブルに固定されている都合上、それらの道具を拾いに行くことは不可能だ。開始一秒で丸腰となった少女は呆然とした表情を浮かべる。

 男は笑みを浮かべて自身の得物である針をライターで熱し、少女の左手人差し指の爪の間に差し込んだ。

 少女の悲鳴がモニター越しに響き渡る。

 意外なその展開に、私はブランデーのグラスを置いてモニターに向けて前のめりになった。賭けた二百万円が何倍にもなる期待以上に、この少女の敗北と破滅が見られることへの興奮が、私の胸を染め上げた。

 しかしそれは一瞬のことだった。

 勝利を確信した男の向かいで、少女の右手が静かに動く。

 男の左手小指を握り締める。

 そしてあっけなく圧し折った。

 今度は男が悲鳴を上げる番だった。手にしていた二本目の針が、男の手から零れ落ちる。

 間髪入れず、少女はまたも男の指を握り締め、圧し折った。

 「やめろっ、やめろっ……」

 男の声が漏れ出る。しかし少女は淡々とした表情で、道具も使わずに男の指を次々と圧し折って行く。痛みに悶えていた男は必死の形相で針を持ち直し、少女の爪の隙間に突き刺すが、苦悶の表情を浮かべさせさえすれ降参させるには至らない。

 この残忍な拷問ゲームにおいて、道具の存在は極めて重要なファクターである。相手により強力な苦痛を与える道具を選べば有利になり、選べなければ者は不利となる。爪に針を刺す戦術は安直だが極めて有効であるとされており、多くの者は一本目を刺された時点で戦意喪失し、二本目を刺される前に降参する。

 しかし少女は三本目を突き刺されても降参しなかった。少女は右手を休ませることなく、男の指を一本ずつ圧し折って行く。その度男は激しく悲鳴を上げ、あらぬ方向に降り曲がった指は青紫に変色した。

 五本すべての指が折られる。

 少女は一度折れた親指を握り、先ほどとは反対方向に捻じ曲げる。

 これまでで最大の悲鳴を男は上げる。そのまま手を休めることなく次なる指に狙いを定める少女の黒い瞳に、恐れを成したかのように男は身を竦ませた。

 そして声を漏らす。

 「……降参だ」

 少女の顔から力が抜ける。司会者が少女の左腕を解放し、右手を持ち上げて叫んだ。

 「ウィナー・クロカワ! 今宵もチャンピオンの勝利だ!」

 現地観戦者の歓声が轟く。顔中汗まみれで息も絶え絶えの少女が映るモニターに、私はブランデーのグラスを叩き付けた。


 〇


 クロカワは組織の運営する俗悪な『決戦』ゲームにおいて、無敵を謡われるチャンピオンだった。

 黒目がちの大きな瞳の可愛らしいその顔は幾度となく苦悶に歪んで来たが、しかしその口から『降参』の言葉が放たれたことは一度もない。

 その性格は無口で、組織に対して従順。忠誠を誓っているというよりは、単に逆らえないのだろう。振る舞いもどことなく臆病そうだが、実際に肝が小さいことを私は良く知っていた。

