005 ヒロイン不在
小宮山が研修に向かってから、はや一週間。
我らが新規企画グループはいつもと何ら変わらない日々を過ごしていた。
「赤坂さん。経費申請回したので承認お願いします」
「……はいよ」
「どうしたんですか。浮かない顔して」
目の前に座る黒崎は、画面から目を上げもしない。私を心配しているというよりは、部下としての義務として声をかけているようだ。中川と能美はミーティングで席を外しており、部内には私と黒崎しかいない。
「そろそろ小宮山さん帰ってくるだろ?」
「ああ。そういえばそろそろ研修も終わりですね」
「私、彼女とどう接すればいいと思う?」
「何をいまさら……」
黒崎がパソコン越しに冷たい視線を送ってくる。
「最初はあんなに喜んでたじゃないですか。推しが部下になったってみっともないくらいはしゃいでた動画、残ってますよ」
「動画とってんじゃねえ。今すぐ消せ」
「僕が目でピーナッツ噛んでる動画を消してくれたら考えます」
黒崎の目は本気だった。知らず知らずのうちに我々は互いが核を保有する冷戦状態に陥っていたようである。
確かに黒崎の言う通り、私は小宮山真琴が自分の部下になったことを心の底から喜んだ。年甲斐もなくはしゃいでしまったことを認めざるをえない。
しかし、乱痴気騒ぎの後に待っているのは平熱の現実である。一週間という時間は、私を冷静にさせるには十分すぎた。
このご時世、部下に対して気をつかう部分はかなり多い。
指示を甘くしすぎれば私が好意を持っていると思われるかもしれないし、逆に必用以上に厳しくすれば嫌われていると勘違いされるかもしれない。口調が強ければ傷つけてしまうかもしれないし、馴れ馴れしすぎるのも気持ち悪がられるかもしれない。
部下全員が許容できる範囲内に仕事の量と質をおさめ、さらに正しい伝え方でそれらを指示すること。現代の管理職に求められているのは、驚異的なバランス感覚なのである。
そんな綱渡り状態の職場に、「推し」がやってくることの危うさを、私は日に日に実感するようになっていた。
誰に対しても適切な距離感であり続けなければならない場所に、自分が今まで剥き出しの好意を向けてきた相手がいる。そんな状況で私はまともに働けるのだろうか。そんな不安が自分の中で日に日に大きくなっている。
「まあ、推しが部下だと喜び以上に気苦労は増えそうですね。仕事に支障が出なければいいんですけど」
あくまで仕事の心配しかしない黒崎。部下としては正しいが、私としてはもう少し寄り添ってくれてもいんだよ?
「一応、対策はしてるぞ」
「ほう。どんな?」
「まこぴーの動画見ながら写経してる。見ても心が落ち着くように」
「……効果ありますか?」
「まこぴーに教えを説かれてるみたいで悟りそうになってる」
呆れたように黒崎はため息をついた。路上で寝ている泥酔大学生に向けるような顔である。
「とりあえず、赤坂さんが小宮山さんの大ファンだってことは、もう誰にも言わないほうがいいでしょうね」
「やっぱりそうなるか……」
「元アイドルがいる部署で、上司がその大ファン、なんて他部署の連中の耳に入ったら、変な推測されそうじゃないですか」
「そういう噂、好きだもんな。うちの会社」
古今東西、社内ゴシップは労働者心を潤す清涼飲料水だ。身体にいいかどうかは知らんが。
「小宮山さん本人は知ってるんですか?赤坂さんが彼女のファンだって」
「わからんな。面と向かって言ったことはない、が……」
「が?」
「だが、まこぴーがファンとして私のこと、覚えてるかもしれない……」
「そんなに目立つファンだったんですか?」
「いや、一回ミーグリ行っただけだ」
黒崎は大きくため息をついた。いや、正確には私に聞こえるように「はぁぁぁ」と言った。
「じゃあ大丈夫です。いい大人なんですから自意識過剰も大概にしてください」
「で、でもこの前テレビでファンの顔は全部覚えてるって言ってたし……」
「そんなわけないじゃないですか。何万人ファンいると思ってんですか」
「いや、でもしかし……」
私の言い分を遮るように、黒崎はバタンと強めにノートPCを閉じた。
「とにかく、小宮山さんのファンだってこと、誰にもバレちゃダメですよ。もうこれは赤坂さん個人の問題じゃない。新規企画グループの沽券にかかわる問題です」
「そ、そうか。そうだよな」
「ええ。そうです。僕にできることなら協力しますから」
「そうです! みんなで隠し通しましょう!」
「私も及ばずながら尽力しますよ。赤坂さん」
グループのメンバーが一丸となって私を支えようとしてくれている。
なんと管理職冥利に尽きる場面だろうか。
「……で、いつからお前ら聞いてた?」
いつの間にか黒崎の隣に現れた能美と中川に問いかけると、能美があっけらかんと言った。
「少し前です」
「少しってどのくらい?」
「赤坂さんが小宮山さんの動画見ながら写経してる話あたりから」
「大分序盤じゃねえか!」
ダメじゃん! 全然ダメじゃん! 隠蔽失敗じゃん!グループ内筒抜けじゃん!
「一応言っときますけど、僕は気づいてませんでしたから。故意じゃないですから」
しゃあしゃあと言ってのける黒崎。なんて憎たらしいんだ。今度のボーナス査定、覚えてやがれ。
「大丈夫ですよ。私達は誰にも言いませんから!」
動揺する私にそっと近づき、能美はそう言った。
いつもの屈託のない笑顔である。
「能美……ありがとう」
「ただ、小宮山さんを指導する赤坂さんを遠くから眺めてニヤニヤするだけですから!」
「それマジでやめてくれ……」
バリバリ業務に支障でるから。ただでさえまこぴーと喋るの緊張するのに、視線まで気にしてたらまともに声でなくなるから。
混沌を少しでも収めようと、当グループの良心、中川に助けを求める視線を送ってみたが、お手上げとばかりに肩をすくめるだけだった。
まだ彼女が現れてもいないのに、この体たらく。
実際に彼女が着任したら、一体このグループはどうなってしまうのだろうか。
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