ガラクタの壁

緋色ザキ

ガラクタの壁

 一体全体どういうことなんだ。そんな疑問が脳内を走る。


 今日は晴れて研修が終わり、会社の一員として働き始める門出の日だ。


 配属先は、機械整備部。本社から電車で三十分ほどのところにあり、社員十数名が働く小さな工場が仕事場となる。


 そこでは、本社のアーキスト社で作られた人工知能を搭載した機械の調整や実験が行われており、僕もその仕事に携わると聞かされていた。


 会社の説明会や面接から、犬型のロボットや警備ロボットなど、なかなかユニークなものを作っているのは知っていて、とても楽しみにしていた。


 工場に入って、まず自己紹介をした。穏やかで優しい人ばかりで安心感を覚える。午前中は工場の中を案内してもらい、午後から機械整備の仕事を始めようという話で、緊張とわくわくが入り交じっていた。


 そう、なのにである。


 なのに、どうして。


 どうして、僕の目の前にはいまをときめく大女優、峰岸梓がいるのだろうか。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「えーっと、木島くんは彼女のことを知っているかな?」


 目の前に立つ白髪交じりで小太りの男性、原田さんのそんな声で僕は我に返り、ゆっくりと頷いた。


 しかし、内心全く穏やかではなかった。


 彼女のことを知っているなんて、そんな生ぬるいものではない。デビュー当初からの大ファンだ。部屋には彼女のポスターが貼ってある。彼女の出ている番組は全てリアルタイムで見て、録画もしてあとで見返している。


 そんな彼女が僕の前に立っている。まだ五月なのに、汗が身体から溢れていくような感覚を覚えた。心臓はけたたましい音を奏で、まるで地震が起こっているみたいに僕の身体を揺する。


 画面越しでさえ、ドキドキすることがあるのだ。本物を前にして平静を保つなんてできそうになかった。


 僕はゆっくりと深呼吸した。そうすることで落ち着き取り戻す。


「あの、今日は取材かなにかですか」 


 テレビ番組でこの会社のユニークなロボット作りを取材しに来たのかもしれない。


「いやいや、取材じゃないよ。このロボットの整備をするのさ」


 その言葉に思わず首を傾げた。ロボット。峰岸さんが。僅かに沈黙し、彼女を見つめる。今度は緊張はなかった。そうしているうちに、僕の頭は一つの結論を導き出した。


「つまり、彼女は峰岸梓をモデルにしたロボットということですね」


 なるほど、彼女は峰岸さんの外見をトレースしたロボットだということか。そう言われると、たしかに少し無機質な感じがした。テレビ越しに見る柔らかい笑みはなく、あまり感情の宿っていない綺麗な瞳をこちらに向けている。


「いや、違うよ」


 だが、原田さんはそんな僕の思考を遮り、首を横に振った。


「これは、当社が誇る主力商品、CW一〇一四だ」


 主力商品。CW一〇一四。

 全く理解が追いつかない。


「あの、よく意味が」


「つまりだね、巷で騒がれている彼女、峰岸梓は、実は人工知能を搭載したロボットだっていうことだよ」


 鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。あまりの出来事に言葉が出てこない。


「ははは、驚いているね。うん、その表情を見てると紹介したかいがあるよ」


 そう言って、原田さんは愉快そうに笑い声を上げた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「じゃあ、そろそろ仕事に取りかかろう」