 「ちわっす。院長センセイ。こないだは残念っしたね」

 ある日、金髪ピアスの軽薄な身なりの若い男が、私の経営する病院に尋ねて来て言った。

 「残念とは、いったい何のことかな?」

 「『決戦』のことっすよ。またクロカワの出るゲームで逆張りして、すっちまったんでしょう? センセイも金持ってるから良いとは言え、懲りないっすよねぇ」

 組織のエージェントである立浪は、私が誰に賭けたのかを把握している。私は彼を通じて賭けているようなものだった。

 「もっと堅実に賭けりゃぁ良いのに。どうせクロカワには誰も勝てないんだから」

 「私の勝手だ。まったくどうしてあんなに強いんだ? モルヒネでも打たせてるんじゃあるまいね?」

 「いやいやセンセイ。クスリとか麻酔とか、そういうのでチートするのはご法度っすよ。そんなことより……」

 立浪は背後に控える小汚い風体の中年を指さして言った。

 「こいつを入院させて貰えないっすかね?」

 「生活保護受給者か?」

 「ええ。『ぐるぐる』のホームレスっすね」

 『ぐるぐる』とは、住所のない生活保護受給者に適当な病名をでっちあげ、様々な病院に繰り返し入院させ、国から支給される医療扶助金で儲ける手口のことである。

 同じ患者を長期間入院させていると、入院費などが安くなり扶助金の額が低下する為、複数の病院で患者をぐるぐると回すのが特徴だ。同じ患者が何度も病院に戻って来ることも珍しくなく、その度に一から検査などを受けさせ、さらに儲けるのだ。

 それらの行為を、立浪のような犯罪組織の人間が裏で仕切っているのは言うまでもない。

 「それしきの用なら、下っ端の黒服に連れて来させても良いのではないかね?」

 「いやぁ。センセイは大切なお客様。俺が直接出向かないと」

 「そうかね。ところで、次にクロカワが出るのはいつになるかね?」

 「何か月かはかかるんじゃないすかね? 左手のケガが綺麗に治るのにはどうしても時間がかかるし、あの子はただでさえ心身ともにもうボロボロっすからね」

 クロカワの手は中指と人差し指が欠損し、親指の付け根の骨が変形治癒してまとも動かせなくなっていた。痛覚は正常に機能していることが組織によって証明されている為、ゲームへの参加は問題なかった。

 「センセイがあのガキに入れ込む理由は分からなくもないっすけどね。仕舞に破産しないように注意してくださいね」

 言い残し、立浪は病院を去った。


 〇


 妻子がいなくなった今、『決戦』こそが私の生き甲斐だった。

 少年時代は勉強に捧げ、有名大学の医学部に入った。優秀な成績で卒業し医者になり、有名病院に就職したが、かつて妻だったあの女の所為で、私はそこで働けなくなった。

 私は独立を決意する。若くして立ち上げた病院の経営を軌道に乗せる為には、犯罪組織と癒着することも厭わなかった。

 組織を通じて様々な汚職に手を染め、その甲斐もあって病院を大きくすることに成功した。彼らとのコネクションを得ることは、私のもう一つの最大の目標を果たす為に不可欠だった。

 過去と決別する為に私が果たすべきは、クロカワの破滅を見届けることだけ。その為には、『決戦』でクロカワに勝利し得る強力な駒を用意する必要があった。

 「先生」

 看護師が声を掛けた。診察室のデスクで一人物思いにふけっていた私は、視線だけで小さくその声に答えた。

 「患者様が来られます」

 「成瀬さん?」

 「そうです」

 成瀬が入って来る。十九歳の若い女だ。二回り年の違う私にとっては、子供であると言っても良い。

 猫のような目が印象的だった。外側に少しつり上がり気味の、黒く澄んだ光彩の瞳をしている。まつ毛は針金のように長くくっきりしていて、鼻筋は良く通り、小さな丸顔を綺麗に切りそろえられたボブの髪が覆っている。

