006 修了懇親会

「……よし。こんなもんかな」


 時刻は17時15分。定時を少し過ぎたころである。私はPCを閉じ、帰り支度を始めた。


「あれ、赤坂さん、もう帰るんですか?!」


 幽霊でも見たかのように、能美がぎょっとした顔を見せた。


「能美、人が定時に帰るのが、そんなに珍しいか」

「そりゃあ、社内でもトップクラスの残業時間を誇る赤坂さんが定時に帰るなんて、滅多に見られませんから!」


 屈託のない言葉である。悪気がないだけに、余計に質が悪い。


「なにかご用事ですか?」

「これに参加しないといけなくてな……」


 社内メールの文面を印刷した用紙を手渡す。


「修了懇親会……ああ! そういえば今日で新入社員研修、終わりでしたね!」


 修了懇親会。新入社員研修の最終日に行われる催しである。


 社会人としての最初の試練である研修を終えた新入社員たちを、ささやかながら労う会なのだが、社外のそこそこ大きなホールが会場として用意され、先輩社員や上司、役員なども顔を出す、由緒正しき会である。


 我が社の社員は皆、この懇親会で先輩社員や上司と親睦を深め、現場に旅立っている。かく言う私も、十数年前にこの会の参加者だった。


「修了懇親会……懐かしいですねぇ」

「ああ、今年もあそこの会場でやるんだな。僕のときと同じだ」


 会話が聞こえたのか、中川と黒崎がぞろぞろと寄ってきて、能美の持つ用紙をのぞき込んだ。


「なんで赤坂さんが招待されたんですか? あのイベント、偉い人が来るイメージなんですけど」

「黒崎、気づいてないかもしれないが、私は結構偉いからな」


 グループリーダーって、管理職だから。この歳でなってるのは異例だから。


「でも去年は呼ばれてなかったじゃないですか。役職同じだったのに」

「そりゃ今回は、うちのグループにも新入社員がいるからだろ」


 どうやら新入社員の直属の上司は、自動的に招待されるらしい。正式に仕事を始める前に、人となりを知っておいてほしいという人事の計らいだろう。


「いいなぁ。定時に帰れて、会社のお金でご飯食べられるなんて……」

「いや、そういう趣旨の会じゃないから」

「赤坂さん、小宮山さんと喋れるからってテンション上げすぎないでくださいよ」

「善処する」


 好き放題言う能美と黒崎に適当に返事をしていると、中川がふと思い出したように言った。


「そういえば、あの『余興』って、まだやってるんですか?」

「「ゔぁ!」」


 さっきまで元気に私をいじっていた能美と黒崎が、苦しそうなうめき声をあげた。


「中川さん……。どうして嫌なこと思い出させるんですか……」

「そうです! いくら中川さんでも許しませんよ!」

「え、あ、すみませんでした」


 中川が二人にすごい剣幕で責め立てられている。なかなかレアな光景だった。


 余興。この修了懇親会の最中に行われるイベントである。平たく言えば、新入社員によって披露される出し物であり、毎年「有志」の新入社員が「自主的」に行うものだ。「有志」と「自主的」にカッコが付いている理由は――推して知るべし、である。


「本当に悪しき風習ですよ。今どき、上司の前で余興をやれ、なんて。一発パワハラ案件です」

「そうですよ! あのときほど、会社辞めようと思ったことないですもん!」

「その反応……二人とも“修親刑”だったみたいだな」

「「その名前で呼ばないでください!」」


 どうやら二人とも、「余興」はかなりのトラウマらしい。


 この余興の内容は、新入社員たちに一任されている。演劇でもコントでも合唱でもダンスでも、なんでもいい。人数も特に決められていないため、参加する者もいれば、しない者もいる。


「なんでもいい」というのが、なによりの曲者である。二回り以上年上の役員が出席する会でウケるネタを考えるのは、至難の業だ。


 お調子者が安易に一発ギャグなんて披露しようものなら、お偉いさんたちの前でスベり散らかすという、大変貴重な経験をすることになる。


 積極的に余興に関わろうとする者は、ほぼ皆無であり、責任感がある者や、押しに弱い者が、嫌々引き受けるのが通例だ。


 ちなみにこの余興に駆り出されることは、「修了懇親会」という名前にかけて、“修親刑”と揶揄されている。


「ま、まあ。悪いことばかりじゃないですよ。上司とも打ち解けやすくなりますし、役員に顔を覚えてもらうチャンスでもありますから……」


 中川が二人をなだめようとフォローする。確かに彼の言う通り、この余興には、利点もある。会社の上層部に顔を覚えてもらうことは、社会人としての処世術として有効だ。


 少なくとも、そう考えている人間が一定数いるからこそ、この風習はいまだに残っていると言える。


「……でも、当事者はつらいですよ」


 能美が、いつになく沈んだ声で言った。


「私のときの余興はダンスでした。それも、私が自己紹介でダンスやってたって言ったから決まっちゃったんです。その流れで、曲選びとか振り付けとか、全部私が決めたんです。当日はセンターで踊ることになっちゃって……」

「そうだったんですか」

「もちろん、断れなかった私が悪いって言われたらそれまでなんですけど、できないことってあるじゃないですか」


 当時のことを思い出しているのか、みるみる表情が曇っていく。


「本当に嫌で、苦しくて、それでも逃げられなくなったとき、“何かあったら言って”って他人事みたいに言われると、たまらなく孤独な気持ちになりました。自分には味方が……いえ、一緒に傷ついてくれる人がいないんだって。社会って、そういうものなんだなって思ったら、すごく苦しくなったことを覚えてます」


 グループ内に、しばし沈黙が流れる。


 全員が同じような経験をしていて、身に覚えがあるからこそ、どんな言葉をかければいいか分からなかったのだと思う。


「ご、ごめんなさい! なんか変なスイッチ入っちゃいました!」


 能美は慌てて声を上げた。


「まあ、昨今のコンプラ意識を考えたら、もうこの余興文化も廃れてるだろうな」

「確かに、SNSで拡散とかされたら問題になりますもんね」

「そ、そうですよね! 流石にもうないですよね!」


 私も中川も中途半端なフォローしかできなかったが、能美もなんとか乗ってきてくれた。


「赤坂さん、そろそろ出ないと間に合わないんじゃないですか?」


 黒崎の言葉で時計を見ると、もう17時30分を回っている。すぐに出ないと、多分ギリギリだ。


「うおっ! すまん、私はこれで失礼する。諸君、また明日!」


 挨拶もそこそこに、私は職場を出て、最寄り駅まで急いだ。


 ---


 会場に向かう途中、能美の言っていたことが頭の中を巡っていた。


 今思えば、あんな余興に大した意味はなく、過ぎてしまえば笑い話にすぎない。だが、渦中にいる人間にとっては、そんな簡単な話ではない。


「自分には味方が……いえ、一緒に傷ついてくれる人がいないんだって」


 その感覚は、痛いほどよくわかる。


 花がすっかり散り切って緑色の葉をつけた桜並木の下を、私は早足で進んだ。


「……修了懇親会、何事もなければいいが」

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