 原田さんは僕と峰岸さんを奥の部屋へ案内した。そこには数々の機械があり、仕事場という言葉がぴったりと当てはまるような場所だった。


「さて、じゃあCW一〇一四はいつもの場所で。木島くんはここに座ろうか」


 僕は指示された、パソコンの置かれた席に腰掛けた。その目の前の椅子に峰岸さんは座る。


「えーっと、いまから整備を行うんだけど、研修でそのあたりはやったかな?」


「あ、はい。一通りは」


「うん、じゃあまずはパソコンの電源を入れて、プログラムを起動しようか」


 僕は頷いて、パソコンを起動し、研修で習ったとおりに操作を行っていった。


「うん、しっかりと手順を理解できているみたいだね」


 その横で原田さんは優しそうに頷いた。


 僕は頬が緩むのを感じ、小さくうつむく。


「さて、それじゃあ整備をやっていこうか」


 原田さんは目の前に座る峰岸さんに視線を向けた。峰岸さんは小さく首肯する。その立ち振る舞いは人間にしか見えない。


「あの、本当に彼女はロボットなのでしょうか?」


 くどいようだが、もう一度聞かずにはいられなかった。 


 原田さんはそれににこりと笑った。


「そうだね。すぐには信じられないよね。実際、僕だって言われなきゃ気づかないと思う。だから、論より証拠を見せよう」


 そう言って、原田さんは峰岸さんに目配せする。峰岸さんは頷くと、足下のケーブルを手に取り、背中の方へ回し、もう片方の手で服をまくり上げ、ぶすりと突きさした。


 次の瞬間、プログラム上に人型が映し出され、その右上にはパーセンテージが表示された。この画面を僕は知っていた。研修で実際にネズミ型ロボットが正常かどうかの確認をしたときに見たものである。百パーセントであれば正常で、もし異常があれば、数値は百を割り、その部位が赤く示される。


 数字はしばらくしてから百に到達した。


「うん、問題なさそうだね。CW一〇一四は何か違和感はあるかい?」


「いえ、とくに問題ありません」


「よし、今日はこれでおしまいだ。じゃあまた一週間後に来てね」


「はい。ありがとうございました」 


 峰岸さんは一礼すると足早に去っていった。


「整備って一瞬で終わるんですね」 


 あまりにもあっけなく終わり、少し拍子抜けしてしまう。


「うん、問題がなければね。まあ、毎週やってるから大きな問題が起きにくいんだよ」


 毎週こんなことを。それは大きな驚きだ。でも、僕にはそれ以上に聞きたいことがあった。


「彼女は一体何のために作られたのでしょうか」


 原田さんは一瞬目を見開き、僅かに硬直する。しかし、すぐにもとの穏やかな顔に戻った。


「それはまだ教えられないんだ。でもいずれ、嫌でも知ることになるよ」


 原田さんは不敵な笑みを浮かべ、じゃあ次は隣の部屋へ行こうかと歩き出した。僕はそんな彼の姿に怖さを感じ、それ以上追求することができなかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 それからしばらくは、原田さんについて峰岸さんや他のロボットの整備を行い、何か異常が生じたときには他の社員や本社の社員と協力して解決していった。


 工場で働き初めて二ヶ月が経過した頃、原田さんとの面談が組まれた。


「そろそろ君も一人で整備が行える時期かなと思ってさ。どうだろう。もちろん何かあれば僕や他の子が全力でカバーするけどさ」


「はい、ぜひやらせてください」


 日頃の自分の働きが認められたみたいで嬉しく、二つ返事で了承した。


 その日から、一人で行う仕事がかなり増えた。その成り行きで、当然峰岸さんと二人きりになる時間もできる。


 正直、僕は緊張でおかしくなりそうだった。ロボットだと分かっていてもそれは変わらなかった。ある日、いつものようにドギマギしている僕に彼女は尋ねてきた。


「なぜいつもそんなにあわあわしているのでしょうか?」


 僕の肩がビクッと震えた。まさか話しかけられるとは思っていなかった。その瞳が不思議そうに僕を見つめる。


「あ、そ、そのあなたの大ファンだからです」


「はあ、そうなのですね」


 峰岸さんは要領を得ないような返事をした。 その冷たい反応に悲しくなる。テレビに映る彼女はこういうとき、嬉しそうに笑顔を向けていたはずだ。そのギャップの違いが心に突き刺さる。