 「すまないが、患者と二人にしてくれないかな?」

 人払いをすると、診察室の看護師は訝るような顔をしながらも、逆らうことはせず部屋を出た。

 「成瀬さん」

 声を掛けると、成瀬は猫のような目をくしゃりと微笑ませた。陶器のような白い歯が口元からこぼれる。

 そして期待をにじませた声で言った。

 「あの。先生、この間のお話、本当ですか?」

 私はこの女に強い期待を寄せていた。


 〇


 「無痛症の患者がいる?」

 組織のエージェントである立浪は、私から離しを聞くなり素っ頓狂な声を出した。

 「そうだ。痛みを感じる神経機能が正常に発達しておらず、汗もかかず、痛みも感じられないという病だ。奇病中の奇病で、日本における患者の総数は二百人程度とされている」

 「で、その二百人の内の一人をセンセイは探し当てたと?」

 「そうだ。伝手という伝手を辿って、可能な限りの病院を調べ歩いた」

 「で、そいつをどうするつもりなんすか?」

 「『決戦』に参加させる。クロカワにぶつけるんだ。無痛症ならクスリや麻酔で反則をしていることにならないだろう」

 私は言った。立浪は呆れた様子で顔を顰める。

 「まったクロカワっすか。そりゃあ痛みを感じないんだったら無敵でしょうけどね。でもどうしてその成瀬とかいう奴に、『決戦』に出る道理があるっていうんですか?」

 「成瀬は金を欲しがっている」

 「何の為に?」

 「今はフリーターだが、友人とアクセサリー会社を立ち上げたいんだそうだ」

 「バカじゃないっすか?」

 立浪は腰に手を当てて、小さく腰を屈めた。

 「『決戦』に負けた人間に与えられる罰は死っすよ。債務者が命を賭けて痛みに耐えて、最後に死んだ方がマシだと降参していく様を、ギャラリーの俗悪な富裕層共は求めてるんすから。極稀に気絶による決着もあるっすけど、そんなのは誰も求めちゃいない……」

 「そんなことは分かっている」

 「借金が返せなくて組織に飼われてる債務者のクズが、最後の悪足掻きにチャレンジするのが『決戦』なんす。そんなアホ女のアホ事業の資金繰りに使うもんじゃねっすよ」

 「だがこのままクロカワにばかり勝たせて良いのかね? 皆そろそろ、クロカワには食傷し始める時期だと思うが」

 『決戦』を愛好する観戦者の誰しもが、クロカワの勝利を疑わなくなっていた。結果の分かっている勝負はつまらなく、正解の分かっているギャンブルは成立しない。

 「それはそうなんすがねぇ。上からも新しいチャンピオンがそろそろ必要だって言われてるし、良い機会と言えばそうなのかも」

 「そうだろう。成瀬を使ってくれないか?」

 立浪は考え込むように沈黙した。軽薄な身なりに見合わぬ仕草で口元に手をやった後、へらへらとした口調で口にした。

 「若いカワイ子ちゃんなんすよね? だったら、まずは一緒に飲みに行くところから始めなくっちゃ」


 〇


 かつての妻のことを考えない日は一日たりともない。

 独立する以前、雇われていた病院の受付をしていた女だった。美しい女だった。華やかで誰とでも明瞭に口を聞き、日常のあらゆる所作や動きの一つ一つに、くっきりとした輪郭が伴うような女だった。病院で働く男達は皆多かれ少なかれ、その振る舞いに関心を払っていた。

 そんな彼女に、ある日私は食事に誘われた。私はすぐに虜になった。彼女は魔性の持ち主だった。机の下で絡められる両足と妖艶な目付き、酒に火照った赤い頬、全身から匂い立つようなその色気に、私はたまらなくなった。

 その日以来、私は狂ったように彼女を追い掛けた。軽やかに私から身を躱し、かと思えば不意打ちのように懐に飛び込んで来る彼女は妖精のようだった。意のままに翻弄されながらも、私は彼女との交際を続けた。

 数年の時を経て、私は彼女と結婚した。幸せの絶頂だった。もう他に何もいらないとさえ思った。

 ……それなのに。

 奴は私を裏切った。いや、最初から裏切っていたのだ。

 復讐は完遂させねばならない。

 あの女の残したもの全てを根絶せねばならない。

 私は『決戦』の会場に来ていた。成瀬とクロカワの『決戦』を、直にこの目で見届ける為だ。

 「……始まりますよ。センセイ」

 他の少数のVIP達と共に、会場の豪奢な椅子に腰かけた私に、立浪が声を掛けて来た。そこらの黒服達とは異なり、立浪は金髪ピアスに似合ういつもの軽薄な身なりだった。

 「立浪。君も見に来ていたのか」

 「センセイにとってもこれは大勝負っすからね。見届けに来たっす」

 私は成瀬に財産の大部分を突っ込んでいた。目論見通り成瀬が勝利すれば、十倍近い配当金が手に入るのだ。クロカワの対戦相手に賭けるのは、彼女の破滅を願う私の習わしだったが、それも今日で最後になるはずだった。

 「一応言っとくっすけど、サイドテーブルはしっかり床に固定してあるっす。サイドテーブルを倒すなんてチャチな戦略はもう使えないっすね」

 「あれはゲームを盛り上げる為に運営が意図して用意した裏技だったと専らの噂だが」

 「そうっすけど、一回使われたらおしまいっすから」

 クロカワと成瀬は左手を固定されたテーブルを挟んで向かい合っていた。いつものように暗い表情で視線を俯けるクロカワに対し、成瀬は緊張している様子で、しきりに額の汗を右腕で拭っている。

 「あんたさぁ。勝ち目あると思ってんの?」

 成瀬は猫のような目を挑発的な形に捻じ曲げる。

 「あたし無痛症って言ってさ。痛みを何も感じない体質なんだ。その所為で、脚の指が折れたまま何日も気付かず暮らしたこともあるんだよ?」

 クロカワは何も答えない。

 「十歳の時なんてね、あたしを殺そうとした父親に後ろから包丁で刺されたんだけど、痛みに気付かなくって。気配だけは感じたから、普通に振り向いて『お父さん』って甘えに行ったの。その父親から刺された包丁が背中から刺さったまま、血まみれであることにも気付かずね」

 その時ふと、クロカワは何かに気付いたように俯けていた顔を上げて、蚊の鳴くような声で呟いた。

 「……お父さん?」

 「は? ええ。だから、あたしはお父さんに背中を刺されて……」

 「時間です」

 司会の男が言った。

 憮然とした様子で成瀬は額の汗を右手で拭った。クロカワはちらりと私のいるギャラリーへと視線をやった後、居住まいを正して『決戦』に備えた。

 「始め!」

 ゲームが開始される。

 成瀬が素早く動いた。サイドテーブルに置かれた己の得物を手に、クロカワの左手に襲い掛かる。

 私が成瀬の為に用意したのは、『親指潰し』と呼ばれる中世の拷問器具をアレンジしたものだった。両端のネジ状の支柱で固定した二枚の鉄片を、ハンドルを用いて自在に締め上げる仕組みである。その形状は対象の指を挟み込んで万力のように締め上げ潰してしまう。

 「死ねっ」

 成瀬はクロカワの親指を締め上げる。一息には潰さない。一瞬で捻り潰すしかないペンチなどとは違い、力加減が効くところに特徴がある。血流が滞って指先が痛みに鈍化することがないよう、緩急を付け最大の苦痛を加えながらじわじわと親指を圧迫していく。こうした使い方も成瀬には教育してある。全てクロカワを苦しめる為だ。

 苦悶を浮かべるクロカワ。しかし降参と口にすることはなく、自身のサイドテーブルから獲物を持ち上げた。

 それはシンプルなナイフだった。

 成瀬の表情に緊張が宿る。クロカワは成瀬の指の先にナイフを当てると、爪の裏を抉るようにしながら、そこにある柔らかな肉を切り離し始めた。そうして爪の裏の肉を繰り抜き終えると、人差し指の白い骨の色が露わになった。

 露わになった先端の骨を、クロカワはペンチで掴む。そして勢い良くペンチを引っ張って、第一関節から先の骨を指から引き抜いた。

 からりと音がして、クロカワのペンチから末節骨がテーブルに落ちる。

 成瀬の顔から血の気が引いて行く。痛みはなくとも、身体の一部を失ったことに対し動揺している。欠損はあらかじめ覚悟しておくよう伝えておいたが、その奪い方が視覚的にあまりにも生々しいことから、想定以上のショックを受けたようだった。