「ああ、がっかりさせてしまったならすみません。普段の私はこんな感じにプログラミングされているので」


「えっ、どういうことですか?」


「はい。私には人工知能が搭載されており、相手の動きや言葉などからそれに応じた受け答えをするようになっているんですが、基本的にこんなテンションなんです」


 その説明で大体理解できた。


「つまり、テレビに出演されているときとはまた別だと」


「ご明察です。そのときどきで違いますね」


「なんだか大変ですね」


「いえ、とくに何も感じないです」


 すまし顔でさらっと言ってのける。


「羨ましいです。僕もそれくらい優秀なら人生もっと楽しいと思うんですけど」


 その言葉に峰岸さんはわずかに顔をしかめた。


「木島さんは少し勘違いしてますね」


「勘違い、ですか?」


「はい。私は感情がないんです。ですから、そもそも大変や楽といった感情を覚えることはありません」


 それは衝撃的な発言だった。そして、これまでの峰岸さんの行動と不一致の事柄に思えた。


「峰岸さんは会話をするときに表情や声音も変化しますよね?」


「そうですね。プログラムによって導き出された受け答えを行っているんです」


 つまり、自立思考ではなく、反射的なプログラムが施されているということか。


 なぜ感情がないのか、本人に聞こうとも考えたがそれは開発者しか知らないことだろう。 


そんな会話をきっかけとし、峰岸さんとは様々な話をするようになった。内容は大したことがないが、彼女と打ち解けることができたみたいで嬉しかった。


 あるときは、ドラマの話をした。


「ドラマって、いろいろな役柄を演じると思うんですけど、それぞれ異なるプログラムが必要ですよね」


「そうですね。ですから、エンジニアの方たちはとても忙しそうです」


「なんだか無性にその人たちのことが心配になってきました……」


 また、あるときは、日常生活の話をした。


「普段って、なにをなされているんですか」


「それは企業秘密です」


「あー、そうなんですね」


「はい、悪用されるかもしれないので」


「いや、しませんて。単純な興味ですよ」


「なるほど。そうですね。仕事の付き合いもあるので、特別に教えましょう。プログラミングされた喫茶店や服屋などに回ることが多いですね」


「その言い方だと味気ないですね……」


 そうこうしている内に、半年が経った。とくになにか大きな問題が起こることもなく、順風満帆な日々。しかし、そんな日常は長くは続かなかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ある朝、目を覚まし何気なくテレビをつけるとそこには峰岸さんが映っていた。その下には大きく不倫報道の文字。


 僕は目を見張った。


 不倫。それはおよそ彼女とは無縁な言葉だる。なぜなら彼女はロボットなのだから。


「不倫相手ですが、俳優の三河亮さんです」


「信じられない話だね。まさか、既婚者となんて」


「三河さんは愛妻家としても知られていますが、イメージダウンは免れませんね」


 コメンテーターの芸人や俳優たちの言葉を前に僕は呆然としていた。これは嘘だ。フェイクニュースだ。たしかに二人が峰岸さんの家に入っていく写真が撮られているが、合成か何かだろう。


 僕はいても立ってもいられなくなり、いつもならまだ朝食の時間にも関わらず、家を出て会社へ向かった。


 工場に着くと、原田さんを初めとして何人もの人がすでに集まっていた。みな僕と同じように今朝のニュースを見て、いても立ってもいられなくなったのだろう。


 僕はすぐに原田さんのところへ向かった。


「ニュース、見ましたか。大変なことになってますよ」


「あ-、そうだね。ついに始まったわけだ」


 焦燥感を持った僕の言葉に、そう、こともなげに返す原田さん。


「ど、どういうことですか?」


 原田さんに詰め寄る。一体彼はなにを言っているのだろうか。


「うん、君には伝えていなかったね。これこそが、彼女が作られた意味だ」


 それは、以前聞いたときにはぐらかされた問いの答え。つまり、彼女が作られたのはこの騒動を起こすためだったということ。


「……意味が分からない。一体、そんなことをして何の意味があるんですか」


 原田さんは、ふっと小さな息を吐き、それから僕を見つめた。


「人々を守るためだよ」


「守る?」


「ああ、そうだ。ネット社会になり、我々は匿名の人間から攻撃を受けるようになった。その悪意は私たちの心を蝕み、多くの人が犠牲になっている。だからこそ、ダミーを作り悪意の矛先を変えることで、人々を守る必要があるんだ」 


 いつもは温厚な原田さんの目には熱が宿っていた。そこには強い意志が表れている。


「峰岸さんは、ダミーであると」


「ああ、そうだ。あれは私たちと悪意を分かつ壁だ。それによって人々の心を救済する」


 原田さんの言うことに、周りの社員も頷いた。彼らの言い分は分かった。でも、僕には納得できなかった。


「たしかにネット社会には問題があります。でもだからといって、峰岸さんを利用するのは間違っている。世の中には、彼女に力をもらって生きている人たちだっているんです」


「それはささいな問題だ。世の中にはそれ以上に悪意に苦しめられる人がいる。私の娘も、それで……、そのせいで」


 原田さんはそう言って、僕に背を向けた。そして、数歩進んだところで足を止め、こちらを振り向く。


「これは、国家主導のプロジェクトだ。君がどんな声を上げてももみ消されるのが落ちだ。それから、君はこれまでよく働いてくれていた。今日から三日間有給を与えよう。ゆっくり頭を冷やしてきなさい」


 それだけ言って、原田さんは行ってしまった。僕はただ、呆然とした面持ちで工場をあとにした。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 それから三日間、僕はほとんど家から出ることなく峰岸さんについて考えた。時間が経過したことで、少しずつ冷静に出来事を捉えられるようにはなったが、原田さんたちの考えに賛同はできなかった。そんなこんなであっという間に時間は経過していき、出社日を迎えた。


 一体どんな顔をして工場に行けばいいのか全く見当がつかなかったが、みなの反応はそれまでとさして変わらなかった。仕事についても峰岸さんの担当を外されることもなく、変化がないことがむしろ怖いくらいだった。


「お久しぶりです、木島さん。有給を取っていたと聞きましたがしっかり休めました?」


 うん、まあと曖昧な笑みを浮かべる。実際は峰岸さんのおかげで全く心が安まらなかったがそれを言っても彼女には響かない。


「峰岸さんはその、大丈夫でしたか?」


「はい。基本的にマスコミはこのプロジェクトの協力者ですからとくに問題ありません」


「そうじゃなくて、誹謗中傷とか」


「たしかに、SNSは凄いことになっていますし、家の電話もけたたましく鳴り響いていますね」


「辛い、とかは」


 それは意味のない問いかけで


「とくにありませんね」


 当然、分かりきった答えが返ってくる。傷ついていないことが嬉しくもあり、しかし寂しくもあった。


「それじゃあ、いつもみたいに整備を始めましょうか」


 いま噴水のように湧き上がる非難を一心に受ける彼女。豊かな生活のための生贄として利用されている。このプロジェクトの参加者は、彼女の犠牲を気にもとめていないだろう。けれど、その考え方が峰岸さんよりもよっぽど無機質に見えて、恐怖を覚えずにはいられなかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 それから一週間が経過した。峰岸さんへの反応は依然として変わらなかった。そんな中で、誹謗中傷をしたとして捕まる人もちらほら現れ始めた。


 張られた蜘蛛の巣に引っかかる人間が出てきたのだ。もちろん、誹謗中傷は褒められることではない。しかし、誹謗中傷の的を作り出すことが正しいとも到底思えない。


 心の中がモヤモヤしていた。けれども、事件の渦中にいる峰岸さんは相変わらずであり、彼女と話しているとなんだか拍子抜けしてしまうのもまた事実であった。


 人の噂も七十五日。もしかすると、彼女はこのまま芸能界を辞め、そのままお役御免になるのかもしれない。そうすると、彼女を整備する必要はなくなり会えなくなってしまうが、そうなるべきなのだろうと考える僕がいた。しかし、そんなに甘くことが進むことはなかった。