 「あたしの手が……っ。やめてよ! これ以上やるともっと痛くするよ?」

 成瀬はクロカワを降参させようと必死に器具のハンドルを回した。骨が砕ける音が響き渡る。

 「痛いはずでしょ? 苦しいはずでしょ? ねぇ、どうしてこんなの我慢できるの? あ、あんた、イカれてんじゃないの?」

 必死の形相で次々とクロカワの指を潰す成瀬だが、クロカワは苦悶の表情を浮かべるのみで降参をしない。

 対して、成瀬はクロカワの手によって関節から一つ一つ解体されて行く己が左手を見て、眩暈を覚えたように頭をふらつかせ始めた。

 「やめてってば! あたしの指がっ! 指……が……」

 指を失う恐怖と、自分の身体に起きているグロテスクな情景に耐え兼ね、成瀬はやがて前のめりに机に上に突っ伏して倒れた。

 激しい音が会場に轟く。

 司会者の黒服がテーブルに近付き、成瀬の状態を確認した。そして言った。

 「ウィナー・クロカワ!」

 クロカワの右腕が司会者に持ち上げられる。歓声が上がる会場。

 呆然とする私を冷やかすように、立浪が肩を竦めながら言った。

 「気絶負け。珍しいっすねぇ。よっぽどショックを受けたんすね。自分から痛みを感じないなんて見栄切ったもんだから、視覚的にエグい方法に切り替えられちまったって訳だ。あんなのされたら俺だって思わずくらっと来ますよ」