 峰岸さんの不倫報道が流れてから一ヶ月ほど経ったある日。その日も僕は峰岸さんの整備を行っていた。と、ドアをノックする音が聞こえた。


 誰だろうか。不思議に思いながら扉を開けると見知らぬスーツ姿の男が立っていた。三十代くらいの若い男性だ。


「こんにちは」


 柔和な笑みを浮かべる男性。


「お久しぶりです、利根川さん」


 峰岸さんも軽く会釈する。どうやら二人は知り合いみたいだ。


「あー、これは失礼。本社から来ました利根川です。君は木島くんですよね。お噂はかねがね」


 そう言って右手を差し出す。僕は、はあと間抜けな声を出してその手を握った。


「私はこのあと用事がありますので、ここで失礼します」


 峰岸さんはそそくさとその場をあとにした。部屋には僕と利根川さんの二人が残る。なんとなく気まずい空気が訪れた。それで、何か話さないととおもい口を開いた。


「あの、本社の方がどういったご用件ですか?」


 利根川さんはそれに軽く微笑んだ。


「君は、CW一〇一四をモノではなく人として見ているんですよね」


 その言葉に思わず眉をひそめる。これは、けんかを売られているのだろうか。 


「それが何か」


「いや、面白いなと思いまして。あれはただのガラクタです。よりよい世界の礎となる。だから、そんなものに感情移入するだけ無駄ですよ」


 僕は殴りかかりそうな衝動を拳を強く握りしめて必死に抑える。


「何が言いたいんですか」


「君に一つ伝えようと思って。第一実験は終わりです。アンドロイドを用いることで、炎上を引き起こし、世間の目を惹きつけられることが分かりました。異分子の排除にも役立つ。まあ、想定通りで面白みのない結果でしたが。そして、実験は第二段階に移行します。楽しみにしてください」


 利根川さんは不穏な笑みを浮かべる。その漆黒の瞳の奥には暗くどろどろとしたものが見えた気がした。とても同じ人間だとは思えない。


「また、彼女に何かをするんですね」


「そうですね。よりよい世界になるための実験です」


 まるで、峰岸さんという犠牲をなんとも思っていない。そして、その先にいる人々のことも。


「知っていますか。彼女には大勢のファンがいる。先の不倫報道。そして、これからの実験。そんな意図的な操作によって苦しむ人が大勢いるんです」


「そうかもしれない。ですが、罪っていうものは犯してみないと分からないものです」


 そう言い切った声音はひどく冷たいものだった。きっとこの実験にはこういった考えを持った人たちが多くいる。そして、そんな他者を顧みない人間は間違っていると思う。


 でも、彼らはその考えを正しいと思っていて、曲げることはないだろう。


「それじゃあ、僕はこれで」


 その後ろ姿がひどく無機質に見えた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日、僕は工場の人に実験について聞き込みを行った。しかし、誰も知らないようであった。もちろん、僕は要注意人物であり、情報をもらすまいとしての対応かもしれないが、それにしてはみな本当に知らないと言いたげな顔をしていた。


 そうすると、本当に実験について知るすべがなくなる。本社に行けば何か分かるかもしれないが、行ったところで何も教えてはくれないだろう。


 それで、僕はパソコンとロボットに向かって仕事をこなしていた。すると、後ろからちょっといいかいと声がかかる。


 原田さんである。もうこの頃には、以前と同じように話せるくらいにはなっていた。


「どうしたんですか?」


「今日、CW一〇一四の整備が三時に入っていたと思うんだけど、諸事情で六時からに延期になってしまってね。悪いけど残ってもらえるかな?」


 申し訳なさそうに白髪混じりの髪を掻く。


「ええ、分かりました」


 それから、再びパソコンに向かった。


 五時を過ぎる頃には、工場の人たちはすでに帰宅してしまい一人になる。今日の鍵締めは僕が行うことに決まった。それからまた、しばらく資料作成などを行う。


「こんにちは、木島さん」


 ふと、聞き慣れた声を耳にする。顔を上げると、そこには女優が立っていた。


「遅くなって申し訳ありません」


 ぺこりと小さな頭を下げる。


「いえ、大丈夫です。それじゃあ始めましょうか」


「はい。今日はアップデートプログラムもあるみたいです」


 そう言って、彼女はカバンからディスクを出した。僕はそれを受け取って、パソコンに差し込む。最近は炎上事件によってテレビ出演などもめっきり減っていた。それもあってか、アップデートは久しぶりである。


「それじゃあ、始めますね」


 先に一通りの整備を行い、それからアップデートに入った。いつもよりも容量が大きく、データ移行の進みが遅い。ただ、別に急ぐ用事もとくにない。アップデート中は峰岸さんは静止しているため、引き続き資料作成を行った。


 静寂の中を時計の針の音が刻まれていく。


 三十分がたち、ようやくアップデートが終わった。


「今回はだいぶ長かったですね。お疲れさまです」


「はい、ありがとうございました。それでは」


 その瞬間、僕はドキリとした。峰岸さんが微笑みを浮かべていたのだ。声も明るく温かかった。思わず目をこすり、それから再び彼女を見ようとしたが、すでに部屋から出て行ってしまっていた。


 僕は頭をぶんぶんと横に振った。きっと、疲れていて夢と現実がこんがらがってしまったのだ。早く帰って寝た方がいい。そう考えて、依然鳴り響く心臓を軽く撫でると鍵を取りに部屋を出た。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日、仕事が終わらず連夜の残業となった。というのも、昨日は峰岸さんのせいでどきどきが止まらず寝不足になり、日中は思うように仕事が進まなかったからだ。


 昼休憩のときにコンビニで買った栄養ドリンクを飲み干し、大きく息を吐いてから再びパソコンに向かった。


 しかし、頭の中にもやがかかっているような感覚があり、なかなか進まない。もう今日は切り上げて明日に回そうか。そんなことを考えていると、ドアがノックされた。


 はい、どうぞとそう言葉をかける前に、扉が開かれた。そこには峰岸さんの姿があった。


「ど、どうしたんですか」


 その顔を見て、僕は動揺した。彼女の顔はひどく青ざめていた。感情のない機械とはとても思えない。


「木島さん。私は一つ訂正することがあります」


「訂正、ですか?」 


「はい。私はいま、とても苦しい。人の悪意というのは、こんなにも心を蝕むものなんですね」


 うつむく峰岸さん。その目には涙が浮かんでいる。


「あの、一体何が?」


「昨日、私にアップデートされたものは感情に関するプログラムです」


 それを聞いてはたと気づく。利根川さんが言っていた第二段階。それがこれだ。昨日の笑顔は見間違いではなかったのだ。彼らが一体何を考えているのかはよく分からない。ただ峰岸さんの先に待つのは破滅だ。


「峰岸さん、このことを世間に知らせるべきです。人だとか、ロボットだとかじゃない。こんなのは絶対におかしい」


 彼女の肩に優しく手を置き、その瞳を見つめた。いつもは真っ直ぐみることができなかった透き通ったその瞳には僕が映し出される。 


しかし、彼女は僕の思いとは裏腹に首を横に振った。 


「どうしてですか。もしかして、反逆ができないようにプログラムされているとか」


「それはありません。そうではないんです。そうではなくて、私はあなたを守りたい」


「どういう意味ですか?」


「私は知りました。人の悪意は心を壊すと。そして、生きている以上誰でもその悪意に犯される危険がある」


「でもあなたはそこから逃げられます」


 峰岸さんは優しく微笑むと僕の頬に触れた。


「あなたはとても優しい人です。機械である、ガラクタである私にまるで一人の人間のように接してくれた。そんなあなたに私は恩返しがしたい」


 彼女の瞳から一滴の滴がこぼれ落ちる。 


「これは私の意思です。だから、そんな顔をしないでください」


 僕は笑った。感情がぐちゃぐちゃになって、顔も涙や鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、必死に笑顔を作った。そんな僕に、彼女はありがとうと優しく囁いた。


 瞳を濡らしながら笑う彼女は美しかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日の朝、テレビをつけると峰岸さんが自殺したという報道が流れていた。これからSNSによる誹謗中傷の対策をより一層厳格に行うべきだと専門家が豪語していた。


 僕はテレビを消して、着替えると家を出た。ゆっくりと家の近くの公園を歩きながら考える。利根川さんはこの事件をどう思っただろう。彼のことだ、峰岸さんの果たした役割に満足し、また別のアンドロイドを用いた実験を行うのだろう。そしてそれは峰岸さんの願い通りの展開になる。


 利根川さんたちは悪意と人々の間に壁を作る。けれども、むしろそれが悪意と人々を近づけているような気がしてならなかった。何かを思いやる心が欠落していく人間たち。


 僕らはこれからどうなるのだろうか。淀んだ池を眺めながら、そんなことを考えていた。

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ガラクタの壁 緋色ザキ @tennensui241

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