 私は苛立ちのあまり椅子の腕置きを激しく叩く。あのバカ女めと、罵声が思わず口を突く。

 「あんま怒んないで下さいよセンセイ。というか……」

 立浪はおもむろな足取りで倒れ伏す成瀬に近付く。そして懐から取り出した拳銃を成瀬の右肩に突き付ける。

 「こいつ、確かに左手に痛みは感じてなかったみたいっすけど。だとしても、無痛症ってのは、センセイの嘘っすよね?」

 引き金が引かれる。

 成瀬の肩から噴水のように血液が迸る。その痛みに目を覚ましたのか、成瀬の口から空気を裂くような悲鳴が轟いた。

 「キャアアアアアア!」

 騒然となる会場。泣き叫ぶ成瀬。

 「痛い痛い痛いっ! 痛いぃいっ!」

 私は自分の顔から血の気が引くのを感じる。そして思わず立浪の方に向き直った。

 「どうしてそれに気付いた?」

 「センセイが自分で言ってたんじゃないっすか? 無痛症の奴は汗をかかないって。なのにこいつ、決戦が始まる前にしきりに袖で汗を拭ってたじゃないすか。丸分かりですよ」

 思わず肩を落とす。最早観念するより他になかった。

 「左手にだけ麻酔を打ってたんすか?」

 「そうだ」

 「医者だから簡単に出来るって訳だ。前に俺の前で成瀬が無痛症であることを証明して見せた時も、同じ方法で騙してたって訳っすか」

 「そうだ」

 「だとしたらこいつはどこのどいつ?」

 「私が個人的に援助していた女だよ」

 「パパ活っすか?」

 「……そうだ。バカな女だし、金さえ与えておけば何でも言うことを聞くから、騙して『決戦』に出させるには都合が良かったんだ。麻酔さえ打てば誰でも勝てると思って……」

 「んな訳ないでしょ。クロカワも『決戦』も舐めすぎ。こんなアホ女を大事なギャンブルに使うなんて、センセイもたいがい間抜けっすよ。まあどちらにしろ……」

 立浪が指を鳴らすと、会場にいた数人の黒服が私を取り囲んだ。

 「センセイにはペナルティっすね。神聖な『決戦』を卑劣な麻酔なんかで汚したんすから。ちょっと来てもらいますよ?」

 全身から力が抜けた私に、身を震わせながらこちらを伺っていたクロカワが声を掛けた。

 「お父さん……どうして」

 「うるさい! 誰がお父さんだ!」

 私は私に降り注ぐ全ての絶望と苛立ちをクロカワに向け、怒鳴り付ける。

 「本当な親子じゃないことくらい、おまえだってとっくに分かっているだろう!」

 臆病なクロカワはそれで竦み上がり、視線を床に逸らした。

 「おまえが八歳の時に無理矢理行ったDNA鑑定。あれの結果おまえが私の子じゃないと分かった時、私がどれほどの憎しみを覚えたか! あの女やはり……あいつと浮気をしていやがったんだ!」

 結婚する以前から、あの女の周りにはあの男の影があった。

 妊娠したから責任を取って欲しいなどと戯言を抜かしておいて、元妻は最初から、孕んだ子供があの男……黒川蛍介の子供だと分かっていたのではないか? しかし経営の危うい零細事業者である黒川と結婚するのを嫌った元妻は、裕福な堅実な医者である私を結婚相手に求めた。そして影では黒川との交際を続けていた。私を嘲笑っていたのだ!

 立浪がへらへらと口を挟む。

 「センセイが過去に努めてた病院に出入りしてた、医療器具メーカーの若社長でしたっけね。せっかく出世コースに乗ってたのに、寝取られ男であることが職場にバレていたたまれなくなり、辞めちまったんだとか」

 「うるさい!」

 「別に被害者なんだから堂々としてりゃ良かったでしょうに。センセイ無駄にプライド高いんだからなー。そんで復讐の為に俺ら組織と繋がりを持って、引く程金を使って数年がかりで寝取り野郎の会社を倒産に追い込んで、債務者に仕立て上げた訳だ」

 そうだ。私は完璧に復讐を果たしたのだ。

 「そうなったらウチの組織は容赦しないっすからね。寝取り野郎本人はもちろん、そいつと再婚してたセンセイの元妻と子供もまとめて、どんな方法を使っても借金を返してもらうことになる。親二人はすぐにくたばったけど、『決戦』に出た娘の方は妙にしぶとくって、今じゃ押しも押されぬチャンピオンって訳だ」

 「今にくたばる! 永遠に勝ち続ける奴なんていない! あかり、いやクロカワ! あの女とあの男の間に生まれた娘であるおまえには、苦しみ抜いて死ぬことしか残されていない! ざまあみろ! ハハハハ! アーハハハハハハっ!」

 哄笑する私に、立浪は肩を竦めて声を掛ける。

 「いやぁセンセイ。ところがそういう訳じゃなくなったみたいっすよ」

 「なんだと?」

 「センセイには言ってなかったんすけど、『決戦』勝利者への賞金はギャラリーが賭けた総額からのマージンなんすよ。今回、成瀬の勝ちを疑わなかったセンセイは、バカみたいな金を賭けてたでしょ? クロカワはこのゲームで相当儲けてるんすね。これまで稼いで来た分と合わせて、借金完済で釈放っすよ」

 ……そんなバカな。

 「俺も罪のない子供にまで借金背負わすのは気が咎めてたっすからねぇ。まあ良かったんじゃないっすか? ……それにしても驚異的だったのは、黒川あかりこと『クロカワ』の『決戦』に対する才能っすよね。特殊な理由がある訳でなく、ただただ我慢強く、ただただ人を痛めつけるのが得意だったというただの天才……。さて」

 立浪は私の前で常に漂わせていた軽薄な気配を消して、冷酷な声で黒服達に告げた。

 「連れて行け」

 黒服達が私の両脇を固め、会場の裏へと引っ張って行く。

 放心して連れて行かれる私と、こちらを呆然と見つめていたあかりと視線が交差する。

 感情の伺えない黒い瞳は、かつてこの子を愛していた頃と何ら変わらず、澄み渡って見えた。

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